竜王戦第4局、羽生名人が勝利…2勝2敗に
読売新聞 11月26日(金)19時20分配信
将棋界の最高位を争う第23期竜王戦(読売新聞社主催)、渡辺明竜王(26)と挑戦者・羽生善治名人(40)の七番勝負第4局が25日から兵庫県加古川市の鶴林寺で行われていたが、26日午後7時11分、羽生が139手で勝ち、対戦成績を2勝2敗のタイにした。
角換わり相腰掛け銀に進んだ本局。2日目は羽生の攻め、渡辺の受けという展開が続いた。
終盤、羽生の攻めが細くなり、優位に立った渡辺が△6九銀から寄せに行ったのが疑問だった。羽生が▲4四角から巧みに反撃、際どく競り勝った。投了図から△6三玉と逃げても▲5三金で後手玉は詰む。
第5局は12月1、2日に石川県加賀市の「あらや滔々庵(とうとうあん)」で行われる。
羽生名人の話「ずっと自信がなかったが、最後に▲6四金と打って上部を厚くして勝ちを意識した」
渡辺竜王の話「持ち駒が増えたので寄せに行ったが、もう少し粘り強く指すべきだった」
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2010年11月25・26日 第23期竜王戦 七番勝負第4局
↑これは、盤上の様子をテレビゲームみたいに再現できるサイトなのだが、ここで96手目あたりから見ても十二分に面白い。
この時点で解説陣は皆、後手の渡辺竜王が優勢だと判断している。
だが実際の結果は、羽生挑戦者の勝ちだったので、このあとのどこかで逆転したことになる。
劣勢の羽生側に立って、どうやって戦いを続けるかを考える。
一発での逆転の道はあるのか。あるいはイーブンへと徐々に押し返す手段はあるのか。
また、勝勢だった後手渡辺の側に立って、いったいどこで流れが変わってしまったのかを考える。
そうしてるだけで、本当に楽しい。
おわり
2010年11月27日土曜日
2010年11月10日水曜日
劣勢のときこそサッカーは楽しい。
先日の少年団大会県大会@熊谷スポーツ文化公園で、今シーズン私が注目してきたチームが1回戦で敗退した。
そのチーム名を具体的に申し上げることはやめておこう。いつの日か、何かの拍子で、そのチームの関係者が自分たちのチーム名で検索をかけて、このページを目にしてしまうことがあるかもしれないから。
だからここではそのチーム名を、仮にAGミランとしておくことにする。この仮名を選んだことに特別な意図はない。先日未明のUEFAチャンピオンズリーグ特番にそのチームが出て来たからだ。それだけだ。
そして少年団大会@熊谷で、このAGミランから勝利をあげた対戦相手を、便宜上ギャランズ(仮名)とした。
試合の面白さが一段と増したのは、ギャランズが先制した前半10分以降だ。
それまではAGミランの一方的なボール支配率と連続攻撃で、AGミラン応援団は盛り上がっただろうが、さあこれから試合を楽しむぞとワクワクしていた私のようなものにとっては、隣のさつきFC(仮名)対グンゼYG(仮名)の方へ移ろうかなと思わされるような出だしだった(シュート練習を見せられてもつまらないってこと)。
さてさて、ギャランズがAGミランの猛攻をしのいだ後のカウンター一発で先制ました、それからのお話。
AGミラン側は、はっきりわかるくらいに動揺していた。プランが崩れたんだろうね。
はたから見れば、どっちにしろ1点は取らなきゃならないんだから、状況は何にも変わってないと思うのだが、AGミランの方はなぜか、早く追いつかないと負けるぞ空気に包まれて、追い立てられるようにプレスをかけはじめた。
技術的にも実力的にも、AGミランの方がずっと上であることは誰の目にもあきらかなのだから、激しくプレスを受けたギャランズの選手たちは、自分たちのゴール前にほぼ全員が釘付けされるような状態となった。まあ、そうなるのがふつうだろう。
そしてギャランズは、できるだけ遠くへクリアすることと、AGミランの中心選手である7番と16番をがっちりマークすることに集中し始めた(実際のところはそれしかできなくなってしまったというのが事実で、ギャランズベンチからの指示もそれ一辺倒だった)。
ではAGミランの選手たちはそれでどうしたのかというと、なぜか、その密集しているところへパスを通すことだけしか頭になくなってしまったような、まるでこれがそういうゲームか練習であるかのような、そんなプレー選択しかしなくなった。
相手がいないのだから、AGミランは中盤より後ろでは楽にボールを持てる。そこで狙いに狙いをつけて、前方の密集地からの、ガチガチにマークにつかれているエースからのパスを呼ぶ声目がけて、せっかくのマイボールを放り込むのだ。
テレフォンパスどころの話じゃない。レッドカーペットパスかっていうくらいのバレバレ度合いだ。
はたしてAGミランの選手たちは、その狙い通りに、密集した敵に囲まれた味方の利き足ピッタリにボールを落とすことができるほどのコントロールを身につけているのだろうか?
