現役時代は「ブラックエンジェル」「見えないひじを持つ男」「サッカーができる若頭(わかがしら)」「さわやかテロリスト」との異名を馳せた福西現NHK解説者と、現日本代表不動のボランチ遠藤選手の対談です。
遠藤選手が、ザッケローニ監督の3バック戦術について説明しています。
(ガンバTVより)
http://youtu.be/tg8VqMV6gvQ
(動画の埋め込みができませんでした)
遠藤選手が語った内容から、ザッケローニ監督が求める“343”がどういう戦術なのかをざっと推察してみます。
従来の3人のセンターバックによる3バック戦術と異なって、ザック監督の3バックというのは、4バックにおけるサイドバックがサイドハーフの役割もこなす、というもののようです。
でもそうかといって、5バックの両サイドバックが、時には攻撃にも参加するというような岡田俺解説は得意なんだよね武史氏の実質5バック型の3バックとはまったく違います。
ザック監督の3バックは、3バックの3人がセットを保ったまま振り子のように左右へ移動し、それによって空いたサイドを同サイドのハーフがカバーするというもののようです。ただしこの場合でも、サイドハーフは、安易にDFラインへ吸収されることのないよう、高度なリスク判断が求められるみたいです。つまり、リスクの危険度に応じて、ポジションの調節をする(例えば、リスクが低ければ高い位置を保ち続ける、みたいな)ってことです。
これって当たり前みたいに思えますけど、遠藤選手の話では、ボランチも前線の選手も、サイド地域のカバーは求められていないらしいので(前線の選手も、以前の日本代表のような、強烈なプレスは求められていないそうです)、両サイドに1人ずつ配置されるハーフの選手は相当頭も体力も使うことになるでしょう。それに「勇気」も!
心理的には、大事な試合になればなるほど、ギリギリの展開になればなるほど、安全ゾーンを多めに見積もって低めにポジションを取りたくなるものです。裏を取られたら全て自分の責任になりますから。でもそこを高めに取れ! っていうのがザック氏の戦術のキモ。これ、勇気いりますよね。監督も、本人も、周りも。
テレビの画面からも、常に逆サイドはガラガラに見えるんでしょうね。松木氏のような解説者が「危険だ! 危険だ!」などと大騒ぎするのが、今から見えるようです。
この戦術の一端を私なりに理解したところで言うと、ザック監督は「前でボールを奪うこと」を求めていない、ということなのでしょう。
ボールのあるサイドのDFライン+ボランチによって形成したブロックでボールを奪い、それを逆サイド方向へ早く動かすことでダイナミックに攻めたい、みたいなイメージなのではないでしょうか。
これがうまく機能すれば、とても効率的に守備と攻撃をリンクさせることができます。
問題は、非常に高度な頭脳と体力を要求される両サイドの選手を2人確保以上確保できるのかどうかなのですが、それは長友選手と酒井(柏)選手の成長次第ということなのかもしれません。
追伸 内田選手は、いまのままなら、日本代表には、いらないのではないでしょうか。
2011年9月5日月曜日
2011年8月28日日曜日
サッカーのフォーメーション
サッカーにおけるフォーメーションについて、私の理解している範囲でざっくり書いてみました。
【フォーメーション─フォーメーションに攻撃的守備的の区別はない】
サッカーのフォーメーション自体には、どれが攻撃的でどれが守備的か、なんてことはないと思っています。
ゲーム展開の中で、攻撃に重心がかかっている状態と守備に重心がかかっている状態が、刻々と行き来するからです。
あえて言えば、中盤にボールが入った時に、そのボールの位置よりも前に選手が多ければ攻撃的で、少なければ守備的な状態であると言えるかと思います。
また、試合展開においては、マイボールの時、相手ボールの時、マイボールから相手ボールに切り替わる時、相手ボールからマイボールに切り替わる時、この4つの状態しかあり得ないということを大前提の枠組みとして頭に置いておくと、試合や練習の分析・評価がすっきりするような気が私はしています。
【DF─DFの枚数は、単純に網の目の粗さ】
基本的なフォーメーションにおけるDFの枚数には3~5まであります。3バックから5バックまであるということです。
枚数が増えれば、DF1人の分担するエリアが狭くなるので、その分守りが堅くなります。物理的に移動する距離が短くなることが、非常に大きな意味を持つのです。追いつくかどうか、届くかどうか、いくら予測能力が優れていても、物理的に間に合わない届かない場合にはどうしようもないからです。
南アフリカワールドカップで岡田言ってることとやってることが違う武史監督が見せた5バックシステムの守りがどれほど堅かったかを思い起こしてみれば、DF枚数の多さがいかに守備を堅固にするかが納得できると思います。
現在の標準である4バックでも、その配置の仕方には3つのパターンがあります。
最も一般的なのは、ゆるやかな孤の字(逆台形)型です。
センターバック(CB)2人が横に並んで、両サイドバック(SB)が若干前方にポジションを取ります。ゴールキーパーから見ると翼を広げたようなイメージです。ライン4と呼んだりします。
4バックが横並びになるもう一つの形は、4人が一直線になるパターンです。
オフサイドを取りたいときに、こうした形をとることが多いです。フラット4と呼んだりもします。でも、オフサイドのルールが変わって、オフサイドトラップ破りが簡単になって以降は、あまり見られなくなりました(まあ、相手のレベルにもよります。だぼハゼのようにオフサイドへ何度もひっかかるアホFWが相手の場合には、いまもって有効なフォーメーションです)。
最後は絶滅危惧種のスイーパーを置くパターンです。
センターバック(CB)を縦並びに配置します。後ろのCBがスイーパーです。
3バックシステムのカバーを、スイーパー1人で担うことになるので、スイーパーには非常に高い能力が求められます。
フラット4もスイーパーシステムも、まともなレベルのサッカーをしてくるふつうのチームが相手の実戦ではメリットよりもデメリットの方が大きいと考えられるので、DFそれぞれが状況に応じてフォローしあえる、逆台形型のライン4を採用するのがどうしたって多数派になります。
【MF─4人中盤─フラット4─】
4枚のミッドフィールダー(MF)を横一線に並べるシステムです。
ピッチを幅広く使うことがしやすい配置です。
その一方で中盤中央の守備が手薄になるという弱点があります。
守備の時には、CBの2人とセントラルMF(中央のMF)の2人でブロック(固い四角形)を作りやすかったり、またDFラインとMFラインの間を狭めることで、全体をコンパクトにすることもしやすい形です。
【MF─4人中盤─ダイヤモンド─】
菱形に配置します。
この配置の最大の魅力は、三角形をたくさん作れることです。三角形というのは、パスをもらう動きの基本「三角形を作るようにポジションをとる」の三角形のことです。ただしフラット4に比べると、どうしてもサイドへの張り出しは狭くなります。
また守備の時も、1ボランチとなってしまう選手の負担が過大になり、試合展開によっては「死にます」。
あと、全体をコンパクトにすることも、それなりの取り決めを徹底しておかないと失敗します。中盤の厚みができるということ=縦に間延びする可能性アリ、ですから。
【MF─4人中盤─ボックス─】
ボックス、簡単に言えば2ボランチを底に左右前方へサイドハーフ(SH)配置した極ふつうのフォーメーションです。
バイタルエリアにブロックを作りやすいので守りが安定する形なのですが、中盤中央部に広大なスペースが生まれてしまうので、そのケアに気を配る必要があります。
フラット4と比べてボランチ横が空いているので、SBが上がりやすい効果もあります。SBが上がった場合、CBとボランチが協力してフォローしやすいフォーメーションでもあります。
【FW─2トップ─横並び─】
2人の動きが重ならないようにします。その時その時の状況によって、いかようにも組合せを変更できる柔軟な形です。
【FW─2トップ─縦置き─】
組合せは固定的で、ターゲットマン役とその周囲をケアする衛星役で構成されます。
このコンビがピタリといっている場合、この2人だけで得点を狙うことができる強力な布陣です。ただ、なかなかこうしたコンビはそろわないのが難点です。
【MF─3人中盤─三角形─】
両サイドがスカスカ。サイドバックやウイングなどの上下動が非常に重要となります。サイドに強力な選手を持っていると、ワイドでダイナミックな攻撃が可能です。CBとブロックを形成できるので中央の守備は固くなります。
【3人中盤─逆三角形─】
守備の時はもちろんのこと、攻撃の時やポゼッションの時も、後ろで1人きりの守備的MFと2人のセンターバックがどれだけ連携できるかがポイントとなります。
この形も、両サイドは手薄になりがちなので注意が必要です。
【3人中盤─フラット3─】
MF全員に総合的な高い個人能力の求められるフォーメーションです。オランダ代表やFCバルセロナなんかが採用しています。育成の段階で、まだ選手個々の特性ができあがっていないときにも有効な形だと思います。
蛇足ですが、わたし的には、現在主流の4-4-2よりも、こちらを生かした4-3-3というフォーメーションの方が好きです。
【FW─3トップ】
私個人的には大好きなフォーメーションです。昔はこれしかなかったですもんね。
両ウイングとセンターフォワード←う~ん、すばらしい。ワクワクします。
ただ昨今は、センターフォワードらしいセンターフォワードが少ないので、なかなか採用しにくいというのも分からないではないです。
でも、私個人的には、また人気を取り戻して欲しいシステムなのです。
何度でも書きますが、わたし的には、現在主流の4-4-2よりも、こちらを生かした4-3-3というフォーメーションの方が好きです。
【MF─5人中盤─M型─】
前に2人、後ろに3人の配置。中央には後方1人のMFだけなので、守備の面で穴ができやすいように思います。相手の攻撃に押し込まれた場合、両サイドのMFがDFラインに吸収されて5バックになりがちでもあります。
でもこちらが優勢な時は、前の2人のMFと両サイドの2人のMFがリンクして、中盤を完璧に支配できるというメリットもあります。
【MF─5人中盤─W型─】
後方の2人のMFとセンターバックで、バイタルエリアに強固なブロックを形成できます。また、前方3人のMFがプレッシングをしかけることに成功すれば、連続攻撃もしやすいです。ただそれが機能しない場合は、両サイドのスペースを突かれてしまう両刃の剣でもあります。
----------------------------------------------------------------
日本の子供たちは頭が良いし、攻略本で前知識を仕込むビデオゲームにも慣れているので、この程度の極々基礎的なフォーメーションの説明くらいは、してあげてもいいように思います。その方が、自分で考えてサッカーをするようにもなるのではないでしょうか。
フォーメーションの話に関連して、各ポジションごとに求められる役割や能力についても書いてみたいとも思いましたが、それはまた別の機会にします。
【フォーメーション─フォーメーションに攻撃的守備的の区別はない】
サッカーのフォーメーション自体には、どれが攻撃的でどれが守備的か、なんてことはないと思っています。
ゲーム展開の中で、攻撃に重心がかかっている状態と守備に重心がかかっている状態が、刻々と行き来するからです。
あえて言えば、中盤にボールが入った時に、そのボールの位置よりも前に選手が多ければ攻撃的で、少なければ守備的な状態であると言えるかと思います。
また、試合展開においては、マイボールの時、相手ボールの時、マイボールから相手ボールに切り替わる時、相手ボールからマイボールに切り替わる時、この4つの状態しかあり得ないということを大前提の枠組みとして頭に置いておくと、試合や練習の分析・評価がすっきりするような気が私はしています。
【DF─DFの枚数は、単純に網の目の粗さ】
基本的なフォーメーションにおけるDFの枚数には3~5まであります。3バックから5バックまであるということです。
枚数が増えれば、DF1人の分担するエリアが狭くなるので、その分守りが堅くなります。物理的に移動する距離が短くなることが、非常に大きな意味を持つのです。追いつくかどうか、届くかどうか、いくら予測能力が優れていても、物理的に間に合わない届かない場合にはどうしようもないからです。
南アフリカワールドカップで岡田言ってることとやってることが違う武史監督が見せた5バックシステムの守りがどれほど堅かったかを思い起こしてみれば、DF枚数の多さがいかに守備を堅固にするかが納得できると思います。
現在の標準である4バックでも、その配置の仕方には3つのパターンがあります。
最も一般的なのは、ゆるやかな孤の字(逆台形)型です。
センターバック(CB)2人が横に並んで、両サイドバック(SB)が若干前方にポジションを取ります。ゴールキーパーから見ると翼を広げたようなイメージです。ライン4と呼んだりします。
4バックが横並びになるもう一つの形は、4人が一直線になるパターンです。
オフサイドを取りたいときに、こうした形をとることが多いです。フラット4と呼んだりもします。でも、オフサイドのルールが変わって、オフサイドトラップ破りが簡単になって以降は、あまり見られなくなりました(まあ、相手のレベルにもよります。だぼハゼのようにオフサイドへ何度もひっかかるアホFWが相手の場合には、いまもって有効なフォーメーションです)。
最後は絶滅危惧種のスイーパーを置くパターンです。
センターバック(CB)を縦並びに配置します。後ろのCBがスイーパーです。
3バックシステムのカバーを、スイーパー1人で担うことになるので、スイーパーには非常に高い能力が求められます。
フラット4もスイーパーシステムも、まともなレベルのサッカーをしてくるふつうのチームが相手の実戦ではメリットよりもデメリットの方が大きいと考えられるので、DFそれぞれが状況に応じてフォローしあえる、逆台形型のライン4を採用するのがどうしたって多数派になります。
【MF─4人中盤─フラット4─】
4枚のミッドフィールダー(MF)を横一線に並べるシステムです。
ピッチを幅広く使うことがしやすい配置です。
その一方で中盤中央の守備が手薄になるという弱点があります。
守備の時には、CBの2人とセントラルMF(中央のMF)の2人でブロック(固い四角形)を作りやすかったり、またDFラインとMFラインの間を狭めることで、全体をコンパクトにすることもしやすい形です。
【MF─4人中盤─ダイヤモンド─】
菱形に配置します。
この配置の最大の魅力は、三角形をたくさん作れることです。三角形というのは、パスをもらう動きの基本「三角形を作るようにポジションをとる」の三角形のことです。ただしフラット4に比べると、どうしてもサイドへの張り出しは狭くなります。
また守備の時も、1ボランチとなってしまう選手の負担が過大になり、試合展開によっては「死にます」。
あと、全体をコンパクトにすることも、それなりの取り決めを徹底しておかないと失敗します。中盤の厚みができるということ=縦に間延びする可能性アリ、ですから。
【MF─4人中盤─ボックス─】
ボックス、簡単に言えば2ボランチを底に左右前方へサイドハーフ(SH)配置した極ふつうのフォーメーションです。
バイタルエリアにブロックを作りやすいので守りが安定する形なのですが、中盤中央部に広大なスペースが生まれてしまうので、そのケアに気を配る必要があります。
フラット4と比べてボランチ横が空いているので、SBが上がりやすい効果もあります。SBが上がった場合、CBとボランチが協力してフォローしやすいフォーメーションでもあります。
【FW─2トップ─横並び─】
2人の動きが重ならないようにします。その時その時の状況によって、いかようにも組合せを変更できる柔軟な形です。
【FW─2トップ─縦置き─】
組合せは固定的で、ターゲットマン役とその周囲をケアする衛星役で構成されます。
このコンビがピタリといっている場合、この2人だけで得点を狙うことができる強力な布陣です。ただ、なかなかこうしたコンビはそろわないのが難点です。
【MF─3人中盤─三角形─】
両サイドがスカスカ。サイドバックやウイングなどの上下動が非常に重要となります。サイドに強力な選手を持っていると、ワイドでダイナミックな攻撃が可能です。CBとブロックを形成できるので中央の守備は固くなります。
【3人中盤─逆三角形─】
守備の時はもちろんのこと、攻撃の時やポゼッションの時も、後ろで1人きりの守備的MFと2人のセンターバックがどれだけ連携できるかがポイントとなります。
この形も、両サイドは手薄になりがちなので注意が必要です。
【3人中盤─フラット3─】
MF全員に総合的な高い個人能力の求められるフォーメーションです。オランダ代表やFCバルセロナなんかが採用しています。育成の段階で、まだ選手個々の特性ができあがっていないときにも有効な形だと思います。
蛇足ですが、わたし的には、現在主流の4-4-2よりも、こちらを生かした4-3-3というフォーメーションの方が好きです。
【FW─3トップ】
私個人的には大好きなフォーメーションです。昔はこれしかなかったですもんね。
両ウイングとセンターフォワード←う~ん、すばらしい。ワクワクします。
ただ昨今は、センターフォワードらしいセンターフォワードが少ないので、なかなか採用しにくいというのも分からないではないです。
でも、私個人的には、また人気を取り戻して欲しいシステムなのです。
何度でも書きますが、わたし的には、現在主流の4-4-2よりも、こちらを生かした4-3-3というフォーメーションの方が好きです。
【MF─5人中盤─M型─】
前に2人、後ろに3人の配置。中央には後方1人のMFだけなので、守備の面で穴ができやすいように思います。相手の攻撃に押し込まれた場合、両サイドのMFがDFラインに吸収されて5バックになりがちでもあります。
でもこちらが優勢な時は、前の2人のMFと両サイドの2人のMFがリンクして、中盤を完璧に支配できるというメリットもあります。
【MF─5人中盤─W型─】
後方の2人のMFとセンターバックで、バイタルエリアに強固なブロックを形成できます。また、前方3人のMFがプレッシングをしかけることに成功すれば、連続攻撃もしやすいです。ただそれが機能しない場合は、両サイドのスペースを突かれてしまう両刃の剣でもあります。
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日本の子供たちは頭が良いし、攻略本で前知識を仕込むビデオゲームにも慣れているので、この程度の極々基礎的なフォーメーションの説明くらいは、してあげてもいいように思います。その方が、自分で考えてサッカーをするようにもなるのではないでしょうか。
フォーメーションの話に関連して、各ポジションごとに求められる役割や能力についても書いてみたいとも思いましたが、それはまた別の機会にします。
2011年7月12日火曜日
アルゼンチン代表の問題は解決していない。
アルゼンチン×コスタリカ戦を観た感想。
中盤に問題を抱えているアルゼンチンに対しているのに、コスタリカは全体が引き過ぎ。
コスタリカは招待チームかぁ。
オリンピック世代のチームなのかぁ。
アルゼンチンは自国開催のW杯でもやってるんだよなぁ。
などなどを考えていると、コスタリカの選手は知らないまでも、コスタリカの監督はあえて“引いた”戦術を取ったんじゃないのと勘ぐられても仕方のないようなゲームプランだった。
だって、アルゼンチンの弱点を突くのなら中盤で勝負するべきなのに、アルゼンチンのストロングポイントである前線にボールが回ってくるまで一切プレッシャーをかけないってのは、いくらなんでも不自然でしょ。
わたしは、通常のテレビ観戦では音声を消した上での若干早回し、という設定にしている。
こうすると余計な雑音に惑わされずに、オフザボールの動きも合わせ、試合そのものを楽しめる、と確信しているからだ。
実際に生観戦するときよりも、テレビ観戦は試合がスローに見えるし、解説などでトンチンカンな横やりも多い、んじゃないかなあとわたしが思っているからだ。
どうも世間(といっても主にスポーツニュースやネットの評価)では、メッシが調子を取り戻したのでアルゼンチンは復調するだろうという見方が主流になっているようだ。
でもわたしにはそうは思えない。
メッシにしても、あんなにやさしく当たってくれるのは、この南米選手権出場チームではコスタリカだけ。南米のトップDFにきっちりやられたら、この試合みたいに余裕を持ってボールを持つことはできない。絶対に。
幼少の頃からヨーロッパの一流クラブで純粋培養されたことで、本来ダーティ(抜け目ないとも言う)な国民性であるアルゼンチン人でありながら素直で正直なプレースタイルを形成できた最大の要因だろうと思うのだが、その弊害として、いわゆる「マリーシア」が乏しいことにもなっているとわたしには見える。
決勝トーナメントではC組の、ウルグアイ、チリ、ペルーのどこかと当たる。
ウルグアイやチリに当たったとしたら、間違いなくアルゼンチンは決勝トーナメント1回戦で姿を消す。
勝ち上がる可能性があるとすれば、ペルーだけだろう。
どうかアルゼンチンの対戦相手がペルーとなってくれることを、心から願うものでありまする。
中盤に問題を抱えているアルゼンチンに対しているのに、コスタリカは全体が引き過ぎ。
コスタリカは招待チームかぁ。
オリンピック世代のチームなのかぁ。
アルゼンチンは自国開催のW杯でもやってるんだよなぁ。
などなどを考えていると、コスタリカの選手は知らないまでも、コスタリカの監督はあえて“引いた”戦術を取ったんじゃないのと勘ぐられても仕方のないようなゲームプランだった。
だって、アルゼンチンの弱点を突くのなら中盤で勝負するべきなのに、アルゼンチンのストロングポイントである前線にボールが回ってくるまで一切プレッシャーをかけないってのは、いくらなんでも不自然でしょ。
わたしは、通常のテレビ観戦では音声を消した上での若干早回し、という設定にしている。
こうすると余計な雑音に惑わされずに、オフザボールの動きも合わせ、試合そのものを楽しめる、と確信しているからだ。
実際に生観戦するときよりも、テレビ観戦は試合がスローに見えるし、解説などでトンチンカンな横やりも多い、んじゃないかなあとわたしが思っているからだ。
どうも世間(といっても主にスポーツニュースやネットの評価)では、メッシが調子を取り戻したのでアルゼンチンは復調するだろうという見方が主流になっているようだ。
でもわたしにはそうは思えない。
メッシにしても、あんなにやさしく当たってくれるのは、この南米選手権出場チームではコスタリカだけ。南米のトップDFにきっちりやられたら、この試合みたいに余裕を持ってボールを持つことはできない。絶対に。
幼少の頃からヨーロッパの一流クラブで純粋培養されたことで、本来ダーティ(抜け目ないとも言う)な国民性であるアルゼンチン人でありながら素直で正直なプレースタイルを形成できた最大の要因だろうと思うのだが、その弊害として、いわゆる「マリーシア」が乏しいことにもなっているとわたしには見える。
決勝トーナメントではC組の、ウルグアイ、チリ、ペルーのどこかと当たる。
ウルグアイやチリに当たったとしたら、間違いなくアルゼンチンは決勝トーナメント1回戦で姿を消す。
勝ち上がる可能性があるとすれば、ペルーだけだろう。
どうかアルゼンチンの対戦相手がペルーとなってくれることを、心から願うものでありまする。
2011年6月27日月曜日
配ることは簡単じゃない。
東日本大震災:スマップ・中居さん配布のゲーム機、石巻市が慰問の子から回収 /宮城
毎日新聞 2011年6月27日 地方版
◇石巻の避難所
石巻市の門脇中学校の避難所で26日、慰問に訪れた人気グループ「SMAP」のメンバー、中居正広さんが子供たちに配ったゲーム機を、市職員が、クラシックバレエの披露のために同校にいた子供たちから「避難所外の子供」を理由に回収したことが分かった。市は抗議を受け、返却することにしたが、市の対応に批判の声も上がっている。
市などの説明によると、中居さんは同日、被災した子供と一緒に、市内のバレエ教室の子供に人形や1台数万円のゲーム機を配った。中居さんから「頑張ってね」とプレゼントを手渡された子供たちは大喜びした。
ところが、被災者の子供の保護者らから「ボランティアで訪れた子供が高価なプレゼントを受けるのおかしい」と市職員に抗議。これを受け、市職員はバレエ教室の子供に返還を求めた。ゲーム機を回収された小学4年生の女児は「中居さんからもらったと、友達に自慢しようと思っていたのに」とがっかりしていたという。
一方、市には「子供たちの心を傷つけた」などと対応を批判する苦情の電話が相次いだ。市避難所対策室では「配慮に欠けた」と陳謝。ゲーム機をバレエ教室を通じて子供たちに返すことにした。【石川忠雄】
----------------------------------------------------------------
もしこれが大人のやったことだったら、事件としてはわかりやすい。
要するに、『ボランティアスタッフによる支援物資横領事件』に過ぎないからだ。
(そういえば、震災当初はとある有名市民平和運動船団体が、支援物資を独り占めしているというような報道もあったと記憶しているが、あれはどうなったのだろうか? ボランティア担当大臣とかいうのもいたような……)
さて話を戻せば、本来は異論など出る余地のない単純な構図の事件であるはずなのに、なぜ今回のことが論議を呼んでいるかというと、横領したのが「ボランティアすることを大人から強制させられた‘被災者じゃない子供たち’」であるからだ。
横領した側の意見として、記事中では「小学4年生の女児」によるコメントが紹介されている。
このコメントが、直接本人から聞き取ったものなのか、あるいは市職員、あるいは他の第三者からの又聞き、又々聞き、あるいは記者による想像、のいずれなのかわからないが、そうした内容の発言が実際にあったと仮定してみると、この女児にはそれが『支援物資』であったかどうかの認識はなかったであろうことが読み取れる。
はたしてこの小4の女の子に、ボランティアというものが理解できていただろうか?
