2010年4月30日金曜日

チャンピオンズリーグ バルサ・インテル第2戦 雑感

バルサが1-0で勝利するも、第1戦との合計2-3でインテルが決勝戦へと進んだ。

結果は準決勝で敗退となったが、私はバルサの態度の方が正しいと思う。
第2戦のインテルは、はじめから勝利を捨てていた。
ではこの試合のようなものは何だったのか?
インテルのやったことは、ゴールの枠の中に全員が入っていたようなものだ。
はたしてこれのどこがサッカーなのか?

「いやこれもサッカーだ」という意見を私は認めない。

サッカーとは、ひとつのボールを互いに相手のゴールへ入れ合うスポーツだ。
だからエンドでもエリアでもなくゴールなのだ。
ゴールを目指さないのなら、それはすでにサッカーではない。別の競技だ。
たとえサッカーのユニフォームを身にまとい、サッカーのルールに従って、11人でプレーしていたとしても、彼らのしていることは決してサッカーではない。

確かにバルセロナには幻滅させられた。
私の期待していたバルサとは、どんな状況にあるのかを個々の選手らが把握して、それぞれが臨機応変に対応し、結果それらが巧みなハーモニーを作り出すというものだ。だがそれは幻想だった。
バルサの選手たちには何のアイデアもなかった。
足下が巧いだけの、つまらない選手たちだった。
チャレンジする勇気など微塵もない、女みたいな連中だった。
まあそれはいい。スペイン人てのはそういうもんだ。
弱い奴に強く、強い奴には弱い。
さすがPIGSの一角。

それは別にしても、バルサのやろうとしていた方がサッカーだというのは動かしようがない。

「勝てばいいんだよ」
はあ? 勝てばいい?
それじゃまるで、「ドラゴン桜」じゃないの。
受験テクニックを教えるのは、勉強なのかってこと。
受験ならまだいいよ、一生のことなんだから。
学歴こそ人生っていう人生も、それもその人の人生なんだから。
でもサッカーでそれはないんじゃないの?
プロサッカーなんて、本来なら職業としても産業としても存在しなくていいものなんだぜ。
それがなぜ存在しているのか。
それを考えたら、今回インテルのやった作戦は、自分で自分の首をしめてるようなものだ。
マラドーナが灯したフットボールの火を、吹き消してしまうような、許してはいけない行為だと、私は確信している。
三国同盟でさっさと寝返ったイタリアにはお似合いだとは思うが、北足立郡北部の少年サッカー指導者には決してマネして欲しくはない。
サッカーってのはやっぱり楽しいものであって欲しい。
そして、「しょせんサッカー」という意識を持つことは、サッカーを楽しむ上で、意外と重要なんじゃないかって思う今日この頃なのです。

【参照】
バルサの弱点はここ
対バルサ戦略~偽ファーガソン編~
バルサをマネる3つのポイント
昔のバルサはこうだった
バルサの育成投資方針
バルサ5-0レアルの動画
昨年度(09-10シーズン)CLでのFCバルセロナ評
2009-2010CL準決勝インテル×バルサ第1戦
イニエスタの作り方
FCバルセロナの哲学

あしなが育英会 遺児奨学金「あしながさん」 継続寄付

極端回避性と少年サッカー

小売チェーンなどでは常識となっている手法のひとつに、売りたい商品を極端に高いものと極端に安いものでサンドして陳列するというものがある。
これは「後悔したくない」という心理をついたマーケティングの手法で、この心理のことを「極端回避性」と呼ぶ。
高いものを買って、後でそれほどじゃなかったら損するなあ。
安物買いの銭失いは嫌だなあ。
まあ中間を選んでおけば、もし損をしても、そのダメージは最悪ってことにはならないだろう。
と考えて中をとってしまうのが人間だ。

そもそも人間の「選好」は、常に揺れ動く基準によって行われている。
ナイキとアディダスのスパイクを並べて見ていたときには、ナイキの方を買おうと思っていたのに、そこでアシックスのスパイクにも良いのがあると気づくと、う~んとまた考えて、いろいろ見くらべると値段・デザイン・履き心地共にアディダスのスパイクが良く思えてきて、よしとアディダスの持ち替えてレジに向かっていく途中で、ディアドラの特売品が目に付き、立ち止まってもう一度良く考えてみると、最初の選択が一番正しかったように思いなおして、またナイキのスパイクを取りに戻る、なんていう経験は誰しもおぼえがあるものだ。

このように「選好の基準」に確固たるものを人間は持てない。
選択肢が増えたり、選ぶ順番が変わったりすると、何を選ぶかが変わってしまう。
これを「選好の逆転」という。

さらにもっと選択肢が増えたりなんかすると、もう何が何だか、どんな基準で選んだらいいのかわからなくなり、選択結果は堂々巡りになる。

今の車じゃあ子供らの送り迎えに小さいなあ、と車を買い換えようと思って考えはじめる。
ふつうにミニバンにしようかな……でもミニバンはカッコワルイんだよな。
ツーリングワゴンにするか……FFはやだな。やっぱ4WDだろ。
レガシィか……でも新型のレガシィはデザインがなあ……
アテンザのワゴンがカッコイイんだけど……FFだしなあ。
アウディのクワトロは高いし……
オデッセイならミニバンでもカッコイイかも……でも今さらオデッセイっていうのも、何だかなあ。
MPVなら乗ってる人も多くないし……でもマツダなんだよなあ。4気筒の上に燃費もそんなに良くないし。
燃費っていえば、レガシィがいいらしいんだけど……あのカッコウがなあ。
ストリームのRSにするか。あれなら7人乗りでデザインもいいし、走りも悪くない……けど、うじゃうじゃ走ってるんだよなあ。
いっそのことフリードにするか……フリード……フリードねえ。
フリードに乗ってたら、絶対に「自分は車好きです」とは言えんよなあ。
俺の男としての何かを捨てることになるような気がする……
でも子供らの送り迎えがなあ……
燃費もなあ……
値段もなあ……
走りも、なあ……

どんな選択にもある程度の後悔はしたくないが、選択肢が多くなりすぎると選択そのものにも支障をきたすようになる。
そして考えることを放棄し、選択肢の中から極端なものをのけ、無難な線でまとめようとしてしまう。
それが人間だ。選挙のときなどにも、この習性が強く影響を及ぼす。

人間は状況や、時には自分の都合に合わせて頭の中で勝手な理由付けをして、選好の基準を変えてしまう。

練習メニューを組むときにこのことを考慮しないと、子供たちはいつしか無難なプレーばかりをするようになってしまう。
子供たちの発想の幅を狭めないためにも、指導者たちはその練習の際に子供たちはどんな選択肢を持っているのか、どんな基準で選好しているのかに注意を払わなければいけない。
自由にプレーさせるとは、無限に選択肢を与えることではなく、どこまで選好の幅を広げられるかなのだから。

2010年4月29日木曜日

4種リーグ開幕

今日から4種リーグが始まりました。

北足立北部の組み合わせは以下の通り。

A組
ユベントス ローズ 西上尾キッカーズ
原市 松南 ラホージャ 北本キッカーズ
桶川

B組
鴻巣FC 伊奈 大石 双葉台 ドルフィンズ 石戸
鴻巣ジュニア 加納

C組
小針 尾山台ファイターズ 富士見 NEO MJキッカーズ
下忍 北本少年 大芦

D組
上尾東 尾山台イレブン 朝日 上尾SC 田間宮
川里 北本東



B組に鴻巣のチームが多いかな、というくらいで実力的にも地域的にもバランス良く配分されたように思える。
好試合が多くなりそうだと、個人的に期待しているのはD組。
全日予選で北本東はこれから伸びそうなチームだったし、尾山台の7番がどう成長していくのかも見たい。

ヒューリスティックバイアスと少年サッカー

教育の世界では発見的学習などと呼ばれる「heuristic(ヒューリスティック)」が、行動経済学の世界へ入ってくると「安易」の一言に変貌してしまう。
何が安易かというと、

ろくに探そうと努力もしないで、簡単に入手できた情報で結論づけてしまう、

ような行為を、安易だと言っている。ある人はそれを「直感」とも言う。

まだそれが、統計や確率といった客観データの積み重ねから導かれたのなら効率的であり、その面で合理的だとも言える。
だがそうじゃないとしたら…

たとえば、橋のたもとに人を生き埋めにすると橋が落ちない(人柱)、とか…

そういえば川島町の市ノ川にかかる橋のそばには、石塔がたくさん立っていたぞ…

(こ、こわ~)

川島の橋のたもとに何が埋まっているのかは別にして、こんな風に客観的データとまったく関係がなくなってしまったヒューリスティックを、「ヒューリスティックバイアス」という。
根拠のない直感ってやつだ。

ヒューリスティックバイアスにとりつかれた指導者がいるチームの子供たちは悲惨だ。
大昔、そういう監督のいたプロ野球チームがあった。
悲惨だった。

このヒューリスティックバイアスが進行してしまうと、「後知恵バイアス」を生む。
何かが起こった後から「そういえば…」と、ろくに検証もしないで事前の予測を過大に評価してしまうのだ。

ある試合での失点を、「あの前の前のプレーで、○○が××したから失点してしまったのだ」とか、
「俺が△△をトップで使ったから、今日あいつが点を入れて勝てたんだ」とか、
この手の話はすべて後知恵に過ぎない(正しい分析の結果がそうなら違うけど)。

ヒューリスティックバイアスや後知恵バイアスは、結局のところ、自分に都合の良い結論を導き出して自分を納得させたいがための「ぼくの美しい思い出」でしかない。
科学的な思考訓練の経験が乏しい人は、何かが起きて後からそのことについて考えてみるとき、印象の強かったことや、たまたまよく覚えていたことを中心に分析(まがい)をしてしまうので、
「ああ、そうだったのか!」←ヒューリスティック
とあさっての方向へ突き進んでしまう。
そしてまた同じような結果を得ようとして、後知恵バイアスに拠った間違った行動をとってしまうのだ。
お疲れ様でした。

その子が失敗したのは、本当にそれが原因なの?