当然、身につけてはいない。
蹴られたボールは、ポーンと飛んでいって、あるいはゴロゴロと転がっていって、相手にカット(プレゼントとも言う)されてしまう。毎回毎回。
ギャランズにしてみれば、攻められ続けているようでいて、モチベーションとしては「守れるぞ」という自信に後押しされるような、気合いのはいる状況だったことだろう。「うおーらっ! 跳ね返せ! 跳ね返せ!」で、相手のエースをがっちり抑えきっている訳だから。このまま耐えれば勝てる、そういう気持ちがどんどん燃え上がってきているのも伝わってきた。
AGミラン側からは、自分たちのプレーをしていればいずれ点は取れるさ、と自分たちを落ち着けようとしているのが伝わってきた。
セットプレーでもいろいろなパターンを持っているようで、コーナーキックなどは毎回違うやり方を見せていた。
でもちょっと待って欲しい。
そして、君たちのそれは、自分たちのことしか考えていない、独りよがりなプレーになってしまっていたのだよ、と気づいて欲しい。
思い返してごらん。
コーナーキックで相手ゴール前に並んだとき、頭ひとつ以上のギャップがあったミスマッチ箇所があったじゃないか。そこを狙ってボールを蹴っていれば、まあ2回に1回は決定的なチャンスになっていただろう、と私は思う。決定的なストロングポイントがある時は、そこを徹底的に突く。これが最もシンプルで最も効率の高い攻撃であるのは、太古の昔からの真理だ。
またシュート体勢に入ったときに余裕があるあまり、グラウンダーのシュートでコースを狙いすぎたのも、相手の守備を盛り上げる要因となってしまった。
あのかたい芝質だと、転がしたボールのスピードは、芝の抵抗で急速に減じていく。
いつもなら間に合わないシュートであっても、最後まであきらめないで足を出せば(GKなら手)、ゴールラインギリギリでクリアできるのだ。そのギリギリのクリアが何本か連続すると、そりゃあディフェンス陣は盛り上がる。今日の俺たちには「キテいる」と、アドレナリンがガンガン出ていたことだろう。
あのような状況で攻撃するときは、ドリブルとショートパスとダイレクトでかき回しながら行きつ戻りつゆっくりじっくりと、というのがセオリーだ。相手が多くてスペースのない場所へロングボールを放り込むなんてのは愚の骨頂。ピタリと止めなきゃならない味方は、どこでもいいから蹴り返せばOKの相手に対して圧倒的に不利な上に、数でも負けているのだから、パスなんて通るわけがない。
密集しているときのシュートは、相手に当たってイレギュラーする率が高いんだから思いっきり強く。また、コースを狙おうとしても密集していてすぐつめられるんだから、タイミング重視で強引に打つ。これが鉄則。
そして芝がかたいんだから、転がさずに浮かせる。芝がかたいということは、ボールが地面から浮いているってことだから、浮き球はいつもより蹴りやすいはずだ。
引き籠もってガチガチに守ってる相手にはあえてプレッシャーをかけないで、ボールを持たせて、攻め上がらせて、最終ラインを前に引き出す。そしてセンターサークルあたりでのパスミスを狙って、パスカットできたらそこからはいつもの自分たちのサッカーを展開。今度はスペースがあるんだから、前よりもずっとやりやすい状況でプレーができる。
──と、他にももっといろいろあるのだが、そういうことを書きたかった訳ではなくて、なぜ負けているときの方が面白いのか、楽しいのか、ということを書きたいので、そちらへと話を戻す。
上に書いたようなことは、試合中にベンチから指示されるようなことではない。
こういう類(たぐい)のことは、試合中に、選手個人個人が自分で状況を分析して、判断するレベルの、極々基本的なことだということを、まず言いたい。
なぜならこれに似たようなことを、子供たちは遊びの中ではいつもやっているからだ。
雨上がりのぬかるんだ場所で鬼ごっこをしたら、ちゃんとぬかるみで自分は有利、鬼は不利になるような逃げ方をする。
ドッチボールで誰を狙うか、どこを狙うか、どういう順番でボールを回すか、風向きは、クセは、そういったことをちゃんと計算する。
ポートボール(リングの代わりを人間がやる、バスケットボールに似た競技)のゴールマンの身長が高いときは、ギリギリ手が届くくらいの高さに投げるし、ジャンプボールではフェイントをかけたりする。
ビデオゲームで遊ぶときだって、攻略本や前にやったときの記憶や友だちから聞いた情報など元に、戦略を研究する。
お小遣いをもらいたいときは、ちょうだいちょうだいとねだる前に、自分からお手伝いや宿題をやっていい子アピールしておく。
それと同じことを、サッカーでもやってくれってことが言いたいのだ。
そしてそれが見えたとき、私は「面白い」「楽しい」と感じる。
「お、あのガキ(あるいはガキども)、やるな」なんて思わせて欲しいのだ。
僕達はコーチに命じられるまま、このプレーを訓練してきました、なんていうプレーは、「お見事」とは思うけど俺には面白くない。俺がわざわざピッチまで足を運ぶのは、あるいは人生の無駄な時間をサッカーに費やすのは、台本通りの演技を見るためじゃない。そんなもん、俺は見たくない。
今、将棋の竜王戦(りゅうおうせん)というのをやっている。
今日、その第3局が始まった。
将棋というゲームにプロが存在していられるのは、そこに勝敗以上の付加価値があるからだ。
そしてその付加価値とは、「心」にあると私は確信している。
「心」とは「心理状態の揺らぎ」そのものである。「心」は決して「考え」や「信念」ではない。その「考え」や「信念」がどう揺らぐかが「心」なのだ。
今期竜王戦は、ここまで羽生(はぶ)名人の2連敗で来ている。
そして面白いのは、渡辺明(わたなべあきら)若き永世竜王のジンクスだ。これがいかにもアヤシイ。
局面が苦しくなるとトイレに立ち、しばらくして戻ってくると、自信満々に会心の一手を指すのだ。これについてはもうずっと、トイレに籠もってパソコンをいじってるんだ、とか、携帯でアドバイスを受けているんだ、とか言われて来た。だがこれも結局のとこ、そのパソコンソフトなり、アドバイザーなりが、羽生名人よりも強くないと意味がないじゃないかということで、噂は噂のままになっている。でもしかし、この、苦しくなると席を立ち、戻ってきたら逆転の一手、というパターンはそのまま今日まで続いている。おそらく渡辺竜王は、こうした噂までをも、心理戦の武器として利用しているのだと私は理解している。そして対局相手もそれをわかっている。わかってはいるのだけれど、考えるな考えるな、盤面に集中しろ、とすればするほど、集中が乱されてしまっているのが考慮時間からもなんとなく読み取れる(特に昨年(2009)の22期森内戦はわかりやすかった)。将棋の超一流クラスであってもそうなのだ。だから将棋は、プロが成立している。いくら強くても、コンピュータソフト同士の対決では、プロ制度は維持できない。しかし、プロ対コンピュータなら、興行は成立するのだ。そこに「心」が介在するからだ。
私は同じことをサッカーにも求めている。
それは少年サッカーであっても同じことだ。
あらゆるサッカーのトレーニングは、この「心」に経験を積ませる、引き出しを増やす、ひらめくノウハウを身につけさせる、ために成されるものだと確信している。
どんなにいい、効果的だとされている練習プログラムであっても、それをやる選手の心が閉じてしまっていてはまったく意味がない。ロボットのように凍りついてしまっていては、ただバーベルを上げ下げしているのと何も変わらない。