また、被災している子供たちの状況が理解できたいただろうか?
私には、彼女が理解できていたとは、到底思えない。
大人でさえ、「ボランティア」というものを誤解している人が大勢いるのだから、小4の子が理解していなかったとしても、決して責められるものではない。
むしろ、退院するあてのない難病の子供たちがいる小児病棟へ、元気な子供たちを大勢連れて行って「さあ、ボランティアに来ましたよ! お友達になりましょうね!」と得意満面になっている大人たちの醜悪な達成感と同じ臭いがただよってくるようで、不快極まりない──は言い過ぎでも、ちょっとどうなのかなぁとは思う(私の場合は、です)。
今回の騒動を経て学ぶべきことがあるとすれば、こうした類(たぐい)の支援物資は、被災者個人に渡すのではなくて、避難所の共有物とするような方法にしたほうが混乱が生じにくいだろう、ということだ。
あの子はもらったけど、うちの子はもらえなかった。
あの人はもらえたのに、わたしはもらえなかった。
避難所という、強ストレス下のとても狭い共同体において、上記のような不公平感は危険な状況を招きかねない。
私が危惧しているのは、震災後の初盆が終わった今年の秋以降に急増するであろう、被災地での自殺や失踪のことだ。
その際、助けになるのは、地域や避難所という小さなコミュニティでの「つながり」であり「一体感」だと私は確信している。
なので、その「つながり」や「一体感」を浸食し、脆(もろ)くさせ、断ち切る要因のひとつである「不公平感」の種をまくような今回のゲーム機騒動は、支援する側にもうちょっと想像力があれば子供たちみんなが喜んだだろうに残念だなあ、というのが私なりの感想だ。
何の本だったか記憶が確かじゃないけど、内輪もめを起こさせるには足りないように与えればいい、みたいなことが書いてあった。
君主が領民を支配する方法だったか、敵の力を削ぐ方法だったか、なんかそんなようなことについての話だったはずだ。
「援助する」とか「手を差し伸べる」ってのには、情熱や共感力にプラスして、俯瞰(ふかん)できる冷静さと先を読める賢さも必要なんだよね。
サッカーと一緒。
追伸 そもそもこの慰問バレエの子供たちには、このゲーム機などの所有権はないのだから、さっさとあやまって返却した方がいい。たまたまその場所にいて自分がそれ受け取ったからといって、その物を自分の物にできるわけではない。病室見舞いの品や、引っ越しあいさつの品を、たまたまその場所にいて直接受け取ったからといって、第三者が自分の物にできるわけじゃないのと同じことだ。品物の送り主が入院している人や引っ越し先の隣人へ渡したと思っていることは明らかだし、社会常識に照らしても、それが誰に贈られた品なのかも明らかだからだ。
なので、今回避難所の被災児童へ贈られた『中居氏のゲーム機』も、当然その所有権は避難所の被災児童にあることは明らかであって、レンポゥやセンゴクウやエダノッチが強弁しても、「避難所の被災児童、もしくは避難所の管理責任者、またはそれらに類する以外の人間」に所有権は発生しない。ボケかけたおばあちゃんが、銀行の待合で銀行員と間違えて知らない人に入金を依頼したとして、じゃあその現金を手渡された第三者がそれをもらえるのかというと、そんなことにはならないでしょ。そんなことしたら横領になっちゃう。
これが野原の真ん中で「これあげる」って手渡されたのなら、「ありがとう」ってごっちゃんしちゃえばいいんだけど、誰がどう見たって、誰にあげよううとしたのか明らかな今回みたいなケースでは、「ごめんね」って素直に返した方がお利口です。
毎日新聞 2011年6月27日 地方版
◇石巻の避難所
石巻市の門脇中学校の避難所で26日、慰問に訪れた人気グループ「SMAP」のメンバー、中居正広さんが子供たちに配ったゲーム機を、市職員が、クラシックバレエの披露のために同校にいた子供たちから「避難所外の子供」を理由に回収したことが分かった。市は抗議を受け、返却することにしたが、市の対応に批判の声も上がっている。
市などの説明によると、中居さんは同日、被災した子供と一緒に、市内のバレエ教室の子供に人形や1台数万円のゲーム機を配った。中居さんから「頑張ってね」とプレゼントを手渡された子供たちは大喜びした。
ところが、被災者の子供の保護者らから「ボランティアで訪れた子供が高価なプレゼントを受けるのおかしい」と市職員に抗議。これを受け、市職員はバレエ教室の子供に返還を求めた。ゲーム機を回収された小学4年生の女児は「中居さんからもらったと、友達に自慢しようと思っていたのに」とがっかりしていたという。
一方、市には「子供たちの心を傷つけた」などと対応を批判する苦情の電話が相次いだ。市避難所対策室では「配慮に欠けた」と陳謝。ゲーム機をバレエ教室を通じて子供たちに返すことにした。【石川忠雄】
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もしこれが大人のやったことだったら、事件としてはわかりやすい。
要するに、『ボランティアスタッフによる支援物資横領事件』に過ぎないからだ。
(そういえば、震災当初はとある有名市民平和運動船団体が、支援物資を独り占めしているというような報道もあったと記憶しているが、あれはどうなったのだろうか? ボランティア担当大臣とかいうのもいたような……)
さて話を戻せば、本来は異論など出る余地のない単純な構図の事件であるはずなのに、なぜ今回のことが論議を呼んでいるかというと、横領したのが「ボランティアすることを大人から強制させられた‘被災者じゃない子供たち’」であるからだ。
横領した側の意見として、記事中では「小学4年生の女児」によるコメントが紹介されている。
このコメントが、直接本人から聞き取ったものなのか、あるいは市職員、あるいは他の第三者からの又聞き、又々聞き、あるいは記者による想像、のいずれなのかわからないが、そうした内容の発言が実際にあったと仮定してみると、この女児にはそれが『支援物資』であったかどうかの認識はなかったであろうことが読み取れる。
はたしてこの小4の女の子に、ボランティアというものが理解できていただろうか?
また、被災している子供たちの状況が理解できたいただろうか?
私には、彼女が理解できていたとは、到底思えない。
大人でさえ、「ボランティア」というものを誤解している人が大勢いるのだから、小4の子が理解していなかったとしても、決して責められるものではない。
むしろ、退院するあてのない難病の子供たちがいる小児病棟へ、元気な子供たちを大勢連れて行って「さあ、ボランティアに来ましたよ! お友達になりましょうね!」と得意満面になっている大人たちの醜悪な達成感と同じ臭いがただよってくるようで、不快極まりない──は言い過ぎでも、ちょっとどうなのかなぁとは思う(私の場合は、です)。
今回の騒動を経て学ぶべきことがあるとすれば、こうした類(たぐい)の支援物資は、被災者個人に渡すのではなくて、避難所の共有物とするような方法にしたほうが混乱が生じにくいだろう、ということだ。
あの子はもらったけど、うちの子はもらえなかった。
あの人はもらえたのに、わたしはもらえなかった。
避難所という、強ストレス下のとても狭い共同体において、上記のような不公平感は危険な状況を招きかねない。
私が危惧しているのは、震災後の初盆が終わった今年の秋以降に急増するであろう、被災地での自殺や失踪のことだ。
その際、助けになるのは、地域や避難所という小さなコミュニティでの「つながり」であり「一体感」だと私は確信している。
なので、その「つながり」や「一体感」を浸食し、脆(もろ)くさせ、断ち切る要因のひとつである「不公平感」の種をまくような今回のゲーム機騒動は、支援する側にもうちょっと想像力があれば子供たちみんなが喜んだだろうに残念だなあ、というのが私なりの感想だ。
何の本だったか記憶が確かじゃないけど、内輪もめを起こさせるには足りないように与えればいい、みたいなことが書いてあった。
君主が領民を支配する方法だったか、敵の力を削ぐ方法だったか、なんかそんなようなことについての話だったはずだ。
「援助する」とか「手を差し伸べる」ってのには、情熱や共感力にプラスして、俯瞰(ふかん)できる冷静さと先を読める賢さも必要なんだよね。
サッカーと一緒。
追伸 そもそもこの慰問バレエの子供たちには、このゲーム機などの所有権はないのだから、さっさとあやまって返却した方がいい。たまたまその場所にいて自分がそれ受け取ったからといって、その物を自分の物にできるわけではない。病室見舞いの品や、引っ越しあいさつの品を、たまたまその場所にいて直接受け取ったからといって、第三者が自分の物にできるわけじゃないのと同じことだ。品物の送り主が入院している人や引っ越し先の隣人へ渡したと思っていることは明らかだし、社会常識に照らしても、それが誰に贈られた品なのかも明らかだからだ。
なので、今回避難所の被災児童へ贈られた『中居氏のゲーム機』も、当然その所有権は避難所の被災児童にあることは明らかであって、レンポゥやセンゴクウやエダノッチが強弁しても、「避難所の被災児童、もしくは避難所の管理責任者、またはそれらに類する以外の人間」に所有権は発生しない。ボケかけたおばあちゃんが、銀行の待合で銀行員と間違えて知らない人に入金を依頼したとして、じゃあその現金を手渡された第三者がそれをもらえるのかというと、そんなことにはならないでしょ。そんなことしたら横領になっちゃう。
これが野原の真ん中で「これあげる」って手渡されたのなら、「ありがとう」ってごっちゃんしちゃえばいいんだけど、誰がどう見たって、誰にあげよううとしたのか明らかな今回みたいなケースでは、「ごめんね」って素直に返した方がお利口です。
2011年5月31日火曜日
もし私がファーガソンだったら。
もし私がファーガソンだったら。
前半10分までに見せたような、バカプレスはかけない。
あれじゃあ、ドッグレースの犬か、エサで釣られる飢えた野良犬ではないか。
どうしてもプレスをかけたかったのなら、せめてエリアくらいは限定して欲しかった。
それでもあの面子(めんつ)じゃあ、いいように遊ばれて終わりだったろうけどね。
もともとバルセロナの選手たちは、パスよりもドリブルの方が好きだし得意な選手たちなんだから、それを利用しない手はない。
【作戦】
バルサに好きなだけドリブルさせる。
【目的】
ショートパスサッカーのリズムにしない。
人は得意な分野で足をすくわれる。
得意であるからこそ、気が緩み、隙が生まれるからだ。
メッシのドリブルに対しては、バルサのチーム戦術としてそれを生かすよう周りが動き、さながら「メッシ・ドリブル・フォーメーション」のような破壊力を見せる。メッシがドリブルに入った以降をスローにして観ると、ダイレクトでのパス交換ができる距離へのフォローに入る選手や、相手DFの注意を引く動きをする選手、コースを作る選手、ブロックする選手、などが有機的に連携しているのがよく分かる。メッシの前に勝手にコースが拓けていくように感じられるのは、戦術としてそうなるような仕掛けがあるからだ。それに納得できるくらい、チーム全員がメッシの実力を認めている証でもある。メッシのドリブルを生かすことが、決定的なチャンスを作る最も効率的な手段であると、チームが確信しているのだ。
ただしこれは落とし穴にもなる。
メッシ以外の選手がドリブルに入ったときにも、はたしてこの戦術は機能するのか。
実は機能していない。
ビジャあたりがドリブルに入った時、周りの味方はビジャのドリブルを生かすことよりも、ビジャのドリブルによって生じる変化に対応することを考えて動いている。
程度の差はあれ、チャビやイニエスタがドリブルに入った時にも同じような反応を見せている。
これ、つまりメッシ以外の選手らがドリブルを続けるような展開を私は、「バルサにとっては不自然な状態」だと捉えている。
[説明]
バルサにとって自然な状態とは、
・速いテンポで人もボールも動く状況
であろう。
とすれば、一人一人のボールを持つ時間が長くなり、周辺の人間が次への対応にすばやく反応しようと身構えている(足が止まってボールを見ている)ような状態は、望ましくない「不自然な状態」だということになる。
もし私がマンチェスター・ユナイテッドのファーガソン監督であったなら、柔道の達人のように、まず相手の重心を崩すことから始めつつ、相手が隙を見せた瞬間の攻撃への展開を考える。先日のCL決勝戦で見せたような、まるでがっついた男子高校生みたいな“いきなり瞬間沸騰!”みたいな醜態は絶対に避ける。相手は南アWC優勝チームの中心メンバーがそろった百戦錬磨のFCバルセロナなのだから。
とは言ったものの、今期アウェイ成績5勝10分4敗のマンU(マンUのホームはオールド・トラッフォード。CL決勝はウェンブリー)からしてみれば、FCバルセロナから得点しただけでも上出来と考えた方がいいのかもしれない。
ところでFCバルセロナのサッカーを攻撃的とするのは、どういう観点によるのだろうか?
確かに引いて守ってるわけではないけど、でも決して積極的にゴールを奪いに行っているわけでもない。
私には極力リスクを避け、あえて誰もチャレンジしない、高校野球でいうところのバットを短く持ってコツコツ当てる「ザ・全員野球」そっくりに見えてしまって、どうも「バルサのサッカーは攻撃サッカー!」みたいなうたい文句には素直にうなずけないんだよなあ。
【参照】
バルサの弱点はここ
対バルサ戦略~偽ファーガソン編~
バルサをマネる3つのポイント
昔のバルサはこうだった
バルサの育成投資方針
バルサ5-0レアルの動画
昨年度(09-10シーズン)CLでのFCバルセロナ評
2009-2010CL準決勝インテル×バルサ第1戦
イニエスタの作り方
FCバルセロナの哲学
前半10分までに見せたような、バカプレスはかけない。
あれじゃあ、ドッグレースの犬か、エサで釣られる飢えた野良犬ではないか。
どうしてもプレスをかけたかったのなら、せめてエリアくらいは限定して欲しかった。
それでもあの面子(めんつ)じゃあ、いいように遊ばれて終わりだったろうけどね。
もともとバルセロナの選手たちは、パスよりもドリブルの方が好きだし得意な選手たちなんだから、それを利用しない手はない。
【作戦】
バルサに好きなだけドリブルさせる。
【目的】
ショートパスサッカーのリズムにしない。
人は得意な分野で足をすくわれる。
得意であるからこそ、気が緩み、隙が生まれるからだ。
メッシのドリブルに対しては、バルサのチーム戦術としてそれを生かすよう周りが動き、さながら「メッシ・ドリブル・フォーメーション」のような破壊力を見せる。メッシがドリブルに入った以降をスローにして観ると、ダイレクトでのパス交換ができる距離へのフォローに入る選手や、相手DFの注意を引く動きをする選手、コースを作る選手、ブロックする選手、などが有機的に連携しているのがよく分かる。メッシの前に勝手にコースが拓けていくように感じられるのは、戦術としてそうなるような仕掛けがあるからだ。それに納得できるくらい、チーム全員がメッシの実力を認めている証でもある。メッシのドリブルを生かすことが、決定的なチャンスを作る最も効率的な手段であると、チームが確信しているのだ。
ただしこれは落とし穴にもなる。
メッシ以外の選手がドリブルに入ったときにも、はたしてこの戦術は機能するのか。
実は機能していない。
ビジャあたりがドリブルに入った時、周りの味方はビジャのドリブルを生かすことよりも、ビジャのドリブルによって生じる変化に対応することを考えて動いている。
程度の差はあれ、チャビやイニエスタがドリブルに入った時にも同じような反応を見せている。
これ、つまりメッシ以外の選手らがドリブルを続けるような展開を私は、「バルサにとっては不自然な状態」だと捉えている。
[説明]
バルサにとって自然な状態とは、
・速いテンポで人もボールも動く状況
であろう。
とすれば、一人一人のボールを持つ時間が長くなり、周辺の人間が次への対応にすばやく反応しようと身構えている(足が止まってボールを見ている)ような状態は、望ましくない「不自然な状態」だということになる。
もし私がマンチェスター・ユナイテッドのファーガソン監督であったなら、柔道の達人のように、まず相手の重心を崩すことから始めつつ、相手が隙を見せた瞬間の攻撃への展開を考える。先日のCL決勝戦で見せたような、まるでがっついた男子高校生みたいな“いきなり瞬間沸騰!”みたいな醜態は絶対に避ける。相手は南アWC優勝チームの中心メンバーがそろった百戦錬磨のFCバルセロナなのだから。
とは言ったものの、今期アウェイ成績5勝10分4敗のマンU(マンUのホームはオールド・トラッフォード。CL決勝はウェンブリー)からしてみれば、FCバルセロナから得点しただけでも上出来と考えた方がいいのかもしれない。
ところでFCバルセロナのサッカーを攻撃的とするのは、どういう観点によるのだろうか?