これをちょっと考えてあげるだけで、指導者の指導力は飛躍的に向上する。
上手でミスしない子を見て感心するだけ人は指導者には向いていない。
むしろ、失敗した子を見て「面白い」と興味を引かれるような人こそが、少年サッカーの指導者には向いているのだ。

あくまで少年サッカーでは、ね。
上のレベルでこんな指導者じゃあ困るけど。

外集団同質性バイアスと少年サッカー

人間は誰しも、自分のことのように他者を見ることはできない。
この習性は集団に対しても同様に見られる。
それを「外集団同質性(内集団異質性)バイアス」という。

読んで字のごとく、自分が入っている(と思っている)グループのことについてはいろんなことが気にかかるのに、入っていないグループのことはひとくくりにしがちであるということだ。
テレビで全共闘世代のコメンテーターが
「私たちの頃の大学生は元気があり、大人で、もっと政治に関心があった。いまどきの大学生は子供のまま体だけでかくなった、草食系とかいう男だか女だかはっきりしない連中ばかり。政治に対しても他人事。日本の将来は暗いね」
などという、あれだ。

少年サッカーでいうと、保護者らが、
「うちのチームにもレベルが高い子(おそらく一番は我が子)が何人もいるのに、どうしてトレセンに選ばれないのかしら。きっとトレセンのコーチがひいきしてるんだわ」
なんて言ってグチっているのも、この手の話に含まれる。

注意しなくてはならないのは、この人間の特性は、その内集団に関する知識の量と外集団に関する知識の量とは、まったく関係がないという点だ。
同じクラスだった子が別クラスになってしまったりすると、なんとなく前とは違う距離感になってしまった、という経験がないだろうか。どう考えても、去年一年間一緒だった子と、今年はじめて机を並べた子とでは知識量も理解度も段違いだというのに、新しい子の方が個性的に見えたりしてしまう。自分にとって、どちらが外集団で、どちらが内集団か、がポイントになっていることの、ひとつの経験的な証しである。

強豪チームとされる、たとえば大宮アルディージャジュニアなどが、あのトップチームと同じユニフォームで登場したりすると、全員がまるで将来のJリーガーが確約されたスーパーキッズであるかのように見えてしまう。
しかし個々の選手をそれそれ冷静に観察してみれば、彼らのうち本当にトップチーム登録される可能性があると思われるのは、はたして何人? というような感じに私には見えた。まあこれも外集団同質性バイアスのなせるわざなのかもしれないが。

まあ要するに何を言いたいのかと言えば、外集団同質性バイアスを常に意識しないと、誤った先入観にとらわれてしまって、間違った判断をしかねないよってことだ。

みんなそれぞれいろいろなんだし、ましてまだ子供なんだから、偏った枠に当てはめてしまうのはもったいない。
トレセンに選ばれなかったからうちの子は才能がないんだ、ってこともないし、セレクションで落ちたからもうプロにはなれない、と親子共々悲観することもない。

アホな協会のオモチャになってるグダグダのJリーグでうかつにプロになるよりも、世界を飛び回るビジネスマンになって、社内サッカーチームの中心選手として40、50になってもレギュラーで試合に出て、外国の取引相手チームと対戦してゴールを決めるって人生の方が、もっとサッカーを楽しめるかもしれない。大金持ちになって、Jリーグチームのオーナーになるのも悪くない。
買収発表会見で、
「実はわたし、子供の頃、ここのセレクションに落ちたんですよ」
なんてコメントしたら、相当にカッコイイ。

そのためにも、子供たちは一生サッカーを愛し続けて欲しいし、大人たちは子供たちがサッカーを愛せるような環境を与えて欲しい。
それは決して高価なスパイクでも、常勝のチームでもない。大人たち自身が、私はサッカーを愛しているんだと、子供に伝えることなんじゃないか、と私は思っている。

少年サッカー、それもこの日本の、一地方の少年サッカーのレベルで、あそこは強豪だから、うちじゃあ歯が立たない、なんて思い込むのはまったく根拠のない先入観。
その先入観は、自分のチーム(内集団)の粗ばかり見え、相手チーム(外集団)の個々が見えない、心のバイアスによって生じているのだということを、北足立郡北部代表となったチームの指導者たちは心にとめて、県南大会に挑んで欲しい。
前半で大差がついて、すっかり背中を丸めている子の背中をぽんと叩いて、
「試合は負けてるけど、お前は負けてないだろ? お前は自分のサッカーを思いっきりやってこい。俺もお前のパパママも、チームメートも、みんなそれが見たいんだぞ」
と送り出して欲しい。

サッカーに偏見なんかいらないんだから。
(でも少年サッカー段階からラフプレー上等のお隣の国のサッカー関係者には、もうちょっとどうにか…とは思うけど)

県南予選大会会場

県南大会の会場となるのは3箇所。

【上尾平方スポーツ広場】

上尾の秀明英光高校と県総合リハビリテーションセンターの交差点を東(上尾駅方向)へ向かい、最初の十字交差点(コンビニはここだけ)を左折(北方向)して、細い道を進んでいくと左に駐車場がある。スパイス王国と書かれた工場が目印。駐車場のすぐそばで二頭の元気な日本犬が飼われている。犬嫌いな人は心するように。

【NTT東日本志木総合グラウンド】

荒川羽根倉橋下流の、志木側河川敷。大宮アルディージャの練習場となり。
拙が行ったときは駐車場がなく、路駐が多かった。
羽根倉橋の上流側には、富士見グランドがある。

【新座総合運動公園多目的グラウンド】

行ったことないのでわからない。かなりきれいな芝ピッチとのこと。



県南大会の組み合わせ抽選は、5月9日(日)18時30分より、与野のコミュニティセンターで行われる。

2010年4月28日水曜日

フレーミング効果と少年サッカー

コーチがある選手に向かって、
「おまえはヘタクソだから試合で使わねえんだよ」
というのはあまり感心しない。親御さんたちからクレームが来るかもしれない。
でも、
「おまえがあと30パーセント、キックの精度を上げてくれたら、いい戦力になるんだけどなあ」
という言い方をすれば、その子は夜の公園で自主特訓をするかもしれない。

このように、表現のされ方、提示のされ方が、受けとめ方に大きな影響を及ぼすことを「フレーミング効果」という。


試合のハーフタイム、0-3で負けている状況で、はたしてなんと声をかけたら子供たちは奮起するのか。
「後半4点取れば逆転だぞ! 行ける行ける!」
というよりも、
「前半、うちにはシュートチャンスが6回もあった。後半は強引と思っても、思い切って打っていけ。まずは立ち上がりに2本シュート。これでいこう!」
の方が、子供たちは前向きになる。
前者だと、頭に残るのは「0-3で負けていること」「自分たちが勝つためには、後半に4点も取らなければならないこと」だ。つまり「数字」が残る。
対して後者では、「ぼくたちには6回もシュートチャンスがあったんだ(それが入ってたら6-3で勝ってるじゃん)」「とにかく立ち上がりに2本シュートするぞ!」。これらは、「差」ではなく、「方向」を提示して視点を変えている。

0-3という現実はどうすることもできないが、そこから子供たちの視界(フレーム)を「シュートチャンス数」だとか「後半に自分たちがやるべきこと」へと動かしてやれば、それを受けとめる子供たちのモチベーションは、大きく影響を受ける。

逆に注意を与えるときでも、
「ボールを持ちすぎるな」
では、ボールをキープすることがマイナスであり、すぐけりかえすことがプラスかのような受け取られ方をしかねない。
だからこういうときは
「相手は切り替えが遅いから、ボールをうばったら裏をねらっていこう」
と伝えてやる方が、結果としてうまくいくものだ。
「自分たちが遅いから急ぐ」のではなく「相手が遅いから、そこをつくために急ぐ」とすれば、子供たちは積極的にプレースピードを上げようとがんばる。マイナスのまったくない、すべてがプラスにつながる指示だからだ(マイナスは相手)。



フレーミング効果には「初期値効果」というものもある。
納豆に付いてくるタレを、つい全部使ってしまうことも初期値効果である。この場合の初期値は、付いてくるタレの量になる。
人間は、与えられた状態・状況(初期値)に対して、積極的に判断しようとしない。
考えること、変えることは「面倒くさい」からだ。生きる上での「負担になるからだ」といってもいい。
本来自然では、現状をあるがまま受け入れるしかない。
手にした木の実を、ちょっとすっぱいからとか、大きすぎるから、などという理由で捨てていたら、その個体はとうに餓死している。
器を口に合わせるのではなく、口を器に合わせるのが、自然なのだ。
それが初期値効果となって、今も私たちの判断に影響を及ぼしている。

これを練習に応用するとすれば、要求する基準の設定を、はじめからやや高めにしてしまうことなどが考えられる。
きつく思えても、知らず知らずのうちにやがてそれは「初期値」として受け入れられてしまう。
初期値となってしまえば、それはちっとも「きつく」なんかない、当たり前の基準となる。
(もっとも、初期値があまりに高すぎると、はなからあきらめてしまうので、そのさじ加減こそがコーチの最も重要な仕事なのではないかと私は考えている)