シュート練習でも、ミニゲームでも、練習試合でも、それらはすべて「心」を楽しくするためにやっているのだ。
極論すれば、サッカーにおける目標は、FIFAワールドカップの準決勝・決勝とUEFAチャンピオンズリーグの決勝戦のみだとも言える(もちろんここで言っているのは、選手としてピッチに立つとかそういう狭いことではない)。これら以外のすべては、この目標へ至るための準備なのだ、とそうとらえると毎日の練習や、埼玉県内での公式戦への向き合い方も変わってくるのではないだろうか。
今年の全日本少年サッカー大会で優勝したバディーSCにしても、まさかこれで「サッカー人生はいゴールです」とは考えていないはずだ。
神様のいたずらで、ある日ふと目覚めたら、10番背負ってワールドカップの決勝戦のピッチに立っていた、としよう。
そのときに、パニクって、泣き出して、逃げ出してしまうか、理由はわからなくてもその状況にいるのだからそこで自分にできる最善を尽くそう、この状況を最大限に楽しもう、と即集中するかは、すべて「心」が決定する。
自分の心は、自分の中にしかない。
洗脳やマインドコントロールという技術にしても、それらは心を直接コントロールすることはできない。
心は自分の外へ出て行くことはできないし、自分の外から誰も触れることはできない。
いや、自分でさえ、自分の心に触れることはできない。
心とは、自分の中にいる、もうひとりの自分なのだ。
(精神分裂病とか統合失調症とか多重人格とか、そういうことじゃなくて、哲学的な意味で。わかりやすい例をあげれば、自分の心を認識しようとしたとき、その認識しようとしている自分は心を認識できるのか、また逆に自分の心は、心を認識しようとしている自分を認識できるのかってこと)
22人(+ベンチやレフェリー、そしてサポーター)の心が、ひとつのボールをめぐって揺れ動く。
それがサッカーの持つ魅力であり、楽しさだろうと私は確信している。
だからこそ、サッカーは負けている時の方が面白いし楽しいのだ、と私は断言できるのだ。
おわり
そのチーム名を具体的に申し上げることはやめておこう。いつの日か、何かの拍子で、そのチームの関係者が自分たちのチーム名で検索をかけて、このページを目にしてしまうことがあるかもしれないから。
だからここではそのチーム名を、仮にAGミランとしておくことにする。この仮名を選んだことに特別な意図はない。先日未明のUEFAチャンピオンズリーグ特番にそのチームが出て来たからだ。それだけだ。
そして少年団大会@熊谷で、このAGミランから勝利をあげた対戦相手を、便宜上ギャランズ(仮名)とした。
試合の面白さが一段と増したのは、ギャランズが先制した前半10分以降だ。
それまではAGミランの一方的なボール支配率と連続攻撃で、AGミラン応援団は盛り上がっただろうが、さあこれから試合を楽しむぞとワクワクしていた私のようなものにとっては、隣のさつきFC(仮名)対グンゼYG(仮名)の方へ移ろうかなと思わされるような出だしだった(シュート練習を見せられてもつまらないってこと)。
さてさて、ギャランズがAGミランの猛攻をしのいだ後のカウンター一発で先制ました、それからのお話。
AGミラン側は、はっきりわかるくらいに動揺していた。プランが崩れたんだろうね。
はたから見れば、どっちにしろ1点は取らなきゃならないんだから、状況は何にも変わってないと思うのだが、AGミランの方はなぜか、早く追いつかないと負けるぞ空気に包まれて、追い立てられるようにプレスをかけはじめた。
技術的にも実力的にも、AGミランの方がずっと上であることは誰の目にもあきらかなのだから、激しくプレスを受けたギャランズの選手たちは、自分たちのゴール前にほぼ全員が釘付けされるような状態となった。まあ、そうなるのがふつうだろう。
そしてギャランズは、できるだけ遠くへクリアすることと、AGミランの中心選手である7番と16番をがっちりマークすることに集中し始めた(実際のところはそれしかできなくなってしまったというのが事実で、ギャランズベンチからの指示もそれ一辺倒だった)。
ではAGミランの選手たちはそれでどうしたのかというと、なぜか、その密集しているところへパスを通すことだけしか頭になくなってしまったような、まるでこれがそういうゲームか練習であるかのような、そんなプレー選択しかしなくなった。
相手がいないのだから、AGミランは中盤より後ろでは楽にボールを持てる。そこで狙いに狙いをつけて、前方の密集地からの、ガチガチにマークにつかれているエースからのパスを呼ぶ声目がけて、せっかくのマイボールを放り込むのだ。
テレフォンパスどころの話じゃない。レッドカーペットパスかっていうくらいのバレバレ度合いだ。
はたしてAGミランの選手たちは、その狙い通りに、密集した敵に囲まれた味方の利き足ピッタリにボールを落とすことができるほどのコントロールを身につけているのだろうか?
当然、身につけてはいない。
蹴られたボールは、ポーンと飛んでいって、あるいはゴロゴロと転がっていって、相手にカット(プレゼントとも言う)されてしまう。毎回毎回。
ギャランズにしてみれば、攻められ続けているようでいて、モチベーションとしては「守れるぞ」という自信に後押しされるような、気合いのはいる状況だったことだろう。「うおーらっ! 跳ね返せ! 跳ね返せ!」で、相手のエースをがっちり抑えきっている訳だから。このまま耐えれば勝てる、そういう気持ちがどんどん燃え上がってきているのも伝わってきた。
AGミラン側からは、自分たちのプレーをしていればいずれ点は取れるさ、と自分たちを落ち着けようとしているのが伝わってきた。
セットプレーでもいろいろなパターンを持っているようで、コーナーキックなどは毎回違うやり方を見せていた。
でもちょっと待って欲しい。
そして、君たちのそれは、自分たちのことしか考えていない、独りよがりなプレーになってしまっていたのだよ、と気づいて欲しい。
思い返してごらん。
コーナーキックで相手ゴール前に並んだとき、頭ひとつ以上のギャップがあったミスマッチ箇所があったじゃないか。そこを狙ってボールを蹴っていれば、まあ2回に1回は決定的なチャンスになっていただろう、と私は思う。決定的なストロングポイントがある時は、そこを徹底的に突く。これが最もシンプルで最も効率の高い攻撃であるのは、太古の昔からの真理だ。
またシュート体勢に入ったときに余裕があるあまり、グラウンダーのシュートでコースを狙いすぎたのも、相手の守備を盛り上げる要因となってしまった。
あのかたい芝質だと、転がしたボールのスピードは、芝の抵抗で急速に減じていく。
いつもなら間に合わないシュートであっても、最後まであきらめないで足を出せば(GKなら手)、ゴールラインギリギリでクリアできるのだ。そのギリギリのクリアが何本か連続すると、そりゃあディフェンス陣は盛り上がる。今日の俺たちには「キテいる」と、アドレナリンがガンガン出ていたことだろう。
あのような状況で攻撃するときは、ドリブルとショートパスとダイレクトでかき回しながら行きつ戻りつゆっくりじっくりと、というのがセオリーだ。相手が多くてスペースのない場所へロングボールを放り込むなんてのは愚の骨頂。ピタリと止めなきゃならない味方は、どこでもいいから蹴り返せばOKの相手に対して圧倒的に不利な上に、数でも負けているのだから、パスなんて通るわけがない。
