NHK朝の連続小説『梅ちゃん先生』が最終回を終えた。
全回見たとは言えないが、それでもほとんどの回は見たはずだ。
わたしがこの朝ドラを見続けたのは、あまり人が死ななかったからだ。
現実の世界で毎日たくさんの人が死んでいるのに、何も朝ドラでまで人が死ぬシーンを見る必要はないとわたしは思う。
命あるものはいつか必ず死ぬのだから、死を描かないドラマにはリアリティがない、ということもあるかもしれない。
でもそういうのであれば、そこに描かれる死もリアルでなければならないのではないだろうか。
まるで眠っているかのような死体に、ドラマチックな音楽をかぶせるようなものは、命あるものの死ではないとわたしは思う。
いや、そのへんはテレビだから、というのであれば、最初からリアリティなど持ち出さなければいいだけの話だ。
というわけで、死よりも生を描いた『梅ちゃん先生』を、わたしは楽しく見ることができたのであります。
2012年9月29日土曜日
2012年9月28日金曜日
がっかりする理由
小学生のときには、この子はどこまで成長してくれるのだろうか、と期待していた選手が中学生になってぱっとしなくなっていたときのがっかり感は、いったいどこから来るのでしょうか。
答えは簡単で、それは期待した側の経験不足から来るのです。
人間でなくてもいいのですが、長い時間を掛けて何かを育てる経験や、長い時間と手間を掛けて何かを作り上げる、あるいは成し遂げる経験を何度も積み重ねて来ていれば、予測や期待がどれほど当てにならないものなのかを学んでいます。
『親ばか』という言葉がありますが、『教師ばか』や『コーチばか』という言葉はありません。
『ばか親、ばか教師、ばかコーチ』はあるのにです。
どうしてなのかというと、一般的に親と教師やコーチは、質の差こそあれ、育てることについての経験が違うからです。
期待を裏切られた、期待外れだったという状況には、単純に期待した期待が間違いだったというだけの意味しかありません。
いや能力的にはもっと上へ行ける素材だったのに、本人が努力を怠ったのだ、あるいは友人関係が良くなかった、あるいは指導者に恵まれなかったのだ、というのも、要するに、期待する側にその辺りの可能性まで考慮するだけの経験が不足していたというだけのことなのです。
結局のところ、期待や予測というのは、期待や予測をする側の器の外には出られません。
そういうものだと、まず期待する側が理解することが大切です。
サッカーでぱっとしなくなったからといって、その子の評価が下がるものではありません。その子は、プロサッカー選手を育てるゲームのキャラクターではないからです。まず、その子の人生があって、その一部にサッカーがあるというイメージを持ちましょう。
さてここで大事になるのは、そのぱっとしなくなったサッカーと今後どう付き合っていくか、です。
もちろんその子本人のことです。
ぱっとしなくなったから辞めてしまうのか、遊びのつもりで適当にやるのか、あるいはもう一度輝くために更なる努力を続けるのか、あるいはたとえもう前のようにはならなかったとしても、自分にできる精一杯で継続していくのか。
親として子の人生を見通したとき大事なのは、最後に紹介した姿勢で現実と向き合える人間に、わが子が成れるかどうかだと、わたしは思うのです。
自分の思い通りにならなくとも、一番手や主役になれなくとも、一度はじめたことは余程のことがない限り自分からは止めない。マラソンで言えば、優勝が不可能となっても、ゴールを目指して最後まで足を進め続けるような、そんな信念を当たり前のこととして抱く人間になれるかどうかで、人生は大きく変わってきます。
以前、試合で負けている状況でどういう態度を取れるかが大事だと書きました。そこからが面白くなってくるのだと。
実社会も同じだと、わたしは確信しています。
苦しい状況、絶体絶命の状況、面白くない状況、自分の思いとは違う状況、そういう状況に陥ったときこそ、実は人生が本当に面白くなってくる序曲が始まっていることに気づくべきです。
「おれこの前、山に登ったんだけど、途中で嵐になって来ちゃってさ」
「それでどうしたの?」
「ヤバくなる前に下山したよ」
これじゃあ面白くもなんともないです。
やはり、
「本格的に荒れる前に、頂上行っちゃえって思ったわけ」
「おまえ~そりゃあ無茶だよ」
「そう思うだろ? ところがさ…」
「なになに、どうなったの?」
こうじゃなきゃ、楽しくないです。
サッカーがうまくいかなくなったからって、すぐあきらめて下山して、じゃあ今度はあっちの山にしようとか、山は止めて海にしようとか、それじゃまたちょっとうまくいかなくなったら、次はどうするんですか? 同じことを繰り返すんですか?