確かに引いて守ってるわけではないけど、でも決して積極的にゴールを奪いに行っているわけでもない。
私には極力リスクを避け、あえて誰もチャレンジしない、高校野球でいうところのバットを短く持ってコツコツ当てる「ザ・全員野球」そっくりに見えてしまって、どうも「バルサのサッカーは攻撃サッカー!」みたいなうたい文句には素直にうなずけないんだよなあ。
【参照】
バルサの弱点はここ
対バルサ戦略~偽ファーガソン編~
バルサをマネる3つのポイント
昔のバルサはこうだった
バルサの育成投資方針
バルサ5-0レアルの動画
昨年度(09-10シーズン)CLでのFCバルセロナ評
2009-2010CL準決勝インテル×バルサ第1戦
イニエスタの作り方
FCバルセロナの哲学
2011年5月29日日曜日
バルセロナの弱点はここ
2010-2011UEFA Champions League Final(マンチェスターユナイテッド × FC バルセロナ) をフジテレビで観戦した。
以前に、「サッカーをより楽しく観る方法 ─テレビ観戦編─ 」でも書いたように、音声を消して観戦した。
ほとんど二日酔い状態の上に半覚醒脳での観戦であったこともあり、これから書くことについての責任能力は法廷でも重要焦点となる程度のものであったことを、最初に提示しておく。
【1 今試合のマンUは、バルサにしてみれば一番オイシイ相手だった】
事前の分析でも、バルサ側にはそういう認識があったのだろう。だから試合前のインタビューなどで、メッシなんかが一生懸命マンUを持ち上げていたのだ。マンUがマンUらしいサッカーをしてくれるように。その方が自分たちには好都合だから。
【2 マンUのどこが美味しかったのか】
サイドアタッカーがいないことと自己評価が高いこと、これに尽きる。
今のバルサが苦手とするのは、ベスト布陣のトットナムみたいなチームであって、現在のマンUはその対極に近い。
【3 それはなぜ?】
バルサにはスピードのある選手がいない。それにショートパスを多用するために、選手間の距離が短い。つまり、最終ラインの後ろには、どうしてもスペースが生まれてしまう。そこをわかっていてもやられる武器(レノンやベイルのようなスピード、そしてクラウチの高さなど)で突かれると厳しくなる。対応しようとして選手間の距離が広がると、自分たちのサッカーもできなくなるという悪循環に陥ってしまう。
【4 マンUに打つ手はなかったのか】
圧倒的なFWがいない時点で、マンUに打つ手はなかった。
マンUのファーガソン監督は、中盤の強化よりもむしろ強力なFWとスピードのあるサイドアタッカー獲得を、選手補強の担当者へ厳命しているに違いない。
【5 中盤を支配されたことが敗因じゃないの?】
バルサの戦術は、中盤を支配すること、にあるんじゃなくて、支配できる地域に中盤を形成すること、がベースになっている。
だから対戦相手や戦況によって、いわゆる中盤(相手から奪ったボールを集め、キープして状況を整え、攻撃を仕掛ける起点となる場所。戦争でいうところの基地)のある位置──チャビ、イニエスタ、メッシらがボールに絡む地域──は変わってくる。
逆に言うと、バルサの戦術においては、どんな相手との戦いであっても、チャビ、イニエスタ、メッシらが守備をし続けるような状況は起こりえないということ。これは優劣の問題ではなく、戦術的な選択の問題だという点に気付けば、理解できるはず。
【6 現バルサはサッカー史上最強だよね】
それはない。
現バルサのストロングポイントである中盤を取ってみても、代表チームで比較するなら、プラティニのフランス代表やジーコのブラジル代表には遠く及ばないし、単独チームで比較してもバレージ、フリット、ファンバステンの頃のACミランや98/99シーズン3冠時のマンUよりも強力かと問われて、「YES」と答えるサッカーファンはそれほどいないだろう。チームとしての総合力比較となればなおさらだ。
【7 じゃあなんで今期のバルサは無敵だったの?】
2010FIFAワールドカップ南アフリカ大会で明らかになったように、今、世界のサッカー界にはタレントが枯渇している。
スポーツ医学が発達したせいなのか、グローバルマネジメント企業隆盛(代理人の交渉力強化)の弊害なのか、チーム経営に投資ビジネスがくい込んできた影響なのか、何が原因なのかはっきり「コレだ!」とは言えないが、とにかく選手寿命が、世紀の変わり目を境に劇的に伸びている。特に名前の売れたトップ選手ほどその傾向は顕著に見られる。その反動として、新しい才能が開花する場を奪われているように私には見える。
タレントが少なくなった※結果、英独以外の、欧州南米の各国リーグは停滞している。国内リーグの停滞は、リーグ全体のレベルを低下させる。したがって、バルサが無敵だったというよりも、他のチームのレベルが低下したというあたりが真相なのではないだろうか。
※ 「天才」という表現のハードルが下がった、いや価値が暴落したと見ることもできる。能力で明確に差別化できるまで、育成に時間をかけられなくなったのだろう。それで仕方なく、促成栽培早期出荷するしかなくなり「天才」が毎年各国各世代に誕生することになったのだ。アフリカ出身の選手も、なんだか小粒な優等生ばっかりになってきたし、つまらんなあ。
【8 レベルが低下? 信じられないんですけど】
サッカーのレベルを見るのに便利なマーカーのひとつが、ゴールキーパーだ。
リーグ、世代、チーム、どういうセグメントであってもサッカーのレベルが上がると、自然といいゴールキーパーも育つ。
今現在、トップクラスのゴールキーパーというと誰になるだろうか?
【9 でもバルサのスタイルは完璧でしょ】
あれはFCバルセロナのスタイル※じゃなくて、チャビ・イニエスタ・メッシのスタイル。
アルゼンチン代表でメッシがまったく輝けず、チャビとイニエスタはスペイン代表でそこそこ輝けているという事実がそれを証明している。
アルゼンチン代表にチャビかイニエスタのどちらかがいたら、メッシも違っていたはずだ。
これもチーム・選手・戦術の優劣の問題ではなく、組合せの問題なのだ。
バルセロナにとって現在進行中の問題は、チャビ→イニエスタ→メッシ→?の答えが見つかっていない点だろう。
チャビ・イニエスタ・メッシと連なる系譜の後継者が途絶えれば、バルサも現在のスタイルを変えざるを得なくなる。
※ バルサ本来の伝統的スタイルは、徹底的にサイドを使って崩すサッカー。バルサのサポも、サイドでの1対1を闘牛を見るかのように応援してきた。これはまったくの想像だけど、昔のようなスタイルを望んでいるバルササポも、地元では少なくないのではないだろうか。
【10 ひねくれてる】
前にどこかで「センス」について書いたが、要するに、私のサッカー観ってのはそういうことだってこと。それだけのこと。
今朝のCL決勝戦を見て、子供たちはどの選手のマネをしたいと思っただろうか?
バルセロナがやったようなサッカーをしたい、と思う子はいても、誰それ選手のマネをしたいと思った子は少ないのではないだろうか。
まあこれは私の想像なので、もしかすると世間のサッカー少年たちは、
「俺、ビクトール・バルデスになる!」「僕はブスケツ!」「おいらキャリック!」「おいどんはバレンシア」「エブラ最高!」
みたいなことになっているのかもしれないが、もしそうなら己の世間知らずを恥じたい。
【11 何が言いたいわけ?】
バルサだろうがマンUだろうが、それを日本から日本人が、どっちが上だ下だと言い争っても空しいだけで、だったら両チームの良いところ悪いところを分析する方が面白いぞって俺は確信してるってこと。
それにせっかく極東の島国からヨーロッパリーグの外国チームを応援するのなら、メジャーで強いところよりも、マイナーなチームを応援しませんかってこと。
──です。
【参照1】
ブラジルに見る「決定力」育成法
ユース出身は使えない
ところ変われば、評価も変わる
【参照2】
バルサの弱点はここ
対バルサ戦略~偽ファーガソン編~
バルサをマネる3つのポイント
昔のバルサはこうだった
バルサの育成投資方針
バルサ5-0レアルの動画
昨年度(09-10シーズン)CLでのFCバルセロナ評
2009-2010CL準決勝インテル×バルサ第1戦
イニエスタの作り方
FCバルセロナの哲学
以前に、「サッカーをより楽しく観る方法 ─テレビ観戦編─ 」でも書いたように、音声を消して観戦した。
ほとんど二日酔い状態の上に半覚醒脳での観戦であったこともあり、これから書くことについての責任能力は法廷でも重要焦点となる程度のものであったことを、最初に提示しておく。
【1 今試合のマンUは、バルサにしてみれば一番オイシイ相手だった】
事前の分析でも、バルサ側にはそういう認識があったのだろう。だから試合前のインタビューなどで、メッシなんかが一生懸命マンUを持ち上げていたのだ。マンUがマンUらしいサッカーをしてくれるように。その方が自分たちには好都合だから。
【2 マンUのどこが美味しかったのか】
サイドアタッカーがいないことと自己評価が高いこと、これに尽きる。
今のバルサが苦手とするのは、ベスト布陣のトットナムみたいなチームであって、現在のマンUはその対極に近い。
【3 それはなぜ?】
バルサにはスピードのある選手がいない。それにショートパスを多用するために、選手間の距離が短い。つまり、最終ラインの後ろには、どうしてもスペースが生まれてしまう。そこをわかっていてもやられる武器(レノンやベイルのようなスピード、そしてクラウチの高さなど)で突かれると厳しくなる。対応しようとして選手間の距離が広がると、自分たちのサッカーもできなくなるという悪循環に陥ってしまう。
【4 マンUに打つ手はなかったのか】
圧倒的なFWがいない時点で、マンUに打つ手はなかった。
マンUのファーガソン監督は、中盤の強化よりもむしろ強力なFWとスピードのあるサイドアタッカー獲得を、選手補強の担当者へ厳命しているに違いない。
【5 中盤を支配されたことが敗因じゃないの?】
バルサの戦術は、中盤を支配すること、にあるんじゃなくて、支配できる地域に中盤を形成すること、がベースになっている。
だから対戦相手や戦況によって、いわゆる中盤(相手から奪ったボールを集め、キープして状況を整え、攻撃を仕掛ける起点となる場所。戦争でいうところの基地)のある位置──チャビ、イニエスタ、メッシらがボールに絡む地域──は変わってくる。
逆に言うと、バルサの戦術においては、どんな相手との戦いであっても、チャビ、イニエスタ、メッシらが守備をし続けるような状況は起こりえないということ。これは優劣の問題ではなく、戦術的な選択の問題だという点に気付けば、理解できるはず。
【6 現バルサはサッカー史上最強だよね】
それはない。
現バルサのストロングポイントである中盤を取ってみても、代表チームで比較するなら、プラティニのフランス代表やジーコのブラジル代表には遠く及ばないし、単独チームで比較してもバレージ、フリット、ファンバステンの頃のACミランや98/99シーズン3冠時のマンUよりも強力かと問われて、「YES」と答えるサッカーファンはそれほどいないだろう。チームとしての総合力比較となればなおさらだ。
【7 じゃあなんで今期のバルサは無敵だったの?】
2010FIFAワールドカップ南アフリカ大会で明らかになったように、今、世界のサッカー界にはタレントが枯渇している。
スポーツ医学が発達したせいなのか、グローバルマネジメント企業隆盛(代理人の交渉力強化)の弊害なのか、チーム経営に投資ビジネスがくい込んできた影響なのか、何が原因なのかはっきり「コレだ!」とは言えないが、とにかく選手寿命が、世紀の変わり目を境に劇的に伸びている。特に名前の売れたトップ選手ほどその傾向は顕著に見られる。その反動として、新しい才能が開花する場を奪われているように私には見える。
タレントが少なくなった※結果、英独以外の、欧州南米の各国リーグは停滞している。国内リーグの停滞は、リーグ全体のレベルを低下させる。したがって、バルサが無敵だったというよりも、他のチームのレベルが低下したというあたりが真相なのではないだろうか。
※ 「天才」という表現のハードルが下がった、いや価値が暴落したと見ることもできる。能力で明確に差別化できるまで、育成に時間をかけられなくなったのだろう。それで仕方なく、促成栽培早期出荷するしかなくなり「天才」が毎年各国各世代に誕生することになったのだ。アフリカ出身の選手も、なんだか小粒な優等生ばっかりになってきたし、つまらんなあ。
【8 レベルが低下? 信じられないんですけど】
サッカーのレベルを見るのに便利なマーカーのひとつが、ゴールキーパーだ。
リーグ、世代、チーム、どういうセグメントであってもサッカーのレベルが上がると、自然といいゴールキーパーも育つ。
今現在、トップクラスのゴールキーパーというと誰になるだろうか?
【9 でもバルサのスタイルは完璧でしょ】
あれはFCバルセロナのスタイル※じゃなくて、チャビ・イニエスタ・メッシのスタイル。
アルゼンチン代表でメッシがまったく輝けず、チャビとイニエスタはスペイン代表でそこそこ輝けているという事実がそれを証明している。
アルゼンチン代表にチャビかイニエスタのどちらかがいたら、メッシも違っていたはずだ。
これもチーム・選手・戦術の優劣の問題ではなく、組合せの問題なのだ。
バルセロナにとって現在進行中の問題は、チャビ→イニエスタ→メッシ→?の答えが見つかっていない点だろう。
チャビ・イニエスタ・メッシと連なる系譜の後継者が途絶えれば、バルサも現在のスタイルを変えざるを得なくなる。
※ バルサ本来の伝統的スタイルは、徹底的にサイドを使って崩すサッカー。バルサのサポも、サイドでの1対1を闘牛を見るかのように応援してきた。これはまったくの想像だけど、昔のようなスタイルを望んでいるバルササポも、地元では少なくないのではないだろうか。
【10 ひねくれてる】
前にどこかで「センス」について書いたが、要するに、私のサッカー観ってのはそういうことだってこと。それだけのこと。
今朝のCL決勝戦を見て、子供たちはどの選手のマネをしたいと思っただろうか?
バルセロナがやったようなサッカーをしたい、と思う子はいても、誰それ選手のマネをしたいと思った子は少ないのではないだろうか。
まあこれは私の想像なので、もしかすると世間のサッカー少年たちは、
「俺、ビクトール・バルデスになる!」「僕はブスケツ!」「おいらキャリック!」「おいどんはバレンシア」「エブラ最高!」
みたいなことになっているのかもしれないが、もしそうなら己の世間知らずを恥じたい。
【11 何が言いたいわけ?】
バルサだろうがマンUだろうが、それを日本から日本人が、どっちが上だ下だと言い争っても空しいだけで、だったら両チームの良いところ悪いところを分析する方が面白いぞって俺は確信してるってこと。
それにせっかく極東の島国からヨーロッパリーグの外国チームを応援するのなら、メジャーで強いところよりも、マイナーなチームを応援しませんかってこと。
──です。
【参照1】
ブラジルに見る「決定力」育成法
ユース出身は使えない
ところ変われば、評価も変わる
【参照2】
バルサの弱点はここ
対バルサ戦略~偽ファーガソン編~
バルサをマネる3つのポイント
昔のバルサはこうだった
バルサの育成投資方針
バルサ5-0レアルの動画
昨年度(09-10シーズン)CLでのFCバルセロナ評
2009-2010CL準決勝インテル×バルサ第1戦
イニエスタの作り方
FCバルセロナの哲学
2011年4月13日水曜日
弱小チームのための8人制戦術
この前の日曜日に、上尾の平塚サッカー場と伊奈の丸山スポーツ広場へ行ってきた。
全日本少年サッカー大会の北足立北部地区予選を観るためだ。
大部分は予想通りのサッカーになっていたが、一部机上の予想と異なる傾向があったのでここにメモる。
【思ったよりも、ドリブルが少なかった】
ドリブルでキープして相手を引き寄せておいてのスルーパス狙い、という意図を見せる選手はいなかった。その理由は簡単で、実際に試合を観てみたら、ゴール前のバイタルエリアが常にスカスカなので、どうしても第一選択はそこへのパスということになってしまうしかなく、だからドリブルをする機会が減ってしまうのだ。機会が減るというよりも、ドリブルを必要としないサッカー、それがこの8人制なのかもしれない。
ボールを奪われたら即、ゴール前に縦パスが入ってくるのだから、ゴールキーパーとセンターディフェンスラインに難のあるチームは大量失点しやすくなる。実際私が観ていた試合でも、前半だけで二桁入ってしまったのではないかと思えるくらいの一方的展開となった試合があった。あの子たちがサッカーを嫌いになってしまわないか、とても心配になった。
では一方的になりそうな試合では、どう対処すればよいのかを考えてみよう。
【選手をコンパクトにして中央を固める】
8人制の特徴はなんといってもゴール前にスペースがあることだ。
次の特徴は、ピッチの縦が短いこと。
第三の特徴は、サイド攻撃の効果が薄いことだろう。
逆順に説明をする。
サイド攻撃の効果が薄くなってしまう理由は簡単で、センターからサイドまでの距離が近いからだ。
従来は、サイドを崩すことによってセンターからDFを引っぱり出すことができて、その結果中央のDF組織をこわすことができた。しかしこの8人制では、サイドを崩してセンターからDFを引っぱり出したとしても、その距離はさほどではなく、中央のDF組織への影響は少なくなってしまう上、狭いために、抜いたDFもすぐ体制を立て直して追いついてくる。これではサイド攻撃は、DF組織を崩すというよりも、DF組織を整える時間的余裕を与えるだけということにもなりかねない(サイドアタックマニアの私としては、非常にゆゆしき事態だ!)。
また、ピッチの縦が短いことが、中途半端にDFラインを上げそこなったような状態をつくりやすくしてしまってもいた。これは目立たないが、注意しないと大火傷(やけど)につながる落とし穴だ。
どうしても11人制のときの感覚が残っているので、ゴールキーパーや他の味方や相手との距離感が狂ってしまいやすい。←これが原因だ。
8人制にしたときは、11人制の時よりも距離をつめてきっちりマークしなければならないのに対し、ゴールキーパーとの距離は逆に意識して空けるようにするのがセオリーだ(実力が同等のチーム同士の対戦ならば)。
なぜかというと、8人制では1歩目の遅れを取り戻す時間的な余裕がないからだ。「あっ」と思ったときにはもうシュートを打たれている。だから、DFは相手の足を踏むくらいピッタリをくっついていなければならない。でも、やっぱりいつもの感覚にどうしてもなってしまって、やられているようなシーンがたくさんあった。
ゴールキーパーとの距離については、8人制ではオフサイドトラップを上手に使わないと守備ができないということを理解していれば説明などいらないはずだ。
縦パス1本通れば即至近距離からシュートされてしまう8人制でのDFは、マンツーマンが基本だが、それだけで守りきるのはどこのチームであっても無理だろうと思う。だからどうしてもオフサイドトラップを使えるようにならないと、いいFWのいるチームには好き勝手にやられてしまうことになる(これができないチームは、レジスタあたりには何もできないだろう。マリノスカップでビュンビュン抜きまくってたちびっ子ドリブラー君なんて、まず止められないと思う)。
【うちのチームにオフサイドトラップは無理】
となると、セカンドチョイスは“ラインを下げる”になるだろう。
下げて下げて、フィールドプレーヤーを基本2-4ー1の形にして、2人はチェイス、4人はマンツー、1人は最終ラインカバー、というように役割分担させる。
チェイス役の2人は消耗が激しいので、選手交代を積極的に行って運動量を維持するようにする。
攻撃はセットプレーと、決定的なカウンター時のみに集中するつもりで割り切る(もちろん攻撃はそれのみしかダメってことじゃない。そうじゃなくて、だらだら何となく攻撃を仕掛けるようなことをしないってこと。8人制で強いチームを相手にした場合のそれは危険きわまりない行為だから。攻撃を仕掛けるときは、ちゃんと全員がそれを共通認識として確信していることってことを大原則に!)。
指示は
・相手ボールになったら、とにかく全速力で自陣深くまでもどれ。
・戻ったら、役割分担通りに、自分の仕事に集中しろ。
・ボールを奪ったら、つなぎは考えるな。チェイス役の前に蹴り込むことだけ頭にあればいい。
・セットプレーの時は、ヘディングで絶対に決めてやるという覚悟で博打に出ろ。得点するチャンスはそこしかない。
・ゴールキーパーは、相手がシュートしようと足を振り上げるまでは絶対に前には出るな。待って待って、相手を焦らせるんだ。
この5つだけ。
子どもにいろんなことを考えろと指示しても、混乱して体が動かなくなることが多いように思うので、私ならポジションごとに最重要な役割をひとつだけ意識するように指示をして、あとはベンチサイドから修正するかな。
「2-4-1」については、それ自体が大事なのではなくて、あくまで「考えかたの象徴」って意味合いの方が強い。
チームの構成や相手の特徴によっては、「1-2-3-1」「1-4-2」「2-3-2」とかいろいろ考えられる。
とにかく共通している哲学は、「実力的に上のチームと対戦するときは、チェイス役、マンマーク役、カバー役、を明確に分担させるってこと。これが逆に自分たちの方が明らかに上なときは、この哲学なんて無視してOK。フォアチェックからの全員攻撃でも、あえてのサイド攻撃でも、なんでも好きにすればいい。リズムをつかんだら、一方的な展開に持って行けるのが、この8人制なのだから。
8人制だと、あびるシュートは多くなるのに、DFの数は少なくなるってことになりがちだから、ゴールキーパーの重要性が11人制のときより倍以上増すね。技量や体格といったハード面もそうだけど、それ以上に展開を読む目とか、的確な指示を送る頭だとか、思い切ってチャレンジする勇気だとか、そういうソフトの面がとても求められるポジションになった。
ゴールキーパーにそういったことを教えられるコーチのいないチームは、正直かなり厳しい試合結果を覚悟する必要があるだろうなあっていうのが、週末観戦しての私の感想。
子供たちがサッカーを楽しめるような8人制となることを願っています。
【参考】
8人制必勝パターン
8人制観戦の楽しみ方。
アルディージャJr.スペイン遠征(8人制)の動画
ゴールキーパーの基本技術
以上で~す。
全日本少年サッカー大会の北足立北部地区予選を観るためだ。
大部分は予想通りのサッカーになっていたが、一部机上の予想と異なる傾向があったのでここにメモる。
【思ったよりも、ドリブルが少なかった】
ドリブルでキープして相手を引き寄せておいてのスルーパス狙い、という意図を見せる選手はいなかった。その理由は簡単で、実際に試合を観てみたら、ゴール前のバイタルエリアが常にスカスカなので、どうしても第一選択はそこへのパスということになってしまうしかなく、だからドリブルをする機会が減ってしまうのだ。機会が減るというよりも、ドリブルを必要としないサッカー、それがこの8人制なのかもしれない。
ボールを奪われたら即、ゴール前に縦パスが入ってくるのだから、ゴールキーパーとセンターディフェンスラインに難のあるチームは大量失点しやすくなる。実際私が観ていた試合でも、前半だけで二桁入ってしまったのではないかと思えるくらいの一方的展開となった試合があった。あの子たちがサッカーを嫌いになってしまわないか、とても心配になった。
では一方的になりそうな試合では、どう対処すればよいのかを考えてみよう。
【選手をコンパクトにして中央を固める】
8人制の特徴はなんといってもゴール前にスペースがあることだ。
次の特徴は、ピッチの縦が短いこと。
第三の特徴は、サイド攻撃の効果が薄いことだろう。
逆順に説明をする。
サイド攻撃の効果が薄くなってしまう理由は簡単で、センターからサイドまでの距離が近いからだ。
従来は、サイドを崩すことによってセンターからDFを引っぱり出すことができて、その結果中央のDF組織をこわすことができた。しかしこの8人制では、サイドを崩してセンターからDFを引っぱり出したとしても、その距離はさほどではなく、中央のDF組織への影響は少なくなってしまう上、狭いために、抜いたDFもすぐ体制を立て直して追いついてくる。これではサイド攻撃は、DF組織を崩すというよりも、DF組織を整える時間的余裕を与えるだけということにもなりかねない(サイドアタックマニアの私としては、非常にゆゆしき事態だ!)。
また、ピッチの縦が短いことが、中途半端にDFラインを上げそこなったような状態をつくりやすくしてしまってもいた。これは目立たないが、注意しないと大火傷(やけど)につながる落とし穴だ。
どうしても11人制のときの感覚が残っているので、ゴールキーパーや他の味方や相手との距離感が狂ってしまいやすい。←これが原因だ。
8人制にしたときは、11人制の時よりも距離をつめてきっちりマークしなければならないのに対し、ゴールキーパーとの距離は逆に意識して空けるようにするのがセオリーだ(実力が同等のチーム同士の対戦ならば)。
なぜかというと、8人制では1歩目の遅れを取り戻す時間的な余裕がないからだ。「あっ」と思ったときにはもうシュートを打たれている。だから、DFは相手の足を踏むくらいピッタリをくっついていなければならない。でも、やっぱりいつもの感覚にどうしてもなってしまって、やられているようなシーンがたくさんあった。
ゴールキーパーとの距離については、8人制ではオフサイドトラップを上手に使わないと守備ができないということを理解していれば説明などいらないはずだ。
縦パス1本通れば即至近距離からシュートされてしまう8人制でのDFは、マンツーマンが基本だが、それだけで守りきるのはどこのチームであっても無理だろうと思う。だからどうしてもオフサイドトラップを使えるようにならないと、いいFWのいるチームには好き勝手にやられてしまうことになる(これができないチームは、レジスタあたりには何もできないだろう。マリノスカップでビュンビュン抜きまくってたちびっ子ドリブラー君なんて、まず止められないと思う)。
【うちのチームにオフサイドトラップは無理】
となると、セカンドチョイスは“ラインを下げる”になるだろう。
下げて下げて、フィールドプレーヤーを基本2-4ー1の形にして、2人はチェイス、4人はマンツー、1人は最終ラインカバー、というように役割分担させる。
チェイス役の2人は消耗が激しいので、選手交代を積極的に行って運動量を維持するようにする。
攻撃はセットプレーと、決定的なカウンター時のみに集中するつもりで割り切る(もちろん攻撃はそれのみしかダメってことじゃない。そうじゃなくて、だらだら何となく攻撃を仕掛けるようなことをしないってこと。8人制で強いチームを相手にした場合のそれは危険きわまりない行為だから。攻撃を仕掛けるときは、ちゃんと全員がそれを共通認識として確信していることってことを大原則に!)。
指示は
・相手ボールになったら、とにかく全速力で自陣深くまでもどれ。
・戻ったら、役割分担通りに、自分の仕事に集中しろ。
・ボールを奪ったら、つなぎは考えるな。チェイス役の前に蹴り込むことだけ頭にあればいい。
・セットプレーの時は、ヘディングで絶対に決めてやるという覚悟で博打に出ろ。得点するチャンスはそこしかない。
・ゴールキーパーは、相手がシュートしようと足を振り上げるまでは絶対に前には出るな。待って待って、相手を焦らせるんだ。
この5つだけ。
子どもにいろんなことを考えろと指示しても、混乱して体が動かなくなることが多いように思うので、私ならポジションごとに最重要な役割をひとつだけ意識するように指示をして、あとはベンチサイドから修正するかな。
「2-4-1」については、それ自体が大事なのではなくて、あくまで「考えかたの象徴」って意味合いの方が強い。
チームの構成や相手の特徴によっては、「1-2-3-1」「1-4-2」「2-3-2」とかいろいろ考えられる。
とにかく共通している哲学は、「実力的に上のチームと対戦するときは、チェイス役、マンマーク役、カバー役、を明確に分担させるってこと。これが逆に自分たちの方が明らかに上なときは、この哲学なんて無視してOK。フォアチェックからの全員攻撃でも、あえてのサイド攻撃でも、なんでも好きにすればいい。リズムをつかんだら、一方的な展開に持って行けるのが、この8人制なのだから。
8人制だと、あびるシュートは多くなるのに、DFの数は少なくなるってことになりがちだから、ゴールキーパーの重要性が11人制のときより倍以上増すね。技量や体格といったハード面もそうだけど、それ以上に展開を読む目とか、的確な指示を送る頭だとか、思い切ってチャレンジする勇気だとか、そういうソフトの面がとても求められるポジションになった。
ゴールキーパーにそういったことを教えられるコーチのいないチームは、正直かなり厳しい試合結果を覚悟する必要があるだろうなあっていうのが、週末観戦しての私の感想。
子供たちがサッカーを楽しめるような8人制となることを願っています。
【参考】
8人制必勝パターン
8人制観戦の楽しみ方。
アルディージャJr.スペイン遠征(8人制)の動画
ゴールキーパーの基本技術
以上で~す。
2011年4月8日金曜日
8人制観戦の楽しみ方。
8人制となった全日本少年サッカー大会観戦での、これまでにはなかった楽しみについて考えてみる。
まず今回から複数チームのエントリーが可能となった点に注目したい。
11人制の時でさえ、どのチームも優秀なゴールキーパーの確保に苦心していたのだから、それが2チームエントリーともなれば、セカンドチームのゴールキーパーのレベルは推して知るべしだ。
☆まずはGKのレベルをチェック!
