2011年8月30日火曜日

8月中旬の被災地状況─その4─ 岩手県大槌町


大槌町の役場正面です。
献花台が設置してありました。
時計の針は「3時16分」を指しています。



町役場の隣のビル。日本生命の支所が入っていたらしいです。
時計の針は「2時49分」を指しています。


車の残骸。
この写真とは関係ないのですが、ここへ向かう道中に「ポッキリ車あります」という手書き看板があり、私はてっきり『ニコイチ(事故車などを複数台組み合わせて作り上げられた完成車)』のことなのかなあ、などと勝手に解釈していたら大間違いで、「ポッキリ車」っていうのは、税・諸費用抜きで「この価格ポッキリで販売します」ってことの業界用語らしいことを知りました。


がれきの山です。
木材、その他、タイヤ、と一応分別してはありました。
大変な労力であったろうと、頭が下がります。
そしてこの全てが、元は人々の家であり、職場であり、歴史のある街であったことに圧倒されました。
がれきが片づけられた、かつて街のあった場所には、もうなんの痕跡もありません。
そこを歩いているとき、私は方角や今さっき自分が移動したはずの距離さえつかめない感覚に陥りました。
見えているところまで、どれくらいあるのかがわからないのです。
来た方角へ戻ることができないのです。
目印が一切ないのです。砂漠でもないというのに。
通常の火災や地震、あるいは戦災とまったく違う災害なんだという現実を目の当たりにした思いがしました。


橋に設置されていた、へし曲げられた街路灯です。
一度に折れ曲がったのではなく、少なくとも3方向からの強い力を受けたことがわかります。
現在の川の水位と、痕跡に残る津波の水位との差が、怖いです。
いろいろなものが流され、この橋げたにひっかかったのでしょうね。


折れ曲がった街灯のあった橋の水門です。
右側の、砂だらけの道に見えるのが橋です。
欄干(らんかん)が変形しています。
はたして水門のどのあたりまでが水没したのでしょうか。



基礎のみとなった住居跡に飾られていた盆棚です。
ここにはほんの5カ月前まで、わたしと同じ市井に暮らすふつう人々のふつうの生活と家族の歴史があったのだ、確かにあったのだ、と胸に迫ってきました。
雨が降ったわけでもないのに、あちらこちらに水たまりや湿った地面があるのが気になしました。


いつまでも引かない水。
堤防の奧に見えるのは、がれきの山です。


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山田町と異なり、ここ大槌町は非常に奥行きのある地形となっています。
さらに2本の大きな河川によって、街が分断されていることも、避難の足を引っぱったのではないでしょうか。
構造的には、山に囲まれた河口の中洲上に街ができているも同然なので、海からのものに限らず、水害全般に対して脆弱であったのではないかと思われます。
役場のある中心地から避難するにしても、もっとも近い高台へ向かうには、海岸線や河川から遠ざかるのとは逆の方向へ進まなければならないので、心理的にも、また時間的にも、リスクはかなり高かったでしょう。

また、震災後消防団の一員として捜索をされた方にうかがったところ、予想外に危険だったのが“くみ取り式トイレ”だったそうです。
がれきや泥に隠れている上に、深さは2メートル以上あるし、中は汚物まじりの海水で満杯になっている。さらに厄介なのが、穴の直径が30~45センチ前後だということ。そこへ落ちると、まあ全身すっぽり落ち込むということはめったにないんですけど(全身が落ちたら、おそらく死ぬだろうとのこと)、腰まで落ちただけでもすぐ周りのがれきに覆い尽くされそうになるし、地力で這い上がるのは難しいし、さらにひどい汚れと臭いでその後はどうしようもなくなってしまうのだそうです。洗い流そうにも水道は使えないし──。

時間が経ったからそんな話もしてくれたのでしょう。
現実は例えようもないほどに深刻なのですが、深刻に考えているばかりでは、事態は前に進みません。
頭ではわかってはいるのですが……、一年前のお盆には、間違いなくたくさんの帰省客とそれを迎える家人でにぎやかだったであろう通りの真ん中に、ただ私は立ちつくすばかりでした。


