2011年8月30日火曜日

8月中旬の被災地状況─その4─ 岩手県大槌町


大槌町の役場正面です。
献花台が設置してありました。
時計の針は「3時16分」を指しています。



町役場の隣のビル。日本生命の支所が入っていたらしいです。
時計の針は「2時49分」を指しています。


車の残骸。
この写真とは関係ないのですが、ここへ向かう道中に「ポッキリ車あります」という手書き看板があり、私はてっきり『ニコイチ(事故車などを複数台組み合わせて作り上げられた完成車)』のことなのかなあ、などと勝手に解釈していたら大間違いで、「ポッキリ車」っていうのは、税・諸費用抜きで「この価格ポッキリで販売します」ってことの業界用語らしいことを知りました。


がれきの山です。
木材、その他、タイヤ、と一応分別してはありました。
大変な労力であったろうと、頭が下がります。
そしてこの全てが、元は人々の家であり、職場であり、歴史のある街であったことに圧倒されました。
がれきが片づけられた、かつて街のあった場所には、もうなんの痕跡もありません。
そこを歩いているとき、私は方角や今さっき自分が移動したはずの距離さえつかめない感覚に陥りました。
見えているところまで、どれくらいあるのかがわからないのです。
来た方角へ戻ることができないのです。
目印が一切ないのです。砂漠でもないというのに。
通常の火災や地震、あるいは戦災とまったく違う災害なんだという現実を目の当たりにした思いがしました。


橋に設置されていた、へし曲げられた街路灯です。
一度に折れ曲がったのではなく、少なくとも3方向からの強い力を受けたことがわかります。
現在の川の水位と、痕跡に残る津波の水位との差が、怖いです。
いろいろなものが流され、この橋げたにひっかかったのでしょうね。


折れ曲がった街灯のあった橋の水門です。
右側の、砂だらけの道に見えるのが橋です。
欄干(らんかん)が変形しています。
はたして水門のどのあたりまでが水没したのでしょうか。



基礎のみとなった住居跡に飾られていた盆棚です。
ここにはほんの5カ月前まで、わたしと同じ市井に暮らすふつう人々のふつうの生活と家族の歴史があったのだ、確かにあったのだ、と胸に迫ってきました。
雨が降ったわけでもないのに、あちらこちらに水たまりや湿った地面があるのが気になしました。


いつまでも引かない水。
堤防の奧に見えるのは、がれきの山です。


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山田町と異なり、ここ大槌町は非常に奥行きのある地形となっています。
さらに2本の大きな河川によって、街が分断されていることも、避難の足を引っぱったのではないでしょうか。
構造的には、山に囲まれた河口の中洲上に街ができているも同然なので、海からのものに限らず、水害全般に対して脆弱であったのではないかと思われます。
役場のある中心地から避難するにしても、もっとも近い高台へ向かうには、海岸線や河川から遠ざかるのとは逆の方向へ進まなければならないので、心理的にも、また時間的にも、リスクはかなり高かったでしょう。

また、震災後消防団の一員として捜索をされた方にうかがったところ、予想外に危険だったのが“くみ取り式トイレ”だったそうです。
がれきや泥に隠れている上に、深さは2メートル以上あるし、中は汚物まじりの海水で満杯になっている。さらに厄介なのが、穴の直径が30~45センチ前後だということ。そこへ落ちると、まあ全身すっぽり落ち込むということはめったにないんですけど(全身が落ちたら、おそらく死ぬだろうとのこと)、腰まで落ちただけでもすぐ周りのがれきに覆い尽くされそうになるし、地力で這い上がるのは難しいし、さらにひどい汚れと臭いでその後はどうしようもなくなってしまうのだそうです。洗い流そうにも水道は使えないし──。

時間が経ったからそんな話もしてくれたのでしょう。
現実は例えようもないほどに深刻なのですが、深刻に考えているばかりでは、事態は前に進みません。
頭ではわかってはいるのですが……、一年前のお盆には、間違いなくたくさんの帰省客とそれを迎える家人でにぎやかだったであろう通りの真ん中に、ただ私は立ちつくすばかりでした。


街の中心部です。
白い建物屋上の塔には、まだ何かが引っかかったままになっています。


【参照】
震災前の大槌町

あしなが育英会 遺児奨学金「あしながさん」 継続寄付

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