密集しているときのシュートは、相手に当たってイレギュラーする率が高いんだから思いっきり強く。また、コースを狙おうとしても密集していてすぐつめられるんだから、タイミング重視で強引に打つ。これが鉄則。
そして芝がかたいんだから、転がさずに浮かせる。芝がかたいということは、ボールが地面から浮いているってことだから、浮き球はいつもより蹴りやすいはずだ。
引き籠もってガチガチに守ってる相手にはあえてプレッシャーをかけないで、ボールを持たせて、攻め上がらせて、最終ラインを前に引き出す。そしてセンターサークルあたりでのパスミスを狙って、パスカットできたらそこからはいつもの自分たちのサッカーを展開。今度はスペースがあるんだから、前よりもずっとやりやすい状況でプレーができる。
──と、他にももっといろいろあるのだが、そういうことを書きたかった訳ではなくて、なぜ負けているときの方が面白いのか、楽しいのか、ということを書きたいので、そちらへと話を戻す。
上に書いたようなことは、試合中にベンチから指示されるようなことではない。
こういう類(たぐい)のことは、試合中に、選手個人個人が自分で状況を分析して、判断するレベルの、極々基本的なことだということを、まず言いたい。
なぜならこれに似たようなことを、子供たちは遊びの中ではいつもやっているからだ。
雨上がりのぬかるんだ場所で鬼ごっこをしたら、ちゃんとぬかるみで自分は有利、鬼は不利になるような逃げ方をする。
ドッチボールで誰を狙うか、どこを狙うか、どういう順番でボールを回すか、風向きは、クセは、そういったことをちゃんと計算する。
ポートボール(リングの代わりを人間がやる、バスケットボールに似た競技)のゴールマンの身長が高いときは、ギリギリ手が届くくらいの高さに投げるし、ジャンプボールではフェイントをかけたりする。
ビデオゲームで遊ぶときだって、攻略本や前にやったときの記憶や友だちから聞いた情報など元に、戦略を研究する。
お小遣いをもらいたいときは、ちょうだいちょうだいとねだる前に、自分からお手伝いや宿題をやっていい子アピールしておく。
それと同じことを、サッカーでもやってくれってことが言いたいのだ。
そしてそれが見えたとき、私は「面白い」「楽しい」と感じる。
「お、あのガキ(あるいはガキども)、やるな」なんて思わせて欲しいのだ。
僕達はコーチに命じられるまま、このプレーを訓練してきました、なんていうプレーは、「お見事」とは思うけど俺には面白くない。俺がわざわざピッチまで足を運ぶのは、あるいは人生の無駄な時間をサッカーに費やすのは、台本通りの演技を見るためじゃない。そんなもん、俺は見たくない。
今、将棋の竜王戦(りゅうおうせん)というのをやっている。
今日、その第3局が始まった。
将棋というゲームにプロが存在していられるのは、そこに勝敗以上の付加価値があるからだ。
そしてその付加価値とは、「心」にあると私は確信している。
「心」とは「心理状態の揺らぎ」そのものである。「心」は決して「考え」や「信念」ではない。その「考え」や「信念」がどう揺らぐかが「心」なのだ。
今期竜王戦は、ここまで羽生(はぶ)名人の2連敗で来ている。
そして面白いのは、渡辺明(わたなべあきら)若き永世竜王のジンクスだ。これがいかにもアヤシイ。
局面が苦しくなるとトイレに立ち、しばらくして戻ってくると、自信満々に会心の一手を指すのだ。これについてはもうずっと、トイレに籠もってパソコンをいじってるんだ、とか、携帯でアドバイスを受けているんだ、とか言われて来た。だがこれも結局のとこ、そのパソコンソフトなり、アドバイザーなりが、羽生名人よりも強くないと意味がないじゃないかということで、噂は噂のままになっている。でもしかし、この、苦しくなると席を立ち、戻ってきたら逆転の一手、というパターンはそのまま今日まで続いている。おそらく渡辺竜王は、こうした噂までをも、心理戦の武器として利用しているのだと私は理解している。そして対局相手もそれをわかっている。わかってはいるのだけれど、考えるな考えるな、盤面に集中しろ、とすればするほど、集中が乱されてしまっているのが考慮時間からもなんとなく読み取れる(特に昨年(2009)の22期森内戦はわかりやすかった)。将棋の超一流クラスであってもそうなのだ。だから将棋は、プロが成立している。いくら強くても、コンピュータソフト同士の対決では、プロ制度は維持できない。しかし、プロ対コンピュータなら、興行は成立するのだ。そこに「心」が介在するからだ。
私は同じことをサッカーにも求めている。
それは少年サッカーであっても同じことだ。
あらゆるサッカーのトレーニングは、この「心」に経験を積ませる、引き出しを増やす、ひらめくノウハウを身につけさせる、ために成されるものだと確信している。
どんなにいい、効果的だとされている練習プログラムであっても、それをやる選手の心が閉じてしまっていてはまったく意味がない。ロボットのように凍りついてしまっていては、ただバーベルを上げ下げしているのと何も変わらない。
シュート練習でも、ミニゲームでも、練習試合でも、それらはすべて「心」を楽しくするためにやっているのだ。
極論すれば、サッカーにおける目標は、FIFAワールドカップの準決勝・決勝とUEFAチャンピオンズリーグの決勝戦のみだとも言える(もちろんここで言っているのは、選手としてピッチに立つとかそういう狭いことではない)。これら以外のすべては、この目標へ至るための準備なのだ、とそうとらえると毎日の練習や、埼玉県内での公式戦への向き合い方も変わってくるのではないだろうか。
今年の全日本少年サッカー大会で優勝したバディーSCにしても、まさかこれで「サッカー人生はいゴールです」とは考えていないはずだ。
神様のいたずらで、ある日ふと目覚めたら、10番背負ってワールドカップの決勝戦のピッチに立っていた、としよう。
そのときに、パニクって、泣き出して、逃げ出してしまうか、理由はわからなくてもその状況にいるのだからそこで自分にできる最善を尽くそう、この状況を最大限に楽しもう、と即集中するかは、すべて「心」が決定する。
自分の心は、自分の中にしかない。
洗脳やマインドコントロールという技術にしても、それらは心を直接コントロールすることはできない。
心は自分の外へ出て行くことはできないし、自分の外から誰も触れることはできない。
いや、自分でさえ、自分の心に触れることはできない。
心とは、自分の中にいる、もうひとりの自分なのだ。
(精神分裂病とか統合失調症とか多重人格とか、そういうことじゃなくて、哲学的な意味で。わかりやすい例をあげれば、自分の心を認識しようとしたとき、その認識しようとしている自分は心を認識できるのか、また逆に自分の心は、心を認識しようとしている自分を認識できるのかってこと)
22人(+ベンチやレフェリー、そしてサポーター)の心が、ひとつのボールをめぐって揺れ動く。
それがサッカーの持つ魅力であり、楽しさだろうと私は確信している。
だからこそ、サッカーは負けている時の方が面白いし楽しいのだ、と私は断言できるのだ。
おわり
2010年10月15日金曜日
リフティングがうまくなると楽しい
リフティングが上手になったからと言って、サッカーのレベルがアップするわけではない。
これは確かにその通りだ。
だが、リフティングが上手になると、素直に楽しい。
