2010年4月21日水曜日

経験主義と少年サッカー

経験主義と少年サッカー

経験主義とは、「ごちゃごちゃ言ってねえで、やりゃあいいんだよやりゃあ」という立場だ。「それは理想論だよ。現実を見ろよ」という立場とも言える。
チーム作りでは、理想のサッカーに選手たちを当てはめようとするか、所属している選手の能力に合わせて、チームの構成や戦術を組み立てるか、の違いだ(前者が理性主義=理想論で、後者が経験主義=現実論)。

*ただし、前者であっても監督が自分の経験にのみもとづいた、自分の経験上の理想のサッカーにチームを当てはめようとすると、それは経験主義になる。

経験主義では、『理想のサッカーとか正しいサッカー選手像なんてのは意味ねえじゃん』って考える。
『生まれながらの天才なんていない。天才は、それだけ努力したんだよ』とも考える。
ジョン・ロックという昔のイギリス人は、これを「タブラ・ラサ=人間は生まれたときは白紙である」と表現した。
マラドーナも、赤ん坊のときは凡人だったってことだ(ホントかね?)。

経験主義は、日本のスポーツ界に色濃く染みついている。
指導の場では──練習あるのみ。根性論。努力は裏切らない。他人の倍やれ。だまってついてこい。──などなど事欠かない。
選手起用や戦術選択においても──ラッキーボーイ。ピンチの後にチャンス有り。あいつは外せない。伝統のフォーメーション。ジンクス──とかいうように、普通に使われている。

少年サッカーの指導者は、自分自身の個人的な経験を基準にして、ものごとを判断してしまいがちである。
人生経験が、子供たちよりも圧倒的に優っている(と思っている)から、己の経験を子供たちに押しつけてもどこからも抵抗が生じない。少年サッカーでは客観的な第三者の評価もないため、かえりみることもなく、個人的な経験の上に、さらに個人的な経験を積み重ねてゆく。雨乞いの踊りが、年々派手になっていくようなものだ。

一歩離れて、冷静に見てみれば、自分の経験が他人と違うのは特殊なことではなくて、当たり前なんだってことに、すぐ気づく。どっちかって言うと、自分とまったく同じ経験をしてる人間がこの世にもう一人存在することの方が、よっぽどめずらしい。

だが指導者としての経験を重ねれば重ねるほど、その自分の経験を「他人とは違う特別なもの」として、まるでその経験自体を、何かとても希少性のあるもの、価値のあるもの、と誤解してしまいがちになる
経験の中にある「あれはどういうことだったんだろ?」という真理・普遍性・理論に目を向けず、経験の外見しか見ないような態度は、子供たちの可能性をつんでしまうような間違った指導法をうみがちだ。

「有力チームの名物監督は、経験論、根性論ばかりだけど、毎年ちゃんと成績を残してるぞ」という批判は、それこそ経験主義だ。結果がでているんだから、経過も正しいのだろうという合理性のない予測(これを帰納という)。有名チームには有能な選手が集まりやすく、指導者の無能さをおぎなってあまりあるほどの、相対的な優位を保てることを忘れてはいけない。
限られた地域と年代に含まれる、有能な子供の量は無限ではない。
その限られた資源がどこかのチームに集中してしまうと、そのチーム以外には平均以下の資源しか残されないことになる(これが、地方の県で甲子園名門校が誕生しやすい、唯一の理由である。新設私立校が全国から選手をかり集めたりすると、この王国はたちまち崩壊してしまうから笑える)。

どんなに立派な経験であっても、理論的な裏付けなしには、「昔は○○だった」的な御当人さま限定の経験でしかない。大切なのは、その経験から、他の状況へも応用できるような真理・理論をどれだけ導き出せるかなのに、それがわからない。頭の中が筋肉だから。こういうアホ指導者は、どんな子に対しても、自分の経験を当てはめようとする。


前略 経験主義指導者さま
あなた様よりも、その子の方が上かもしれませんですよ。
草々



理論構築力や抽象能力のない指導者は、経験から本質をつむぎだすかわりに「物語」を作りだす。たまたまに過ぎない自分の経験を、うそっぱちな必然性で飾り立てて、強引に説得力を持たせようとするのだ。
都市伝説やエハラ系前世パフォーマンスのたぐいのお仲間だ。


「そのような経験をされたのは、、、、あなた、子供の頃、生き物を飼っていませんでしたか? そうですか、、、。で、その生き物とは、幸せな別れができなかったのではありませんか? うん、うん、なるほど。だと思いました。私には見えています。あなたが今、苦しまれているのは、そのとき悲しい別れをした○○の念が、まだあなたの周りをただよっているからなのです。ちゃんと弔ってあげてください。そうすれば、苦しみはうすれてゆきます。ここに、『完全な弔いの壷』があります。この中に、○○ちゃんにつながるもの、なければ名前をかいた和紙でいいです、それを中に入れて、朝晩手を合わせてください。そうすれば、すべて上手くいきます。この壷は、とても貴重なもので、価格は、、、、」


経験を物語化することは、経験とその物語の関係を一本道化してしまう。
「すごい俺の努力と勝利の記録」や「立派な英雄の伝記」、「成功した私の自慢話」といったものができあがる。いわゆる『カツマー系(勝間和代の著作を2冊以上所有している人)』って奴だ。
自分の根性指導論を『一日3分でできる。私が○○を育てた指導のコツ』に仕立てあげるくらいならまだ笑って許せるが、サッカー・指導経験を「選ばれた俺様だけが知る正しい少年サッカー論」にするや否や、ひどく偏狭で偏った価値観にもとづいた、非常に特殊な物語になってしまう。

そのことに気づいていない指導者が、ベンチで声を枯らしているのを目にすると、とても悲しい気持ちになる。うつむいている子供たちには、「大丈夫、君たちはその怒鳴っているアホよりも、ずっとすばらしいんだから」と言ってやりたくなる。

オオカミに育てられた少女の話にもあるように、経験は人間を人間にする。
一方で、マラドーナ(メッシやイニエスタやシャビ)と同じメニューをこなしても、マラドーナ(メッシやイニエスタやシャビ)にはなれない。
サッカー弱小国日本の、サッカー王国の、有名熱血指導者の指導が、何に基づいてるのかを考えよ
ブラジルにもスペインにも、サッカー王国なんていう地域はない。
それって、何か、を独占してるってことに過ぎなくて、結局それは、才能ある他の子の可能性をつぶしてるってことなんだってことに、気づいて欲しい。
少年サッカーでいつも同じチームが勝ってる間は、その地域のレベルは下降し続けるんだってことに、気づいて欲しい。
だからこそ私は、北足立郡北部地区のチームが、県大会で優勝する日を夢みているのだ。
その日こそ、埼玉県の少年サッカーがもう一段階進化するそのスタートの日になる、と信じているからだ。

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