2010年4月27日火曜日

確証バイアスと少年サッカー

確証バイアスというのは要するに、オレオレ詐欺のことだ。
先入観にそうような情報を無意識に選択してしまい、結果、さらに先入観を強化してしまう。
「オレオレ」で息子と思い込んだ先入観から、人は容易には抜け出せないということだ。
だから、いまだに同様の詐欺にかかる人が絶えない。
彼ら彼女らは、決して「アホ」なのではない。
先入観にとらわれてしまえば、誰もが(当然私も)ひっかかってしまう。

確証バイアスが注目されたのは、それが「無意識下」で行われていることが明らかになったからだ。
つまり人は、頭で考えているようでいて、実はその思考の諸条件となっている情報が、すでに偏ってしまっていることに、まったく気づくことができない、という特性だ。
もともとこの能力は、無限に存在する情報の中から、自分の生死にかかわるような情報だけをすばやく合理的に選択し、記憶できた者だけが生き残り、子孫を残してきたことから獲得できた、すばらしいものだったはずだ。
だが今わたしたち人類は、その能力によって混乱している。

とまあ多少それっぽく書いてみたが、何を言いたいのかというと、

強豪と思われているチームだって、所詮はワールドカップ万年どん尻の、アジアの片隅にある島国の、そのまた特にJリーガーを毎年大量に生み出しているわけでもない地域の、同学年の子供を集めた、素人コーチ率いる、少年サッカーチームなんだ、ということだ。

強豪だ強豪だ、名門だ名門だ、などという知識があると、無意識のうちに、それを補強し強化するようなところにばかり目がいってしまう。
だがよく目をこらして見て欲しい。
そんなチームだって、ミスばかりしてることに気づくはずだ。
当たり前だ。
彼らは決して「スーパー」な選手ではないのだから。
彼らはごく普通の子供たちだ。

こういう確証バイアスもある。
「どこどこは裏でずるいことをしている。だって~じゃないか。他にも~してるって噂も耳にしたぞ。」
レッズは審判にひいきされている、みたいな話なんかは、週末の夜になると港の風にのって聞こえてくる。

こんなのは「左利きには天才が多い説」「AB型は奇人変人説」といっしょで、それに適合する情報ばかりに気が向き、それに適合しない情報には気づかないという「確証バイアス」そのものだ。

大人が妙な説を吹き込めば、子供たちが自力でその確証バイアスから抜け出すのはまず無理だ。
体育会系で、さらに大人と子供という、絶対的な上下関係、主従関係の影響下にあるとなるとなおさらだ。

自分の頭の中にある情報は、すべて、取捨どちらの面からも、確証バイアス様に支配されていることを、少年サッカーの指導者たちは忘れないで欲しい。
日本で天才と騒がれた選手たちがヨーロッパでまったく相手にされないのはなぜなのだろうか、と考えて欲しい。
ヨーロッパの人たちには、「日本の天才選手」に対し、まったく確証バイアスのない目で評価しているからなのかもしれないし、あるいは「アジアの選手」という「負の確証バイアス」に縛られているからなのかもしれない。

どちらにしても、日本のサッカー界にそこそこレベルの天才選手が現れるには、もう100年くらいはかかるんだから、大人たちはそんなにキリキリしないで、子供たちとサッカーを楽しんで欲しいと、切に願う今日この頃なのです。
子供たちが、子供としてサッカーを楽しむことができるのは、一生で今だけなのですから。

確率加重と少年サッカー

100枚買おうが1枚だけだろうが、宝くじの当たる確率に大差はない。

年末ジャンボ宝くじの発売枚数を、計算しやすく10億枚弱とする。
うち、当選金額が億を超えるものは、1000万枚に3枚強。
ということは、確率10億分の300となる。
この確率は、中国人の中にいる善人と出逢う確率より高く、インド人の中にいる毎日髪を洗う人とであう確率よりも高い。
しかし、埼玉スタジアムがほぼ満員(およそ6万人とする)となる試合が167試合あって、その中から3人選ばれる確率と同じでもある。
リーグ戦を34、カップ戦を6、そのうち半分がホームだとしても、年間20試合。
つまり満員を9年続けてようやく観客の中から3人に、当たりくじが渡る計算になる。

100枚買うと、17試合(つまりリーグ戦の年間ホーム試合数)満員で、そのうちの3人となる。

確かに9年より1年の方が短期間だが、じゃあずっと当たりやすいのかと聞かれたら、私なら「まあどっちも当たらないね」と答える。

でも...誰かが当たってるんだから、自分にだって当たるかもしれない...。


こんな風に、実際の確率よりも個人の思い込みや根拠のない予想を重く見てしまうことを「確率加重」という。

自分のチームにだけ奇跡を期待するのも、確率加重の効果だと言える。
あるいは、セットプレーから失点することが多いのに、それを見ないことにして自分が使いやすい選手ばかりでチームを組むような愚行も、本来なら高い確率をご都合主義で低く見積もる確率加重である。
ちなみにどちらも、ノータリン岡ちゃんジャパン(私はあのチームに日本とかジャパンという呼称を使用することに、とても腹を立てている。ちゃんと「岡田武史選抜」と呼ぶべき)のことを指したわけではない。似てしまったのは、たまたまの偶然である。

自分にだけ都合のいい幸運を期待する人間を、私は「楽天家だね」とあたたかく見守る。
自分だけ運悪く不幸に見舞われることを心配している人間には、「考えすぎだって」と肩に手をあてる。

あなたが何を期待し、あるいは何を心配したとしても、そのことが起きる確率には、一切、まったく、これっぽっちも、影響しないんだよ、と教えて上げたいけど、それを言ってしまうと、冷たい人と言われそうなので、私は言わない。


少年サッカーに関わる大人の皆さんには、妙な確率加重によって、子供たちを責めたり、プレッシャーに晒したりすることのないよう、お願いしたい。

2010年4月26日月曜日

全日本少年サッカー大会 北足立郡北部地区予選 総評

北足立郡北部地区予選総評

終わってみれば、優勝したユベントスJFCの力が一歩抜き出ていたという印象を持った。
特に個人の能力ではなく連携によって守備を構築している点がすばらしかった。
身軽な忍者並みにセンスの良いGKと頭の良いDF陣の信頼関係も言葉だけではなく、この年代のチームにしては戦術的に確かなものを築きつつあるようにさえ見えた。
攻撃は、シュートの上手い大型7番とスピードのあるドリブラー12番が務め、その後ろでボールキープのできる16番がタメをつくるというのが基本になっていた。

しかしこのチームの生命線は、16番を囲む6、8、10、14番といった選手らのフォアチェックと縦横無尽なポジションチェンジにある。実際、彼らの動きが鈍かった気温の低い条件下や、試合間隔の短い二試合目などではリズムが作れずチームは苦戦していた。

イチロー似の4番の選手の浮き球をたくみにあやつるドリブルには思わず「おーっ」と声が出た。

デビューした頃の中澤佑二風長身19番のヘディングは、これから磨きをかければ県内でもトップレベルになりそうなスケールの大きさを持っていた。

最も魅力と可能性を感じさせた選手は、サイドバックをしていた11番だった。
彼は左右どちらのサイドでも仕事ができる上に、右足でも左足でも強いシュートをけっていた。さらにロングスローも持っているし、スピードもスタミナもあるようだった。ディフェンス能力も、今大会当地区ナンバーワンFWと目される中学生体格のレフティ、上尾尾山台7番を決勝リーグでは完璧に抑え込んでいた。
非常に地味で決してC.ロナウドやナニ、ロッベンタイプではないが、、ボールが来なくても黙々とくり返すオーバーラップ&リターンやキレのあるキックフェイントからの深い切り返しそして熱いタックルは、ジョルジーニョやカフーといったあたりが好きだったサッカーファンなら一度目にしたらまた見たいと思うような、渋さ抜群のプレーだった。どうかこのまま伸びていって欲しいと思わされた選手のひとりだった。

次からは強豪ひしめく県南部予選へと入るが地元会場の有利さを生かして、この地区全体のレベルアップのためにも埼玉スタジアムでの中央大会までどうか勝ち進んで欲しいチームだ。
幸運を祈りたい。

全日本少年サッカー大会 埼玉県予選 県南

県南部大会進出チーム(カッコ内は出場枠数)


北足立北部(5) 

1.上尾ユベントスJr.FCスポーツ少年団 
2.上尾東サッカースポーツ少年団 
3.伊奈小針サッカースポーツ少年団 
4.鴻巣FCプライマリー 
5.尾山台イレブンスポーツ少年団


北足立南部(10)
 
1.柳崎サッカークラブジュニア 
2.戸田一サッカースポーツ少年団 
3.FC宗岡 
4.新座エースフットボールクラブ 
5.新座片山FC少年団 
6.FCアビリスタ 
7.FC和光イレブンスポーツ少年団 
8.新座たけしのキッカーズ 
9.F.C.CRAQUE(クラッキ) 
10.安行東サッカー少年団


さいたま市(8+1) 

1.浦和尾間木サッカースポーツ少年団 
2.浦和常盤スポーツ少年団サッカー部 
3.浦和上木崎サッカースポーツ少年団 
4.浦和三室サッカースポーツ少年団 
5.大宮三橋フットボールクラブジュニア 
6.大宮指扇サッカースポーツ少年団 
7.NEOS FC 
8.大宮春岡FCスポーツ少年団 
+1.大宮アルディージャジュニア


6チームが中央大会へ

価値関数と少年サッカー

人間は、増えたときよりも減ったときの方が印象に残る。
同じ一万円であっても、拾ったときよりも落としたとき、もらったときよりもあげたときの方を、いつまでも覚えている。

ヤフオクの最低落札額を見て、「これは高すぎだろ」と感じることは少なくない。
だが出品者の心理を推察すると、それが「最低落札額」である以上、その品物の価値を、出品者は、その金額以上だと考えていることがわかる。
人間は、安く売りたくないのだ。