途中で止めたら、その後、本当に予想通りに失敗したのかさえわかりません。
予想や期待は、それを下す当人の器から出られないんですから。
その外にあるものを手にするためには、むしろ経験値の低い者の予想や期待は、かえって足かせになると、わたしは確信しています。
お父さんお母さんも、わが子にがっかりする前に、三人以上は子育て経験を積みましょう。
期待してがっかりするのは、その後です。
それが無理だというのであれば、『今』だけをしっかりと見ましょう。
勝手に期待しておいて、「おまえにはがっかりしたよ」などとわが子に感じさせるような態度は絶対に止めてください。
親の期待に応えようとして人生を誤るケースが後を絶ちません。
そうならないために。
雨上がりの最高の絶景。
雲海の上に輝く巨大な虹。
それらを見ることができるのは、雨の中を登り続けた者だけなのです。
答えは簡単で、それは期待した側の経験不足から来るのです。
人間でなくてもいいのですが、長い時間を掛けて何かを育てる経験や、長い時間と手間を掛けて何かを作り上げる、あるいは成し遂げる経験を何度も積み重ねて来ていれば、予測や期待がどれほど当てにならないものなのかを学んでいます。
『親ばか』という言葉がありますが、『教師ばか』や『コーチばか』という言葉はありません。
『ばか親、ばか教師、ばかコーチ』はあるのにです。
どうしてなのかというと、一般的に親と教師やコーチは、質の差こそあれ、育てることについての経験が違うからです。
期待を裏切られた、期待外れだったという状況には、単純に期待した期待が間違いだったというだけの意味しかありません。
いや能力的にはもっと上へ行ける素材だったのに、本人が努力を怠ったのだ、あるいは友人関係が良くなかった、あるいは指導者に恵まれなかったのだ、というのも、要するに、期待する側にその辺りの可能性まで考慮するだけの経験が不足していたというだけのことなのです。
結局のところ、期待や予測というのは、期待や予測をする側の器の外には出られません。
そういうものだと、まず期待する側が理解することが大切です。
サッカーでぱっとしなくなったからといって、その子の評価が下がるものではありません。その子は、プロサッカー選手を育てるゲームのキャラクターではないからです。まず、その子の人生があって、その一部にサッカーがあるというイメージを持ちましょう。
さてここで大事になるのは、そのぱっとしなくなったサッカーと今後どう付き合っていくか、です。
もちろんその子本人のことです。
ぱっとしなくなったから辞めてしまうのか、遊びのつもりで適当にやるのか、あるいはもう一度輝くために更なる努力を続けるのか、あるいはたとえもう前のようにはならなかったとしても、自分にできる精一杯で継続していくのか。
親として子の人生を見通したとき大事なのは、最後に紹介した姿勢で現実と向き合える人間に、わが子が成れるかどうかだと、わたしは思うのです。
自分の思い通りにならなくとも、一番手や主役になれなくとも、一度はじめたことは余程のことがない限り自分からは止めない。マラソンで言えば、優勝が不可能となっても、ゴールを目指して最後まで足を進め続けるような、そんな信念を当たり前のこととして抱く人間になれるかどうかで、人生は大きく変わってきます。
以前、試合で負けている状況でどういう態度を取れるかが大事だと書きました。そこからが面白くなってくるのだと。
実社会も同じだと、わたしは確信しています。
苦しい状況、絶体絶命の状況、面白くない状況、自分の思いとは違う状況、そういう状況に陥ったときこそ、実は人生が本当に面白くなってくる序曲が始まっていることに気づくべきです。
「おれこの前、山に登ったんだけど、途中で嵐になって来ちゃってさ」
「それでどうしたの?」
「ヤバくなる前に下山したよ」
これじゃあ面白くもなんともないです。
やはり、
「本格的に荒れる前に、頂上行っちゃえって思ったわけ」
「おまえ~そりゃあ無茶だよ」
「そう思うだろ? ところがさ…」
「なになに、どうなったの?」
こうじゃなきゃ、楽しくないです。
サッカーがうまくいかなくなったからって、すぐあきらめて下山して、じゃあ今度はあっちの山にしようとか、山は止めて海にしようとか、それじゃまたちょっとうまくいかなくなったら、次はどうするんですか? 同じことを繰り返すんですか?