そして、リフティングが上手になると、サッカーも一層楽しくなる。
なんといったらいいか……
リフティングは、例えてみれば雑学知識みたいなものなのかもしれない。
雑学物知りだからといって、受験に使える学力がアップするわけじゃない。
でも、雑学の知識が増えると、本来の勉強それ自体への関心も高まってくる。
受験進学校にオタク系が多いのも、きっとこれが関係してる(たぶん)。
知的好奇心は積極的な刺激によって高められるから。
だから、できないよりは、というよりも、リフティングはそれなりにできるようになるべきだ。
サッカーがもっと楽しくなるから。
fun with a ball (1:54)
この動画でリフティングをしている白人の女の子は、ずいぶん軽くて、やたらはずむボール(おそらくはゴム製のバレーボール)を使っているけど、これくらいなら「絶対にやったる!」っていう気合いを入れて練習すれば、誰でもそんなに時間がかからないでできるようになると思う。
他の分野(受験勉強とか、将棋・囲碁とか、ゲームとか、楽器とか)と同様に、リフティングもある体感的感覚的な「峠(とうげ)」を越えると、急カーブを描くように上手になる(フリースタイルレベルまでの話じゃなくての話)。必要な感覚器官と必要な神経と必要な筋肉をつなぐ回路が、脳の中でできあがるんだね。
これから寒くなって蚊や蛾がいなくなる季節は、街灯の下でリフティングの練習をするにはもってこい。
夕飯食ったら、ランニング、筋トレ、リフティングして、勉強して、風呂入って寝る。
これでサッカーがもっと楽しくなる。
これは確かにその通りだ。
だが、リフティングが上手になると、素直に楽しい。
そして、リフティングが上手になると、サッカーも一層楽しくなる。
なんといったらいいか……
リフティングは、例えてみれば雑学知識みたいなものなのかもしれない。
雑学物知りだからといって、受験に使える学力がアップするわけじゃない。
でも、雑学の知識が増えると、本来の勉強それ自体への関心も高まってくる。
受験進学校にオタク系が多いのも、きっとこれが関係してる(たぶん)。
知的好奇心は積極的な刺激によって高められるから。
だから、できないよりは、というよりも、リフティングはそれなりにできるようになるべきだ。
サッカーがもっと楽しくなるから。
fun with a ball (1:54)
この動画でリフティングをしている白人の女の子は、ずいぶん軽くて、やたらはずむボール(おそらくはゴム製のバレーボール)を使っているけど、これくらいなら「絶対にやったる!」っていう気合いを入れて練習すれば、誰でもそんなに時間がかからないでできるようになると思う。
他の分野(受験勉強とか、将棋・囲碁とか、ゲームとか、楽器とか)と同様に、リフティングもある体感的感覚的な「峠(とうげ)」を越えると、急カーブを描くように上手になる(フリースタイルレベルまでの話じゃなくての話)。必要な感覚器官と必要な神経と必要な筋肉をつなぐ回路が、脳の中でできあがるんだね。
これから寒くなって蚊や蛾がいなくなる季節は、街灯の下でリフティングの練習をするにはもってこい。
夕飯食ったら、ランニング、筋トレ、リフティングして、勉強して、風呂入って寝る。
これでサッカーがもっと楽しくなる。
2010年6月1日火曜日
囲碁とサッカーの不思議な関係
早碁の世界一決定戦である「テレビ囲碁選手権」が以下の日程で開催されている。
早碁とは?
持ち時間1手30秒の秒読み。途中1分単位で10分の考慮時間を使える。
この対極にあるのが、棋聖、本因坊、名人戦などの、持ち時間8時間の2日制。
第22回テレビ囲碁アジア選手権 日本大会
京都ホテルオークラ別邸 京料理「粟田山荘」
6月1日(火)~3日(木) NHK-BS2にて絶賛放送中!
テレビ囲碁アジア選手権とは?
日本・中国・韓国のテレビ棋戦であるNHK杯、CCTV杯、KBS杯の優勝・準優勝者と、前回のテレビ囲碁アジア選手権優勝者の7人によるトーナメント戦。
■NHK-BSテレビ放送 予定日
6月1日(火): 1回戦 第1局/1回戦 第2局/1回戦 第3局
6月2日(水): 準決勝 第1局/準決勝 第2局
6月3日(木): 決勝
■出場者
中国: 孔傑(コウケツ)九段(前回優勝者)
CCTV杯優勝者、準優勝者
韓国: 李昌鎬(イチャンホ)九段
姜東潤(カンドンユン)九段
日本: 結城聡(ユウキサトシ)九段
井山祐太(イヤマユウタ)名人
1回戦第1局
[日本] 井山裕太九段 × [韓国] 李昌鎬九段
白番 李昌鎬九段 5目半勝ち
1975年生まれの李昌鎬は、1982年に祖父から囲碁学び、1984年には韓国棋院研究生となり、1986年の11歳でプロ棋士に、14歳の最年少タイトル獲得、16歳5ヶ月で最年少国際棋戦優勝という記録を作った。
「いい碁を打つことだけを考えて、失敗しても最後まであきらめないよう心がけています」と淡々と話す。
サッカーと同じで、囲碁にも大まかに攻めのタイプと守りのタイプがある。
この李昌鎬(イ・チャンホ)九段は後者、守って勝つタイプの完成型とも呼ばれ、それはイタリア代表のサッカーにもよく似ている。
難しいことはわからないが、私は、この李昌鎬九段はサッカーでいうところのポジショニングが非常に巧みなところに天分があって、それと人類の枠を越えたような辛抱強さが合わさったことで、この驚異的な勝ち数を積み上げることが出来ているのだろうと勝手に分析して、サッカーを観るように彼の囲碁を楽しんでいる。
こっちの局面を考えてこの石を置いたんだろうなと思っていると、そこから十手先の局面で、実は違うことを考えていたのだということがわかったときは感動させられる。もっとも、わかったと思っているのはもちろん私の勝手な思い込みであって、実際にそれがどういう意図であるのかという囲碁の達人たちみたいな「正解」がわかっているわけではない。でもそれがまた面白いところで、これが正解だ、などと押しつけられたら、別に義務でもないんだから私などはプイッとよそを向いてしまうだろう。
囲碁にはサイドチェンジもある。そう、サッカーでもある、あのサイドチェンジだ。
そしてフェイントもあれば、セットプレーもあるし、そのセットプレーにはトリックプレーだってある。
ポゼッションに近い戦術的な考え方もあるし、バイタルエリアとか、中盤が空いてきたとか、一対一の局面、みたいな場面だってある。
でも決定的に異なるのは、得点がないことだ。
囲碁の勝敗は、サッカーの試合でいうと、試合全体の「イメージ」のようなもので決まるのだ。
押されっぱなしだったけど、ロスタイムのロングシュート一発で勝利をもぎ取った、なんてことにはならない。それどころか、なんかこれ以上やってもどうせ勝てそうにないからもうやめる、といって試合途中で負けを宣言することもできる。
そのへんは囲碁を覚え始めたとき、私なんかは感覚的にモヤモヤしたんだけど、やってみると、こんな状況になっちゃったらこれ以上やっても意味ないなあ確かに、ってこともあるんだってことはすぐわかるようになる。
明日は準決勝で、明後日は決勝。
囲碁に興味はなくても、録画しておいて気が向いたときに気合いを入れて観てみると、サッカーに似たとこがあるってわかってもらえると思う。
まあ、「だからどうなんだ?」って言われると、だからどうってわけでもないんですけどね、としか言えないんだけどさ。
早碁とは?