街の中心部です。
白い建物屋上の塔には、まだ何かが引っかかったままになっています。


【参照】
震災前の大槌町

あしなが育英会 遺児奨学金「あしながさん」 継続寄付

2011年8月29日月曜日

8月中旬の被災地状況─その3─ 岩手県山田町

岩手県宮古市の南隣にある山田町の様子です。


防潮堤を堺にして撮影しました(大沢地区)。言うまでもないことですが、右が海側で左が陸側です。
電柱をはるかに越える量の海水が一瞬で襲ってきたのだと想像すると、そら恐ろしくなります。
その一方で、この薄い構造の堤防が崩壊していないところや、あまり頑丈そうではない構造物が残っているところを見ると、こちらを襲った津波は、田老地区を襲った津波とは異なるタイプであったのだろうとも推察できます。田老の堤防はズタズタのごっそりボロボロでしたから。
徐々に水位が上昇してきたのなら逃げようもあったでしょうけど、襲ってきたのがわかったときにはすでにこの堤防以上の水量だったとかいうのでは、どうしようもなかったでしょう。
また、この写真からも、重茂半島同様に(当たり前ですが)ここの海水面位も高くなっていることがわかります。正確に計測したわけではありませんが、この時、岸壁との差は50~60センチ程度しかなかったかもしれません。

撮影当日の山田駅です。
火災で燃えてしまったようです。
駅舎も線路も撤去されてしまっていました。
再び線路を引き直すというのも、なかなか難しいのかなあという印象でした。
奧に見える白い高架が、下にあげた写真を撮影したバイパス道路です。

駅前に掲示してあった写真です。
駅舎がまだ残っています。
日付は「2011.06.08」。

上の写真と並べて貼ってあった、震災前の駅と思われる写真です。
日付は「2010.05.17」。
寅さんが降り立ちそうな、良い雰囲気の駅舎だったのですね。
駅前の立派な木は、シイノキだったのでしょうか、クスノキだったのでしょうか?

山田駅構内のホームの様子です。
レールは撤去されていました。

山側にある新しいバイパス道路よりの遠景です。
海岸線まで家々が連なっていたであろう在りし日の姿が想像されます。
以前は、海岸線も、こんな風には見えなかったんでしょうね。
写真奧左に、湾の中央に浮かぶ島が映っていますが、津波時にこの島はどうなっていたのでしょうか。
津波の水位からすると完全に水没したはずなのですが、島の木々は枯れてはいないようですね。

こちらは同じ撮影位置から、ちょっと右へ角度を変えてズームしてみました。
緑の草萌える空き地も、田畑ではないんです。
かつては家や工場などが建っていたはずの場所なんです。もう、基礎部分しか残ってはいませんが。
地面の高さが、海面とほとんど同じ高さにあるように感じられました。
川が流れているので若干の勾配はあるのでしょうけど、下水道の排水なんかは難しい環境だったのではないかなあ。
土壌自体も砂地で、大昔は広い広い砂浜だったのではないでしょうか。

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鉄道駅(陸中山田駅)と港(山田漁港市場)を一直線に結ぶ駅前通りと国道45号線との交差点が街の中心になっていたようです。

山田駅前ロータリーから港方向へ

ですがそれこそそのあたり全て、街全部が津波と火災で消失してしまっていました。
スーパーマーケット「びはん」と、ホームセンター「ホーマック」と、ファッションセンター「しまむら」は満員の人集りでした。「びはん」の近くにいた街の人の話では、「お盆だもの」とのことでした。あと、パチンコ屋の駐車場も満杯でした。

これまでこの地域に産業は漁業しかなかったのかもしれませんけど、でも漁業を中心にしていては、たぶんこの街が再興する日はこない、と私は思います。ここまで破壊された街を立て直せるほどのパワーは、現在の日本漁業にはないからです。
さらに円高ですからね。海産物の加工品輸入は、これまで以上に伸びるでしょう。『三陸』は海産物のブランドですけど、生鮮品を卸しているだけでは、儲けもたかが知れてしまいます。といって加工して付加価値をつけようとしても、ライバルは海外ですから価格で勝負になりません。TPP参加もほぼ決定でしょうし。

工場を誘致するなんてのも、それこそこの円高環境では無理筋でしょう。

円高ということは、円で商売が完結する産業を中心にしないといけないわけです。
せっかくあんなに澄んだ海と、手頃な大きさの湾と、丁度良い位置に島があるのですから、マリンスポーツに着目したらきっとうまくいくんじゃないかなあ、なんて私は思っています。



