2010年4月23日金曜日

ソシュールの言語学と少年サッカー 3

その理由は、この「ラング」なるものが、実はまったく「具体的」ではないからなのだ。
「ランガージュが顕在化したもの」という意味ではたしかに「表現されるもの」なのだが、それでもラングそのものは直接目で見えたりする、「具体的にこれだ」という特性を持たない、非常に抽象的なものなのだ。「感覚」と言ってもいい。
これに対して、目で見えたりするのは、「個々人がけるボールの正確性」であったり、「個々人がトラップできる状況」だったりする。この、技術の具体的な「あらわれ」を「パロール」という。

プレーは、サッカーにおけるコミュニケーションの道具として、自分と他者とで共有された約束事という側面を持つ。サッカーにルールやスタイルがあるからこそ、自他のコミュニケーションは成り立つ。
ラングとはすなわち、このような「規則」のことなのだ。「サッカー文化」というイメージでも説明できる。
要するにそれは、あるサッカー体系の中にプレーする選手たちの、心の中にある「目に見えないシナリオ」のようなものなのだ。
サッカーをしているときのボールを用いたコミュニケーション(パロール)は、このラングという「シナリオ」にのっとっておこなわれまる。のっとっていなければ、互いに通じないわけなのだから。

「ラング」と「パロール」のあいだにも、「ランガージュ」と「ラング」のあいだに見られたような相互依存関係がある。

ラングは、見えない抽象的なイメージ体系として選手たちの心の中にあるが、上で書いたように「後天的なもの」「外から与えられたもの」である。これを個々の選手に与えるものこそ、パロールなのだ。

ランガージュを持つ選手は、ある一つのラングを環境に持ってはじめて、そのような環境を得てはじめて、その個人のプレー能力を発揮するようになる。だが、ラングは直接選手の中にうめこまれるわけではない。日々のプレーのやりとり、つまりパロールの交換を通じて、少しずつ選手の中に形成されるのだ。

ある一つの具体的なプレー(パロール)は、ラングに規制されて行われる。
しかし同時に、ラングに基づいてプレーすることは、その規則(シナリオ)を追認しつつ実践する形で、ラングを反復強化していくことでもある。
つまり、ラングはパロールを規制しつつも、パロールによって維持・強化されてもいるのだ。
まずこの点において、ラングとパロールは相互依存的だといえる。
さらにラングは、プレーヤーひとりだけを規制するにとどまるものではない。
プレーに影響される周囲の選手にも、その同じ規則が要求されているのだ。
少なくとも意味の通じるプレーで他者に反応をもとめることは、他者にラングに即したプレー体験を強要することにもなる。
パロールを通じて、ラングは自己から他者へと再生産され、共有されていく。
共同体のサッカースタイルという、ラングなるものの定義そのままの方向に向けて。
この点においても、ラングとパロールは相互依存的だといえる。

ただし見逃してはならないのは、「パロールだけが具体的な行為である」という点だ。

ラングというのは、この具体的な行為によって維持され、再生産される。その点から言うと、パロールはラングに奉仕する実践だとも言える。
しかし、ラングの維持・再生産に奉仕するのとは逆の特質もパロールは持つ。
それは「ラングを変更し、刷新することも可能な実践である」ということだ。
抽象的なものでしかないラングは、自分自身を刷新する力を持たない。これを刷新することができるのは、パロールだけなのだ。

時代を追うごとにサッカーが変化していることは論をまたない。
仮にラングを絶対的で固定的なものと考えると、それは選手のプレーを完全に規制するので、そこから新しいプレーは生まれず、変化は起こり得ない。だが、現にサッカーが「歴史」を持つということこそ、逆に、ラングがなんら絶対的でも固定的でもない証拠なのだ。
その変化の源こそが、「パロール」という具体的プレー行為による「ラング」への侵犯であり、従来の「ラング」を破壊し、そこから外へ踏み出す「逸脱」になるのだ。
一見それは、わがままな独りよがりのプレーに見えるかもしれない。
それは、ラングの側から見れば「反乱」にも見える。しかしそれがあるからこそ、ラングという技術体系、戦術は、連続性を保ちつつ、生きた現実に対応することもできてきた。この点からも、ラングとパロールは相互依存的と言えるのだ。

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