もし相手のGKが問題を抱えているようならば、私なら強引であっても積極的にシュートを狙わせるし、こぼれ球には必ず詰めることを徹底させる。ピッチも狭く、DF人数も少ない8人制で、GKまでも問題ありとなれば、シュートをガンガン打つのが第一選択となるのは必然だろう。
サイドからセンタリングを上げてヘディングシュートを狙うとか、キック&ラッシュで押し込むとか、そういう場面は確実に減る。その一方で、コーナーキックやフリーキックからの得点は倍増するだろう。なにせ、ルールで「キックオフからのゴールインは、相手ゴールキックで再開」と決めなければならないような広さのピッチで行うのだから。
次に、ベンチワークを見る。
選手交代について積極的か消極的か、そこに注目だ。
新ルールでは、選手交代の手続きが簡素化されている。交代用紙なしのまま、主審の確認了承なしで好き勝ってに(GKは別)交代できるはずだ。
☆選手交代のベンチワークを見る!
疲労というものは、いったん疲労を感じてしまった後よりも、疲労を感じる前に休息を取る方が蓄積しない。だから、疲れる前のまだ全然元気バリバリ、というタイミングで積極的に交代させる方が、一試合での選手のトータル運動量は多くなるし、連戦となっても消耗が少ない。指導スタッフの中に体育大学出身者などがいればこの辺の知識もあるだろうが、そうでないと、いままでのように「疲れるまで使い続けて、疲れて足が止まってからようやく交代させる」なんてことをやってしまうかもしれない。
また『交代の仕方』をどうしてくるのか、そのあたりを見られるのもワクワクだ。
アイスホッケーのように、プレー時間を決めて、システマチックに交代させるチームが勝ち残るような気がするが、どうなるだろうか。
システマチックに交代させるにしても、1人ずつ交代させるのか、数人のセットを作ってセットごと交代させるのか、そのあたりも面白くなりそうだ。このあたりを考えると、これまで以上にコーチの能力が試合展開に影響することになるルール変更だと言える。
ピッチが狭くなって、人数も少なくなれば、ディフェンスはマンマークにならざるを得ない。
フルピッチの時は、ボールから遠いサイドを空けることで守備の人数を余らせて、1対2の形でディフェンスすることができた。しかし8人制ではピッチが狭くて「遠いサイド」が存在しないので、誰かがマークを外せば、そのマークの外れた相手選手は即シュートを狙える最も危険なフリーの選手になってしまう(まあ限度はあるけど、基本的にはそうなる)。
☆1対1でのミスマッチをさがす。
この1対1は7割方○○の方が勝つな、なんてことがわかると、それに対して選手たちやベンチがどう対応してくるのかが見ものだ。
8人制では裏を取られたら失点の可能性が非常に大きくなる。シュートエリアまでの距離が短いので、DFが追いついている時間がないからだ。
その一方で、遅攻でボールを回されて、自陣ゴールそばからのスルーパスやポストプレー、あるいはドリブルでの切り込みというのもかなり効果的だ。その理由も上と同じで、それはたとえ遅攻であっても、自陣から相手陣へ侵入するまでの距離が短いことにある。フルピッチでの遅攻だと、相手陣に入るまで5~8本のパスが必要だったのに、8人制ピッチだと3~5本で可能だからだ。
☆最終ラインをどこにするのか。
となると、DFの最終ライン(GKとの間隔)をどうするのかが、非常に重要となってくる。
相手ボールとなった時、すぐプレスに入るのか、あるいはいったん自陣の決められた位置まで戻るのか、そのあたりの作戦をどうしてくるかなんていうあたりは、これまでなかった楽しみだろう。
8人制だと、ドリブル機会が増える(フィールドプレーヤーの人数が減ってコースの選択肢が減る上に、ピッチが狭くなるために距離も短くなる「パス」は、インターセプトされやすくなるのでリスクが高い)ので、11人制のときはあまりドリブルをしなかったような選手であっても、ドリブルする姿をみることができるようになる。
☆ドリブルの個性がわかりやすい。
ドリブルには個性が出るので、そのあたりを見るという楽しみが増すだろう。
まあ、大まかにざっと書き出せば、こんなところだろうか。
私は、「サッカーはイレブン派」なので、歴史も伝統もある全国大会はこれまで通り11人、育成のために8人制の公式戦を取り入れたいなら、むしろ5年生以下の4種リーグみたいなのでやればいいと、今でも確信している。
しかし、もう始まってしまうのだから、これはこれで存分に楽しみたいと思っている。
まず今回から複数チームのエントリーが可能となった点に注目したい。
11人制の時でさえ、どのチームも優秀なゴールキーパーの確保に苦心していたのだから、それが2チームエントリーともなれば、セカンドチームのゴールキーパーのレベルは推して知るべしだ。
☆まずはGKのレベルをチェック!
もし相手のGKが問題を抱えているようならば、私なら強引であっても積極的にシュートを狙わせるし、こぼれ球には必ず詰めることを徹底させる。ピッチも狭く、DF人数も少ない8人制で、GKまでも問題ありとなれば、シュートをガンガン打つのが第一選択となるのは必然だろう。
サイドからセンタリングを上げてヘディングシュートを狙うとか、キック&ラッシュで押し込むとか、そういう場面は確実に減る。その一方で、コーナーキックやフリーキックからの得点は倍増するだろう。なにせ、ルールで「キックオフからのゴールインは、相手ゴールキックで再開」と決めなければならないような広さのピッチで行うのだから。
次に、ベンチワークを見る。
選手交代について積極的か消極的か、そこに注目だ。
新ルールでは、選手交代の手続きが簡素化されている。交代用紙なしのまま、主審の確認了承なしで好き勝ってに(GKは別)交代できるはずだ。
☆選手交代のベンチワークを見る!
疲労というものは、いったん疲労を感じてしまった後よりも、疲労を感じる前に休息を取る方が蓄積しない。だから、疲れる前のまだ全然元気バリバリ、というタイミングで積極的に交代させる方が、一試合での選手のトータル運動量は多くなるし、連戦となっても消耗が少ない。指導スタッフの中に体育大学出身者などがいればこの辺の知識もあるだろうが、そうでないと、いままでのように「疲れるまで使い続けて、疲れて足が止まってからようやく交代させる」なんてことをやってしまうかもしれない。
また『交代の仕方』をどうしてくるのか、そのあたりを見られるのもワクワクだ。
アイスホッケーのように、プレー時間を決めて、システマチックに交代させるチームが勝ち残るような気がするが、どうなるだろうか。
システマチックに交代させるにしても、1人ずつ交代させるのか、数人のセットを作ってセットごと交代させるのか、そのあたりも面白くなりそうだ。このあたりを考えると、これまで以上にコーチの能力が試合展開に影響することになるルール変更だと言える。
ピッチが狭くなって、人数も少なくなれば、ディフェンスはマンマークにならざるを得ない。
フルピッチの時は、ボールから遠いサイドを空けることで守備の人数を余らせて、1対2の形でディフェンスすることができた。しかし8人制ではピッチが狭くて「遠いサイド」が存在しないので、誰かがマークを外せば、そのマークの外れた相手選手は即シュートを狙える最も危険なフリーの選手になってしまう(まあ限度はあるけど、基本的にはそうなる)。
☆1対1でのミスマッチをさがす。
この1対1は7割方○○の方が勝つな、なんてことがわかると、それに対して選手たちやベンチがどう対応してくるのかが見ものだ。
8人制では裏を取られたら失点の可能性が非常に大きくなる。シュートエリアまでの距離が短いので、DFが追いついている時間がないからだ。
その一方で、遅攻でボールを回されて、自陣ゴールそばからのスルーパスやポストプレー、あるいはドリブルでの切り込みというのもかなり効果的だ。その理由も上と同じで、それはたとえ遅攻であっても、自陣から相手陣へ侵入するまでの距離が短いことにある。フルピッチでの遅攻だと、相手陣に入るまで5~8本のパスが必要だったのに、8人制ピッチだと3~5本で可能だからだ。
☆最終ラインをどこにするのか。
となると、DFの最終ライン(GKとの間隔)をどうするのかが、非常に重要となってくる。
相手ボールとなった時、すぐプレスに入るのか、あるいはいったん自陣の決められた位置まで戻るのか、そのあたりの作戦をどうしてくるかなんていうあたりは、これまでなかった楽しみだろう。
8人制だと、ドリブル機会が増える(フィールドプレーヤーの人数が減ってコースの選択肢が減る上に、ピッチが狭くなるために距離も短くなる「パス」は、インターセプトされやすくなるのでリスクが高い)ので、11人制のときはあまりドリブルをしなかったような選手であっても、ドリブルする姿をみることができるようになる。
☆ドリブルの個性がわかりやすい。
ドリブルには個性が出るので、そのあたりを見るという楽しみが増すだろう。
まあ、大まかにざっと書き出せば、こんなところだろうか。
私は、「サッカーはイレブン派」なので、歴史も伝統もある全国大会はこれまで通り11人、育成のために8人制の公式戦を取り入れたいなら、むしろ5年生以下の4種リーグみたいなのでやればいいと、今でも確信している。
しかし、もう始まってしまうのだから、これはこれで存分に楽しみたいと思っている。
2011年3月9日水曜日
ストップ・Theスピードスターのお手本
ストップ・Theスピードスターのお手本
フェイエノールトの宮市選手がきっちり止められている映像から、スピード系FW対策の基本を盗もう!
0005-0030 まずポジショニング。最初からピタリと張り付くような位置は取らない。
0043、0051 DFの顔の向きに注目。注視(ちゅうし)しているのはボールではなく選手の下半身(腰のあたり)。
0109 体を寄せるのではなく、進路への踏み込みでブロックしている。日本の「体を寄せろ!」「肩で当たれ」とは真逆。相手によって対応を使い分けるお手本。大まかに分類しても、スピード系の選手と、足元テク系の選手への対応は当然異なってくるはずなのに、それをすべて「ピッタリ寄せろ!」「振り向かせるな!」では、ディフェンスのスキル・技術は身に付かない。
0140、0210 チェックに行っているが体は当てていない。外へのターンを予測して、FWの動きを利用している。
0230 このあたりからFWはもう怖がって、振り向くことを最初からあきらめてしまった。
0250 1対1の応対。防御体制を、1対1→1対2→1対3と見事に変化させている。FWの味方もまったくフォローなし。空いたサイドを誰かが長友選手のようにフォローしていたら、こうはできなかったはずだ。
0310 疲労からか、スピードも鈍ってきた。
0335、0405 痛々しいくらい。
宮市選手については、ここが、これからぐんっと成長していくスタートなんだから、なんの心配もいらないだろう。
むしろこれ(ヨーロッパにおける自分対策)を求めて海外へ渡ったのだろうし、こんなに早くそれに出会えたことを幸運だと思っているはずだ。
宮市選手とすれば、自分個人の能力をアップすることで、この状況を打開したいと思うだろうが、チームにそれを許すだけの余裕があるかどうか。一番簡単な対抗策は、宮市選手の近くにフォロー役の選手を常に張り付かせることだ。しかしそれには、チームメートが宮市選手をどう思っているのかが微妙に影響してくる。突然やってきてサポーターからもマスコミからももてはやされる若い東洋人の助っ人新人を輝かせるための補佐役、あるいは「おとり役」をいとわないチームメート(おそらくはオランダ人)がどれくらいいるかどうか、それがポイントになるだろう。
今後宮市選手が、ボールを受けてからターンするまでの動きにどういう工夫をしてくるのか(十中八九、体の向き)、とても楽しみである。
kom op!(コム オプ! オランダ語でがんばれの意らしい)Ryo !
おわりん
■宮市亮(みやいち・りょう)プロフィール
愛知県岡崎市1992(平成4)年12月14日生まれ、183㎝、70㎏、O型、家族は父母弟。
小3~中3まで「シルフィードFC」でプレー(サイドバック)。
小学5年で愛知県トレセン、中学1年時には日本サッカー協会のエリートプログラム、2年時にU-14日本代表、3年時にはU-15日本代表。中京大中京高へ進学。
フェイエノールトの宮市選手がきっちり止められている映像から、スピード系FW対策の基本を盗もう!
0005-0030 まずポジショニング。最初からピタリと張り付くような位置は取らない。
0043、0051 DFの顔の向きに注目。注視(ちゅうし)しているのはボールではなく選手の下半身(腰のあたり)。
0109 体を寄せるのではなく、進路への踏み込みでブロックしている。日本の「体を寄せろ!」「肩で当たれ」とは真逆。相手によって対応を使い分けるお手本。大まかに分類しても、スピード系の選手と、足元テク系の選手への対応は当然異なってくるはずなのに、それをすべて「ピッタリ寄せろ!」「振り向かせるな!」では、ディフェンスのスキル・技術は身に付かない。
0140、0210 チェックに行っているが体は当てていない。外へのターンを予測して、FWの動きを利用している。
0230 このあたりからFWはもう怖がって、振り向くことを最初からあきらめてしまった。
0250 1対1の応対。防御体制を、1対1→1対2→1対3と見事に変化させている。FWの味方もまったくフォローなし。空いたサイドを誰かが長友選手のようにフォローしていたら、こうはできなかったはずだ。
0310 疲労からか、スピードも鈍ってきた。
0335、0405 痛々しいくらい。
宮市選手については、ここが、これからぐんっと成長していくスタートなんだから、なんの心配もいらないだろう。
むしろこれ(ヨーロッパにおける自分対策)を求めて海外へ渡ったのだろうし、こんなに早くそれに出会えたことを幸運だと思っているはずだ。
宮市選手とすれば、自分個人の能力をアップすることで、この状況を打開したいと思うだろうが、チームにそれを許すだけの余裕があるかどうか。一番簡単な対抗策は、宮市選手の近くにフォロー役の選手を常に張り付かせることだ。しかしそれには、チームメートが宮市選手をどう思っているのかが微妙に影響してくる。突然やってきてサポーターからもマスコミからももてはやされる若い東洋人の助っ人新人を輝かせるための補佐役、あるいは「おとり役」をいとわないチームメート(おそらくはオランダ人)がどれくらいいるかどうか、それがポイントになるだろう。
今後宮市選手が、ボールを受けてからターンするまでの動きにどういう工夫をしてくるのか(十中八九、体の向き)、とても楽しみである。
kom op!(コム オプ! オランダ語でがんばれの意らしい)Ryo !
おわりん
■宮市亮(みやいち・りょう)プロフィール
愛知県岡崎市1992(平成4)年12月14日生まれ、183㎝、70㎏、O型、家族は父母弟。
小3~中3まで「シルフィードFC」でプレー(サイドバック)。
小学5年で愛知県トレセン、中学1年時には日本サッカー協会のエリートプログラム、2年時にU-14日本代表、3年時にはU-15日本代表。中京大中京高へ進学。
2011年2月19日土曜日
「どうして私ばかり」スパイラル
「どうして私ばかり」スパイラル
ここのところ、同じような「あああ、こういう人(連中)『どうして私ばっかりスパイラル』に入っちゃってるよ。気づかなきゃ、もう一生抜け出せないんだろうな」という事例に触れることが重なった。
ひとつは、寄せられたこのコメントや試合会場で耳にした情報から推察される、あるサッカーチームの経営者。
ひとつはNHKの「無縁社会キャンペーン」。
ひとつは、ルールを無視したことを注意したら「こっちは仕事なんだよ!」と切れた営業マン。
そして、昨夜(木)9時から放送されていた『ホンマでっかTV』で紹介されていたモンスターペアレンツたち。
ここに登場した人たちは皆、「自分が生きるために必死なのだから、自分のすることは許される」という倫理規範だ。
言いかえれば、「他人のために自分が死んだら元も子もない」という価値観だと言ってもいい。
「まったくその通りじゃないか」と同調する人がいたら、私は、「おいおい、少しは考えてから同調してくれよ」とアドバイスするだろう。
実際には、上で紹介した誰も「生命の危機」には晒(さら)されていないのだ。
ただただ、自分が「しない」ことのための言い訳、自分「だけ」がうまくいかないことの理由付けとして「生きるために必死」という“フレーズ”を拝借(はいしゃく)しているに過ぎない。
自分たちのチームの子供たちがより高いハードルにしようとしたときに、そのチームの“指導者(何を指導してるんだっつうの)”が子供たちの足を引っぱってしまったら、その話は永遠に語り継がれる。
兄弟、親戚、友人、知人、ご近所さんが困っているときに知らぬ存ぜぬを決め込み、自分だけには火の粉が降りかからないようにと身を隠していたくせに、いざ自分が困ったら世の中を「無縁社会」だと嘆(なげ)くのは、滑稽千万(こっけいせんばん)だ。
仕事を理由にルールやモラルをないがしろにした結果は、巡り巡って、いたるところ駐禁、防犯カメラ、ゴミの分別&有料化、渋滞、保険料高騰、そして規制規制規制。こうしたこともろもろが社会の生産性を押し下げて、結局自分の仕事の足かせ要因になる。
そして自分の子供のことしか考えない、あるいは自分のことしか考えない親たち。それは一見、「自分の子供」や「自分のこと」を優先しているようでいて、実際に起きていることは「自分の子供」と「自分」の状況の悪化促進でしかない。自分の成績表について、自分の親が学校に特別あつかいを強要したことを、自分の子供は気づかないとでも思っているのだろうか? また自分のことしか考えていない親の元で育った子供が、将来、問題なくすくすく育つと思っているのだろうか?