ダイバーは南の海にばっかり潜りたいわけじゃないんです。
北の海には北の海の魅力があります。
これまでも三陸の海に潜るダイバーはいましたけど、漁業関係者への説明不足もあってその存在感は今ひとつでした。
でも、そこを逆手にとって、北海道やバンクーバーにも負けない、いやある面では勝るであろう三陸ダイビングのメッカ(宗教的に正しくない表現でしたらゴメンなさい)を目指すのはどうでしょう。
ホイール・ウォッチングもできそうじゃないですか? 鯨と海の科学館とかいうのもあるようですし。
あと、岩手の道はドライブにも適していると思います。

ちょっときれいな自然があって、円高だと聞けば、すぐに観光レジャー産業だというのは安直すぎると鼻でお笑いになるかもしれませんが、ちょっと聞いてください。
日本のマリンスポーツは、常に“漁業権”との摩擦によって頭を抑えられてきました。
山田町は、その問題を克服した国内最初の海として、ブランドとなる可能性を秘めていると私は考えているのです。

漁業だけを考えれば、円高&TPP環境下での東アジアは強力なライバルです。っていうより勝ち目はありません。
でもマリンスポーツを考えてみると、太平洋に面した北の海で寒流(親潮)と暖流(黒潮)がぶつかり合う位置にある、手頃な大きさの湾で、その中心にかわいい島のある山田湾は、これから急増するであろう東アジアのマリンスポーツ愛好家たちをお客さんにできる可能性が大きいと、私は確信しています。
そう遠くない時期に、花巻空港と釜石山田道路が直結するらしいですし。
大型船が使える港に戻すのは難しくても、レジャー船が使えるレベルになら、ちょっとした手直しでも間に合うようにも見えましたし。
いかがでしょうか。
マリンスポーツの各方面へ、こんなようなことを考えているのだけれど実現可能性はどれくらいだろうか? と行政側からアドバイスを求めてみれば、きっとみんなよろこんでいろんな協力をしてくれると思いますよ。だって、みんなそういうの好きですし。

なんてことを妄想してみました。
でも、やっぱり漁業でがんばるんだ! っていうのもアリだと思います。
街の幸せは、経済だけじゃないですからね。

【参照】
震災前の山田町

あしなが育英会 東日本大震災 津波遺児 単発寄付

2011年8月28日日曜日

サッカーのフォーメーション

サッカーにおけるフォーメーションについて、私の理解している範囲でざっくり書いてみました。




【フォーメーション─フォーメーションに攻撃的守備的の区別はない】
サッカーのフォーメーション自体には、どれが攻撃的でどれが守備的か、なんてことはないと思っています。
ゲーム展開の中で、攻撃に重心がかかっている状態と守備に重心がかかっている状態が、刻々と行き来するからです。
あえて言えば、中盤にボールが入った時に、そのボールの位置よりも前に選手が多ければ攻撃的で、少なければ守備的な状態であると言えるかと思います。
また、試合展開においては、マイボールの時、相手ボールの時、マイボールから相手ボールに切り替わる時、相手ボールからマイボールに切り替わる時、この4つの状態しかあり得ないということを大前提の枠組みとして頭に置いておくと、試合や練習の分析・評価がすっきりするような気が私はしています。

【DF─DFの枚数は、単純に網の目の粗さ】
基本的なフォーメーションにおけるDFの枚数には3~5まであります。3バックから5バックまであるということです。
枚数が増えれば、DF1人の分担するエリアが狭くなるので、その分守りが堅くなります。物理的に移動する距離が短くなることが、非常に大きな意味を持つのです。追いつくかどうか、届くかどうか、いくら予測能力が優れていても、物理的に間に合わない届かない場合にはどうしようもないからです。
南アフリカワールドカップで岡田言ってることとやってることが違う武史監督が見せた5バックシステムの守りがどれほど堅かったかを思い起こしてみれば、DF枚数の多さがいかに守備を堅固にするかが納得できると思います。

現在の標準である4バックでも、その配置の仕方には3つのパターンがあります。

最も一般的なのは、ゆるやかな孤の字(逆台形)型です。
センターバック(CB)2人が横に並んで、両サイドバック(SB)が若干前方にポジションを取ります。ゴールキーパーから見ると翼を広げたようなイメージです。ライン4と呼んだりします。