途中で止めたら、その後、本当に予想通りに失敗したのかさえわかりません。
予想や期待は、それを下す当人の器から出られないんですから。
その外にあるものを手にするためには、むしろ経験値の低い者の予想や期待は、かえって足かせになると、わたしは確信しています。
お父さんお母さんも、わが子にがっかりする前に、三人以上は子育て経験を積みましょう。
期待してがっかりするのは、その後です。
それが無理だというのであれば、『今』だけをしっかりと見ましょう。
勝手に期待しておいて、「おまえにはがっかりしたよ」などとわが子に感じさせるような態度は絶対に止めてください。
親の期待に応えようとして人生を誤るケースが後を絶ちません。
そうならないために。
雨上がりの最高の絶景。
雲海の上に輝く巨大な虹。
それらを見ることができるのは、雨の中を登り続けた者だけなのです。
2012年9月26日水曜日
領土問題その2
日本と周辺諸国の領土問題を考える前提として、第2次大戦終了時の東アジアの雰囲気を忘れてはなりません。
原爆水爆を食らい、首都および主要都市&インフラを空襲で壊滅させられた日本は、実質滅亡状態であり、いずれそう遠くない時期に、地球上から消滅する国と見られていました。少なくとも、日本以外のアジア諸国はそう見ていました。日本は必ず復活するなんて思っていたのは、日本人でも一部に過ぎません。
東アジアを含むユーラシア大陸は、社会主義共産主義の赤色に染め尽くされると思われていました。
こんなに悲惨な戦争の原因は資本主義にあるとされたからです。アメリカでさえ、そうした考えが主流となりつつありました。
ちなみにアメリカがそうならなかったのは、イデオロギーの力ではなく、宗教の力、つまりキリスト教の力でした。宗教を否定する社会主義共産主義を、清教徒の国であるアメリカはどうしても許せなかったんです。それはどちらが正しいかではなく、神と悪の戦いと同義だったからです。
東アジアにはそうした抵抗勢力が存在しなかったため、帝国主義の日本が消滅すれば、あとは平和と平等の社会主義共産主義のユートピア世界が誕生するのを待つだけ。時間の問題。そういう雰囲気でした。
ところが社会主義共産主義勢力は、朝鮮戦争でまさかの朝鮮半島制圧に失敗。
そのままの流れで、東アジア地域もヨーロッパ同様に東西冷戦状態に陥ります。
そしてそんな中、いずれ消滅するのは確実と見られていた日本が奇跡の復活を遂げてしまいました。
このことは東アジアの関係諸国にとって、戦後最大の誤算となりました。
さらに追い討ちが掛かります。
社会主義共産主義が歪み、その結果、東西冷戦で東側の大敗北。
終戦時には圧倒的な優位にあった北朝鮮に対抗させるために、アメリカが日本に課したノルマである韓国の国力アップミッション(戦時体制を維持させたまま経済を強化するという非常に無理筋なミッションでした)も、アメリカの期待以上にやり遂げました。
やがて東側が自壊したことにより、終わらないと思われた冷戦は、西側の地滑り的勝利として終わります。
こうした状況の変化は、すべて終戦時にはだれも想像していなかったことだということを、前提にして考えないと、昨今の領土問題は混乱するだけです。
領土問題や歴史認識についての韓国や中国の主張はすべて、現在から過去を振り返っての視点に立って構築されています。現在がこうであるためには、過去はこうでなければならない、という論法です。両国は、当時はどうであったとか、実際にはどうであったとか、そういったことに関心はないのです。
