2010年4月20日火曜日

功利主義と少年サッカー

功利主義と少年サッカー


功利主義というのは、

「最大多数の最大幸福」(功利性の原理)

の追求こそが正義であるって考え方。民主主義の基礎となっている、いわば近代合理主義の錦の御旗。水戸黄門の印籠。

スポーツ競技だと「最大多数の最大幸福」は、

勝つこと、

だったり、

優勝すること、

だったりする。

この目的のために、『試合に出る選手はいつも同じ』という少年サッカーチームも多いのではないだろうか。
全日本少年サッカー大会のために、地域の少年団から選手を引き抜いてスペシャル選抜を作ったり、身長の足りない相手GKめがけて(少年選手の育成を考慮せず)キック&ラッシュばかり仕掛けるのは、まさに「功利主義的に正しい」といえる。


功利主義への批判は、

・ぼくはいつも損してる(試合に出られない)。=幸福配分の不平等性



・最大幸福ってのは量なの(ほこりをかぶったトロフィーの山)?=絶対基準の喪失

の二点に集約される。



つまり!

ぼく(あるいはうちのおぼっちゃん)はガマンしてるのに、楽しんでるのはほかの子ばっかり。

=個人の利己主義はガマンさせるくせに、集団の利己主義は野放し。

何人ものOBが卒団するとサッカーやめちゃって、池袋でたむろってるらしいわよ。

=最大幸福であったはずのものが、一時的な快楽にすぎない可能性。

という陰口!


これに対しては、
「満足した豚であるよりは、満足しない人間である方がよい。満足した愚か者であるよりは、満足しないソクラテスである方がよい。」
ってなことを言った人がいる。(J.S.ミル)

「ドイツサッカーで優勝するよりも、オランダサッカーで準優勝の方がよい。満足したマドリニスタであるよりは、満足しないバルサニスタである方がよい」

といったところだろうか。


【まとめ】

・功利主義と利己主義とのちがいは、自分一人の幸福(快楽)だけではなく、すべての人たちの幸福を目ざすかどうかにある。

・すべては、動機(めざせ優勝、あるいはセクシー・フットボール)じゃなく、それがもたらす結果(勝敗)によって、価値が決まる。

・多数(レギュラー)の利益のためには少数(補欠)の犠牲はやむをえず、どんなことでも少数よりも多数を優先すべき。

・自分の幸福(シュートチャンス)と他人の幸福(よりフリーなシュートチャンスからの得点)とが衝突することも、ままある。

・一部の者を不幸にすることが、社会(チーム)全体の利益のために正当化される危険性がある。

・「最大多数の最大幸福」は、多くの幸福をうみだすはずという原理と、広くそれを分配するという原理の二原理からなるが、たいてい両者は矛盾する。たとえば練習時間を配分するとき、100人の選手に公平に少しずつ分配するより、少数の主力選手に多くを割りあてた方が成果は大きく、全体の幸福も増加する。

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