4バックが横並びになるもう一つの形は、4人が一直線になるパターンです。
オフサイドを取りたいときに、こうした形をとることが多いです。フラット4と呼んだりもします。でも、オフサイドのルールが変わって、オフサイドトラップ破りが簡単になって以降は、あまり見られなくなりました(まあ、相手のレベルにもよります。だぼハゼのようにオフサイドへ何度もひっかかるアホFWが相手の場合には、いまもって有効なフォーメーションです)。

最後は絶滅危惧種のスイーパーを置くパターンです。
センターバック(CB)を縦並びに配置します。後ろのCBがスイーパーです。
3バックシステムのカバーを、スイーパー1人で担うことになるので、スイーパーには非常に高い能力が求められます。

フラット4もスイーパーシステムも、まともなレベルのサッカーをしてくるふつうのチームが相手の実戦ではメリットよりもデメリットの方が大きいと考えられるので、DFそれぞれが状況に応じてフォローしあえる、逆台形型のライン4を採用するのがどうしたって多数派になります。

【MF─4人中盤─フラット4─】
4枚のミッドフィールダー(MF)を横一線に並べるシステムです。
ピッチを幅広く使うことがしやすい配置です。
その一方で中盤中央の守備が手薄になるという弱点があります。
守備の時には、CBの2人とセントラルMF(中央のMF)の2人でブロック(固い四角形)を作りやすかったり、またDFラインとMFラインの間を狭めることで、全体をコンパクトにすることもしやすい形です。

【MF─4人中盤─ダイヤモンド─】
菱形に配置します。
この配置の最大の魅力は、三角形をたくさん作れることです。三角形というのは、パスをもらう動きの基本「三角形を作るようにポジションをとる」の三角形のことです。ただしフラット4に比べると、どうしてもサイドへの張り出しは狭くなります。
また守備の時も、1ボランチとなってしまう選手の負担が過大になり、試合展開によっては「死にます」。
あと、全体をコンパクトにすることも、それなりの取り決めを徹底しておかないと失敗します。中盤の厚みができるということ=縦に間延びする可能性アリ、ですから。

【MF─4人中盤─ボックス─】
ボックス、簡単に言えば2ボランチを底に左右前方へサイドハーフ(SH)配置した極ふつうのフォーメーションです。
バイタルエリアにブロックを作りやすいので守りが安定する形なのですが、中盤中央部に広大なスペースが生まれてしまうので、そのケアに気を配る必要があります。
フラット4と比べてボランチ横が空いているので、SBが上がりやすい効果もあります。SBが上がった場合、CBとボランチが協力してフォローしやすいフォーメーションでもあります。

【FW─2トップ─横並び─】
2人の動きが重ならないようにします。その時その時の状況によって、いかようにも組合せを変更できる柔軟な形です。

【FW─2トップ─縦置き─】
組合せは固定的で、ターゲットマン役とその周囲をケアする衛星役で構成されます。
このコンビがピタリといっている場合、この2人だけで得点を狙うことができる強力な布陣です。ただ、なかなかこうしたコンビはそろわないのが難点です。

【MF─3人中盤─三角形─】
両サイドがスカスカ。サイドバックやウイングなどの上下動が非常に重要となります。サイドに強力な選手を持っていると、ワイドでダイナミックな攻撃が可能です。CBとブロックを形成できるので中央の守備は固くなります。

【3人中盤─逆三角形─】
守備の時はもちろんのこと、攻撃の時やポゼッションの時も、後ろで1人きりの守備的MFと2人のセンターバックがどれだけ連携できるかがポイントとなります。
この形も、両サイドは手薄になりがちなので注意が必要です。

【3人中盤─フラット3─】
MF全員に総合的な高い個人能力の求められるフォーメーションです。オランダ代表やFCバルセロナなんかが採用しています。育成の段階で、まだ選手個々の特性ができあがっていないときにも有効な形だと思います。
蛇足ですが、わたし的には、現在主流の4-4-2よりも、こちらを生かした4-3-3というフォーメーションの方が好きです。

