2013年2月10日日曜日

少年サッカーとゲンコツ

少年サッカーとゲンコツ


 大阪市立桜宮高校男子バスケ部キャプテンの自殺の問題と、部活指導における肉体的プレッシャーの使用の問題と、スポーツ指導における同様の問題と、学校内における教師による体罰と、家庭における親による体罰と、は別々に考えなければならないのは明白だ。
 また先輩や同級生からの暴行は論外。
 さらに、学業指導や生活指導における、肉体的プレッシャーはどうなのか。
 また、では精神的プレッシャーはどうなのか、という問題もある。

 今回の高校生の自殺に関しても、報道によれば、わたしの目には、何十発なぐられたとかよりも、顧問やチームメートから受けた精神的なプレッシャーの方が、強く影響しているように見えた。
 特に、事件後も平然と部活動を続け、事件が明るみになった後も、強硬に部活動再開を求めるチームメイトの姿勢には、異質さを通りこえ不気味ささえ感じた。もし私が高校生の時、クラスメートや部活の仲間が自殺したりなどしたならば、それこそ人生がひっくりかえるくらいのショックを受け、部活動どころか学業や日常生活さえもフリーズしてしまうだろう。なのにここの生徒たちといったら…。『愛と青春の旅立ち』でも見せて、ぜひ感想を聞いてみたいところだ。

 今一度思い返してほしいのは、この事件の前、生徒が自殺した場合に問題とされてきたのは「陰湿ないじめ」であったということだ。決して直接的な暴力ではない。大人の目には触れないような形で、はた目にはいじめなのか、仲良く遊んでいるのかふざけあっているのかわからないような形での、精神的なプレッシャーによって、自殺や不登校に追い込まれるのが問題となっていたのだ。

 ということで、今回の問題を、ここでは自殺の問題としては考えないことにする。
 ここで考えるのは、スポーツ指導と肉体的プレッシャーの関係についてだ。特にエリートではない、ふつうの少年から中高生段階でのサッカー指導にとってどうなのか、を考えたい。

 当たり前のことだが、言語能力を持たない動物たちは、偶然や真似によって、えさの取り方や危険からの逃れ方を学ぶ。
 そのときに軽度の失敗をすると、それは肉体的なプレッシャー、つまり、ケガによる痛みや空腹による餓えというストレスとなって返ってくる。そのことから、もう同じ失敗はしないぞ、と学ぶのだ。

 言葉と論理をまだ理解できない乳幼児期の人間も、同じように学習する。

 言語学的にいえば、実は、人間が言葉をどのように学ぶのかというのも、肉体的プレッシャーの作用によって説明ができる。
 いろいろ口を動かすうちに、偶然発した「まま」という音が、自分の庇護者である「母」を意味し、また空腹を満たしてくれる「乳」を意味する「まんま」となったのであって、決して逆ではない。もし仮に「母」の幼児語が「ヒヒ」、「乳」の幼児語が「レレ」だったとしたら、乳幼児は「ヒヒ」「レレ」と言えるのかというと、そうはならない。乳幼児の発声の構造は、「ヒヒ」や「レレ」ではなく「ママ」あるいは「まんま」と似た音を自然と発声するようにできているからだ。

 
 「学ぶ」とは「まねぶ(真似ぶ)」が語源だと言われるが、ではなぜ「真似る」のかと言うと、真似ないと「痛い目に遭う」つまり「肉体的なプレッシャーを受ける」から、言い換えると、真似ないことで痛い目に遭った経験があるから、真似るのだ。

 スポーツ指導における肉体的プレッシャーは、この「痛い目」にあたる。まずこの大前提を、共通の認識とした上で、ここから先の話は書かれていることを含みおいていただきたい。つまり、「いわゆる体罰はなんでもダメ」的な立場の人に向けたものではない。それはもはや思想信条の類の話になってしまうので、どう説明しても理解してはもらえないとわかっているからだ。もちろん個々人の思想信条を否定するつもりはもうとうない。わたしは思想信条の自由の強烈な信奉者だ。

 さて本題に戻ろう。
 スポーツ指導の場において、体罰は有効だ。

 もちろん時と場合による。
 戦術の説明のときに選手の尻を叩きながら「相手のサイドバックは不用意に上がるクセがあるから、その裏をねらえ」と指示するコーチはいない。
 逆に、テクニックで勝てない相手の選手に対して、相手がけがするとわかっててアンフェアなタックルをしたような選手には、ガツンとくれてやらないコーチもいないはずだ。まさかこういう状況で、見て見ぬふりをするだとか、「〇〇君、ああいうプレーは気をつけないと自分もケガするかもしれないから、やらないほうがいいかなあ(+さわやかスマイル)」なんて言っただけで終わりにするコーチはいないだろう。
 私が大好きな新座片山も、いわゆる体罰で有名だ。
 でも私が知る限り、コーチのげんこつが飛ぶのは、みんなががんばってるのにサボった選手だとか、相手にビビッて尻込みしたようなプレーに対してであって、試合に負けたからとか、得点できなかったからとか、そんな理由でゴチンとやったのは見たことがない。むしろ、勇気を出してチャレンジしたようなプレーや選手に対しては(たとえ結果が伴わなかったとしても)、のどをからして「ようし! それだよ! それだ! できるじゃないか!」と声をかけ、プラス評価をしていることをちゃんと選手やほかのチームメイトに伝えていたように記憶している。