これを人間の心が持つ「損失回避性」という。

この心理傾向の強いタイプは、

安く売るくらいなら、売れなくてもいい。
他人に得をさせるくらいなら、いまのままでいい。

となりがちだ。

つまり、

変化によって自分が「損」をするんじゃないかと過剰に心配するあまり、現状を変えることがわずかでも損につながるかもしれないのなら、いまのままでいい。

と考えてしまう。
「損」は絶対にイヤイヤイヤ。「損」をするくらいなら、ずっと今のままでいい。
こういう心理を、「現状維持バイアス」という。

また「参照点依存性」という特性も、人間は持っている。
株式売買で、2年前に買ったときの価格よりも、今年の暮れにつけたピーク価格の方を基準にしてしまうようなことだ。
現在は購入時よりも30パーセント高くなっているというのに、ピーク時よりも20パーセント下がったことにばかりこだわってしまう。「売り時を逃した」と。「ちょっと待ってくれ。今、売ったとしても、君は儲かってるじゃないか」とアドバイスしても、「いや、もうちょっと待ってみるよ。きっとまた・・・」。こうして損が膨らんでいく。

「感応度逓減性」(かんのうどていげんせい)というのもある。
一万円のお年玉も、小学生のときはあんなにうれしかったのに、中学生になるとがっかりする。
牛丼の350円と250円は大問題だが、薄型テレビの43万とんで350円と、43万とんで250円の違いなど気にもとめない。同じ100円であるというのに、そのとらえかたはまるで違う。
スケールが大きくなると、その変化への感応性が鈍くなること、それが「感応度逓減性」だ。


以上のような、人間が持つ「損得」への感じ方の特性を、見事に表現したのが「価値関数グラフ」だ。
上下から押しつぶされたS字のカーブを描き、中心の参照点から離れるほど変化は鈍くなり、またマイナスほど値が大きくなる。

少年サッカーで得点力不足に悩む指導者は、この価値関数グラフを頭の片隅において、練習メニューやコーチングの仕方を工夫してみるべきだ。
①得点力は本当に不足しているのか。
②失敗した時のことを意識させてしまうような方法、あるいは声かけをしていないか。
③足での得点が入らなくなったと感じたら、頭での得点メニューを増やして、参照点を変えてみる。

2010年4月25日日曜日

北足立郡北部予選 決勝トーナメント結果

全日本少年サッカー大会 埼玉県
北足立郡北部地区予選
2010年4月25日(日)
晴れ 日ざし強
会場 伊奈丸山スポーツ広場グラウンド
トイレは水洗
そばの小川に鯉がいた。
ピッチ土壌 ダスト


決勝トーナメント 結果

準決勝
上尾東 0 × 0 伊奈小針
0-0
0-0
0-0
0-0
PK 9-8

ユベントス 2 × 1 鴻巣FC
1-1
0-0
1-0
0-0

決勝
上尾東 0 × 4 ユベントス
0-2
0-2

第5代表決定トーナメント

準決勝
北本キッカーズ 1 × 1 NEO.FC
0-0
1-1
0-0
0-0
PK 3-2

上尾尾山台 3 × 1 上尾上平
2-0
1-1

第5代表決定戦
北本キッカーズ 0 × 2 上尾尾山台
0-0
0-2

7、8位決定戦
NEO.FC 4 × 1 上尾上平
1-0
3-1

3、4位決定戦
伊奈小針 1 × 0 鴻巣FC
0-0
0-0
0-0
1-0

最終順位
優勝 ユベントスJFC
2位 上尾東
3位 伊奈小針
4位 鴻巣FC
5位 上尾尾山台
-----ここまで南部予選出場権-------------
6位 北本キッカーズ
7位 NEO.FC
8位 上尾上平



会場シードとなったユベントスの希望会場(未確認)
上尾平方スポーツ広場(私立秀明英光高校の東側。非常にわかりにくい。近くに井上スパイス工業『スパイス王国』)

サンクコスト効果と少年サッカー

サンクコストのサンクとは「ありがとう」のthank youのサンク、、、ではなくて「だんだん沈む」っていう意味のsinkの過去・過去分詞のsunkで、その意味するところは「救いようがない」とか「すっかりだめな」というあたりになる。岡田ノータリン監督の率いる、わが日本代表の現状などが、まさにサンクだ。

だからサンクコストというのは、「救いようがないコスト」であり、サンクコスト効果とは、この「救いようがないコスト」が、意思決定の際に影響を及ぼしてしまうことを指している。
アホな男が女に高価なプレゼントをみつぎ、その見返りを期待して店に通い詰めたりするようなこと。
高いスパイクを買ったら、微妙にフィット感が悪いのに、足を靴に合わせるようにしてムリして使い続けること。
あるいはあれは高かったから、と使わない物をいつまでも保管していること。
こんなような、脳みそがバカになってしまうようなことを「サンクコスト効果」というのだ。

すでに支払ったコストはもう帰ってこないのに、いつまでも記憶している。そして未来において、自分の中で、帳尻を合わせようとしてしまう。

これとは逆に見える「サンクコスト効果」もある。
それは、幸運にも手に入った利益のことを、軽々しく見てしまう心理状態だ。
思ってもいなかった女性から告白されると、その女性に対してはなんとなく優越感を持って接してしまったりすること。
誕生日プレゼントにもらったサッカーボールを、アスファルトの上で使ってしまうようなこと。
麻生政権のとき、地域振興券が配られると、さらに自前の資金を加えて、普段なら躊躇してしまうような食事に出かけてしまったこと。
要するに「濡れ手に粟」の「あぶく銭」はパーッと使ってしまいたくなる心理状態だ。
存在しないはずの利益なのだから、消えてなくなってしまっても損じゃない、と心は帳尻を合わせてしまう。

少年サッカーでいうと、ママさんたちが「私がこんなにボランティア・サポートしたんだから、うちの子を試合に出してよね」と明に暗に要求するようなこと。
あるいは、監督が、初期段階で見所があると思った子を、いつまでも使い続けてしまうようなこと。
どちらも、すでに過去となった労や判断に、現在の意思決定が影響されてしまっている。

サンクコスト効果を払拭できていれば、前のママさんは、違うチームに子供を移籍させるか、子供自身に練習させた方がいいことに気づくだろうし、後の監督さんにしてみても、元々自分に子供の可能性を見極める能力があるのかどうかを考えれば、いつまでも使えない子にこだわることは、その子のためにも、チームのためにもよくないことがわかる。

損を取り戻そうとすると、合理的な判断ができなくなって、どんどん深みにはまってしまう。
山で道を間違えたら、来た道を戻ることを恐れてはいけない。
「損したくない」「どうにか元を取りたい」と思うことのほとんどすべては、自分の心の中だけの損得勘定なのだと、常に肝に銘じておく。
昨日のことを今日に持ち越すんじゃなくて、明日のために今日を生きた方が、よっぽど人生は楽しい。
失ったゴール、犯してしまったミス、そんなもんはどーでもいいじゃないか。
新たなゴール、できるようになった新ワザ、そういうことに子供たちが目を向け、サッカーを楽しんでいるような少年団を、わたしはすばらしいととらえている。

2010年4月24日土曜日

全日本少年サッカー大会 地区予選 決勝トーナメント

決勝トーナメント 試合日程 2010年4月25日(日)
会場 伊奈丸山スポーツ広場(県立がんセンター下)


第5代表決定トーナメント準決勝 組み合わせ(開始 09:00)

A面 北本キッカーズ × NEO.FC
B面 上尾尾山台 × 上尾上平


優勝決定トーナメント準決勝 組み合わせ(開始 10:00)

A面 上尾東 × 伊奈小針
B面 ユベントス × 鴻巣FC


第5代表決定戦 
A面 開始 11:00 (順位決定戦 B面)

決勝戦 
A面 開始 12:00 (3位決定戦 B面)


優勝チームは県南大会会場シード。

注目カード
第5代表 北本 × NEO 戦  09:00開始 A面
準決勝  上尾東 × 伊奈小針 戦  10:00開始 A面

全日本少年サッカー大会 地区予選 決勝リーグ 2

2位リーグ

Ⅲ組

上尾富士見 0 × 1 上尾上平
0-1
0-1
観戦せず。

上尾上平 1 × 0 ローズFC
1-0
0-0
観戦せず。

ローズ 1 × 0 上尾富士見
0-0
1-0
凡戦。メモまっしろ。

1位 上尾上平
2位 ローズ
3位 上尾富士見


Ⅳ組

NEO 3 × 0 北本東
3-0
0-0
ピッチ状態が、北本東にとって不運だった。
前半は特に状態が悪く、GKが対応に苦心惨憺しているところを押し込まれた。
崩されての失点はなかっただけに、非常にかわいそうな結果となった。
後半ゴールが入れ替わると、北本東は元気になった。後半の18分には、右サイドからのすばらしい攻撃があったが、残念ながら得点にはならなかった。

北本東 4 × 2 原市イレブン
2-0
2-0
得点は多かったが凡戦。
メモ空白。

原市イレブン 0 × 5 NEO
0-1
0-4
得点通り。


1位 NEO
2位 北本東
3位 原市イレブン

全日本少年サッカー大会 地区予選 決勝リーグ

全日本少年サッカー大会 埼玉県 北足立郡北部地区 予選
決勝リーグ

日時 2010年4月24日(土) 会場 北本総合公園グラウンド
天候 快晴 北風 朝冷→昼暖

会場のデータ

水はけ傾斜が、グラウンド中央から東西に下がっていく。
傾斜度は、緩やかだが見てわかる程度。
B面(南側)の西(新幹線が見える方)ゴール前は、土壌が違うらしく、午前中は荒れていた。
他の土壌は、第一試合から良好なコンディション。