【FW─3トップ】
私個人的には大好きなフォーメーションです。昔はこれしかなかったですもんね。
両ウイングとセンターフォワード←う~ん、すばらしい。ワクワクします。
ただ昨今は、センターフォワードらしいセンターフォワードが少ないので、なかなか採用しにくいというのも分からないではないです。
でも、私個人的には、また人気を取り戻して欲しいシステムなのです。
何度でも書きますが、わたし的には、現在主流の4-4-2よりも、こちらを生かした4-3-3というフォーメーションの方が好きです。

【MF─5人中盤─M型─】
前に2人、後ろに3人の配置。中央には後方1人のMFだけなので、守備の面で穴ができやすいように思います。相手の攻撃に押し込まれた場合、両サイドのMFがDFラインに吸収されて5バックになりがちでもあります。
でもこちらが優勢な時は、前の2人のMFと両サイドの2人のMFがリンクして、中盤を完璧に支配できるというメリットもあります。

【MF─5人中盤─W型─】
後方の2人のMFとセンターバックで、バイタルエリアに強固なブロックを形成できます。また、前方3人のMFがプレッシングをしかけることに成功すれば、連続攻撃もしやすいです。ただそれが機能しない場合は、両サイドのスペースを突かれてしまう両刃の剣でもあります。

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日本の子供たちは頭が良いし、攻略本で前知識を仕込むビデオゲームにも慣れているので、この程度の極々基礎的なフォーメーションの説明くらいは、してあげてもいいように思います。その方が、自分で考えてサッカーをするようにもなるのではないでしょうか。
フォーメーションの話に関連して、各ポジションごとに求められる役割や能力についても書いてみたいとも思いましたが、それはまた別の機会にします。


あしなが育英会 遺児奨学金「あしながさん」 継続寄付

2011年8月27日土曜日

8月中旬の被災地状況─その2─ 岩手県宮古市市街~津軽石~重茂半島


宮古市市街地から、国道45号線沿いに南下し、津軽石から県道41号を東進し、太平洋と正対する重茂半島の重茂漁港を巡りました。





黒い津波が“ウェーブ”をするかのように堤防を乗りこえる映像が印象的だった宮古市役所のそばです。
建物は残っていても、使用はできないみたいです。
「解体可」の下に書かれた「バカヤロー」は、誰に向かっての「バカヤロー」なのか。


下の2枚は、宮古市魚菜市場に掲示してあった、タレントのみなさんのサインです。





宮古市から津軽石川沿いに山田町方向へ南下すると、左手に見えた野球場です。
照明に囲まれたスタジアムの中は、がれきの山で埋まっていました。


下の3枚は、重茂半島の重茂漁港です。
ここにたどり着くまでは、けっこうな山道を登り下りしなければなりませんでした。
山中の集落に被害は見られませんでしたが、厳しい状況におかれたであろうことは想像できました。
地盤の沈下がはっきりわかります。

海水面と港湾との高低差が、ほとんどなくなってしまっています。
これでは船への乗降は一苦労でしょう。

上物(うわもの)だけじゃなく、土台、基盤となる施設もダメージは深刻なようです。
基礎部分がずれたり割れたりしているのだとしたら、沈下分を盛るだけみたいな工法は使えないでしょう。
かといって掘り起こして、除去して、一から作り直し、をするのも難しそうです。

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がれきの処理と地盤沈下の影響、この2点は想像していた以上に深刻だとわかりました。
仮にあのがれきの半分程度が海中に沈み、あるいはただよっているのだとしたら、漁業への影響は長期にわたって続くことでしょう。
また、問題を地盤の沈下だけに絞れたとしても、港の再可動はそう簡単なことではありません。
台風や高潮の際にどうなるかを考えると頭が痛くなってきます。たとえば、船をどうやって繋留(けいりゅう)すれば良いのでしょうか? 現状では、まるでサイドブレーキのない車を斜面に停めるようなものなのですから。


今後、食物連鎖によって大型魚に海洋汚染の影響が出てくることは100%確実です。
それが実際に健康へ影響あるかどうかは別にして、検査の結果何かしら数値がでれば、国は出荷制限せざるを得ないでしょう。
「漁業については補償すればいい」というものではなく、実際に漁業関連の産業サイクルが回らないと、遠からず三陸の地場経済は死滅してしまいます。アウトです。ゲームセットです。厳しいです。