 また、肉体的プレッシャーは、短時間での修正にも有効だ。
 試合中のハーフタイムに、一から説明している時間的な余裕はない。また受け取る選手の側も興奮状態で、細かく指示されても「ハイ、ハイ」と反射的に返事しているだけで脳にまで届いていないということも多い。
 そういうときに、ゴツンとやられると、カチッとスイッチが入る。スイッチが入れば、コーチの言葉も理解できる。細かい指示や理屈の説明は、それからの話だ。

 さらに、大人の目の届かないところで子供たちを支配しているようなボス的な存在がいた場合、体罰がなくなったことで、かえって増長させてしまって、新たな火種を生んでしまう可能性も、子供たちの成長に責任を持つ立場の大人としては無視できない。サッカーでいえば、自分より伸びそうな子の足を引っ張ってつぶしたり、日常生活で言えば、犯罪に巻き込んでしまうようなことだ。そういう子にとっては「コーチ(あるいは先生に)殴られる」というのは、非常に有効な言い訳となりうる。
  もしこれがなかったら、子供同士の間で通用する『悪いことをしない言い訳』を見つけることは、なかなか難しいだろう。

 ここまでの話を読んでもらって気づいた人もいるかもしれないが、実は、体罰と呼ばれる肉体的なプレッシャーが指導のテクニックとして必要とされるのは、『できない子をなんとかできるようにしたい』という状況においてなのだ。
 できない子をなんとかしたいから、まず体で覚えさせる。体が覚えた後に、なぜそうなのかを学ばせる。そうしていくうちに少しずつできることが増えていって、いつしか、自分の頭で考えて行動できるようになる。

 ところが『できない子をなんとかできるようにしたい』としなかったらどうだろう。つまり、『できる』『できない』は本人の責任だ、とコーチが考えたとしたら、だ。

 コーチは『できる子』だけを見るようになって、『できない子』のことは見なくなるのではないだろうか。

 「いや、だからと言って体罰は容認できない。コーチも『もしドラ(珍著『もし女子マネージャーがドラッカーを読んだら』)』のようにマネジメント能力を高めれば、体罰なしでも弱小チームを強豪にできるはずだ」的な反論もあるかもしれない。
 なるほどなるほど。
 でもドラッカー的なマネジメントの本場であるアメリカのビジネス界は、超学歴主義、即戦力主義、成果主義、巨額報酬と即時解雇と弱者切り捨ての本場でもあるわけ。ドラッカーを読み、共感しているのは、、そうした現実からはじき出された人たちで、決してアメリカの主流にいる人たちじゃ
ないってこともちゃんと見て欲しい。

 アメリカのプロ野球の仕組みだって、育てるという仕組みにはなっていない。下部リーグから這い上がってきた選手だけを、高額報酬でこき使っている。対する高額報酬の選手側も、組合を作って、代理人をたてて、経営側と徹底的に労使交渉する。そこに「やりがい」だとかが入り込む余地は
微塵もない。NFLなんかもっと酷くて、選手の健康がどうなろうとしったこっちゃないっていう世界だ。これのどこにドラッカーが?

 はっきりと明言しておきたいのは、体罰なんてのは、やられる方もいやだけど、やる方だっていやなのだってこと(相撲界と日本柔道界を除く)。
 怒りにまかせて、頭が真っ白になった状態で、選手に肉体的プレッシャーを与える指導者はいない。怒っているような態度を取りながらも、頭では冷静に、どこにどのくらいのプレッシャーならケガさせないか、をちゃんと考えてる。なぜなら、子供たちの戦闘力を奪うのがその目的ではないからだ。むしろ、子供たちの戦闘力を高めることが目的だ。「いいぞ、悟飯をもっと怒らせるんだ」(by 悟空)。

 プレーできなくなるようなケガを負わせるような体罰は論外だし、子供たちがサッカーをきらいになるような体罰も論外だ。これに議論の余地はない。

 でも、コーチの役目は、子供たちから好かれることじゃない。子供たちがもっとサッカーを好きになってくれるよう、サッカーの深さを理解できるくらいの最低限のスキルは身に付けさせてあげたいと工夫するのが、コーチの役目だ。
 その工夫のひとつとして、いわゆる体罰とされるような肉体的プレッシャーを与える手法も、決して間違ってはいない。選択肢の一つとして有効に活用すべきだ。そう私は確信している。

 子供たちがサッカーの本当の楽しさをわかってくれて、さらに自分のチームを心から愛してくれるようになるのならば、コーチである自分がきらわれることなど何でもない、そう考えるのが真の指導者だ。
 子供たちのアイドルになりたい、子供たちと友達のように仲良くしたい、素敵なお兄さんでいたい、そんなのは指導者ではない。それどころか子供たちの将来よりも今の自分の心地よさを優先している卑怯な大人だ。指導者の皮をかぶったエゴイストだ。自分のために子供たちを利用しているだけだからだ。