持ち時間1手30秒の秒読み。途中1分単位で10分の考慮時間を使える。
この対極にあるのが、棋聖、本因坊、名人戦などの、持ち時間8時間の2日制。
第22回テレビ囲碁アジア選手権 日本大会
京都ホテルオークラ別邸 京料理「粟田山荘」
6月1日(火)~3日(木) NHK-BS2にて絶賛放送中!
テレビ囲碁アジア選手権とは?
日本・中国・韓国のテレビ棋戦であるNHK杯、CCTV杯、KBS杯の優勝・準優勝者と、前回のテレビ囲碁アジア選手権優勝者の7人によるトーナメント戦。
■NHK-BSテレビ放送 予定日
6月1日(火): 1回戦 第1局/1回戦 第2局/1回戦 第3局
6月2日(水): 準決勝 第1局/準決勝 第2局
6月3日(木): 決勝
■出場者
中国: 孔傑(コウケツ)九段(前回優勝者)
CCTV杯優勝者、準優勝者
韓国: 李昌鎬(イチャンホ)九段
姜東潤(カンドンユン)九段
日本: 結城聡(ユウキサトシ)九段
井山祐太(イヤマユウタ)名人
1回戦第1局
[日本] 井山裕太九段 × [韓国] 李昌鎬九段
白番 李昌鎬九段 5目半勝ち
1975年生まれの李昌鎬は、1982年に祖父から囲碁学び、1984年には韓国棋院研究生となり、1986年の11歳でプロ棋士に、14歳の最年少タイトル獲得、16歳5ヶ月で最年少国際棋戦優勝という記録を作った。
「いい碁を打つことだけを考えて、失敗しても最後まであきらめないよう心がけています」と淡々と話す。
サッカーと同じで、囲碁にも大まかに攻めのタイプと守りのタイプがある。
この李昌鎬(イ・チャンホ)九段は後者、守って勝つタイプの完成型とも呼ばれ、それはイタリア代表のサッカーにもよく似ている。
難しいことはわからないが、私は、この李昌鎬九段はサッカーでいうところのポジショニングが非常に巧みなところに天分があって、それと人類の枠を越えたような辛抱強さが合わさったことで、この驚異的な勝ち数を積み上げることが出来ているのだろうと勝手に分析して、サッカーを観るように彼の囲碁を楽しんでいる。
こっちの局面を考えてこの石を置いたんだろうなと思っていると、そこから十手先の局面で、実は違うことを考えていたのだということがわかったときは感動させられる。もっとも、わかったと思っているのはもちろん私の勝手な思い込みであって、実際にそれがどういう意図であるのかという囲碁の達人たちみたいな「正解」がわかっているわけではない。でもそれがまた面白いところで、これが正解だ、などと押しつけられたら、別に義務でもないんだから私などはプイッとよそを向いてしまうだろう。
囲碁にはサイドチェンジもある。そう、サッカーでもある、あのサイドチェンジだ。
そしてフェイントもあれば、セットプレーもあるし、そのセットプレーにはトリックプレーだってある。
ポゼッションに近い戦術的な考え方もあるし、バイタルエリアとか、中盤が空いてきたとか、一対一の局面、みたいな場面だってある。
でも決定的に異なるのは、得点がないことだ。
囲碁の勝敗は、サッカーの試合でいうと、試合全体の「イメージ」のようなもので決まるのだ。
押されっぱなしだったけど、ロスタイムのロングシュート一発で勝利をもぎ取った、なんてことにはならない。それどころか、なんかこれ以上やってもどうせ勝てそうにないからもうやめる、といって試合途中で負けを宣言することもできる。
そのへんは囲碁を覚え始めたとき、私なんかは感覚的にモヤモヤしたんだけど、やってみると、こんな状況になっちゃったらこれ以上やっても意味ないなあ確かに、ってこともあるんだってことはすぐわかるようになる。
明日は準決勝で、明後日は決勝。
囲碁に興味はなくても、録画しておいて気が向いたときに気合いを入れて観てみると、サッカーに似たとこがあるってわかってもらえると思う。
まあ、「だからどうなんだ?」って言われると、だからどうってわけでもないんですけどね、としか言えないんだけどさ。
2010年5月24日月曜日
囲碁と将棋と少年サッカー
私は囲碁も将棋も面白いと思っている。その面白さは、サッカーと通じている。
囲碁と将棋は似ているようでまったく違う。囲碁は広さを読み、将棋は深さを読む。囲碁は過去を変えられず、将棋は未来を変えられない。
だがどちらにも共通しているのは、今自分が存在しているのが『過去』なのか『未来』なのかがわかった時が、勝敗が決した時だということだ。
サッカーにおける個々の局面は、将棋に似ている。それは一対一の駆け引きであったり、セットプレーであったり、ポジション取りだったり、いろいろだ。
試合全体を俯瞰してみれば、それは囲碁そのものだ。キックオフで動き出したボールが選手たちを介して模様を描き、タイムアップの瞬間により多くを取った方が勝利する。
サッカーには、さらに面白さを増す要素がある。
選手一人ひとりが、飛車なのか銀なのか桂馬なのか、その時々によって変化すること。そして審判の判定によって石を交換されたり、取り去られたりすることだ。このスペクタルは、囲碁にも将棋にもない。
弱い弱いと言われている少年サッカーチームがあったとしても、サッカーの面白さを味わうことはできるし、面白いサッカーをすることもできる。下手だ下手だと思い込んでいる子も、サッカーの上手い下手が『面白さ』ではないことさえわかれば、人生をサッカーと共に歩むことが出来る。まだ幼い子が、きゃっきゃ、きゃっきゃとサッカーボールを蹴って喜んでいるのは、上手だからでは決してない。試合を応援しているお父さんやお母さんが身を乗り出して声を張り上げているのは、馬券を握りしめた観客と同じ理由からではない。
理由は単純。
サッカーとは面白いものだからだ。
そしてどんなチームであっても、選手であっても、指導者、コーチ、監督、親御さんたちであっても、『今』を『過去』にも『未来』にもすることができる。
それがサッカー。
だからサッカーは面白い。
囲碁と将棋は似ているようでまったく違う。囲碁は広さを読み、将棋は深さを読む。囲碁は過去を変えられず、将棋は未来を変えられない。
だがどちらにも共通しているのは、今自分が存在しているのが『過去』なのか『未来』なのかがわかった時が、勝敗が決した時だということだ。