同じ『ホンマでっかTV』の中で、人間を含む高等動物の持つ選択認知についても触れられていた。
タカの視力や犬の嗅覚と同じ「選択認知」の能力を、人間も持っている。
タカが動く物体に対する認知能力を持ち、犬が知っている臭いに対する認知能力を持つのと同じように、人間は自分の関心がある情報に対する認知能力を持っている。また『ホンマでっかTV』の話を持ち出して恐縮だが、この番組に出演していた女性の心理学者(おそらく)が、「人は関心のある情報へアンテナを向けるので、自然と関心のある情報ばかりが集まってくる。人間が“オタク”になるのは極自然な傾向である」というような主旨の発言をしていた。
確かに人間の持つこの傾向が“オタク”のような積極的な方向へ進んでいる時は、そう悪くもないが、現実にはそうなることばかりではない。その暗黒面の例が、鬱(うつ)病であり自殺である。
一旦アンテナが、負の方向へ向いてしまうと、負の情報ばかりが集まってくることになる。またそれは同時に、負の方向へ向いているアンテナの感度を強化する(高める)働きも持ってしまう。
これの行き着く先は、何もないのにわざわざ自らマイナス情報を掘り起こしに行って自ら己の立場を悪化させて己を責めるというような「自虐(じぎゃく)行為」のエンディングだ。
こうなってしまうと、自分から火をつけて「火事よ火事よ」と騒ぎ、「私の家だけがなんでこんなに燃えやすいのよ」と嘆(なげ)いているようなもので、もはや周りが「あなたの家はちっとも変じゃないですよ。自分で火をつけるから火事になるんですよ」と指摘しても、何も耳に入らない。いやそれどころか、「私が火をつけた? バカ言わないで。元々燃えていたのを私が早期発見したのよ。私は良いことをしたのよ!」とまさに火に油を注ぐことにもなりかねない。つうか、そうなる。くわばらくわばら。
「どうして私ばっかりスパイラル」に入っている人は、自分の境遇を理由にして自分の行為を正当化しようとすると上で述べた(自分が生きるため、自分の子供のため、自分の仕事のため、etc.)が、それを聞かされた周囲はどう受けとるだろうか?
まあふつうなら、「かわいそうに、それは大変だね。何かできることとがあったら遠慮しないで言って。配慮するから」というような反応をするしかないだろう。
この言葉の意味するところは、ずばり「同情」である。同情とは、「あわれみ」であって、決して「あなたとわたしは同等」との認識ではない。同情している方が「強者」であって、同情されている方が「弱者」であることを、互いに認め合った状況、それが「同情する・している」という状態なのだ(まあ、「実態は」ということであって、これに気づかないままにいる関係も多いが)。
同情関係が認識されると、何かにつけて「配慮する」という条件が加わることになる。
この「配慮」というのは、裏を返せば「あてにできない」「まかせられない」ということだ。
「配慮しなければならない人物」に重要な役割、責任を伴(ともな)うような仕事を任せることはできない。万が一途中離脱するようなことになった場合、「私、ちゃんと相談しましたよね」と言われたら、そのお鉢(はち)は「配慮が足りなかった」こちらへ回ってくることになるからだ。
この「配慮」は、「配慮される側」にとっても良くないと私は確信している。
多少の資金援助や、他の同僚・仲間よりも「楽(らく)」はできるかもしれない。しかし、その人物へは決して「リスクはあるけど大きなリターンも期待できる話」や「一時的に負担や責任は重くなるけど、それを成し遂げれば出世につながる仕事」が回ってくることはない。気づいたら自分ばかりが取り残されていた。自分は貧しいままだった。必ずやそういうことになるだろう。そしてまた「自分だけどうして……」「どうして私ばっかり……」というスパイラルの奥底へと落ちていてしまうのだ。
他人の財布が重くなれば嫉妬し、軽くなればよろこぶ人生──おめでとう!
私はこんなに大変なの。
私はこんなにかわいそうなの。
私はこんなに不運なの。
私はこんなにぎりぎりなの(いっぱいいっぱいなの)。
あるいは、
自分の命が一番大事。自分が死んだら元も子もない。
自分の子供が一番大事。自分の子供が一番になれないならぶちこわしてやる。
自分の仕事が一番大事。自分の仕事が最優先であって他のことなんかどうでもいい。
こういう姿勢の人に集まるのは、「重要な仕事、面白い役、リターンの大きな可能性」ではなく、「同情、あわれみ、ほどこし」だ。
なぜならその「どうして私ばっかりスパイラル」に陥っている人が発信しているのは、「自分のこの状況は自分のせいではなく周りのせいなのだ。私の能力に問題があるのではなく、ついていない(不運不幸な)だけなのだ」ということではなく、「私は自分を客観視できず、工夫も努力もする気がない、無能で弱くて無責任な人物なんですよ」というアピールでしかない。
ああ無情。
「私を、あるいは私の子を一番大事にして! して! して!」←こんなことは他人に要求することじゃない。
自分のことならば、他人から尊重されるような自分になるよう工夫すること、これが「自分の成すべき事」だ。
また、自分の子供のことならば、他人から尊重されるような人物になろうと努力できるような人間に育てられるよう工夫すること、これが「親の成すべき事」だ。
サッカークラブの経営者なら、子供たちが自分のクラブを選んでくれるように経営上の工夫をすること、これが「経営者の成すべき事」であって、離れていく顧客に嫌がらせをすることじゃない。その顧客に、離れていったことを後悔させるようなクラブに育てることが本道なのに、それがわからないなら遠からず報いを受けることになる。
自分がいかにかわいそうな存在なのかをアピールすることが正しいかのような風潮は、戦後日本の悪しき文化だと私は確信している。
己を「かわいそう」と喧伝して、何かしらの「ほどこし」を受けようとするのは、乞食(こじき。仏教的な意味の方ではなく、社会風俗としての意味の方)文化であり、家畜同然の思考だ。
足を捻挫していて、ひざを痛めていて、ラフなタイプの2人のDFにぴったりマークされている状況でも、「俺によこせ」とパスを要求するのが真のストライカーだ。
「ぼく、疲れてるからパス出さないで」「きっとぼくにパス出したら、すぐとられちゃうよ」そういう顔をして、パスを拒むような奴には、そういう顔をしていないときでもパスが来なくなる。
つらいときこそ、平気な顔をすべきだし、
不安な状況であるほど、楽観しているような態度をしてみせるべきだ。
殺されそうなとき、「助けてください」と命乞いしたら、そのまま殺される。
獲物は弱ければ弱いほど、弱そうに見えれば弱そうに見えるほど、殺す方にとっては都合が良いのだ。
テレビのインタビューで不安げに「もう百社以上受けましたが全滅です」なんて言うなよ、就活生。
そういう時は、ニヤリとして「もう内定はいくつかもらったんですけど、他にも興味ある企業があるので、これからうかがうところです」と自信たっぷりに答えてみろ。就職活動してる学生みんながそういう態度を見せれば、採用する方だって学生たちを舐めなくなる。
ったく、どこの自然界に、「ここに弱ってる生き物がいますよ」って自分でアピールするアホがいる?
「俺は誰よりも強い。そして今、俺は絶好調だ」と、そうアピールしてこそ道は拓(ひら)けるのだ、と、私は確信している。
自分は自信家なのだと思い込むこと、自分は楽天家だと思い込むこと、実は結構ラッキーじゃんと思い込むこと、これらは全部タダでできるし、すぐにできる。
そして最も大事なことなのだが、
なんだかんだ言ってもこの世はすべてが面白いのだ。
おわり
ここのところ、同じような「あああ、こういう人(連中)『どうして私ばっかりスパイラル』に入っちゃってるよ。気づかなきゃ、もう一生抜け出せないんだろうな」という事例に触れることが重なった。
ひとつは、寄せられたこのコメントや試合会場で耳にした情報から推察される、あるサッカーチームの経営者。
ひとつはNHKの「無縁社会キャンペーン」。
ひとつは、ルールを無視したことを注意したら「こっちは仕事なんだよ!」と切れた営業マン。
そして、昨夜(木)9時から放送されていた『ホンマでっかTV』で紹介されていたモンスターペアレンツたち。
ここに登場した人たちは皆、「自分が生きるために必死なのだから、自分のすることは許される」という倫理規範だ。
言いかえれば、「他人のために自分が死んだら元も子もない」という価値観だと言ってもいい。
「まったくその通りじゃないか」と同調する人がいたら、私は、「おいおい、少しは考えてから同調してくれよ」とアドバイスするだろう。
実際には、上で紹介した誰も「生命の危機」には晒(さら)されていないのだ。
ただただ、自分が「しない」ことのための言い訳、自分「だけ」がうまくいかないことの理由付けとして「生きるために必死」という“フレーズ”を拝借(はいしゃく)しているに過ぎない。
自分たちのチームの子供たちがより高いハードルにしようとしたときに、そのチームの“指導者(何を指導してるんだっつうの)”が子供たちの足を引っぱってしまったら、その話は永遠に語り継がれる。
兄弟、親戚、友人、知人、ご近所さんが困っているときに知らぬ存ぜぬを決め込み、自分だけには火の粉が降りかからないようにと身を隠していたくせに、いざ自分が困ったら世の中を「無縁社会」だと嘆(なげ)くのは、滑稽千万(こっけいせんばん)だ。
仕事を理由にルールやモラルをないがしろにした結果は、巡り巡って、いたるところ駐禁、防犯カメラ、ゴミの分別&有料化、渋滞、保険料高騰、そして規制規制規制。こうしたこともろもろが社会の生産性を押し下げて、結局自分の仕事の足かせ要因になる。
そして自分の子供のことしか考えない、あるいは自分のことしか考えない親たち。それは一見、「自分の子供」や「自分のこと」を優先しているようでいて、実際に起きていることは「自分の子供」と「自分」の状況の悪化促進でしかない。自分の成績表について、自分の親が学校に特別あつかいを強要したことを、自分の子供は気づかないとでも思っているのだろうか? また自分のことしか考えていない親の元で育った子供が、将来、問題なくすくすく育つと思っているのだろうか?
同じ『ホンマでっかTV』の中で、人間を含む高等動物の持つ選択認知についても触れられていた。
タカの視力や犬の嗅覚と同じ「選択認知」の能力を、人間も持っている。
タカが動く物体に対する認知能力を持ち、犬が知っている臭いに対する認知能力を持つのと同じように、人間は自分の関心がある情報に対する認知能力を持っている。また『ホンマでっかTV』の話を持ち出して恐縮だが、この番組に出演していた女性の心理学者(おそらく)が、「人は関心のある情報へアンテナを向けるので、自然と関心のある情報ばかりが集まってくる。人間が“オタク”になるのは極自然な傾向である」というような主旨の発言をしていた。
確かに人間の持つこの傾向が“オタク”のような積極的な方向へ進んでいる時は、そう悪くもないが、現実にはそうなることばかりではない。その暗黒面の例が、鬱(うつ)病であり自殺である。
一旦アンテナが、負の方向へ向いてしまうと、負の情報ばかりが集まってくることになる。またそれは同時に、負の方向へ向いているアンテナの感度を強化する(高める)働きも持ってしまう。
これの行き着く先は、何もないのにわざわざ自らマイナス情報を掘り起こしに行って自ら己の立場を悪化させて己を責めるというような「自虐(じぎゃく)行為」のエンディングだ。
こうなってしまうと、自分から火をつけて「火事よ火事よ」と騒ぎ、「私の家だけがなんでこんなに燃えやすいのよ」と嘆(なげ)いているようなもので、もはや周りが「あなたの家はちっとも変じゃないですよ。自分で火をつけるから火事になるんですよ」と指摘しても、何も耳に入らない。いやそれどころか、「私が火をつけた? バカ言わないで。元々燃えていたのを私が早期発見したのよ。私は良いことをしたのよ!」とまさに火に油を注ぐことにもなりかねない。つうか、そうなる。くわばらくわばら。
「どうして私ばっかりスパイラル」に入っている人は、自分の境遇を理由にして自分の行為を正当化しようとすると上で述べた(自分が生きるため、自分の子供のため、自分の仕事のため、etc.)が、それを聞かされた周囲はどう受けとるだろうか?
まあふつうなら、「かわいそうに、それは大変だね。何かできることとがあったら遠慮しないで言って。配慮するから」というような反応をするしかないだろう。
この言葉の意味するところは、ずばり「同情」である。同情とは、「あわれみ」であって、決して「あなたとわたしは同等」との認識ではない。同情している方が「強者」であって、同情されている方が「弱者」であることを、互いに認め合った状況、それが「同情する・している」という状態なのだ(まあ、「実態は」ということであって、これに気づかないままにいる関係も多いが)。
同情関係が認識されると、何かにつけて「配慮する」という条件が加わることになる。
この「配慮」というのは、裏を返せば「あてにできない」「まかせられない」ということだ。
「配慮しなければならない人物」に重要な役割、責任を伴(ともな)うような仕事を任せることはできない。万が一途中離脱するようなことになった場合、「私、ちゃんと相談しましたよね」と言われたら、そのお鉢(はち)は「配慮が足りなかった」こちらへ回ってくることになるからだ。
この「配慮」は、「配慮される側」にとっても良くないと私は確信している。
多少の資金援助や、他の同僚・仲間よりも「楽(らく)」はできるかもしれない。しかし、その人物へは決して「リスクはあるけど大きなリターンも期待できる話」や「一時的に負担や責任は重くなるけど、それを成し遂げれば出世につながる仕事」が回ってくることはない。気づいたら自分ばかりが取り残されていた。自分は貧しいままだった。必ずやそういうことになるだろう。そしてまた「自分だけどうして……」「どうして私ばっかり……」というスパイラルの奥底へと落ちていてしまうのだ。
他人の財布が重くなれば嫉妬し、軽くなればよろこぶ人生──おめでとう!
私はこんなに大変なの。
私はこんなにかわいそうなの。
私はこんなに不運なの。
私はこんなにぎりぎりなの(いっぱいいっぱいなの)。
あるいは、
自分の命が一番大事。自分が死んだら元も子もない。
自分の子供が一番大事。自分の子供が一番になれないならぶちこわしてやる。
自分の仕事が一番大事。自分の仕事が最優先であって他のことなんかどうでもいい。
こういう姿勢の人に集まるのは、「重要な仕事、面白い役、リターンの大きな可能性」ではなく、「同情、あわれみ、ほどこし」だ。
なぜならその「どうして私ばっかりスパイラル」に陥っている人が発信しているのは、「自分のこの状況は自分のせいではなく周りのせいなのだ。私の能力に問題があるのではなく、ついていない(不運不幸な)だけなのだ」ということではなく、「私は自分を客観視できず、工夫も努力もする気がない、無能で弱くて無責任な人物なんですよ」というアピールでしかない。
ああ無情。
「私を、あるいは私の子を一番大事にして! して! して!」←こんなことは他人に要求することじゃない。
自分のことならば、他人から尊重されるような自分になるよう工夫すること、これが「自分の成すべき事」だ。
また、自分の子供のことならば、他人から尊重されるような人物になろうと努力できるような人間に育てられるよう工夫すること、これが「親の成すべき事」だ。
サッカークラブの経営者なら、子供たちが自分のクラブを選んでくれるように経営上の工夫をすること、これが「経営者の成すべき事」であって、離れていく顧客に嫌がらせをすることじゃない。その顧客に、離れていったことを後悔させるようなクラブに育てることが本道なのに、それがわからないなら遠からず報いを受けることになる。
自分がいかにかわいそうな存在なのかをアピールすることが正しいかのような風潮は、戦後日本の悪しき文化だと私は確信している。
己を「かわいそう」と喧伝して、何かしらの「ほどこし」を受けようとするのは、乞食(こじき。仏教的な意味の方ではなく、社会風俗としての意味の方)文化であり、家畜同然の思考だ。
足を捻挫していて、ひざを痛めていて、ラフなタイプの2人のDFにぴったりマークされている状況でも、「俺によこせ」とパスを要求するのが真のストライカーだ。
「ぼく、疲れてるからパス出さないで」「きっとぼくにパス出したら、すぐとられちゃうよ」そういう顔をして、パスを拒むような奴には、そういう顔をしていないときでもパスが来なくなる。
つらいときこそ、平気な顔をすべきだし、
不安な状況であるほど、楽観しているような態度をしてみせるべきだ。
殺されそうなとき、「助けてください」と命乞いしたら、そのまま殺される。
獲物は弱ければ弱いほど、弱そうに見えれば弱そうに見えるほど、殺す方にとっては都合が良いのだ。
テレビのインタビューで不安げに「もう百社以上受けましたが全滅です」なんて言うなよ、就活生。
そういう時は、ニヤリとして「もう内定はいくつかもらったんですけど、他にも興味ある企業があるので、これからうかがうところです」と自信たっぷりに答えてみろ。就職活動してる学生みんながそういう態度を見せれば、採用する方だって学生たちを舐めなくなる。
ったく、どこの自然界に、「ここに弱ってる生き物がいますよ」って自分でアピールするアホがいる?
「俺は誰よりも強い。そして今、俺は絶好調だ」と、そうアピールしてこそ道は拓(ひら)けるのだ、と、私は確信している。
自分は自信家なのだと思い込むこと、自分は楽天家だと思い込むこと、実は結構ラッキーじゃんと思い込むこと、これらは全部タダでできるし、すぐにできる。
そして最も大事なことなのだが、
なんだかんだ言ってもこの世はすべてが面白いのだ。
おわり
2011年2月18日金曜日
8-11=-5
8-11=-5
なんだこの計算は? と思われた方へ
これは、平成23年の少年サッカーにおいては正解となるのです。
といったら、少し興味を持っていただけるだろうか。
今年の少年サッカー界では、
11-8=3
8-11=-3
とはならない。
11人制でのフィールドプレーヤーはGKをのぞいた10人。
基本的には、その10人を攻撃と守備に4人ずつ、余った2人を攻守をつなぐジョイントにしてチームが一体として機能するように構成する。
では8人制なら、どうなるか。
11人制の時と同じやり方で、フィールドプレーヤーの7人を攻撃と守備3人3人に分け、ジョイントに1人おけばいいのだろうか?
サッカー協会が少年年代を11人制から8人制へと変更させた理由は、この年代でポジションを固定させない育成にあると聞いている。初期の段階でさまざまなポジションを経験することにより、将来、自分の身体的特徴やセンスを最も有利に使えるポジションでプレーできるように──したいのだろう。また、プレーするチーム人数が減れば、一人一人のプレーヤーのボールタッチ機会も増すはずだ──という考えもあるに違いない。なんでも作れる料理人になろうとしたらどの料理も中途半端になって美味しい料理をひとつも作れないシェフや、ライバル店が減ればうちにくる客が増えるだろうと目論んでたらシャッター通りになってしまった──みたいなことにならないことを祈りたい。
さて、では協会の考える8人制チームができあがった、としよう。
おそらくそれは、どのポジションでもこなせる7人によって構成されたチームだろうと思われる。
どのポジションでもこなせるユーティリティプレーヤー7人……。
ここで最初に戻ってもらいたい。
11人制のチームに、どのポジションでもこなせるようなユーティリティプレーヤーは何人いただろうか?
各チーム事情によって差はあるだろうが、ここは思考実験の場だということで納得してもらうことにして答えを出せば、それは2人ということになる。
ユーティリティプレーヤーは2人しかいない。
ここで「-5」という数字の意味がおわかり頂けただろう。
この「-5」という数字は、足りないユーティリティプレーヤーの数を指していたのだ。
FWの子がディフェンスに回ったときは往々にして1対1で不安定になりやすいし、ディフェンスの子が攻撃の決定的場面でボールを受けた場合、敵に囲まれた中での判断に難が現れてしまうことが、ややもするとある。
そして8人制での、FWが自陣ゴール前にいる状況、またはDFが敵陣ゴール前にいる状況でのボールロストは、一気にカウンターを受けるピンチとなる。カバーリングや時間を稼ぐだけの人的余裕がないからだ。
欠点を、というかその子が持っているものを伸ばす方向ではなく、持っていないものを繕(つくろ)う方向において、練習で補える部分は限られている。
昨年一年間、全国的にも知られたようなチームをいくつか拝見する機会を得たが、いいサッカーをしていたチームは、特徴や長所を伸ばす、可能性を引き出す、そういう指導をされているのだろうなと思われるチームばかりだった。
この傾向は変わらないだろう。それが少年サッカー年代での指導として正しいからだ。欠点や弱点をつぶそうとするあまり、その子の個性や特徴・長所まで消してしまっては、そこでその選手は終わってしまうことをよい指導をされているコーチの皆さんは知っているからだ。
つまりこれを逆から読めば、全国的に有名なチームであっても、ユーティリティな選手を数多くそろえることはまず不可能だろうということになる。
しかし!
8人制では、ユーティリティプレーヤーを7人揃えられたチームがよい戦績をあげる。これは確実だ(ボールロスト即カウンターのリスクが減るから)。
したがって全日本少年サッカー大会を目指すチームの見る方向は、大人も子供も含めて、11人制も併存する現状では、10人のほぼすべてがユーティリティプレーヤーとなる方向へと、自然と進むことになる。8人制の試合ではそういう子が使われるようになるために、11人制のときであっても8人制でのレギュラーを中心にチームを組むしか道はないからだ。
攻めでしか生きない、守りでしか生きない、サイドでしか生きない、そういう選手の出場機会は激減し、彼らも自分に自信を持てなくなる。
ったく、困ったものだ、などと考えていてもつまらないので、ユーティリティプレーヤーを2人しか揃えられない条件で11人制から8人制へチーム編成を移行する場合、どうするのが最も戦力的に高くなるかを考えてみた。
結論から言うと、1-3-2-1の1トップ1リベロ(リベロ!!! 懐かしい響き。フランコ・バレージが思い出されます)しかないというのが、私の答えだ。
8人制の特徴は、なんといってもピッチが狭くなることと攻守の切り替えが早くなることだろう。
このことは(上でも書いたように)カウンターのチャンスが増えると同時に、ロストボール即失点へ結びつくリスクが高くなることを意味している。
お偉方は「全員攻撃全員守備」と簡単に言うが、小学生レベルで攻撃と守備を戦術的に両立できる選手は少ない。「うちの選手たちは大丈夫」とコーチが太鼓判を押しているような選手であっても、客観的に見れば、体力や体格や反応センスでどちらかを“ごまかし”ていることがほとんどだ。
だったらそこは現実を直に見つめ、開き直って、バスケットボールやバレーボールやアイスホッケーのように、各ポジションでの専門性を高めてしまっても面白いように思う。まさにサッカー協会のお偉方の「机上の空論」の真逆をつくのだ。
攻撃の軸は1トップの個人技個人能力に、守備は1リベロの戦術眼とセンスに、それぞれ重きをおく。
こうしたサッカーの中から、将来の日本のスターが誕生するかもしれない。個性と自信を持った、イタリアのバロテッリみたいなキャラになるかもしれないけど、でも面白い選手は絶対に出てくると私は確信している。
ということで、懐かしのバレージの動画を紹介しながら、この辺で──
Franco Baresi
なんだこの計算は? と思われた方へ
これは、平成23年の少年サッカーにおいては正解となるのです。
といったら、少し興味を持っていただけるだろうか。
今年の少年サッカー界では、
11-8=3
8-11=-3
とはならない。
11人制でのフィールドプレーヤーはGKをのぞいた10人。
基本的には、その10人を攻撃と守備に4人ずつ、余った2人を攻守をつなぐジョイントにしてチームが一体として機能するように構成する。
では8人制なら、どうなるか。
11人制の時と同じやり方で、フィールドプレーヤーの7人を攻撃と守備3人3人に分け、ジョイントに1人おけばいいのだろうか?