沈下した港湾については、拠点港に集約する。
放射性物質による海産物汚染については、その影響と対策に関する研究を国家の最優先政策として遂行する。
まずはそこからでしょうか。

消費者が口にしなければ、何をどうやろうが、食品産業は成り立たないのですから。
そうした視点に立つと、漁業関係者の生活をどうするのかという問題と、三陸の漁業をどうするのかという問題は、似ているようでいて実はまったく別な問題なのだということがわかってきます。

海洋食物連鎖の頂点にいるクジラへの影響は、どのくらいのもんになるのでしょうね。
健康への影響は別にしても、シーシェパードとかオージーの方々は、大騒ぎするのでしょうね。
鬼の首を取ったみたいに。


重茂漁港への山道の終点付近に建立されていた石碑です。
「昭和8年3月3日」という日付が刻まれていました。


【参照】
震災前の宮古市

あしなが育英会 東日本大震災 津波遺児 単発寄付

2011年8月25日木曜日

8月中旬の被災地状況─その1─ 岩手県宮古市田老地区

今月(2011年8月)中旬に岩手県の三陸沿岸を訪れました。

岩手県宮古市田老地区
宮古市田老地区です。たろう観光ホテル(写真)の3階部分までは強い波の影響を受けたであろう事が推察できます。

この写真のちょうど中央奧、山際の四角い建物がたろう観光ホテルだと思われます。

現地で感じたのは、この道路設計では緊急時にはつまってしまうだろうな、ということでした。

海から山方向へまっすぐ伸びる数本のやや幅広道を幹に、側溝のある片側1車線の狭い道が碁盤の目状に交差していました。

この道を、歩行者、自転車、自動車が混在している状態で、迅速に避難できたとは思えません。



直角の十字交差点では確実に渋滞しますし、限られた目的地へ向かうに連れてどんどん集約され加速度的に急増していったであろう交通量を処理できたとも思えません。まして避難先へたどり着くにはまがりくねった急斜道をのぼらなければなりませんし、避難所には広い駐車場があって有能な誘導係も配置されていた、とも到底思えません。

そもそも碁盤の目状の街路というのは、街を無駄なく細分化しやすくするための手段であって、交通を潤滑にするためのものではありません。もしも街の道路配置が放射(クモの巣)状に広がって行くような、交通の流れを意識した設計であったなら、渋滞につかまっている間に津波へ呑み込まれてしまうような事例は確実に少なかったでしょう。

同様に強大な防潮堤というものも、こと迅速な避難という面を考えるならはなはだ疑問です。
巨大な防潮堤があったがために、津波への意識や、避難の経験やノウハウの蓄積が貧弱化していったことが容易に想像されるからです。

ただ、これも後知恵感は否めません。
今回の津波が来なかったならば、碁盤の目状の歩道のない街路構造や巨大な防潮堤というものは、不動産の合理的な活用という点では理にかなったものでした。公共工事による地域への資金投下という効果も、若干はあったでしょうし。過疎化高齢化の進む地場経済を活性化したいと願えば、便の良い堤防の海側へ建物を建設することも禁止はできなかったであろうことも理解できます。合法である認可申請を制限できる権限を、当時の行政が持っていたとも思えません。住民の合意も得られなかったでしょう。

しかしそれでも考えてしまったのです。
一方では巨大津波が来ると言って、巨大な堤防を造り、
もう一方では、まるで巨大津波のことなど考えていないかのような街作りをしている。

今も残る田老の巨大防潮堤は、住民にとっての「願望」だったのではないか、と。
いつかまた巨大津波が来るだろうことはわかってはいても、もう二度と来ないで欲しいという願い。
考えなければまるでその問題が存在しないかのような心理。
そうした願望が、巨大堤防という実体を得ることによって、『事実化』させられた。
そうした田老地区住民の心の象徴が、あの巨大堤防だったように私には思えたのです。

あしなが育英会 東日本大震災 津波遺児 単発寄付


2011年8月24日水曜日

それでも子供たちは成長している。



2011年 平成23年 8月24日(水)
朝日新聞 教育
いま子供たちは №121 被災地で考えた1

もったいなかった 今まで
エド・13歳


真っ青な夏空に、ペットボトルのロケットが水しぶきを上げて飛んでいく。

「やったー!」。
他の子のよりも遠くまで飛んだ自分のロケットを追って、川上エドオジョン智慧(ちえ)君(13歳)が駆け出した。

宮城県南三陸町のキャンプ場で7月、十数人の小中学生が一緒に遊んでいた。
東京からこの日バスで来た川上君たち10人と、地元の被災した子たち。
子どもが被災地を見て学ぶNPO主催のツアー「がれきの学校」のひとこまだ。

