2011年8月25日木曜日

8月中旬の被災地状況─その1─ 岩手県宮古市田老地区

今月(2011年8月)中旬に岩手県の三陸沿岸を訪れました。

岩手県宮古市田老地区
宮古市田老地区です。たろう観光ホテル(写真)の3階部分までは強い波の影響を受けたであろう事が推察できます。

この写真のちょうど中央奧、山際の四角い建物がたろう観光ホテルだと思われます。

現地で感じたのは、この道路設計では緊急時にはつまってしまうだろうな、ということでした。

海から山方向へまっすぐ伸びる数本のやや幅広道を幹に、側溝のある片側1車線の狭い道が碁盤の目状に交差していました。

この道を、歩行者、自転車、自動車が混在している状態で、迅速に避難できたとは思えません。



直角の十字交差点では確実に渋滞しますし、限られた目的地へ向かうに連れてどんどん集約され加速度的に急増していったであろう交通量を処理できたとも思えません。まして避難先へたどり着くにはまがりくねった急斜道をのぼらなければなりませんし、避難所には広い駐車場があって有能な誘導係も配置されていた、とも到底思えません。

そもそも碁盤の目状の街路というのは、街を無駄なく細分化しやすくするための手段であって、交通を潤滑にするためのものではありません。もしも街の道路配置が放射(クモの巣)状に広がって行くような、交通の流れを意識した設計であったなら、渋滞につかまっている間に津波へ呑み込まれてしまうような事例は確実に少なかったでしょう。

同様に強大な防潮堤というものも、こと迅速な避難という面を考えるならはなはだ疑問です。
巨大な防潮堤があったがために、津波への意識や、避難の経験やノウハウの蓄積が貧弱化していったことが容易に想像されるからです。

ただ、これも後知恵感は否めません。
今回の津波が来なかったならば、碁盤の目状の歩道のない街路構造や巨大な防潮堤というものは、不動産の合理的な活用という点では理にかなったものでした。公共工事による地域への資金投下という効果も、若干はあったでしょうし。過疎化高齢化の進む地場経済を活性化したいと願えば、便の良い堤防の海側へ建物を建設することも禁止はできなかったであろうことも理解できます。合法である認可申請を制限できる権限を、当時の行政が持っていたとも思えません。住民の合意も得られなかったでしょう。

しかしそれでも考えてしまったのです。
一方では巨大津波が来ると言って、巨大な堤防を造り、
もう一方では、まるで巨大津波のことなど考えていないかのような街作りをしている。

今も残る田老の巨大防潮堤は、住民にとっての「願望」だったのではないか、と。
いつかまた巨大津波が来るだろうことはわかってはいても、もう二度と来ないで欲しいという願い。
考えなければまるでその問題が存在しないかのような心理。
そうした願望が、巨大堤防という実体を得ることによって、『事実化』させられた。
そうした田老地区住民の心の象徴が、あの巨大堤防だったように私には思えたのです。

あしなが育英会 東日本大震災 津波遺児 単発寄付


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