こうした歴史観は中国、というかシナ文化圏の伝統的な歴史観であって、それは司馬遷にまでさかのぼる根深い文化です。
この地域の大陸文化圏の人々には、この歴史観が血肉となって染み付いています。
逆の見方をすれば、このいわゆるシナ(中国はあくまで国名の略称です)文化圏であるなら、正しい歴史観はこっちの方であって、むしろ同じ文化圏にありながら客観的な史実にこだわる歴史観の日本の方が異常だと言えるわけです。
ということは、日本的な歴史観に基づいて、中国韓国両国を説得することはできない、ということになります。なぜなら、こちらの方が異常なのですから。
客観的に見ても、史実的に見ても、正しいのは日本の方です。でも、それは、この文化圏では通用しないのです。
ですからこの地域で領土問題を解決するには、日本が相手に合わせるか、相手が変化するのを待つか、その二つしか道はありません。
日本が証拠を挙げて正論を主張すれば中国韓国を説得できる、誠意を持って根気強く説明すればわかってくれる、国際司法裁判所の裁定が下れば従わざるを得ないはず、などと考えるのはこの地域(何度でも書きますが、いわゆるシナ地域文化圏のことです)を知らないからです。こんな期待を持ってもがっかりイライラ腹立たしい思いをするだけで、自分の損です。そんなことはあり得ないからです。彼らは絶対に認めません。認めないためになら死を選ぶくらいのことはやります。血肉となるというのは、そのくらい強烈なことなんです。自らの存在意義そのものに掛かる大問題であって、自分が間違っていたとは間違っても認められないんです。やっかいな連中です。でも、それがふつうなんです。本来は。この地域では。日本の方が異常なんです。この地域では。そこをわかってあげないと。
日本が、敗戦後の自国の領土を守るためには、ロシアを含めた中国韓国といった国々の側にとっての「現在の歴史」が変わってくれるのを気長に待つしかありません。
中国や韓国の将来の歴史で、己の正統性を証しせねばならずその時点での状況を正当化するために、昨今の両国の政権は間違っていたとなったとき、領土問題や歴史認識を含めた戦後のこうした問題は、あっさりと解決するでしょう。
それまでは、どうにもなりません。
2012年9月25日火曜日
領土問題
戦争で負けて、勝った側であるところの連合国から「お前にはこれだけ返してやる」と、有無を言わさず線引きされたのに、なんで因縁つけられるのか理解できん。
それも連合国の一角であった、中華民国の継承国である中華人民共和国と、サンフランシスコ講和条約によって戦争責任から免責された大韓民国が、なんで文句を言ってるのか、非常に不思議だ。
納得のいかない点があったのなら、条約を結ぶ前に騒がなきゃ。騒げる側だったんだから。
それをそのあとになって、敗戦当時は何されても為されるがままだった日本にクレームつけるのは筋違いだろ。こんなこともわからないのか?
当時何も言えなかった日本が、「実はあれは我が家の先祖伝来のものでして、どうか返してはいただけないでしょうか」的に、ほとぼりが冷めた頃に交渉を求めるっていうのなら話はわかる。
なんで勝った側や赦された側が、奪われ罰せられた側に、この期に及んであれくれこれくれ言うのかなあ。
常識が違うってことなんだろうなあ。
っつうか、反日デモで、日本のデパート襲って、日本製品略奪するってどういう精神構造なんだ?
欲しくないのか欲しいのか、どっちかはっきりせい!
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