サッカー協会が少年年代を11人制から8人制へと変更させた理由は、この年代でポジションを固定させない育成にあると聞いている。初期の段階でさまざまなポジションを経験することにより、将来、自分の身体的特徴やセンスを最も有利に使えるポジションでプレーできるように──したいのだろう。また、プレーするチーム人数が減れば、一人一人のプレーヤーのボールタッチ機会も増すはずだ──という考えもあるに違いない。なんでも作れる料理人になろうとしたらどの料理も中途半端になって美味しい料理をひとつも作れないシェフや、ライバル店が減ればうちにくる客が増えるだろうと目論んでたらシャッター通りになってしまった──みたいなことにならないことを祈りたい。
さて、では協会の考える8人制チームができあがった、としよう。
おそらくそれは、どのポジションでもこなせる7人によって構成されたチームだろうと思われる。
どのポジションでもこなせるユーティリティプレーヤー7人……。
ここで最初に戻ってもらいたい。
11人制のチームに、どのポジションでもこなせるようなユーティリティプレーヤーは何人いただろうか?
各チーム事情によって差はあるだろうが、ここは思考実験の場だということで納得してもらうことにして答えを出せば、それは2人ということになる。
ユーティリティプレーヤーは2人しかいない。
ここで「-5」という数字の意味がおわかり頂けただろう。
この「-5」という数字は、足りないユーティリティプレーヤーの数を指していたのだ。
FWの子がディフェンスに回ったときは往々にして1対1で不安定になりやすいし、ディフェンスの子が攻撃の決定的場面でボールを受けた場合、敵に囲まれた中での判断に難が現れてしまうことが、ややもするとある。
そして8人制での、FWが自陣ゴール前にいる状況、またはDFが敵陣ゴール前にいる状況でのボールロストは、一気にカウンターを受けるピンチとなる。カバーリングや時間を稼ぐだけの人的余裕がないからだ。
欠点を、というかその子が持っているものを伸ばす方向ではなく、持っていないものを繕(つくろ)う方向において、練習で補える部分は限られている。
昨年一年間、全国的にも知られたようなチームをいくつか拝見する機会を得たが、いいサッカーをしていたチームは、特徴や長所を伸ばす、可能性を引き出す、そういう指導をされているのだろうなと思われるチームばかりだった。
この傾向は変わらないだろう。それが少年サッカー年代での指導として正しいからだ。欠点や弱点をつぶそうとするあまり、その子の個性や特徴・長所まで消してしまっては、そこでその選手は終わってしまうことをよい指導をされているコーチの皆さんは知っているからだ。
つまりこれを逆から読めば、全国的に有名なチームであっても、ユーティリティな選手を数多くそろえることはまず不可能だろうということになる。
しかし!
8人制では、ユーティリティプレーヤーを7人揃えられたチームがよい戦績をあげる。これは確実だ(ボールロスト即カウンターのリスクが減るから)。
したがって全日本少年サッカー大会を目指すチームの見る方向は、大人も子供も含めて、11人制も併存する現状では、10人のほぼすべてがユーティリティプレーヤーとなる方向へと、自然と進むことになる。8人制の試合ではそういう子が使われるようになるために、11人制のときであっても8人制でのレギュラーを中心にチームを組むしか道はないからだ。
攻めでしか生きない、守りでしか生きない、サイドでしか生きない、そういう選手の出場機会は激減し、彼らも自分に自信を持てなくなる。
ったく、困ったものだ、などと考えていてもつまらないので、ユーティリティプレーヤーを2人しか揃えられない条件で11人制から8人制へチーム編成を移行する場合、どうするのが最も戦力的に高くなるかを考えてみた。
結論から言うと、1-3-2-1の1トップ1リベロ(リベロ!!! 懐かしい響き。フランコ・バレージが思い出されます)しかないというのが、私の答えだ。
8人制の特徴は、なんといってもピッチが狭くなることと攻守の切り替えが早くなることだろう。
このことは(上でも書いたように)カウンターのチャンスが増えると同時に、ロストボール即失点へ結びつくリスクが高くなることを意味している。
お偉方は「全員攻撃全員守備」と簡単に言うが、小学生レベルで攻撃と守備を戦術的に両立できる選手は少ない。「うちの選手たちは大丈夫」とコーチが太鼓判を押しているような選手であっても、客観的に見れば、体力や体格や反応センスでどちらかを“ごまかし”ていることがほとんどだ。
だったらそこは現実を直に見つめ、開き直って、バスケットボールやバレーボールやアイスホッケーのように、各ポジションでの専門性を高めてしまっても面白いように思う。まさにサッカー協会のお偉方の「机上の空論」の真逆をつくのだ。
攻撃の軸は1トップの個人技個人能力に、守備は1リベロの戦術眼とセンスに、それぞれ重きをおく。
こうしたサッカーの中から、将来の日本のスターが誕生するかもしれない。個性と自信を持った、イタリアのバロテッリみたいなキャラになるかもしれないけど、でも面白い選手は絶対に出てくると私は確信している。
ということで、懐かしのバレージの動画を紹介しながら、この辺で──
Franco Baresi
2011年2月13日日曜日
『スクール!!』でわかるジュニア・ビジネスの裏側
『スクール!!』
フジテレビにて毎週日曜日夜9時から絶賛放送中!!
今月から始まったドラマに『スクール!!』というのがある。
江口洋介扮する民間出身の校長が、着任した問題小学校を熱血で変えていく、という王道の物語だ(ろう)。
恩師の家に住み込んで、学校と私生活の両面から主人公の人間性を深めていく手法も、往年の名作『熱中時代』を思い起こさせ、懐かしい。
今期のドラマで、これから最後まで見ようかなと私が思っているのは、このドラマと田村正和の『国選弁護人』と、織田裕二の『外交官』の三つだ。三作品はちょっと多いかなとも感じるが、『国選』と『外交』のどちらかは途中で脱落しそうなので、まあこれでいいとしよう。
ちなみに、だ。
『コクセン』の方で気になっていること──橋爪功はもういいの?
『オダユウ』の方で気になっていること──メキシコ大使館からちょこっと抗議されただけでこんなに腰が引けているのに、医療産業の裏みたいな問題に踏み込めるの? どうせいつもの政治家が悪いパターンになるに200エジプトポンド。
さて本題。
『スクール!!』というドラマは、小学校が舞台なだけあって、小学生を演じる劇団員が大勢登場する。
彼ら彼女らの目標はプロの俳優になることだろうし、彼ら彼女らの親御さんや祖父母さんらも、(当面は)同じ夢を抱いているケースがほとんどだろう。
そして彼ら彼女らを起用するドラマ制作側や、彼ら彼女らの所属する劇団は、子役らが将来有名俳優となり、自分たち(制作側や劇団関係者など)のために“芸能界での存在感”を増し“自分たち(制作側や劇団関係者など)の業界人としての業界への影響力”を強化してくれることを願っている。
演出家やプロデューサーにとって、自分がその業界で生き残れるかは、長寿作となる作品に“代えようのない中心人物”として関われるか、そして“簡単には仕事を頼めないような超人気俳優”と親密な信頼関係を築けるかにかかっている。「あの人じゃなきゃだめだ」という作品を多く持てれば多く持てるほど、その人間はドラマ製作現場で生き残って行ける(出世できる)可能性が高くなるのだ(いかに名作であっても、いかに人気をはくした俳優であっても、一発だけでは『あの人は今』になってしまう)。
また劇団にとっては、大手芸能事務所へどれだけ自分の劇団から役者を送り込めるか、が、生き残りのカギとなる。
老舗の劇団には、繋がりの深い(気心が知れている、とか、しがらみが強い、とも言う)芸能事務所があって、見込みのある役者の卵やスポンサーの受けがよさそうな役者の卵は、そこへ優先的に送れるように、いろいろ仕掛けをしたりする。それは時には、その芸能事務所の人気俳優と交流させたり、その事務所のレッスンに参加させたり、その事務所の影響力が効くテレビドラマにちょい役で出演させたりするような事であったりする。大手芸能事務所が、自分の傘下に劇団や養成所を作ったり、資金面で援助したりすることも多い。
しかしこのあたりも、昔とは違って、子どもや親も、妙に芸能界の裏事情に詳しかったりするので、あの事務所は嫌だとか、どうしてもこの事務所へ入りたい(入れたい)とか、そういうのもよくあるので、なかなか難しいことになってきているのが現状だ。
とは言っても、そこはやはり、好きな事務所へほいほい入れるものでもなく、嫌な事務所だからそこへは行きたくないというわがままがすんなり通るという世界でもない。
そういったことすべてが、関係者すべてにからまりつき、「結果論」によって軽重が問われる世界、それが“The芸能界”なのである。
「The芸能界is結果論」のわかりやすい例をひとつあげるとすればこういうのはどうだろう。
俳優には、人気があるから、ドラマに出るのではなく、人気があるドラマへ出ているから、人気が出る、あるいは維持できるという面がある。
ドラマのDVD販売やレンタルが多くなり、またデジタル化が普及して「キーワード予約録画」が一般化すれば、この傾向はますます強くなる。「人気があるドラマ」しか見られなくなるからだ。
つまり、テレビの見方においてデジタル化が浸透すれば、これまでのように「ながら」で「たまたま見たら面白かった」というようなことはなくなるわけだ。
はじめから見るつもりであった番組しか見られなくなり、それ以外は実質存在しないこと同然になる。
放送される番組も、人気のあった作品の再放送が増える(制作費がかからない上、リピーターも確実に期待できるから)ので、その反動として新作の入り込む余地は引き算で狭くなっていく。
ドラマの視聴率がこのまま右肩下がりなら、その傾向はかけ算で増していく。
となると、新人が顔を売り名前を売って有名になるには、どこかのコアな固定ファンがいる集団で安定した人気を得て、それを根拠にメジャーメディアへ認めさせるのがほぼ唯一の道となる。有名芸能人の親族が安易に芸能界デビューしている背景にも、これと同じベクトルの理由が隠れている。“いわゆるブランド商法”的なマーケティング手法と言えるだろう。
それの成功例が、韓国流タレントやパフューム(韓国やネットメディアのコアファン)、AKB48(秋葉原のオタクファン)、おバカタレント(番組のファン)、渋谷系モデル出身タレント(渋谷文化のファン)、そして言わずもがなの、名のある親から生まれたおぼっちゃまおじょうちゃまタレントなどだ。逆に、従来の「ちょい役」から徐々に、とか、下積み何年、とかいう道は段々細くなって行く。ちょい役の余地や下積みのできる場が消滅するからだ。
サッカー界にあてはめてみると、これが思っていた以上にピタリとくる。
子役劇団がサッカー少年団やサッカースクールで、芸能プロダクションがJの下部チーム、トレセンや年代別代表は単発ドラマや企画モノ、そしてJリーグが芸能界で、さらにヨーロッパのチームやフル代表は高視聴率番組の主役であったり映画の主人公だったり、などと置き換えられそうに思えるのだ。
『スクール』でどの子役にどういう役をやらせるのかは、その子役の個性だけではなくて、当然「大人の目論見(もくろみ)」もからんでくる。いや、むしろ、こっちの方の比重が大きくならざるを得ないはずだ。
少し想像力を働かせれば、それもさもありなんと納得できる。
まず、出演している子役が将来スターになった場合、この番組が再放送されたり、DVDの売上が伸びることが期待される。デジタル化がこのまま進めば、当然テレビ局は過去番組の有料配信(アーカイヴ)やDVD販売での収益も柱にしていく。その際、この番組が検索結果にどれだけ引っかかるかが、とても重要なのだ。有名俳優がからんでいれば、当然、その有名俳優がベテランとなった時であっても人気番組に出演している可能性が高いし、そうなるとその俳優の名前で検索される機会も多くなる。ということは、こうした過去の番組も検索に引っかかる率が高くなるということになる。
同様のバイアスは、関係者全員に働く。
「わたし、あの番組の○○だったんです」あるいは「あの番組で○○をしていた□□さんに、お願いしたい」のような広告媒体として、非常に効果的だからだ。有名作詞家であり、放送作家でもある秋元康さんが、確固たる地位を築いた今になっても無名新人発掘に積極的な理由も、間違いなくこれだと私は思っている。未来の有名タレントを自分の宣伝媒体として利用しようと考えているのだ。
この裏事情を理解した上で、『スクール』での配役を見ると、今現時点で、どの子役にどれくらいの期待がかけられているのかが透けて見えてくる。
出演している子役の中には、次の、またその次の出演作も決定している子が何人もいる(子役が子役でいられる時間はそう長くないし、ドラマ制作の前準備下準備にも時間がかかるし、頼っている学校の都合もあるので、当然スケジュールは1年から1年半先を見据(す)えて組むから)。
当然そういう子役には、「人気ドラマから視聴率を引っぱってきてもらう」ことが期待される。これが続くと、よく言われる「彼(彼女)は視聴率を持っている」という存在と認知されて、人気芸能人への道がつながることになる。
学校モノ・学園モノのドラマは「教室」というまな板から逃れられない、このことが、他の設定のドラマではうかがい知れない、「裏に隠されている意図」を見やすくしてくれる。
まるで「ドラマから“偶然”生まれたスター」であるかのように見えたのは、実は全て計算された「演出」であることの方がはるかに多い。というかプロならば当然それを狙ってそう作る。まぐれ当たりに頼っていては、飯が食えないからだ。
どういう配役で、どういう盛り上がりを作って、どう次の作品へつなげていくつもりなのか、その辺の狙いを想像しながら『スクール』を観ることは、サッカー観戦でのスカウティング能力を高める訓練にもなる(かな?)、なんて私は確信している(わけではない)。
議員だけでなく産業界、霞ヶ関、報道機関、政治活動団体(統一痴呆選挙前だというのに街宣車も妙におとなしいですよね)、などなど自民党を応援してた側の勢力が、この頃やけに菅政権のサポートに回っているということの意図も、もしかしたら、自分たちが再び政権を奪還する前に、増税やTPPといった「人気のない政策」を民主党にやらせてしまおう、というあたりに隠れているのかもしれない、などとひねくれた見方を私はしちゃっています。また一度は引退したようなベテラン(ロートル)を、政府の要職へカンバック起用したのも、民主党の将来の首相候補(と本人たちは思っている)たちに、「こいつは増税した大臣だったよな」「このアホが大臣の時にTPPを強行した」などという類(たぐい)の傷が付かないように、と考えてのことなのではないか、とも思ってます。今はすぐ、昔の映像が流されますからね。
この世に税という仕組みが発明されて以来、支配者・権力者に対抗するには武器を持って立ち上がるか、税をいかに納めないかしかないので(税がなかった時代には、支配や権力が永続することはなかったので、直接の敵対者以外は対抗する必要もなかった。サルの群と同じです)、武器を持って立ち上がるつもりのない私としては、残るもう一方の対抗手段をとるしかなく、したがって『増税を進めようとする勢力』にはどうしても反対の立場になってしまうのであります。あしからず。
ジャジャ~ン
終
フジテレビにて毎週日曜日夜9時から絶賛放送中!!
今月から始まったドラマに『スクール!!』というのがある。
江口洋介扮する民間出身の校長が、着任した問題小学校を熱血で変えていく、という王道の物語だ(ろう)。
恩師の家に住み込んで、学校と私生活の両面から主人公の人間性を深めていく手法も、往年の名作『熱中時代』を思い起こさせ、懐かしい。
今期のドラマで、これから最後まで見ようかなと私が思っているのは、このドラマと田村正和の『国選弁護人』と、織田裕二の『外交官』の三つだ。三作品はちょっと多いかなとも感じるが、『国選』と『外交』のどちらかは途中で脱落しそうなので、まあこれでいいとしよう。
ちなみに、だ。
『コクセン』の方で気になっていること──橋爪功はもういいの?
『オダユウ』の方で気になっていること──メキシコ大使館からちょこっと抗議されただけでこんなに腰が引けているのに、医療産業の裏みたいな問題に踏み込めるの? どうせいつもの政治家が悪いパターンになるに200エジプトポンド。
さて本題。
『スクール!!』というドラマは、小学校が舞台なだけあって、小学生を演じる劇団員が大勢登場する。
彼ら彼女らの目標はプロの俳優になることだろうし、彼ら彼女らの親御さんや祖父母さんらも、(当面は)同じ夢を抱いているケースがほとんどだろう。
そして彼ら彼女らを起用するドラマ制作側や、彼ら彼女らの所属する劇団は、子役らが将来有名俳優となり、自分たち(制作側や劇団関係者など)のために“芸能界での存在感”を増し“自分たち(制作側や劇団関係者など)の業界人としての業界への影響力”を強化してくれることを願っている。
演出家やプロデューサーにとって、自分がその業界で生き残れるかは、長寿作となる作品に“代えようのない中心人物”として関われるか、そして“簡単には仕事を頼めないような超人気俳優”と親密な信頼関係を築けるかにかかっている。「あの人じゃなきゃだめだ」という作品を多く持てれば多く持てるほど、その人間はドラマ製作現場で生き残って行ける(出世できる)可能性が高くなるのだ(いかに名作であっても、いかに人気をはくした俳優であっても、一発だけでは『あの人は今』になってしまう)。
また劇団にとっては、大手芸能事務所へどれだけ自分の劇団から役者を送り込めるか、が、生き残りのカギとなる。
老舗の劇団には、繋がりの深い(気心が知れている、とか、しがらみが強い、とも言う)芸能事務所があって、見込みのある役者の卵やスポンサーの受けがよさそうな役者の卵は、そこへ優先的に送れるように、いろいろ仕掛けをしたりする。それは時には、その芸能事務所の人気俳優と交流させたり、その事務所のレッスンに参加させたり、その事務所の影響力が効くテレビドラマにちょい役で出演させたりするような事であったりする。大手芸能事務所が、自分の傘下に劇団や養成所を作ったり、資金面で援助したりすることも多い。
しかしこのあたりも、昔とは違って、子どもや親も、妙に芸能界の裏事情に詳しかったりするので、あの事務所は嫌だとか、どうしてもこの事務所へ入りたい(入れたい)とか、そういうのもよくあるので、なかなか難しいことになってきているのが現状だ。
とは言っても、そこはやはり、好きな事務所へほいほい入れるものでもなく、嫌な事務所だからそこへは行きたくないというわがままがすんなり通るという世界でもない。
そういったことすべてが、関係者すべてにからまりつき、「結果論」によって軽重が問われる世界、それが“The芸能界”なのである。
「The芸能界is結果論」のわかりやすい例をひとつあげるとすればこういうのはどうだろう。
俳優には、人気があるから、ドラマに出るのではなく、人気があるドラマへ出ているから、人気が出る、あるいは維持できるという面がある。
ドラマのDVD販売やレンタルが多くなり、またデジタル化が普及して「キーワード予約録画」が一般化すれば、この傾向はますます強くなる。「人気があるドラマ」しか見られなくなるからだ。
つまり、テレビの見方においてデジタル化が浸透すれば、これまでのように「ながら」で「たまたま見たら面白かった」というようなことはなくなるわけだ。
はじめから見るつもりであった番組しか見られなくなり、それ以外は実質存在しないこと同然になる。
放送される番組も、人気のあった作品の再放送が増える(制作費がかからない上、リピーターも確実に期待できるから)ので、その反動として新作の入り込む余地は引き算で狭くなっていく。
ドラマの視聴率がこのまま右肩下がりなら、その傾向はかけ算で増していく。
となると、新人が顔を売り名前を売って有名になるには、どこかのコアな固定ファンがいる集団で安定した人気を得て、それを根拠にメジャーメディアへ認めさせるのがほぼ唯一の道となる。有名芸能人の親族が安易に芸能界デビューしている背景にも、これと同じベクトルの理由が隠れている。“いわゆるブランド商法”的なマーケティング手法と言えるだろう。
それの成功例が、韓国流タレントやパフューム(韓国やネットメディアのコアファン)、AKB48(秋葉原のオタクファン)、おバカタレント(番組のファン)、渋谷系モデル出身タレント(渋谷文化のファン)、そして言わずもがなの、名のある親から生まれたおぼっちゃまおじょうちゃまタレントなどだ。逆に、従来の「ちょい役」から徐々に、とか、下積み何年、とかいう道は段々細くなって行く。ちょい役の余地や下積みのできる場が消滅するからだ。
サッカー界にあてはめてみると、これが思っていた以上にピタリとくる。
子役劇団がサッカー少年団やサッカースクールで、芸能プロダクションがJの下部チーム、トレセンや年代別代表は単発ドラマや企画モノ、そしてJリーグが芸能界で、さらにヨーロッパのチームやフル代表は高視聴率番組の主役であったり映画の主人公だったり、などと置き換えられそうに思えるのだ。
『スクール』でどの子役にどういう役をやらせるのかは、その子役の個性だけではなくて、当然「大人の目論見(もくろみ)」もからんでくる。いや、むしろ、こっちの方の比重が大きくならざるを得ないはずだ。
少し想像力を働かせれば、それもさもありなんと納得できる。
まず、出演している子役が将来スターになった場合、この番組が再放送されたり、DVDの売上が伸びることが期待される。デジタル化がこのまま進めば、当然テレビ局は過去番組の有料配信(アーカイヴ)やDVD販売での収益も柱にしていく。その際、この番組が検索結果にどれだけ引っかかるかが、とても重要なのだ。有名俳優がからんでいれば、当然、その有名俳優がベテランとなった時であっても人気番組に出演している可能性が高いし、そうなるとその俳優の名前で検索される機会も多くなる。ということは、こうした過去の番組も検索に引っかかる率が高くなるということになる。
同様のバイアスは、関係者全員に働く。
「わたし、あの番組の○○だったんです」あるいは「あの番組で○○をしていた□□さんに、お願いしたい」のような広告媒体として、非常に効果的だからだ。有名作詞家であり、放送作家でもある秋元康さんが、確固たる地位を築いた今になっても無名新人発掘に積極的な理由も、間違いなくこれだと私は思っている。未来の有名タレントを自分の宣伝媒体として利用しようと考えているのだ。
この裏事情を理解した上で、『スクール』での配役を見ると、今現時点で、どの子役にどれくらいの期待がかけられているのかが透けて見えてくる。
出演している子役の中には、次の、またその次の出演作も決定している子が何人もいる(子役が子役でいられる時間はそう長くないし、ドラマ制作の前準備下準備にも時間がかかるし、頼っている学校の都合もあるので、当然スケジュールは1年から1年半先を見据(す)えて組むから)。
当然そういう子役には、「人気ドラマから視聴率を引っぱってきてもらう」ことが期待される。これが続くと、よく言われる「彼(彼女)は視聴率を持っている」という存在と認知されて、人気芸能人への道がつながることになる。
学校モノ・学園モノのドラマは「教室」というまな板から逃れられない、このことが、他の設定のドラマではうかがい知れない、「裏に隠されている意図」を見やすくしてくれる。
まるで「ドラマから“偶然”生まれたスター」であるかのように見えたのは、実は全て計算された「演出」であることの方がはるかに多い。というかプロならば当然それを狙ってそう作る。まぐれ当たりに頼っていては、飯が食えないからだ。
どういう配役で、どういう盛り上がりを作って、どう次の作品へつなげていくつもりなのか、その辺の狙いを想像しながら『スクール』を観ることは、サッカー観戦でのスカウティング能力を高める訓練にもなる(かな?)、なんて私は確信している(わけではない)。
議員だけでなく産業界、霞ヶ関、報道機関、政治活動団体(統一痴呆選挙前だというのに街宣車も妙におとなしいですよね)、などなど自民党を応援してた側の勢力が、この頃やけに菅政権のサポートに回っているということの意図も、もしかしたら、自分たちが再び政権を奪還する前に、増税やTPPといった「人気のない政策」を民主党にやらせてしまおう、というあたりに隠れているのかもしれない、などとひねくれた見方を私はしちゃっています。また一度は引退したようなベテラン(ロートル)を、政府の要職へカンバック起用したのも、民主党の将来の首相候補(と本人たちは思っている)たちに、「こいつは増税した大臣だったよな」「このアホが大臣の時にTPPを強行した」などという類(たぐい)の傷が付かないように、と考えてのことなのではないか、とも思ってます。今はすぐ、昔の映像が流されますからね。
この世に税という仕組みが発明されて以来、支配者・権力者に対抗するには武器を持って立ち上がるか、税をいかに納めないかしかないので(税がなかった時代には、支配や権力が永続することはなかったので、直接の敵対者以外は対抗する必要もなかった。サルの群と同じです)、武器を持って立ち上がるつもりのない私としては、残るもう一方の対抗手段をとるしかなく、したがって『増税を進めようとする勢力』にはどうしても反対の立場になってしまうのであります。あしからず。
ジャジャ~ン
終
2011年1月30日日曜日
アジアカップ日本優勝!