サッカーにおける個々の局面は、将棋に似ている。それは一対一の駆け引きであったり、セットプレーであったり、ポジション取りだったり、いろいろだ。
試合全体を俯瞰してみれば、それは囲碁そのものだ。キックオフで動き出したボールが選手たちを介して模様を描き、タイムアップの瞬間により多くを取った方が勝利する。
サッカーには、さらに面白さを増す要素がある。
選手一人ひとりが、飛車なのか銀なのか桂馬なのか、その時々によって変化すること。そして審判の判定によって石を交換されたり、取り去られたりすることだ。このスペクタルは、囲碁にも将棋にもない。
弱い弱いと言われている少年サッカーチームがあったとしても、サッカーの面白さを味わうことはできるし、面白いサッカーをすることもできる。下手だ下手だと思い込んでいる子も、サッカーの上手い下手が『面白さ』ではないことさえわかれば、人生をサッカーと共に歩むことが出来る。まだ幼い子が、きゃっきゃ、きゃっきゃとサッカーボールを蹴って喜んでいるのは、上手だからでは決してない。試合を応援しているお父さんやお母さんが身を乗り出して声を張り上げているのは、馬券を握りしめた観客と同じ理由からではない。
理由は単純。
サッカーとは面白いものだからだ。
そしてどんなチームであっても、選手であっても、指導者、コーチ、監督、親御さんたちであっても、『今』を『過去』にも『未来』にもすることができる。
それがサッカー。
だからサッカーは面白い。
2010年5月20日木曜日
将棋名人戦と少年サッカー
昨夜、第68期名人戦七番勝負の第4局が終わった。
羽生善治名人(39)が挑戦者の三浦弘行八段(36)を降し、4連勝で名人位を防衛した。
9時間あった残り時間は、羽生3分、三浦1分になっていた。
羽生名人は2003年から、三浦挑戦者に対しては10連勝している。これで連勝は14に伸びたことになる。
実力が拮抗しているトップ棋士において、対戦成績がこれほど一方的な組み合わせは他にはない。
第1~3局はいずれも横歩取りという戦法だった。
これは三浦挑戦者の得意戦法なのだが、羽生名人はこれを避けなかった。というよりも、相手の得意戦法の土俵に乗ることが、羽生名人の、ある意味での得意戦略であるように思える。
当然相手の得意な形で戦うことはリスクがともなう。その一方で、得意な形になった相手は“奇襲・奇策”といった変化系を出しにくくもなる。麻婆豆腐が得意な中華の料理人には、麻婆豆腐を頼んで置けば安心して待っていられるが、寿司やケーキを頼んだらどんなものが出てくるかわかったもんじゃない。後々棋譜が残り、百年後二百年後の棋士たちに研究されるうる先達のひとりとして、麻婆味のケーキのレシピに名を残したくないと羽生名人が考えているとしても、何の不思議もない。
ひとつの勝負、ひとつのタイトルよりも、最高の麻婆豆腐が誕生する可能性と、その場に自分もかかわれる可能性の方がはるかに大切だと考えているに違いない。
羽生名人の三連勝で迎えた第4局は、これまで3局続いた横歩取りではなく、三浦挑戦者側から相居飛車という戦形に持っていった。自分の得意を捨て、新たな戦型に活路を見いだそうとしたのだ。だが結果は、一勝も出来ないまま4連敗の敗退となった。
三浦八段は、事前研究の周到さで定評のある棋士だ。
対戦相手の戦術を研究し尽くし、相手の良さを出させないことで、現在の地位まで登り詰めてきた。ヒディンクとかモウリーニョみたいなタイプだ。
少年サッカーでも、こういうタイプの監督はたくさんいる。もちろんレベルは比ぶべくもないものだが、それでも対症療法的であるという面では、同じ世界からサッカーを見ている。
仮に、ドリブル大好きなサッカーチームがあったとしよう。
このチームはとにかくドリブルドリブルでボールを運ぼうとする。自陣ゴール前からでも。大昔の読売クラブみたいに。ジョージや戸塚がバリバリだった頃みたいに(たぶん)。
この手のやり方は、「個人技を育てる」と言われていた。大昔は。
だがその後の読売クラブの選手たちを見るまでもなく、それが通用するのは、学校の体育にサッカー部員が混じるような状況でだけなのだ。相手が下手っぴな場合でだけ、ドリブルドリブルで育った選手たちは、自分の技術(らしき習慣)を発揮することができる。例えば大昔の低迷期の日本リーグ2部でとか、Jリーグ初期の浦和レッズが相手とか。
当然、相手のレベルがあがると何もできなくなる。
その理由は、ドリブルという戦術を選択するための経験が圧倒的に不足してしまっているからに他ならない。
いつでも、どんなときでも、常にドリブルをさせるということは、裏を返せば、子供たちから状況を判断する機会を奪っていることにもなる。
常に状況を無意識下で把握し、分析し、判断し、一瞬の隙をのがさないで体がドリブルに反応する、こういう訓練をしなければならない時期に、ただ何でもドリブルドリブルしてればOKというのは、厳しい言い方をするなら『子供が持っているかも知れない未知の可能性を、錆びた枠形にはめ込む行為』のひとつなのだ。
天才少年や天才テクニシャンが、年齢を重ねる内に「『自分らしさ』がなくなってしまった」というような悩みを持つのは、彼本人の責任ではなく、子供の頃に妙な枠、サッカーを知らない大人が勝手に作り上げた『高い技術』という誤った概念、イメージを押しつけられたせいなのだ。
将棋の世界では、指導者が子供たちにひとつの戦法しか教えないなどということは絶対にない。
大事なのは定跡ではなく、その先にあるものだと知っているからだ。
定跡を詰め込んで地元で天才少年と騒がれても、そこから先につながる『何か』を持っていない子は、いずれ消えていくと将棋界はとうの昔に学んでいるのだ。
周到な準備研究が取り沙汰される三浦八段だが、三浦八段のそれは、定跡や一般的な研究をはるかに超えたその先に存在している。そして彼は子供の頃から、そういう風に将棋を見ようとする『何か』を持っていた。ヒディンクやモウリーニョもそうだ。
だが少年サッカーの監督に、その『何か』はあるのだろうか?