 でも正直、叩かれるのはわたしだっていやだった。
 叩かれた理由について、いまだ納得できていない記憶だってないわけじゃない。
 その一方で、褒められた場面よりも、叩かれた場面の方が、しっかりと刻み込まれている。
 人間の記憶とはそういう仕組みになっている。
 話せばわかる、は理想ではある、が、人間もまた動物であるということも、厳然とした事実なのだ。

 大阪市立桜宮高校の件で問題とすべきなのは、生徒が自殺してしまったことであって、決して部活動での体罰ではないことへ、関係者たちは思い至るべきだし、スポーツ指導の場において重要なのは、選手としてのスキルアップと、人間としての成長であることへ、動揺した大人たち皆は今一度立ち戻るべきだ。
 すべてはそこからだ。


以上


追伸
 大阪市立桜宮高校の問題は、それこそ教員や教育委員会のマネジメントの問題であって、一教員がどうのこうのって話じゃない。生徒の自殺にしたって、成績や家庭問題や友人関係で自殺してしまう子供たちが、毎年大勢いるということの方が問題なのだ。ここからはわたしの経験からの推測になってしまうので、かなり控えめに述べるが、思春期の男子はとてもプライドが高いという点を軽視すべきではないと思う。自殺した生徒の遺書に書かれていたこと、あるいは相談に訪れた子供が語ったこと、実はそれがその子を苦しめている本当の問題ではない場合は決して稀ではない。本当のことを言うと自分のプライドが傷つくから、表向きわかりやすい、通りやすい、見えやすいことを、あえて書いてしまうことがあるのだ。
 大人であっても、自分の本当の悩みを、外の目に触れさせることには勇気がいる。まして未成年ならなおさらだ。
 遺書を残さず自殺してしまった子に悩みがなかったのか、そんなことはない。命を絶つほど苦しいのに、その苦しみを口にできない、それがプライド、自尊心の怖いところだ。
 プライドは人を殺す。
 これは大人として、子供と接するときに心掛けるべき態度だとわたしが確信していることのひとつなのだが、『時に大人は、子供たちの前で、あえて恥をかくべきである』と思っている。それを目にすることで、子供はプライドの呪縛を緩めることができる。
 そういう意味で、昭和の宴会の「部長の裸踊り」は、とても意味のあることだったのだ、と私は確信しているのだ(まあ新入社員は子供ではないけど、社会人としてはまだ“子供”ってことでお許しを)。
 少年サッカーチーム内で、体罰上等の怖いコーチと思われている“権威ある”大人たちには、ぜひ年に一回くらい、クリスマス会や卒団式で、下手くそな宴会芸を披露してあげてほしい(下手でみっともないことが重要。うまくやってしまったら、「コーチは何でも上手にできるんだ」と逆効果になってしまう)。
 子供たちの成長ために。将来のために。
 その際の演目としては、裸踊りがおすすめ。親の裸も見たことのない子供たちに、これが大人の男の体なのだ~!というところを見せつけてやってほしい。子供たちは一生忘れないだろう。そして、何年後かに会った時も、きっとその話で盛り上がることができる。ゴツンとやったことも、これで全部チャラになる必殺アイテム。
 子供の前で裸踊りもできないようなコーチには、子供に手をあげる資格なんてない。
 子供の前での裸踊りにまでプライドのハードルを下げさせてあげることができれば、もうその子は将来、プライドの呪縛にそう簡単に負けるようなことにはならないはず。「あれに比べれば、こんなの大したことない」とプライドの器が広がり、底も深くなるから。
 完璧な大人なんていないんだってことを、子供たちに見せつけてやってください。
 どうか、お願いします。

 

【参考記事】
大阪桜宮高校男子バスケ部の主将が自殺したという事件が、2013年1月8日に報じられた。

『制服ネクタイ首つり、試合ミス平手の体罰 強豪バスケ部』
昨年12月下旬、大阪市立桜宮高校(都島区)2年の男子生徒=当時(17)=が自宅で自殺をしていたことが8日、分かった。市教委によると、生徒は男子バスケットボール部の主将で、同部顧問の男性教諭(47)から自殺前日、体罰を受けていた。市教委は自殺と体罰の因果関係などについて調査している。

『顧問教諭は体罰傾向』
市教委によると、男子生徒は昨年12月23日午前6時半ごろ、自宅の自室で制服のネクタイで首をつっているのを母親が発見。病院に搬送されたがまもなく死亡が確認された。
遺書とともに教諭に宛てた手紙がみつかり、手紙には教諭からの厳しい指導と体罰に苦しんでいたことや主将としての責任に苦しんでいたという趣旨の記載があった。手紙は自殺の数日前に書かれており、市教委が調査したところ、自殺前日にも教諭から体罰を受けていたことが判明した。




以上