アジアカップ決勝点のシーン
0050 長友選手は、サイドタッチラインの外へ出て、視野の確保と、体の向きと、キッカーへのパスコーススペースと、自分がトラップするスペースを作り出している。もしラインの内側1メートルくらいの場所で、真後ろを向いていたら、キッカーはパスをあきらめたかもしれない。また、仮にパスが通ったとしても、トラップは後方へしかできず、オーストラリアの2人につめられ、中へのパスコースもない状況でのバックパスも、キッカー横にいるオーストラリアの3人目にカットされていただろう。
0052 横向きの体勢をとっていたおかげで、トラップと同時に中の状況を確認できている。ゴール前には得点した李選手と、そのマーカー1人しかいない。二人の周囲がガラガラであるイメージが、長友選手にも見えたはずだ。
0053 長友選手お得意の「晒(さら)し」からの抜けだし。ボールを相手の面前(めんぜん)へ晒(さら)すことで、相手の体の向きを変えさせて、スタートを遅らせるプレー。これを成功させるポイントは、走力ではなく、相手との間隔。近すぎるよりは「遠いかな」「早いかな」と思うくらいのタイミングの方がいい。
それと面白いのが、李のマーク役であるオージービーフ。自分のマーカーを一度も振り返ることなく、ゴールニアサイドのスペースを埋めに移動している。おそらくニアへ飛び込む岡崎選手のイメージや、韓国戦での同点弾(前田選手)の情報に釣られたのだろう。日本のセンタリングはニアへの低いボールというデータがあったとしか思えない。そうじゃなかったとしたら、このオージービーフは、ゴールポスト横の水を飲みに行ったか、だ。ペナルティエリア際にいるオージーも、ぼーっとしたまま。このオージーは、長友選手の突破が始まる前から、ずっとぼーっとしてる。「オージーシンジ君」と命名。
0056 見事なボレーシュート! 結果がすべてのストライカー。すばらしい。
【最もすばらしい判断・プレー】
長友選手が突破に時間をかけなかったことだろう。そしてセンタリングまで一気に行っている(チラ見して決断した後は、蹴る直前に中の状況を再確認もしていない。このことも、オーストラリアDFにニアへの「思い込み」をさせた要因だろうと思われる。意図的にそれを狙ったのかどうかは聞いてみなければわからないが……)。
この状況は、例えばテレビ解説者なら「あ~中が少ない。もう一枚いないとだめだ」とか「中がいないのにただ上げるのは、モタイナイですね。中がいないのにセンタリングしてもハイラナイですね。モタイナイ」とか責められる形。でも長友選手は、他の味方が上がってくる時間をかせぐよりも、オージービーフの守備体制が立て直される前のタイミングを選んだ。これはまさに「決断」だ。
繰り返すが、もしセンタリングが中の李選手に合っていなかったら(抜けるとか、後ろに反れるとか)、間違いなく長友選手はマイナス評価となる状況でもあったのだ。この中での決断を迷いなく下せたことは、イタリアでの成長の証だと思う。
また、もしニアでクリアされてたとしたら「ニア! ニア! ニアにつめないと! 逃げちゃだめだ!」「オーストラリアDFは大きいですから、後ろで待っていてもボールが来る可能性はナイデスネ」などと、今度は李選手が非難されてたに違いない。
結果をそのまま見ているだけでは、サッカーはもったいない。
噛めば噛むほど旨味が出てくる、それが“サッカー”という世界だ。
サッカーという競技が、競技の性格として野球やアメリカンフットボール等と大きく異なるのが、「確率による分析が当てはまらない」点だ。
このシーンにしても、ゴール前には体の大きな敵が複数いるのに味方は一人きり、という状況でハイボールからのシュートを狙うという判断は、確率論から言えば無謀な部類に入るだろう。まして、疲労がたまっている時間に左足でのセンタリングなのだ。
だが見事なボレーシュートが決まり、試合はオーストラリアが負け、アジアカップは日本代表の手によって掲げられた。
これがサッカーなのだ。
最後に、日本代表へ。
アジアカップの優勝おめでとう。
やったね~!!!!
ヤッホーのホー!
うっひょーのひょー!
バンザ~イ! バンザ~イ! バンザ~イ!
も一度万歳三唱!
バンザ~イ! バンザ~イ! バンザ~イ!
も一度万歳三唱!
バンザ~イ! バンザ~イ! バンザ~イ!
も一度万歳三唱!
バンザ~イ! バンザ~イ! バンザ~イ!
も一度万歳三唱!
バンザ~イ! バンザ~イ! バンザ~イ!
最後におまけで、も一度万歳!
バンザ~~~~~イ!
おわり
0050 長友選手は、サイドタッチラインの外へ出て、視野の確保と、体の向きと、キッカーへのパスコーススペースと、自分がトラップするスペースを作り出している。もしラインの内側1メートルくらいの場所で、真後ろを向いていたら、キッカーはパスをあきらめたかもしれない。また、仮にパスが通ったとしても、トラップは後方へしかできず、オーストラリアの2人につめられ、中へのパスコースもない状況でのバックパスも、キッカー横にいるオーストラリアの3人目にカットされていただろう。
0052 横向きの体勢をとっていたおかげで、トラップと同時に中の状況を確認できている。ゴール前には得点した李選手と、そのマーカー1人しかいない。二人の周囲がガラガラであるイメージが、長友選手にも見えたはずだ。
0053 長友選手お得意の「晒(さら)し」からの抜けだし。ボールを相手の面前(めんぜん)へ晒(さら)すことで、相手の体の向きを変えさせて、スタートを遅らせるプレー。これを成功させるポイントは、走力ではなく、相手との間隔。近すぎるよりは「遠いかな」「早いかな」と思うくらいのタイミングの方がいい。
それと面白いのが、李のマーク役であるオージービーフ。自分のマーカーを一度も振り返ることなく、ゴールニアサイドのスペースを埋めに移動している。おそらくニアへ飛び込む岡崎選手のイメージや、韓国戦での同点弾(前田選手)の情報に釣られたのだろう。日本のセンタリングはニアへの低いボールというデータがあったとしか思えない。そうじゃなかったとしたら、このオージービーフは、ゴールポスト横の水を飲みに行ったか、だ。ペナルティエリア際にいるオージーも、ぼーっとしたまま。このオージーは、長友選手の突破が始まる前から、ずっとぼーっとしてる。「オージーシンジ君」と命名。
0056 見事なボレーシュート! 結果がすべてのストライカー。すばらしい。
【最もすばらしい判断・プレー】
長友選手が突破に時間をかけなかったことだろう。そしてセンタリングまで一気に行っている(チラ見して決断した後は、蹴る直前に中の状況を再確認もしていない。このことも、オーストラリアDFにニアへの「思い込み」をさせた要因だろうと思われる。意図的にそれを狙ったのかどうかは聞いてみなければわからないが……)。
この状況は、例えばテレビ解説者なら「あ~中が少ない。もう一枚いないとだめだ」とか「中がいないのにただ上げるのは、モタイナイですね。中がいないのにセンタリングしてもハイラナイですね。モタイナイ」とか責められる形。でも長友選手は、他の味方が上がってくる時間をかせぐよりも、オージービーフの守備体制が立て直される前のタイミングを選んだ。これはまさに「決断」だ。
繰り返すが、もしセンタリングが中の李選手に合っていなかったら(抜けるとか、後ろに反れるとか)、間違いなく長友選手はマイナス評価となる状況でもあったのだ。この中での決断を迷いなく下せたことは、イタリアでの成長の証だと思う。
また、もしニアでクリアされてたとしたら「ニア! ニア! ニアにつめないと! 逃げちゃだめだ!」「オーストラリアDFは大きいですから、後ろで待っていてもボールが来る可能性はナイデスネ」などと、今度は李選手が非難されてたに違いない。
結果をそのまま見ているだけでは、サッカーはもったいない。
噛めば噛むほど旨味が出てくる、それが“サッカー”という世界だ。
サッカーという競技が、競技の性格として野球やアメリカンフットボール等と大きく異なるのが、「確率による分析が当てはまらない」点だ。
このシーンにしても、ゴール前には体の大きな敵が複数いるのに味方は一人きり、という状況でハイボールからのシュートを狙うという判断は、確率論から言えば無謀な部類に入るだろう。まして、疲労がたまっている時間に左足でのセンタリングなのだ。
だが見事なボレーシュートが決まり、試合はオーストラリアが負け、アジアカップは日本代表の手によって掲げられた。
これがサッカーなのだ。
最後に、日本代表へ。
アジアカップの優勝おめでとう。
やったね~!!!!
ヤッホーのホー!
うっひょーのひょー!
バンザ~イ! バンザ~イ! バンザ~イ!
も一度万歳三唱!
バンザ~イ! バンザ~イ! バンザ~イ!
も一度万歳三唱!
バンザ~イ! バンザ~イ! バンザ~イ!
も一度万歳三唱!
バンザ~イ! バンザ~イ! バンザ~イ!
も一度万歳三唱!
バンザ~イ! バンザ~イ! バンザ~イ!
最後におまけで、も一度万歳!
バンザ~~~~~イ!
おわり
2011年1月17日月曜日
ポジショニング感覚を養うとは
ポジショニング感覚を養うとは
『一朝一夕にはいかない』
で、
************************************************************
ではいいポジションを取るためにはどのような練習をすればいいのかとなるのだが、
それはまた、別の話。
To be continued.
************************************************************
と書いておきながらすっかり忘れていたので、今さらながらその続きを書く(これで許して下さい)。
サッカーには正解はない。
その他方で、ポジショニングに理論は存在する。理論はあるのに答えはないというのも妙な話なのだが、サッカーとはそういうものなのだから仕方がない。
ヨーロッパで「戦術」と呼ばれているものも、煎じ詰めればこのポジショニングについての理論を意味している。
このポジショニングについての理論は、サッカーというものをどう捉えているかという哲学に基づいて構築されるので、その哲学が異なれば当然理論も異なり、結果として監督やチーム、国ごとに個性的なサッカーが生まれてくる素地になっているのだ。
またポジショニングの最適解というものは、理論という公式が変わらずとも、その関数に入る状況や個々の選手によって違ってくる。
こうした面からも、「正解はない」ということが理解できるだろう。
理解できれば誰でもそう思う通り、ポジショニング・トレーニングにおいて、「おまえの位置はここだ!」的な「答えを叩きこむ」ような指導方法は、百害あって一利なしだ。その答えが正解であるのは、その監督のそのチームのその練習においてだけなのだから。
こうしたトレーニングでは、その監督のサッカーが明確にできあがっていて、そういうチームを作るときだけ意味がある。例えばプロのチームであったり、フル代表のチームだったり、絶対に勝たなければいけない大会の直前などだ。
逆に言えば、それ以外の場合では、こんなトレーニングをしてはいけない。小学生などの若い選手を育成する段階では特にそうだ。
育成期であり、チームをこれから作っていこうかという段階の前段階で私は、「ポジショニングというものがあるのだ」という「感覚」、「自分がピッチ上でどこに位置しているのか」という「感覚」を体に覚えさせるようなトレーニングを、ぜひお奨めしたい。
これに最適なトレーニングメニュー例をひとつ紹介する。
【ラグビールールのゲーム】
(スローインとフリーキック以外は前の味方へのパス禁止、全部オフサイド)
前進する手段は、「ドリブル」「裏へのパス」、もしくは「敵ボールを“前で”奪う」かの3つしかない。
このトレーニングの目途を三つあげれば、
第一に、『攻めるためにフォローする』という感覚(自分の位置を把握して修正する習慣・クセ)を身につけさせること。
第二に、前進するにはドリブルか裏への走り込みという状況に追い込むことで、『誰かがやってくれる』『消極的』感覚を捨てさせる。
第三に、『フォアチェック即攻撃』という切り替えの早さがチャンスを生むことを楽しく覚えさせる。
といったあたりになるだろうか。
前進手段は3つしかない、と書いたが、実は、高等戦術として、もうひとつある。
それは、わざと相手にパスし、それをチェックするという戦術だ。肉を切らせて骨を断つ戦法だ。
これはこのトレーニングゲームを一層面白くしてくれる。慣れてくれば当然敵もそれを読んで、対応してくる(例えば、チェックが来そうなら、触らないでアウト・オブ・プレーにしてしまうとか)からだ。
★また、最初にこれらに気づく子はサッカー脳が優秀だと推察できる。
数年前からポジショニング練習として一部で取り入れられている、ボールを手で扱うハンドボール風ミニゲームは、率直に言ってウォーミングアップや気分転換以外の効果はないだろう。
ボールを手で扱うことと、足で扱うことは、視界や脳神経や体の使い方からして、いやもっともっと根本的なところで決定的に異なるからだ。そんなことはハンドボール部の選手にサッカーさせてみればすぐにわかるのだが、騙されやすい人は、そういうことも考えられないくらい頭がかたい人なので、たぶん説明してもわかってはもらえまい。う~ん、残念無念。
まあ今度は私に騙されたと思って、機会があったら試してみて欲しい。
今回はこんなところで。
2010年11月22日月曜日
攻撃時の優先順位
【攻撃の際の優先順位の一番は「サイドアタック」でいいのか?】
『サッカープロフェッショナル超観戦術』著者のブログより
--------------------------------------------------
川本
選択というのがあると思うんですよ。ゴールを目指すために、どういうところが優先順位で一番高いのか、という。
まずは、「裏」「真ん中」「サイド」。サイドは攻撃の際の3番目の選択だということ(p.101-105)をはっきりさせたかった。サイドを制するものが、試合を制するみたいな印象を与える言い方があったりして。
岡田
それはおそらく杉山茂樹さんのことですよね? これはあえて名前を出して言うんですけど、杉山さんの戦術論はネタとしては面白いけど、僕が読んでも「あれっ」と思う部分があるわけで、まともにサッカーをやっている人からすれば「なんじゃこれ」となると思うんですよ。それを取り上げるサッカーメディアも、おもしろければなんでもいいのかなと。
彼なんかはフォーメーションやシステムで試合が決まるというけれど、実際は全然そうじゃないわけじゃないですか。試合の流れの中で状況は刻一刻と変わっていくわけで、そこを見て語らないといけないと思うんですよ。
川本
まあ、僕が言っているのは杉山さんだけではないんですが。バルサの試合を見ていると、確かにサイドからの攻撃はされているんですよ。でも、よく見てると、裏を狙うために真ん中を崩してゴールを目指したいから、サイドから攻撃しているのがわかるんです。最初の選択肢がサイドじゃないんですよ。相手が真ん中をケアするので、必然的に真ん中に人がいっぱい集まっているから、サイドから攻撃してという。そうすると相手がサイドをケアしようとして真ん中が薄くなるとか。そのためのサイド攻撃であって、サイドは3番目の選択だよ、というのをはっきりさせたかったんですよね。
岡田
その選択の順序をはっきり書いているのは、わかりやすくてよかったですね。まず、裏を狙うのが1番。次が中に入れてクサビなど。3番目がサイドアタック。中が空かないから、サイドに行くわけで、逆に言うと強いチームは簡単に中を空けないからサイドの攻防が多くなるということですよね。
川本
W杯を見ていても、リーガやブンデスの試合を見ていても、「裏」「真ん中」「サイド」という原理原則をもってゴールを目指すチームは、強豪チームがそういう選択肢をしているんですよ。目的はあくまでゴールを奪うことで、サイドアタックはその選択肢の1つでしかなくて、それも優先順位としては3番目なんだよ、と。
岡田
岡田前監督もそういう話をしてましたよね。「日本の選手はサイドから行け、というと、真ん中が空いていてもサイドからしか攻めなくなってしまう」と。
川本
林くんはどう思う?
林
いやー、日本人は特に、「こうやれ」と言ったら、そればかりをしてしまう傾向はありますね。だから、僕は常に、「状況を見ろ!」と言います。自分の置かれている立場に気づかないといけない。当然、サッカーはチームプレーが基本なので、チームの中に自分という存在があるんですけど、状況を理解できていれば、試合の流れで自分はどうやって関わっていけばいいのかといった、そうした判断は個人になるんですよね。その判断を意識してやっている、もしくは無意識にやれている選手もいるんですけど。そういうことができる選手がいいサッカー選手だと言えのだと思います。
岡田
それはやっぱり、子どもの頃から育てていかないといけないんですかね。
林
そうですね。子どもの頃から教わらないと、サッカーが上手い選手にはならないですね。たとえばボールを扱うのが上手い選手を育てるのは、簡単ではないですけど、育てやすい。ドリル的なトレーニングをさせればいい。ものすごくオーソドックスなものを言えば、リフティングが何回できるかとかですね。10回できるより、1000回できる方がいいという。
--------------------------------------------------
中央が空いているのにサイドにボールを出すというのがどういう状況なのか、私には今ひとつ想像できない。
それに「日本人は特に、「こうやれ」と言ったら、そればかりをしてしまう傾向はありますね」についても、それは子供の頃のそれこそ少年サッカーの時代から、そうしないと叱られるから、あるいは試合に出してもらえなくなるから、という「刷り込み」があるからで、それにこれはサッカーに限ったことじゃなくて、同様の傾向は日本中に蔓延している。
企業経営で「コンプライアンス」がもてはやされるのも、非難(バッシング)を避ける防衛手段としてのことなのだ。
よかれと思ってしたことでも、結果責任を、それこそ二度と立ち直れないくらいに負わされるような環境で、「こうやれ」と言われた範囲を超えるような行動を取ることはできない。あまりにもリスクが大きいからだ。
神奈川、千葉、埼玉の少年サッカーチームを比較した場合、ベンチから子供を怒鳴りつける大人(コーチとも呼ばれている)が多いのは埼玉県である、というのが私の印象だ。
長い目で見たとき、もうここしばらく、埼玉県出身の日本代表FWやMFがいないのは、こうしたことも影響しているように、私には思える。
------------とかなんとか言いながら──本心ではこう思ってます。------------
ん~でも関係ないかなあ。
関西や九州からはたくさん輩出してるもんなあ。あっちのコーチの「怖さ」は、埼玉の比じゃないもんなあ。
サッカーに正解はないという大原則、真理は、こういうことでも当てはまるってことなんだなあ。
おわり
『サッカープロフェッショナル超観戦術』著者のブログより
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川本
選択というのがあると思うんですよ。ゴールを目指すために、どういうところが優先順位で一番高いのか、という。
まずは、「裏」「真ん中」「サイド」。サイドは攻撃の際の3番目の選択だということ(p.101-105)をはっきりさせたかった。サイドを制するものが、試合を制するみたいな印象を与える言い方があったりして。
岡田
それはおそらく杉山茂樹さんのことですよね? これはあえて名前を出して言うんですけど、杉山さんの戦術論はネタとしては面白いけど、僕が読んでも「あれっ」と思う部分があるわけで、まともにサッカーをやっている人からすれば「なんじゃこれ」となると思うんですよ。それを取り上げるサッカーメディアも、おもしろければなんでもいいのかなと。
彼なんかはフォーメーションやシステムで試合が決まるというけれど、実際は全然そうじゃないわけじゃないですか。試合の流れの中で状況は刻一刻と変わっていくわけで、そこを見て語らないといけないと思うんですよ。
川本
まあ、僕が言っているのは杉山さんだけではないんですが。バルサの試合を見ていると、確かにサイドからの攻撃はされているんですよ。でも、よく見てると、裏を狙うために真ん中を崩してゴールを目指したいから、サイドから攻撃しているのがわかるんです。最初の選択肢がサイドじゃないんですよ。相手が真ん中をケアするので、必然的に真ん中に人がいっぱい集まっているから、サイドから攻撃してという。そうすると相手がサイドをケアしようとして真ん中が薄くなるとか。そのためのサイド攻撃であって、サイドは3番目の選択だよ、というのをはっきりさせたかったんですよね。
岡田
その選択の順序をはっきり書いているのは、わかりやすくてよかったですね。まず、裏を狙うのが1番。次が中に入れてクサビなど。3番目がサイドアタック。中が空かないから、サイドに行くわけで、逆に言うと強いチームは簡単に中を空けないからサイドの攻防が多くなるということですよね。
川本
W杯を見ていても、リーガやブンデスの試合を見ていても、「裏」「真ん中」「サイド」という原理原則をもってゴールを目指すチームは、強豪チームがそういう選択肢をしているんですよ。目的はあくまでゴールを奪うことで、サイドアタックはその選択肢の1つでしかなくて、それも優先順位としては3番目なんだよ、と。
岡田
岡田前監督もそういう話をしてましたよね。「日本の選手はサイドから行け、というと、真ん中が空いていてもサイドからしか攻めなくなってしまう」と。
川本
林くんはどう思う?