【決勝リーグ 結果】

1位リーグ

Ⅰ組

上尾東 0 × 0 北本キッカーズ

観戦せず。

北本キッカーズ 0 × 1 鴻巣FC
0-1
0-0
北本のGKはでかい。

鴻巣FC 0 × 2 上尾東
0-1
0-1
鴻巣FCは体が重そうだった。
試合時間の間隔の差が出た感じ。
1時間と4時間弱では、回復に相当違いがあるだろう。特にこの年代では。
上尾東のベンチの雰囲気、大人たちの明るさは、今日見たチームでは随一。
子供たちも、一番楽しそうにサッカーをしていた。
こういうチームで育った子は、ずっとサッカーを愛してくれると思う。


1位 上尾東
2位 鴻巣FC
3位 北本キッカーズ


Ⅱ組

上尾尾山台 0 × 2 ユベントス
0-0
0-2
尾山台は7番の高身長の中心選手が、完全に抑え込まれてしまい、最後までリズムに乗れず。
期待していたような好試合にはならず、はっきりいって凡戦。
ユベントスも、以前見たようなサイド攻撃はすっかり消え失せ、ボカスカけりの中央攻めばかり。
ベンチも別にサイドを使うような指示はだしていなかったので、もしかするとスカウティングを反映した作戦(それは成功していた)なのかもしれないが、あれでは得点機会は増えないだろう。

ユベントス 0 × 0 伊奈小針
0-0
0-0
凡戦。眠くなった。
サイドには広大なフリースペースがあるというのに、ユベントスはまったく使わず。
伊奈小針は辛抱強く、中央ではじき返して耐えた。
元気も、伊奈小針の方が上回っていた。コーチの仕草も面白い。
もしこのコーチの盛り上げがなかったら、確実に午睡していた。

伊奈小針 2 × 0 上尾尾山台
2-0
0-0
伊奈小針が、かなり気合い入っていた。
尾山台の方は、結局は7番のチームだったということのようだが、それにしても、それならなぜ7番をいつまでも左サイドに張らせておくのか理解に苦しんだ。
あれならば、むしろ彼を中盤の右において、彼にシュートさせないと得点できない。
FKやCKを見ても、彼のキックはまあまあなので、かなり確率は高かっただろうと思われる。もったいない。



ユベントスと伊奈小針が同勝点同得失点同総得点で並んだので、PK合戦で順位を決定。
PK結果
伊奈小針 5 ○○××○○○×
ユベント 6 ○×○×○○○○
ユベントスの方は、正GKが帰ってしまったのか、8番の選手がGKをしていた。
試合直後の伊奈小針の方が頭も筋肉も温まっていて、さらにGKも本職なのでかなり有利と思われたが、自滅。


1位 ユベントス
2位 伊奈小針
3位 上尾尾山台

全日本少年サッカー大会 予選 決勝リーグ

雲ひとつない快晴の朝となった。
放射冷却現象で、空気が冷たい。
すがすがしいという言葉が、まさにぴたりとはまる。

今日は、全日本少年サッカー大会埼玉県北足立郡北部地区の、決勝リーグが開催される。
会場は、北本市の北本総合公園グラウンド。

誰もケガをすることなく、トラブルもなく、悔いの残らない、この空のようにすがすがしい、好試合が見られることを期待したい。

2010年4月23日金曜日

インテルとバルサ

チャンピオンズリーグで、インテルとバルサが対戦した。
会場はインテルのホーム、サン=シーロ・スタジアム。
結果は3対1でインテルの勝利。
展開は、前半19分にバルサが先制し、やがてインテルが同点。後半開始早々にインテル逆点。16分にさらに追加点と突き放した。
面白かったのは、両チームの心理状態。
インテルは、とにかくこの第一戦が全て、といった感じで、開始早々から入れ込んでいた。
ところがバルサ一発目のチャンスであっさり失点。
がくっときそうなものだが、ここからのインテルがすばらしかった。
ゲームプランを信じ、バルサのサッカーを封じ込めることに集中していた。
そのメインテーマは、おそらく、「バルサのスピードを上げさせないこと」だったと思われる。
DFラインを下げさせるために、攻撃は両サイド裏経由にし、そこで優位に立っていても、安易なクロスは上げずに、ドリブル突破をしかけていく。バルサのDFは、鎖でつながれたようにラインを上げることができなくなっていた。
パスの起点であるシャビも、攻撃の起爆剤であるメッシも、ボールは持てるのに、インテルを崩すことができなくなった。理由は、間延びしたバックアップライン。はげしいピストン運動のようにくり返す、ボールの出し入れ、突っ込んでは引き、引いては突っ込むという、バルサのリズムが、伸びたパンツのゴムのようにたるんでしまったのだ。
こういう相手には、ロングフィードからのポストプレーによって、相手を中央に集中させるのがセオリーだが、バルサはそれをしない。あくまでもバルサのサッカーで戦い続けた。
インテルにしてみれば、しめしめというところだったろう。
バルサがそうすることを見越しての作戦だったともいえる。
バルサの自信、プライドを利用したのだ。
同点になった時点で、すでにこの試合の結果は見えていた。
もちろん実際の得点がどうなるかは誰にもわからないし、予想などできるはずもないが、この試合がインテルのものになることだけは明白だった。
この試合をバルサのものにするためには、バルサがバルサらしさを捨てる必要があったのだが、バルサにそれはできないと思われたからだ。
試合が自分たちのものでないことを、ピッチにいたバルサの選手たち自身も感じていたことが、テレビからも伝わってきた。
互いが無意識に反応するかのような展開が消え、「迷い」という湿ったジーンズのような違和感が、全体にただよっていた。
それでもバルサの選手たちは、自分たちのサッカーを信じ続けた。
それはそれでバルサらしいと思う。
それをやり続けた精神力もすばらしかった。
同点にされようが、逆転されようが、突き放されようが、自分たちは自分たちのしてきたことを信じるのだ、という信念がそこにはあった。
こういうことのできる指導者が、日本の少年サッカー界に、どれほどいるだろうか。
劣勢になると、ベンチから子供たちを罵倒するようなコーチなら、くさるほどいる。
怒鳴りつけることで、切れかかっている子供たちの集中力にカツを入れることを狙っての、あえてのふるまいなのかもしれない。だが、その姿は、子供たちを導き育てる大人として、日本人の先輩として、サッカーにたずさわる者の責任として、はたしてどうなのだろうか?

『子供たちは自分の分身ではない』
インテル・バルサ両チームの精神的な強さに感嘆しながら、子供たちを指導する大人たちがそのことを理解することができれば、日本の、というかこの北足立郡北部の少年サッカーのレベルも、数段上がるような気がしていた。


明日は全日本少年サッカー大会、埼玉県、北足立郡北部予選の決勝リーグの日だ。
会場は、北本市の、北本総合公園グラウンド。
午前9時開始との予定だが、どうにか雨と気温があがって欲しいものだ。
いい試合をたくさん見られることを期待している。

【参照】
バルサの弱点はここ
対バルサ戦略~偽ファーガソン編~
バルサをマネる3つのポイント
昔のバルサはこうだった
バルサの育成投資方針
バルサ5-0レアルの動画
昨年度(09-10シーズン)CLでのFCバルセロナ評
2009-2010CL準決勝インテル×バルサ第1戦
イニエスタの作り方
FCバルセロナの哲学

あしなが育英会 遺児奨学金「あしながさん」 継続寄付

ソシュールの言語学と少年サッカー 5

サッカー体系が再編成されれば、それを構成する技術、はては選手の価値までもが意味内容を変えてしまう。

このようなことが起こるのは、もともと個々のプレーはサッカーという実体と客観的に一対一対応しているわけではなく、「連続体に仕切りを入れただけ」で生まれているからなのだ。
そして「いいプレー」とは、客観的な「いいプレー」を指しているのではなく、「ミスではなく、悪い結果につながらなかったもの」と否定的な形でしか説明できない、つかみどころのないある一区切りの実行でしかない。

ソシュールのこのようなサッカー観は、それまでの常識だった「技術・戦術は、その命名に先立って存在し、その命名は後から行われる」という考え方をひっくり返すものだった。
『ゾーンディフェンスは、ゾーンディフェンスと呼ばれる前から存在し、トラップはトラップと呼ばれる前から存在していた。決して、トラップという名称が誕生したから、選手がボールをストップできるようになったわけではない』という常識を根底からくつがえしたのだ。

ソシュールは「個々のプレーを個々のプレーとして見ることができるのも、連続体を切り分けた結果だ」と考えた。つまり「命名を通して、はじめて個々のプレーは、その存在を認められるのだ」と断じたのだ。
まずは命名が先、そのプレーがどうだこうだというのはその後だ、といっているととらえてもいい。
 「プレーが先、命名は後」観の否定は、「サッカーと技術の一対一対応」の否定でもある。
かなり前の方で書いたように、ソシュールのサッカー観は、「技術とプレーの一致」および「技術とサッカーイメージの一致」をつなぎ、連鎖させることを通じて、それまでの「正しいサッカー」を実現する「正しいプレーの実体性」を破壊した。そしてそれに代わる「差異の体系・関係論的説明」を提示し、それまでとはまったく異なるサッカー世界のとらえ方を可能にした。
これが、ソシュールをもって「現代サッカー思想の源」とするゆえんなのだ。

ソシュールの言語学と少年サッカー 4

ラングは一つの技術・戦術体系だ。
それは個々のプレーに意味を与えるという意味での体系であり、価値の体系である。
ここで「体系としてのラング」を考えます。この辺こそが、ソシュール言語学の中でももっともユニークかつ衝撃的な部分であった。