子供たちのためにある大会や試合で、その『何か』を育てるような『何か』を持って、監督は研究し、戦術を指示しているのだろうか。子供たちから、その時、その緊張感でしか得られない『何か』を奪っている可能性はないだろうか。そしてそのことに大人が気付いていないかもしれない危険について、少しは考える知性を有しているだろうか。
サッカー界でも歴史を重ねた国々の大人たちは、そのことを学んでいる。
だが残念ながら、日本の少年サッカー界はまだそこまで学んでいないように、私には思えてならないのだ。
羽生善治名人(39)が挑戦者の三浦弘行八段(36)を降し、4連勝で名人位を防衛した。
9時間あった残り時間は、羽生3分、三浦1分になっていた。
羽生名人は2003年から、三浦挑戦者に対しては10連勝している。これで連勝は14に伸びたことになる。
実力が拮抗しているトップ棋士において、対戦成績がこれほど一方的な組み合わせは他にはない。
第1~3局はいずれも横歩取りという戦法だった。
これは三浦挑戦者の得意戦法なのだが、羽生名人はこれを避けなかった。というよりも、相手の得意戦法の土俵に乗ることが、羽生名人の、ある意味での得意戦略であるように思える。
当然相手の得意な形で戦うことはリスクがともなう。その一方で、得意な形になった相手は“奇襲・奇策”といった変化系を出しにくくもなる。麻婆豆腐が得意な中華の料理人には、麻婆豆腐を頼んで置けば安心して待っていられるが、寿司やケーキを頼んだらどんなものが出てくるかわかったもんじゃない。後々棋譜が残り、百年後二百年後の棋士たちに研究されるうる先達のひとりとして、麻婆味のケーキのレシピに名を残したくないと羽生名人が考えているとしても、何の不思議もない。
ひとつの勝負、ひとつのタイトルよりも、最高の麻婆豆腐が誕生する可能性と、その場に自分もかかわれる可能性の方がはるかに大切だと考えているに違いない。
羽生名人の三連勝で迎えた第4局は、これまで3局続いた横歩取りではなく、三浦挑戦者側から相居飛車という戦形に持っていった。自分の得意を捨て、新たな戦型に活路を見いだそうとしたのだ。だが結果は、一勝も出来ないまま4連敗の敗退となった。
三浦八段は、事前研究の周到さで定評のある棋士だ。
対戦相手の戦術を研究し尽くし、相手の良さを出させないことで、現在の地位まで登り詰めてきた。ヒディンクとかモウリーニョみたいなタイプだ。
少年サッカーでも、こういうタイプの監督はたくさんいる。もちろんレベルは比ぶべくもないものだが、それでも対症療法的であるという面では、同じ世界からサッカーを見ている。
仮に、ドリブル大好きなサッカーチームがあったとしよう。
このチームはとにかくドリブルドリブルでボールを運ぼうとする。自陣ゴール前からでも。大昔の読売クラブみたいに。ジョージや戸塚がバリバリだった頃みたいに(たぶん)。
この手のやり方は、「個人技を育てる」と言われていた。大昔は。
だがその後の読売クラブの選手たちを見るまでもなく、それが通用するのは、学校の体育にサッカー部員が混じるような状況でだけなのだ。相手が下手っぴな場合でだけ、ドリブルドリブルで育った選手たちは、自分の技術(らしき習慣)を発揮することができる。例えば大昔の低迷期の日本リーグ2部でとか、Jリーグ初期の浦和レッズが相手とか。
当然、相手のレベルがあがると何もできなくなる。
その理由は、ドリブルという戦術を選択するための経験が圧倒的に不足してしまっているからに他ならない。
いつでも、どんなときでも、常にドリブルをさせるということは、裏を返せば、子供たちから状況を判断する機会を奪っていることにもなる。
常に状況を無意識下で把握し、分析し、判断し、一瞬の隙をのがさないで体がドリブルに反応する、こういう訓練をしなければならない時期に、ただ何でもドリブルドリブルしてればOKというのは、厳しい言い方をするなら『子供が持っているかも知れない未知の可能性を、錆びた枠形にはめ込む行為』のひとつなのだ。
天才少年や天才テクニシャンが、年齢を重ねる内に「『自分らしさ』がなくなってしまった」というような悩みを持つのは、彼本人の責任ではなく、子供の頃に妙な枠、サッカーを知らない大人が勝手に作り上げた『高い技術』という誤った概念、イメージを押しつけられたせいなのだ。
将棋の世界では、指導者が子供たちにひとつの戦法しか教えないなどということは絶対にない。
大事なのは定跡ではなく、その先にあるものだと知っているからだ。
定跡を詰め込んで地元で天才少年と騒がれても、そこから先につながる『何か』を持っていない子は、いずれ消えていくと将棋界はとうの昔に学んでいるのだ。
周到な準備研究が取り沙汰される三浦八段だが、三浦八段のそれは、定跡や一般的な研究をはるかに超えたその先に存在している。そして彼は子供の頃から、そういう風に将棋を見ようとする『何か』を持っていた。ヒディンクやモウリーニョもそうだ。
だが少年サッカーの監督に、その『何か』はあるのだろうか?
子供たちのためにある大会や試合で、その『何か』を育てるような『何か』を持って、監督は研究し、戦術を指示しているのだろうか。子供たちから、その時、その緊張感でしか得られない『何か』を奪っている可能性はないだろうか。そしてそのことに大人が気付いていないかもしれない危険について、少しは考える知性を有しているだろうか。
サッカー界でも歴史を重ねた国々の大人たちは、そのことを学んでいる。
だが残念ながら、日本の少年サッカー界はまだそこまで学んでいないように、私には思えてならないのだ。
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