初め硬かった子どもたちの中で、みんなが「エド」と呼ぶ川上君は一番よく笑い、跳ねていた。
芝の斜面を段ボールのそりで滑り降りたり、チーム対抗リレーを始めたり。
地元の子たちは、自然と彼の周りに寄ってくる。
「どこに住んでんの?」「部活何してんの?」。
別れ際には「メアド交換しよう」。

本当は緊張していた、とエドが後で教えてくれた。
「話しかけてもらえないと思ってた」。
自分が住む埼玉県には、震災後も普通の生活がある。
大事な物を失った人たちには腹立たしく映るのではないか、と。

東京への帰り道。
「もったいなかったな」
エドがつぶやいた。
津波で流された物やお金のことではない。
自分のことだと言う。
彼はツアーで見た廃墟の小学校と、出会った子どもたちを思い出していた。
「小学校の時、俺、悪かったんすよ。授業に出なかったり。学校に行きたくても行けない子もいるのに。ちゃんとやればよかった」。
まだ声変わり途中の少しかすれた声で言った。

つい半年前、小学生だった彼は学年で十数人の「やんちゃな男子」のリーダーだった。
授業中に校内をうろつき、空き教室でほうきをバットにして野球に興じる。
自由が楽しかった。

震災にも興味はなかった。
繰り返し流れる津波や廃墟の映像に「もういいよ。分かったって」とうんざりしていた。

その彼がこのツアーに加わったのは、いま通っている中学の岩崎正芳先生(54)がきっかけだ。
5月に学年集会で、先生が岩手県へボランティアに行った話を聞いて、「連れて行ってください」と頼んだ。
「前にも先生に『人の役に立て』って言われてて。俺にも何かできるかなって」

実は中学に入るころから、そろそろリセットしたいとひそかに思っていた。
でも「問題児」との評判は中学校にも届いている。
どうせ先生には煙たがられるのだろうと思っていた。

でも岩崎先生は意外な言葉をかけてくれた。
「お前は面白いやつだ。いいものを持ってる」。
先生は「小学校の話は聞いていたが、会ってみると行動力があって、筋を通す魅力的な子。それを素直に伝えた」と話す。
エドはそれから「やっぱり変わろう」と思いを強くしたという。
「まだ間に合うのかなって」。
先生のボランティアの話を聞いたのは、そんな時だった。

8月中旬、記者はエドを訪ねた。
「もったいなかった」と悔いて、彼の日常は変わったのだろうか。

「変わりました!」。
彼は即答した。
所属するサッカークラブで自主練習を提案するようになった。
相手にボールを奪われても全力で走って戻る。
きつい時でも手を抜かない。

「被災地の子たちは良い環境にいないのに、俺らに普通に関わってくれた。それがありがたくて。だから自分が今やれることは一生懸命やろうって」。
その日も自主練習の帰りだった。
「それも『俺よくやった』って感じです」。
少し得意げに鼻をふくらませた。

「人の役に立つ」も実践中だ。
電車で高齢者に席を譲る。
きちんとあいさつし、礼儀を守る。
大人にはささやかなことのようでも今の彼には大きな一歩だ。

「人の役に立つとなんか達成感がある。今、生活の充実感がすごくあって。充実させていくのが楽しい」

あのとき南三陸で会った子たちとは、今もメールや電話でつながっている。

(原田朱美)

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エド君へ

君は良い先生と出会ったことで、自分が変わったと思っているのかもしれない。

でもそれは違うんだ。


以前の君なら、先生の体験談を聞いても、

「もういいよ。分かったって」とうんざりしていただけだっただろう。

でも、そうじゃなかった。


すでに君は変わっていたんだ。


【参照】
成長しつつあるエド君
エド君の所属チーム
エド君の旅立ちへ
2010ナショトレU12関東

あしなが育英会 遺児奨学金「あしながさん」 継続寄付