「体系」と言えば、ふつうは「個々の要素が相互にかかわりあっている総体、それぞれが密接な関係に置かれた部分からなる全体」というイメージになる。
だが、ソシュールがラングを考える際の「体系」概念は、そうしたイメージの体系とは決定的にちがっていた。サッカー体系としての「ラング」は、「部分・要素を組み立てていって出来上がる全体」ではなく、「部分・要素をそうあらしめるような全体」である、とソシュールはとなえた。
部分・要素が最初からあるのではなく、全体があってはじめて部分・要素も成立するような全体、ということだ。

「客観的対象としては同一のものであるはずのプレーの評価が、サッカー文化圏によってちがってくる」ことの説明として、この考え方は成功している。

ドリブルを、「ボールの持ちすぎ、個人プレー」ととらえるか、「勇気あるチャレンジ、数的優位を作り出すプレー」ととらえるかは、サッカーの文化による、というのだ。

またプレーを分析するときの仕切り方は、あるサッカースタイル・イメージを共有する人同士では当たり前のように思えるが、異なるサッカースタイル・イメージと比較するとズレていることからもわかるように、サッカーの体系(ラング)により異なっている。
国や民族、時代を超えた普遍的なものではないのだ。
「どうとでも引ける線を、たまたまこのように引いた、そして、その引き方が一つの共同体で定着した」ということでしかない。
サッカーと技術・戦術のあいだには合理的で自然な結びつきなどない。
マラドーナは史上最高の選手なのか論争に決定的な結論がでないのは、これが理由なのだ。

仕切られた範囲が「プレーの意味」であり、それとサッカーというゲームとの結び付きが恣意的であるということは、「プレーの意味の裏付けとなる実体などない」ということを意味している。
意味の土台となる実体などないのだ。
だから、あるプレーヤーの価値を、「彼は天才である」とそれ自体で自立したものと考えることはできない。むしろ「ほかのプレーヤーとの差異」を通じて、その価値が規定されてくるのだ。

ソシュールの言語学と少年サッカー 3

その理由は、この「ラング」なるものが、実はまったく「具体的」ではないからなのだ。
「ランガージュが顕在化したもの」という意味ではたしかに「表現されるもの」なのだが、それでもラングそのものは直接目で見えたりする、「具体的にこれだ」という特性を持たない、非常に抽象的なものなのだ。「感覚」と言ってもいい。
これに対して、目で見えたりするのは、「個々人がけるボールの正確性」であったり、「個々人がトラップできる状況」だったりする。この、技術の具体的な「あらわれ」を「パロール」という。

プレーは、サッカーにおけるコミュニケーションの道具として、自分と他者とで共有された約束事という側面を持つ。サッカーにルールやスタイルがあるからこそ、自他のコミュニケーションは成り立つ。
ラングとはすなわち、このような「規則」のことなのだ。「サッカー文化」というイメージでも説明できる。
要するにそれは、あるサッカー体系の中にプレーする選手たちの、心の中にある「目に見えないシナリオ」のようなものなのだ。
サッカーをしているときのボールを用いたコミュニケーション(パロール)は、このラングという「シナリオ」にのっとっておこなわれまる。のっとっていなければ、互いに通じないわけなのだから。

「ラング」と「パロール」のあいだにも、「ランガージュ」と「ラング」のあいだに見られたような相互依存関係がある。

ラングは、見えない抽象的なイメージ体系として選手たちの心の中にあるが、上で書いたように「後天的なもの」「外から与えられたもの」である。これを個々の選手に与えるものこそ、パロールなのだ。

ランガージュを持つ選手は、ある一つのラングを環境に持ってはじめて、そのような環境を得てはじめて、その個人のプレー能力を発揮するようになる。だが、ラングは直接選手の中にうめこまれるわけではない。日々のプレーのやりとり、つまりパロールの交換を通じて、少しずつ選手の中に形成されるのだ。

ある一つの具体的なプレー(パロール)は、ラングに規制されて行われる。
しかし同時に、ラングに基づいてプレーすることは、その規則(シナリオ)を追認しつつ実践する形で、ラングを反復強化していくことでもある。
つまり、ラングはパロールを規制しつつも、パロールによって維持・強化されてもいるのだ。
まずこの点において、ラングとパロールは相互依存的だといえる。
さらにラングは、プレーヤーひとりだけを規制するにとどまるものではない。
プレーに影響される周囲の選手にも、その同じ規則が要求されているのだ。
少なくとも意味の通じるプレーで他者に反応をもとめることは、他者にラングに即したプレー体験を強要することにもなる。
パロールを通じて、ラングは自己から他者へと再生産され、共有されていく。
共同体のサッカースタイルという、ラングなるものの定義そのままの方向に向けて。
この点においても、ラングとパロールは相互依存的だといえる。

ただし見逃してはならないのは、「パロールだけが具体的な行為である」という点だ。

ラングというのは、この具体的な行為によって維持され、再生産される。その点から言うと、パロールはラングに奉仕する実践だとも言える。
しかし、ラングの維持・再生産に奉仕するのとは逆の特質もパロールは持つ。
それは「ラングを変更し、刷新することも可能な実践である」ということだ。
抽象的なものでしかないラングは、自分自身を刷新する力を持たない。これを刷新することができるのは、パロールだけなのだ。

時代を追うごとにサッカーが変化していることは論をまたない。
仮にラングを絶対的で固定的なものと考えると、それは選手のプレーを完全に規制するので、そこから新しいプレーは生まれず、変化は起こり得ない。だが、現にサッカーが「歴史」を持つということこそ、逆に、ラングがなんら絶対的でも固定的でもない証拠なのだ。
その変化の源こそが、「パロール」という具体的プレー行為による「ラング」への侵犯であり、従来の「ラング」を破壊し、そこから外へ踏み出す「逸脱」になるのだ。
一見それは、わがままな独りよがりのプレーに見えるかもしれない。
それは、ラングの側から見れば「反乱」にも見える。しかしそれがあるからこそ、ラングという技術体系、戦術は、連続性を保ちつつ、生きた現実に対応することもできてきた。この点からも、ラングとパロールは相互依存的と言えるのだ。

ソシュールの言語学と少年サッカー 2

またサッカーには、「戦術とプレーの一致」、そして「イメージとプレーの一致」という面がある。
あらかじめ戦術があって、それに対して「自然なつながり」であれ「練習による約束事」であれ、ラベルをはりつけるようにプレーが対応していく。
戦術とプレーの一致とは、戦術とプレーとのあいだには、一対一の対応が成立し、プレーは常にある戦術の意図を明確にあらわしていて、たとえば「442」という戦術がポジションに先立って存在しており、その戦術に根ざして「ボランチ」という役割が成り立っている、という考え方だ。
また、イメージとプレーの一致とは、プレーイメージを形づくっているゲーム観と技術名とのあいだには、一対一の対応が成り立っているという考え方。個々の技術は、常にある試合展開の全体像を鮮明に輪郭づけ、間違いのないプレーイメージを支えてくれるがゆえに、各技術の修得差は即各選手のプレーイメージということになります。


ソシュールは「ランガージュ」という概念も作った。
ランガージュは優れたサッカー選手が生まれながらに持っている力とされ、優れた選手と平凡な選手とを分かつ「しるしと」考えられている。
この能力を根底として技術、そしてサッカースタイルが形成される。
優れた選手の定義として、走る選手、アイデアのある選手、統率力のある選手、試合をコントロールする選手などがいるが、図抜けた走力もユニークなアイデアも的確な指示力もゲームバランス感覚も、技術という土台なくしてはありえない。そこから、ソシュールは「優れた選手と平凡な選手との差異は、技術力の有無」と考えたのだ。
しかし、ランガージュは技術を生み出し、習得する可能性という「能力」にすぎない。
それ自体は神からの授かりものであって、まだ技術でもサッカースタイルでもないのだ。
つまり、それはまだ「潜在的な可能性」にすぎない。たとえてみれば、巨大な樹木に育つ可能性を持った「種」のようなものであって、それ自体はまだ「巨大な樹木」という姿にはなっていないのだ。

ソシュールは、「個々の技術」をサッカー戦術の対象として確定すべく、これに分析を加えた。その結果生まれてきたのが「ランガージュ、ラング、パロール」といった独特の用語だったのだ。
ランガージュとは、サッカー選手の持つ普遍的な技術能力・抽象能力・カテゴリー化能力およびその諸活動、ラングとは、それぞれのサッカー共同体で用いられている多種多様な技術名を指す。

ランガージュは先天的で普遍的な潜在能力、ラングは後天的で特殊・個別的な技術体系ということになるが、両者のあいだには相互依存的な関係も存在する。

ラングはランガージュという土台があってはじめてその上に形成される。その限りにおいて、ラングはランガージュに依存するといえる。
しかし反面、ランガージュという潜在的能力は、最低一つのラングを環境として持たないと顕在化しない。最低一つのサッカースタイルを習得しないと、個人は技術力を発揮できないのだ。
ある一つのサッカー体系の中で、その体系の規則にそった形で技術力を発揮する機会を十分に与えないと、その選手にランガージュがあることは誰にもわからない。

それはなぜか?
どこかの山奥で、サッカーの天才児がひとしれずに成長していることはあり得ないのだろうか?

