2010年4月22日木曜日

労働価値説と少年サッカー

アダム・スミスの労働価値説と少年サッカー

 「労働は、全ての商品の交換価値にとっての真実の尺度である」
アダム・スミス『国富論』

これをサッカーに当てはめると、
ボール支配率は、すべての試合のゴールシーンにとっての真実の尺度である。
とでもなるだろうか。

得点について、そこにいたるまでに多くのパスが回されたものは「すばらしい得点」であり、わずかのパスで入ったものは「たいしたことない得点」ということになる。その結果、ことなる得点場面を比較できる価値尺度はパス交換数である。

パスならどれもこれも同じってわけではないことは、アダム・スミスも知ってた(かどうかは知らない)。
そのため「見えざる手」とパスを回す選手の能力が問題になる。

あまたある無数の、それぞれ状況がことなるゴールシーンを、どうやって比べるのかを考えたとき、その得点にいたるまでのボール支配率が高ければ高いほど、その得点場面の価値は高いはずだ、と考えてみよう。
みんながそう考えると、選手もコーチもスカウトも観客も、サッカーにたずさわる全員が、とにかくボール支配率を高めようとすることになる。
カウンター一発の得点なんかやっても、だれも見てくれない。それよりも、パスを5本、10本と回し、ドリブルを試み、ディフェンスを圧倒した上での得点場面を作ろうと努力するようになるはずだ。
そうなると、試合に出られる選手は、そういうことができる能力のある選手、そういう選択をする選手、ということになる。
子供たちも、そういう選手になろうとがんばるようになる。
戦うお互いが、同じようにボール支配率を追求するようになると、その試合で交わされるパスの本数は飛躍的に多くなり、そこに生まれる得点場面の価値、その結果もたらされる勝敗、の価値も高くなる、はずだ。

試合の流れの中からうばった得点の価値は高く、セットプレーやロングボール一発で簡単に入ったような得点の価値は低いということだ。

そうでないと、誰も苦労して技能を高めよう、戦術理解を高めよう、などと思わなくなって、みんなでかい選手をそろえてのパワープレーオンリーばかりになってしまう。

突然変異のようにしてマラドーナが登場する前の、世界のサッカー界は、まさにそうした状況だった。
クライフのいたミケルスオランダのトータル・フットボールでさえ、1966年のイングランドW杯から一貫していた『パワーフットボール』の流れの中にあった(クライフが技巧重視になるのは、W杯以後)。
1970年メキシコ、1974年ドイツ、1978年アルゼンチン、1982年スペイン、と大会全体を支配していたのは、強い巨人たちアポロンやポセイドンであって、美しく繊細なアルテミスやニケの居場所はなかった。
あのペレでさえ、メキシコの芝の助けがなかったら、その存在さえ忘れられかねなかったほど、ボールは石のように硬く見えた。
78年のアルゼンチンでは、サッカーは激しい(骨折上等)タックルとどこまで強いロングボールをけられるかの競技に成り果てた。そこに楽しさは求められず、残酷な興奮に酔った観客のコロセウムのような歓声だけが響き渡っていた。

サッカーは戦争だと公然と語られ、闇に包まれようとしたとき、マラドーナがあらわれ、フットボールの世界に再び希望の火がともった。そしてその火は、バルセロナによって太陽となり、今、世界を照らしている。

【参照】
バルサの弱点はここ
対バルサ戦略~偽ファーガソン編~
バルサをマネる3つのポイント
昔のバルサはこうだった
バルサの育成投資方針
バルサ5-0レアルの動画
昨年度(09-10シーズン)CLでのFCバルセロナ評
2009-2010CL準決勝インテル×バルサ第1戦
イニエスタの作り方
FCバルセロナの哲学

あしなが育英会 遺児奨学金「あしながさん」 継続寄付

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