ソシュールの言語学と少年サッカー 1

ソシュールの言語学と少年サッカー

トランプなどのゲームを見てみればわかるが、人間同士がやりとりをするときには、まずいろいろなお決まり事・ルールが共通理解として存在し、それにのっとって時々・場合場合のやりとりがなされる。
トランプのカードが一枚、テーブルに置かれても、それ自体には意味がない。オカルト的にはあると言うひねくれ者も、そのカードに描かれている記号や数字が意味を持つのは、それら自体についての共通理解がまず存在しているからだ、ということを気づかせてあげれば撤退するだろう。

ソシュールは、このお決まり事・ルールを「ラング」、時々・場合場合のやりとりを「パロール」と名づけた。

サッカーもまったく同じだ。

個々のプレー自体が、それ自体独立して意味を持つのではなく、他のプレーとの関係の中にあって、はじめてそのひとつのプレーに意味がうまれる。
ボールがあり、それを足でつつく。その行為自体は、猫が玉とたわむれるのとさほど違いがないように見える。しかしいったんそれが、サッカーというゲームの中におかれると、そこにはドリブルという意味が誕生するということだ。

プレーは、ほかのプレーとのあいだに、ふたつの関係を持つ。
ひとつは「客観関係」。
プレーは単独で価値を持つものではなく、ほかのプレーと組み合わされることによってはじめて価値を生じる。
たとえばサイドへのフリーランニング。ただ走ったということだけでは、それが何なのかわからな。水のボトルを取りに行ったのかも知れないし、コーチの指示を確認しに行ったのかもしれない。しかしバイタル付近でのポストプレーを見つつ走り込んだのだとわかれば、あああの選手は裏へのパスを期待しているんだな、とわかる。
もうひとつの関係は「主観関係」。
主観関係は、客観関係のように、誰の目にもあきらかなわけではない。
キーパーの真正面へのシュート。彼はあえてキーパーの正面へぶつけ、そのハンブルを押し込むことを意図していたのだが、それは本人にしかわからない。キーパーがキャッチしてしまえば、「どこにけってるんだ! もっとよくねらえへたくそ!」ということになる(本人にしてみれば、よくねらってのキックだったのだが)。

このようにプレーの価値は、ほかのプレーとの選択の関係性によっても生じてくるものなのである。

2010年4月22日木曜日

労働価値説と少年サッカー

アダム・スミスの労働価値説と少年サッカー

 「労働は、全ての商品の交換価値にとっての真実の尺度である」
アダム・スミス『国富論』

これをサッカーに当てはめると、
ボール支配率は、すべての試合のゴールシーンにとっての真実の尺度である。
とでもなるだろうか。

得点について、そこにいたるまでに多くのパスが回されたものは「すばらしい得点」であり、わずかのパスで入ったものは「たいしたことない得点」ということになる。その結果、ことなる得点場面を比較できる価値尺度はパス交換数である。

パスならどれもこれも同じってわけではないことは、アダム・スミスも知ってた(かどうかは知らない)。
そのため「見えざる手」とパスを回す選手の能力が問題になる。

あまたある無数の、それぞれ状況がことなるゴールシーンを、どうやって比べるのかを考えたとき、その得点にいたるまでのボール支配率が高ければ高いほど、その得点場面の価値は高いはずだ、と考えてみよう。
みんながそう考えると、選手もコーチもスカウトも観客も、サッカーにたずさわる全員が、とにかくボール支配率を高めようとすることになる。
カウンター一発の得点なんかやっても、だれも見てくれない。それよりも、パスを5本、10本と回し、ドリブルを試み、ディフェンスを圧倒した上での得点場面を作ろうと努力するようになるはずだ。
そうなると、試合に出られる選手は、そういうことができる能力のある選手、そういう選択をする選手、ということになる。
子供たちも、そういう選手になろうとがんばるようになる。
戦うお互いが、同じようにボール支配率を追求するようになると、その試合で交わされるパスの本数は飛躍的に多くなり、そこに生まれる得点場面の価値、その結果もたらされる勝敗、の価値も高くなる、はずだ。

試合の流れの中からうばった得点の価値は高く、セットプレーやロングボール一発で簡単に入ったような得点の価値は低いということだ。

そうでないと、誰も苦労して技能を高めよう、戦術理解を高めよう、などと思わなくなって、みんなでかい選手をそろえてのパワープレーオンリーばかりになってしまう。

突然変異のようにしてマラドーナが登場する前の、世界のサッカー界は、まさにそうした状況だった。
クライフのいたミケルスオランダのトータル・フットボールでさえ、1966年のイングランドW杯から一貫していた『パワーフットボール』の流れの中にあった(クライフが技巧重視になるのは、W杯以後)。
1970年メキシコ、1974年ドイツ、1978年アルゼンチン、1982年スペイン、と大会全体を支配していたのは、強い巨人たちアポロンやポセイドンであって、美しく繊細なアルテミスやニケの居場所はなかった。
あのペレでさえ、メキシコの芝の助けがなかったら、その存在さえ忘れられかねなかったほど、ボールは石のように硬く見えた。
78年のアルゼンチンでは、サッカーは激しい(骨折上等)タックルとどこまで強いロングボールをけられるかの競技に成り果てた。そこに楽しさは求められず、残酷な興奮に酔った観客のコロセウムのような歓声だけが響き渡っていた。

サッカーは戦争だと公然と語られ、闇に包まれようとしたとき、マラドーナがあらわれ、フットボールの世界に再び希望の火がともった。そしてその火は、バルセロナによって太陽となり、今、世界を照らしている。

【参照】
バルサの弱点はここ
対バルサ戦略~偽ファーガソン編~
バルサをマネる3つのポイント
昔のバルサはこうだった
バルサの育成投資方針
バルサ5-0レアルの動画
昨年度(09-10シーズン)CLでのFCバルセロナ評
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FCバルセロナの哲学

あしなが育英会 遺児奨学金「あしながさん」 継続寄付

2010年4月21日水曜日

経験主義と少年サッカー

経験主義と少年サッカー

経験主義とは、「ごちゃごちゃ言ってねえで、やりゃあいいんだよやりゃあ」という立場だ。「それは理想論だよ。現実を見ろよ」という立場とも言える。
チーム作りでは、理想のサッカーに選手たちを当てはめようとするか、所属している選手の能力に合わせて、チームの構成や戦術を組み立てるか、の違いだ(前者が理性主義=理想論で、後者が経験主義=現実論)。

*ただし、前者であっても監督が自分の経験にのみもとづいた、自分の経験上の理想のサッカーにチームを当てはめようとすると、それは経験主義になる。

経験主義では、『理想のサッカーとか正しいサッカー選手像なんてのは意味ねえじゃん』って考える。
『生まれながらの天才なんていない。天才は、それだけ努力したんだよ』とも考える。
ジョン・ロックという昔のイギリス人は、これを「タブラ・ラサ=人間は生まれたときは白紙である」と表現した。
マラドーナも、赤ん坊のときは凡人だったってことだ(ホントかね?)。

経験主義は、日本のスポーツ界に色濃く染みついている。
指導の場では──練習あるのみ。根性論。努力は裏切らない。他人の倍やれ。だまってついてこい。──などなど事欠かない。
選手起用や戦術選択においても──ラッキーボーイ。ピンチの後にチャンス有り。あいつは外せない。伝統のフォーメーション。ジンクス──とかいうように、普通に使われている。

少年サッカーの指導者は、自分自身の個人的な経験を基準にして、ものごとを判断してしまいがちである。
人生経験が、子供たちよりも圧倒的に優っている(と思っている)から、己の経験を子供たちに押しつけてもどこからも抵抗が生じない。少年サッカーでは客観的な第三者の評価もないため、かえりみることもなく、個人的な経験の上に、さらに個人的な経験を積み重ねてゆく。雨乞いの踊りが、年々派手になっていくようなものだ。

一歩離れて、冷静に見てみれば、自分の経験が他人と違うのは特殊なことではなくて、当たり前なんだってことに、すぐ気づく。どっちかって言うと、自分とまったく同じ経験をしてる人間がこの世にもう一人存在することの方が、よっぽどめずらしい。

だが指導者としての経験を重ねれば重ねるほど、その自分の経験を「他人とは違う特別なもの」として、まるでその経験自体を、何かとても希少性のあるもの、価値のあるもの、と誤解してしまいがちになる
経験の中にある「あれはどういうことだったんだろ?」という真理・普遍性・理論に目を向けず、経験の外見しか見ないような態度は、子供たちの可能性をつんでしまうような間違った指導法をうみがちだ。

「有力チームの名物監督は、経験論、根性論ばかりだけど、毎年ちゃんと成績を残してるぞ」という批判は、それこそ経験主義だ。結果がでているんだから、経過も正しいのだろうという合理性のない予測(これを帰納という)。有名チームには有能な選手が集まりやすく、指導者の無能さをおぎなってあまりあるほどの、相対的な優位を保てることを忘れてはいけない。
限られた地域と年代に含まれる、有能な子供の量は無限ではない。
その限られた資源がどこかのチームに集中してしまうと、そのチーム以外には平均以下の資源しか残されないことになる(これが、地方の県で甲子園名門校が誕生しやすい、唯一の理由である。新設私立校が全国から選手をかり集めたりすると、この王国はたちまち崩壊してしまうから笑える)。

どんなに立派な経験であっても、理論的な裏付けなしには、「昔は○○だった」的な御当人さま限定の経験でしかない。大切なのは、その経験から、他の状況へも応用できるような真理・理論をどれだけ導き出せるかなのに、それがわからない。頭の中が筋肉だから。こういうアホ指導者は、どんな子に対しても、自分の経験を当てはめようとする。


前略 経験主義指導者さま
あなた様よりも、その子の方が上かもしれませんですよ。
草々



理論構築力や抽象能力のない指導者は、経験から本質をつむぎだすかわりに「物語」を作りだす。たまたまに過ぎない自分の経験を、うそっぱちな必然性で飾り立てて、強引に説得力を持たせようとするのだ。
都市伝説やエハラ系前世パフォーマンスのたぐいのお仲間だ。


「そのような経験をされたのは、、、、あなた、子供の頃、生き物を飼っていませんでしたか? そうですか、、、。で、その生き物とは、幸せな別れができなかったのではありませんか? うん、うん、なるほど。だと思いました。私には見えています。あなたが今、苦しまれているのは、そのとき悲しい別れをした○○の念が、まだあなたの周りをただよっているからなのです。ちゃんと弔ってあげてください。そうすれば、苦しみはうすれてゆきます。ここに、『完全な弔いの壷』があります。この中に、○○ちゃんにつながるもの、なければ名前をかいた和紙でいいです、それを中に入れて、朝晩手を合わせてください。そうすれば、すべて上手くいきます。この壷は、とても貴重なもので、価格は、、、、」


経験を物語化することは、経験とその物語の関係を一本道化してしまう。
「すごい俺の努力と勝利の記録」や「立派な英雄の伝記」、「成功した私の自慢話」といったものができあがる。いわゆる『カツマー系(勝間和代の著作を2冊以上所有している人)』って奴だ。
自分の根性指導論を『一日3分でできる。私が○○を育てた指導のコツ』に仕立てあげるくらいならまだ笑って許せるが、サッカー・指導経験を「選ばれた俺様だけが知る正しい少年サッカー論」にするや否や、ひどく偏狭で偏った価値観にもとづいた、非常に特殊な物語になってしまう。

そのことに気づいていない指導者が、ベンチで声を枯らしているのを目にすると、とても悲しい気持ちになる。うつむいている子供たちには、「大丈夫、君たちはその怒鳴っているアホよりも、ずっとすばらしいんだから」と言ってやりたくなる。

オオカミに育てられた少女の話にもあるように、経験は人間を人間にする。
一方で、マラドーナ(メッシやイニエスタやシャビ)と同じメニューをこなしても、マラドーナ(メッシやイニエスタやシャビ)にはなれない。
サッカー弱小国日本の、サッカー王国の、有名熱血指導者の指導が、何に基づいてるのかを考えよ
ブラジルにもスペインにも、サッカー王国なんていう地域はない。
それって、何か、を独占してるってことに過ぎなくて、結局それは、才能ある他の子の可能性をつぶしてるってことなんだってことに、気づいて欲しい。
少年サッカーでいつも同じチームが勝ってる間は、その地域のレベルは下降し続けるんだってことに、気づいて欲しい。
だからこそ私は、北足立郡北部地区のチームが、県大会で優勝する日を夢みているのだ。
その日こそ、埼玉県の少年サッカーがもう一段階進化するそのスタートの日になる、と信じているからだ。

2010年4月20日火曜日

功利主義と少年サッカー

功利主義と少年サッカー


功利主義というのは、

「最大多数の最大幸福」(功利性の原理)

の追求こそが正義であるって考え方。民主主義の基礎となっている、いわば近代合理主義の錦の御旗。水戸黄門の印籠。

スポーツ競技だと「最大多数の最大幸福」は、

勝つこと、

だったり、

優勝すること、

だったりする。

この目的のために、『試合に出る選手はいつも同じ』という少年サッカーチームも多いのではないだろうか。
全日本少年サッカー大会のために、地域の少年団から選手を引き抜いてスペシャル選抜を作ったり、身長の足りない相手GKめがけて(少年選手の育成を考慮せず)キック&ラッシュばかり仕掛けるのは、まさに「功利主義的に正しい」といえる。


功利主義への批判は、

・ぼくはいつも損してる(試合に出られない)。=幸福配分の不平等性



・最大幸福ってのは量なの(ほこりをかぶったトロフィーの山)?=絶対基準の喪失

の二点に集約される。



つまり!

ぼく(あるいはうちのおぼっちゃん)はガマンしてるのに、楽しんでるのはほかの子ばっかり。

=個人の利己主義はガマンさせるくせに、集団の利己主義は野放し。

何人ものOBが卒団するとサッカーやめちゃって、池袋でたむろってるらしいわよ。

=最大幸福であったはずのものが、一時的な快楽にすぎない可能性。

という陰口!


これに対しては、
「満足した豚であるよりは、満足しない人間である方がよい。満足した愚か者であるよりは、満足しないソクラテスである方がよい。」
ってなことを言った人がいる。(J.S.ミル)

「ドイツサッカーで優勝するよりも、オランダサッカーで準優勝の方がよい。満足したマドリニスタであるよりは、満足しないバルサニスタである方がよい」

といったところだろうか。


【まとめ】

・功利主義と利己主義とのちがいは、自分一人の幸福(快楽)だけではなく、すべての人たちの幸福を目ざすかどうかにある。

・すべては、動機(めざせ優勝、あるいはセクシー・フットボール)じゃなく、それがもたらす結果(勝敗)によって、価値が決まる。

・多数(レギュラー)の利益のためには少数(補欠)の犠牲はやむをえず、どんなことでも少数よりも多数を優先すべき。

・自分の幸福(シュートチャンス)と他人の幸福(よりフリーなシュートチャンスからの得点)とが衝突することも、ままある。

・一部の者を不幸にすることが、社会(チーム)全体の利益のために正当化される危険性がある。

・「最大多数の最大幸福」は、多くの幸福をうみだすはずという原理と、広くそれを分配するという原理の二原理からなるが、たいてい両者は矛盾する。たとえば練習時間を配分するとき、100人の選手に公平に少しずつ分配するより、少数の主力選手に多くを割りあてた方が成果は大きく、全体の幸福も増加する。

2010年4月19日月曜日

全日本少年サッカー大会 予選

全日本少年サッカー大会 予選

決勝第1ステージ 2010年4月24日(土) 北本総合公園グラウンド(北本高校向かい)
         予備日 翌25日(日)  伊奈丸山グラウンド(がんセンター下)

注目カード

09:00 B面 NEO.FC×北本東
10:00 B面 尾山台イレブン×ユベントスJFC
11:30 A面 上尾上平×ローズFC
12:30 B面 ユベントスJFC×伊奈小針
13:30 A面 ローズFC×上尾富士見
14:30 A面 鴻巣FCプライマリー×上尾東

特に中でも、2試合目の尾山台・ユベントス戦と6試合目の鴻巣FC・上尾東戦は好試合が期待される。

全日本少年サッカー大会 予選

全日本少年サッカー大会 予選

決勝第1ステージ 2010年4月24日(土)  北本総合公園グラウンド(県立北本高校向かい)
             予備日 翌25日(日)  伊奈丸山グラウンド(県立がんセンター下)


        A面                          B面

09:00 上尾富士見×上尾上平__________________NEO.FC×北本東
10:00 上尾東×北本キッカーズ________________尾山台イレブン×ユベントスJFC

11:00                 開会式

11:30 上尾上平×ローズFC____________________北本東×原市イレブン
12:30 北本キッカーズ×鴻巣FCプライマリー____ユベントスJFC×伊奈小針
13:30 ローズFC×上尾富士見__________________原市イレブン×NEO.FC
14:30 鴻巣FCプライマリー×上尾東____________伊奈小針×尾山台イレブン

疲労・消耗面では、試合間隔のある上尾東、尾山台、富士見、NEOが有利か。
仮にもし1試合目で不調・負傷者が出ても、回復が間に合う可能性が十二分にあるからだ。


決勝第2ステージ 順位決定・第5代表決定トーナメント

     2010年4月25日(日) 伊奈丸山グラウンド 09:00より2面使用8試合
     予備日 2010年5月1日(土) 上尾平方スポーツ広場

全日本少年サッカー大会 予選

全日本少年サッカー大会 予選

2位リーグ (先頭のアルファベットは予選リーグの組記号)

A 上尾富士見 3勝1敗 得点平均3.25 防御率0.75
B 上尾上平 2勝1敗1分 得点平均3.25 防御率1.25
C ローズFC 4勝1敗 得点平均3.20 防御率0.20

D NEO.FC 4勝1敗 得点平均3.80 防御率0.40
E 北本東 3勝1敗1分 得点平均2.80 防御率1.40
F 原市イレブン 3勝1敗1分 得点平均3.20 防御率0.80

ABCをⅠ組、DEFをⅡ組とし、各組1位が第5代表決定トーナメントへ。

総評
どのチームも直接対決の結果次第では1位通過できていた実力派ぞろい。例外はローズで、ここは直接対決には勝利していただけに、2位リーグでの奮起を期待したい。

全日本少年サッカー大会 予選

全日本少年サッカー大会 予選

1位リーグ (先頭のアルファベットは予選リーグの組記号)

A 上尾東 4勝 得点平均4.00 防御率0.25
B 北本キッカーズ 2勝2分 得点平均3.25 防御率1.25
C 鴻巣FCプライマリー 4勝1敗 得点平均4.00 防御率0.40

D 尾山台イレブン 5勝 得点平均4.40 防御率0.00
E ユベントスJFC 5勝 得点平均3.00 防御率0.40
F 伊奈小針 4勝1分 得点平均4.60 防御率0.20

ABCをⅠ組、DEFをⅡ組とし、各組1、2位が代表決定。3位は第5代表決定トーナメントへ。

総評
5戦全勝の尾山台イレブンが、得点平均でも防御率でもよい成績を残した。また、やや不調に見える、4種新人戦で唯一中央大会に上がった北本キッカーズだが、会場が地元である利を生かせられれば波に乗れるだろう。

はじめに

設立時の気持ちとしては、埼玉県北足立郡北部地区の少年サッカーの話をメインにするつもりで、適当にゆるゆる。
期間は今年(2010年)いっぱいを目処。