林
いやー、日本人は特に、「こうやれ」と言ったら、そればかりをしてしまう傾向はありますね。だから、僕は常に、「状況を見ろ!」と言います。自分の置かれている立場に気づかないといけない。当然、サッカーはチームプレーが基本なので、チームの中に自分という存在があるんですけど、状況を理解できていれば、試合の流れで自分はどうやって関わっていけばいいのかといった、そうした判断は個人になるんですよね。その判断を意識してやっている、もしくは無意識にやれている選手もいるんですけど。そういうことができる選手がいいサッカー選手だと言えのだと思います。
岡田
それはやっぱり、子どもの頃から育てていかないといけないんですかね。
林
そうですね。子どもの頃から教わらないと、サッカーが上手い選手にはならないですね。たとえばボールを扱うのが上手い選手を育てるのは、簡単ではないですけど、育てやすい。ドリル的なトレーニングをさせればいい。ものすごくオーソドックスなものを言えば、リフティングが何回できるかとかですね。10回できるより、1000回できる方がいいという。
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中央が空いているのにサイドにボールを出すというのがどういう状況なのか、私には今ひとつ想像できない。
それに「日本人は特に、「こうやれ」と言ったら、そればかりをしてしまう傾向はありますね」についても、それは子供の頃のそれこそ少年サッカーの時代から、そうしないと叱られるから、あるいは試合に出してもらえなくなるから、という「刷り込み」があるからで、それにこれはサッカーに限ったことじゃなくて、同様の傾向は日本中に蔓延している。
企業経営で「コンプライアンス」がもてはやされるのも、非難(バッシング)を避ける防衛手段としてのことなのだ。
よかれと思ってしたことでも、結果責任を、それこそ二度と立ち直れないくらいに負わされるような環境で、「こうやれ」と言われた範囲を超えるような行動を取ることはできない。あまりにもリスクが大きいからだ。
神奈川、千葉、埼玉の少年サッカーチームを比較した場合、ベンチから子供を怒鳴りつける大人(コーチとも呼ばれている)が多いのは埼玉県である、というのが私の印象だ。
長い目で見たとき、もうここしばらく、埼玉県出身の日本代表FWやMFがいないのは、こうしたことも影響しているように、私には思える。
------------とかなんとか言いながら──本心ではこう思ってます。------------
ん~でも関係ないかなあ。
関西や九州からはたくさん輩出してるもんなあ。あっちのコーチの「怖さ」は、埼玉の比じゃないもんなあ。
サッカーに正解はないという大原則、真理は、こういうことでも当てはまるってことなんだなあ。
おわり
2010年11月10日水曜日
劣勢のときこそサッカーは楽しい。
先日の少年団大会県大会@熊谷スポーツ文化公園で、今シーズン私が注目してきたチームが1回戦で敗退した。
そのチーム名を具体的に申し上げることはやめておこう。いつの日か、何かの拍子で、そのチームの関係者が自分たちのチーム名で検索をかけて、このページを目にしてしまうことがあるかもしれないから。
だからここではそのチーム名を、仮にAGミランとしておくことにする。この仮名を選んだことに特別な意図はない。先日未明のUEFAチャンピオンズリーグ特番にそのチームが出て来たからだ。それだけだ。
そして少年団大会@熊谷で、このAGミランから勝利をあげた対戦相手を、便宜上ギャランズ(仮名)とした。
試合の面白さが一段と増したのは、ギャランズが先制した前半10分以降だ。
それまではAGミランの一方的なボール支配率と連続攻撃で、AGミラン応援団は盛り上がっただろうが、さあこれから試合を楽しむぞとワクワクしていた私のようなものにとっては、隣のさつきFC(仮名)対グンゼYG(仮名)の方へ移ろうかなと思わされるような出だしだった(シュート練習を見せられてもつまらないってこと)。
さてさて、ギャランズがAGミランの猛攻をしのいだ後のカウンター一発で先制ました、それからのお話。
AGミラン側は、はっきりわかるくらいに動揺していた。プランが崩れたんだろうね。
はたから見れば、どっちにしろ1点は取らなきゃならないんだから、状況は何にも変わってないと思うのだが、AGミランの方はなぜか、早く追いつかないと負けるぞ空気に包まれて、追い立てられるようにプレスをかけはじめた。
技術的にも実力的にも、AGミランの方がずっと上であることは誰の目にもあきらかなのだから、激しくプレスを受けたギャランズの選手たちは、自分たちのゴール前にほぼ全員が釘付けされるような状態となった。まあ、そうなるのがふつうだろう。
そしてギャランズは、できるだけ遠くへクリアすることと、AGミランの中心選手である7番と16番をがっちりマークすることに集中し始めた(実際のところはそれしかできなくなってしまったというのが事実で、ギャランズベンチからの指示もそれ一辺倒だった)。
ではAGミランの選手たちはそれでどうしたのかというと、なぜか、その密集しているところへパスを通すことだけしか頭になくなってしまったような、まるでこれがそういうゲームか練習であるかのような、そんなプレー選択しかしなくなった。
相手がいないのだから、AGミランは中盤より後ろでは楽にボールを持てる。そこで狙いに狙いをつけて、前方の密集地からの、ガチガチにマークにつかれているエースからのパスを呼ぶ声目がけて、せっかくのマイボールを放り込むのだ。
テレフォンパスどころの話じゃない。レッドカーペットパスかっていうくらいのバレバレ度合いだ。
はたしてAGミランの選手たちは、その狙い通りに、密集した敵に囲まれた味方の利き足ピッタリにボールを落とすことができるほどのコントロールを身につけているのだろうか?
当然、身につけてはいない。
蹴られたボールは、ポーンと飛んでいって、あるいはゴロゴロと転がっていって、相手にカット(プレゼントとも言う)されてしまう。毎回毎回。
ギャランズにしてみれば、攻められ続けているようでいて、モチベーションとしては「守れるぞ」という自信に後押しされるような、気合いのはいる状況だったことだろう。「うおーらっ! 跳ね返せ! 跳ね返せ!」で、相手のエースをがっちり抑えきっている訳だから。このまま耐えれば勝てる、そういう気持ちがどんどん燃え上がってきているのも伝わってきた。
AGミラン側からは、自分たちのプレーをしていればいずれ点は取れるさ、と自分たちを落ち着けようとしているのが伝わってきた。
セットプレーでもいろいろなパターンを持っているようで、コーナーキックなどは毎回違うやり方を見せていた。
でもちょっと待って欲しい。
そして、君たちのそれは、自分たちのことしか考えていない、独りよがりなプレーになってしまっていたのだよ、と気づいて欲しい。
思い返してごらん。
コーナーキックで相手ゴール前に並んだとき、頭ひとつ以上のギャップがあったミスマッチ箇所があったじゃないか。そこを狙ってボールを蹴っていれば、まあ2回に1回は決定的なチャンスになっていただろう、と私は思う。決定的なストロングポイントがある時は、そこを徹底的に突く。これが最もシンプルで最も効率の高い攻撃であるのは、太古の昔からの真理だ。
またシュート体勢に入ったときに余裕があるあまり、グラウンダーのシュートでコースを狙いすぎたのも、相手の守備を盛り上げる要因となってしまった。
あのかたい芝質だと、転がしたボールのスピードは、芝の抵抗で急速に減じていく。
いつもなら間に合わないシュートであっても、最後まであきらめないで足を出せば(GKなら手)、ゴールラインギリギリでクリアできるのだ。そのギリギリのクリアが何本か連続すると、そりゃあディフェンス陣は盛り上がる。今日の俺たちには「キテいる」と、アドレナリンがガンガン出ていたことだろう。
あのような状況で攻撃するときは、ドリブルとショートパスとダイレクトでかき回しながら行きつ戻りつゆっくりじっくりと、というのがセオリーだ。相手が多くてスペースのない場所へロングボールを放り込むなんてのは愚の骨頂。ピタリと止めなきゃならない味方は、どこでもいいから蹴り返せばOKの相手に対して圧倒的に不利な上に、数でも負けているのだから、パスなんて通るわけがない。
密集しているときのシュートは、相手に当たってイレギュラーする率が高いんだから思いっきり強く。また、コースを狙おうとしても密集していてすぐつめられるんだから、タイミング重視で強引に打つ。これが鉄則。
そして芝がかたいんだから、転がさずに浮かせる。芝がかたいということは、ボールが地面から浮いているってことだから、浮き球はいつもより蹴りやすいはずだ。
引き籠もってガチガチに守ってる相手にはあえてプレッシャーをかけないで、ボールを持たせて、攻め上がらせて、最終ラインを前に引き出す。そしてセンターサークルあたりでのパスミスを狙って、パスカットできたらそこからはいつもの自分たちのサッカーを展開。今度はスペースがあるんだから、前よりもずっとやりやすい状況でプレーができる。
──と、他にももっといろいろあるのだが、そういうことを書きたかった訳ではなくて、なぜ負けているときの方が面白いのか、楽しいのか、ということを書きたいので、そちらへと話を戻す。
上に書いたようなことは、試合中にベンチから指示されるようなことではない。
こういう類(たぐい)のことは、試合中に、選手個人個人が自分で状況を分析して、判断するレベルの、極々基本的なことだということを、まず言いたい。
なぜならこれに似たようなことを、子供たちは遊びの中ではいつもやっているからだ。
雨上がりのぬかるんだ場所で鬼ごっこをしたら、ちゃんとぬかるみで自分は有利、鬼は不利になるような逃げ方をする。
ドッチボールで誰を狙うか、どこを狙うか、どういう順番でボールを回すか、風向きは、クセは、そういったことをちゃんと計算する。
ポートボール(リングの代わりを人間がやる、バスケットボールに似た競技)のゴールマンの身長が高いときは、ギリギリ手が届くくらいの高さに投げるし、ジャンプボールではフェイントをかけたりする。
ビデオゲームで遊ぶときだって、攻略本や前にやったときの記憶や友だちから聞いた情報など元に、戦略を研究する。
お小遣いをもらいたいときは、ちょうだいちょうだいとねだる前に、自分からお手伝いや宿題をやっていい子アピールしておく。
それと同じことを、サッカーでもやってくれってことが言いたいのだ。
そしてそれが見えたとき、私は「面白い」「楽しい」と感じる。
「お、あのガキ(あるいはガキども)、やるな」なんて思わせて欲しいのだ。
僕達はコーチに命じられるまま、このプレーを訓練してきました、なんていうプレーは、「お見事」とは思うけど俺には面白くない。俺がわざわざピッチまで足を運ぶのは、あるいは人生の無駄な時間をサッカーに費やすのは、台本通りの演技を見るためじゃない。そんなもん、俺は見たくない。
今、将棋の竜王戦(りゅうおうせん)というのをやっている。
今日、その第3局が始まった。
将棋というゲームにプロが存在していられるのは、そこに勝敗以上の付加価値があるからだ。
そしてその付加価値とは、「心」にあると私は確信している。
「心」とは「心理状態の揺らぎ」そのものである。「心」は決して「考え」や「信念」ではない。その「考え」や「信念」がどう揺らぐかが「心」なのだ。
今期竜王戦は、ここまで羽生(はぶ)名人の2連敗で来ている。
そして面白いのは、渡辺明(わたなべあきら)若き永世竜王のジンクスだ。これがいかにもアヤシイ。
局面が苦しくなるとトイレに立ち、しばらくして戻ってくると、自信満々に会心の一手を指すのだ。これについてはもうずっと、トイレに籠もってパソコンをいじってるんだ、とか、携帯でアドバイスを受けているんだ、とか言われて来た。だがこれも結局のとこ、そのパソコンソフトなり、アドバイザーなりが、羽生名人よりも強くないと意味がないじゃないかということで、噂は噂のままになっている。でもしかし、この、苦しくなると席を立ち、戻ってきたら逆転の一手、というパターンはそのまま今日まで続いている。おそらく渡辺竜王は、こうした噂までをも、心理戦の武器として利用しているのだと私は理解している。そして対局相手もそれをわかっている。わかってはいるのだけれど、考えるな考えるな、盤面に集中しろ、とすればするほど、集中が乱されてしまっているのが考慮時間からもなんとなく読み取れる(特に昨年(2009)の22期森内戦はわかりやすかった)。将棋の超一流クラスであってもそうなのだ。だから将棋は、プロが成立している。いくら強くても、コンピュータソフト同士の対決では、プロ制度は維持できない。しかし、プロ対コンピュータなら、興行は成立するのだ。そこに「心」が介在するからだ。
私は同じことをサッカーにも求めている。
それは少年サッカーであっても同じことだ。
あらゆるサッカーのトレーニングは、この「心」に経験を積ませる、引き出しを増やす、ひらめくノウハウを身につけさせる、ために成されるものだと確信している。
どんなにいい、効果的だとされている練習プログラムであっても、それをやる選手の心が閉じてしまっていてはまったく意味がない。ロボットのように凍りついてしまっていては、ただバーベルを上げ下げしているのと何も変わらない。
シュート練習でも、ミニゲームでも、練習試合でも、それらはすべて「心」を楽しくするためにやっているのだ。
極論すれば、サッカーにおける目標は、FIFAワールドカップの準決勝・決勝とUEFAチャンピオンズリーグの決勝戦のみだとも言える(もちろんここで言っているのは、選手としてピッチに立つとかそういう狭いことではない)。これら以外のすべては、この目標へ至るための準備なのだ、とそうとらえると毎日の練習や、埼玉県内での公式戦への向き合い方も変わってくるのではないだろうか。
今年の全日本少年サッカー大会で優勝したバディーSCにしても、まさかこれで「サッカー人生はいゴールです」とは考えていないはずだ。
神様のいたずらで、ある日ふと目覚めたら、10番背負ってワールドカップの決勝戦のピッチに立っていた、としよう。
そのときに、パニクって、泣き出して、逃げ出してしまうか、理由はわからなくてもその状況にいるのだからそこで自分にできる最善を尽くそう、この状況を最大限に楽しもう、と即集中するかは、すべて「心」が決定する。
自分の心は、自分の中にしかない。
洗脳やマインドコントロールという技術にしても、それらは心を直接コントロールすることはできない。
心は自分の外へ出て行くことはできないし、自分の外から誰も触れることはできない。
いや、自分でさえ、自分の心に触れることはできない。
心とは、自分の中にいる、もうひとりの自分なのだ。
(精神分裂病とか統合失調症とか多重人格とか、そういうことじゃなくて、哲学的な意味で。わかりやすい例をあげれば、自分の心を認識しようとしたとき、その認識しようとしている自分は心を認識できるのか、また逆に自分の心は、心を認識しようとしている自分を認識できるのかってこと)
22人(+ベンチやレフェリー、そしてサポーター)の心が、ひとつのボールをめぐって揺れ動く。
それがサッカーの持つ魅力であり、楽しさだろうと私は確信している。
だからこそ、サッカーは負けている時の方が面白いし楽しいのだ、と私は断言できるのだ。
おわり
そのチーム名を具体的に申し上げることはやめておこう。いつの日か、何かの拍子で、そのチームの関係者が自分たちのチーム名で検索をかけて、このページを目にしてしまうことがあるかもしれないから。
だからここではそのチーム名を、仮にAGミランとしておくことにする。この仮名を選んだことに特別な意図はない。先日未明のUEFAチャンピオンズリーグ特番にそのチームが出て来たからだ。それだけだ。
そして少年団大会@熊谷で、このAGミランから勝利をあげた対戦相手を、便宜上ギャランズ(仮名)とした。
試合の面白さが一段と増したのは、ギャランズが先制した前半10分以降だ。
それまではAGミランの一方的なボール支配率と連続攻撃で、AGミラン応援団は盛り上がっただろうが、さあこれから試合を楽しむぞとワクワクしていた私のようなものにとっては、隣のさつきFC(仮名)対グンゼYG(仮名)の方へ移ろうかなと思わされるような出だしだった(シュート練習を見せられてもつまらないってこと)。
さてさて、ギャランズがAGミランの猛攻をしのいだ後のカウンター一発で先制ました、それからのお話。
AGミラン側は、はっきりわかるくらいに動揺していた。プランが崩れたんだろうね。
はたから見れば、どっちにしろ1点は取らなきゃならないんだから、状況は何にも変わってないと思うのだが、AGミランの方はなぜか、早く追いつかないと負けるぞ空気に包まれて、追い立てられるようにプレスをかけはじめた。
技術的にも実力的にも、AGミランの方がずっと上であることは誰の目にもあきらかなのだから、激しくプレスを受けたギャランズの選手たちは、自分たちのゴール前にほぼ全員が釘付けされるような状態となった。まあ、そうなるのがふつうだろう。
そしてギャランズは、できるだけ遠くへクリアすることと、AGミランの中心選手である7番と16番をがっちりマークすることに集中し始めた(実際のところはそれしかできなくなってしまったというのが事実で、ギャランズベンチからの指示もそれ一辺倒だった)。
ではAGミランの選手たちはそれでどうしたのかというと、なぜか、その密集しているところへパスを通すことだけしか頭になくなってしまったような、まるでこれがそういうゲームか練習であるかのような、そんなプレー選択しかしなくなった。
相手がいないのだから、AGミランは中盤より後ろでは楽にボールを持てる。そこで狙いに狙いをつけて、前方の密集地からの、ガチガチにマークにつかれているエースからのパスを呼ぶ声目がけて、せっかくのマイボールを放り込むのだ。
テレフォンパスどころの話じゃない。レッドカーペットパスかっていうくらいのバレバレ度合いだ。
はたしてAGミランの選手たちは、その狙い通りに、密集した敵に囲まれた味方の利き足ピッタリにボールを落とすことができるほどのコントロールを身につけているのだろうか?
当然、身につけてはいない。
蹴られたボールは、ポーンと飛んでいって、あるいはゴロゴロと転がっていって、相手にカット(プレゼントとも言う)されてしまう。毎回毎回。
ギャランズにしてみれば、攻められ続けているようでいて、モチベーションとしては「守れるぞ」という自信に後押しされるような、気合いのはいる状況だったことだろう。「うおーらっ! 跳ね返せ! 跳ね返せ!」で、相手のエースをがっちり抑えきっている訳だから。このまま耐えれば勝てる、そういう気持ちがどんどん燃え上がってきているのも伝わってきた。
AGミラン側からは、自分たちのプレーをしていればいずれ点は取れるさ、と自分たちを落ち着けようとしているのが伝わってきた。
セットプレーでもいろいろなパターンを持っているようで、コーナーキックなどは毎回違うやり方を見せていた。
でもちょっと待って欲しい。
そして、君たちのそれは、自分たちのことしか考えていない、独りよがりなプレーになってしまっていたのだよ、と気づいて欲しい。
思い返してごらん。
コーナーキックで相手ゴール前に並んだとき、頭ひとつ以上のギャップがあったミスマッチ箇所があったじゃないか。そこを狙ってボールを蹴っていれば、まあ2回に1回は決定的なチャンスになっていただろう、と私は思う。決定的なストロングポイントがある時は、そこを徹底的に突く。これが最もシンプルで最も効率の高い攻撃であるのは、太古の昔からの真理だ。
またシュート体勢に入ったときに余裕があるあまり、グラウンダーのシュートでコースを狙いすぎたのも、相手の守備を盛り上げる要因となってしまった。
あのかたい芝質だと、転がしたボールのスピードは、芝の抵抗で急速に減じていく。
いつもなら間に合わないシュートであっても、最後まであきらめないで足を出せば(GKなら手)、ゴールラインギリギリでクリアできるのだ。そのギリギリのクリアが何本か連続すると、そりゃあディフェンス陣は盛り上がる。今日の俺たちには「キテいる」と、アドレナリンがガンガン出ていたことだろう。
あのような状況で攻撃するときは、ドリブルとショートパスとダイレクトでかき回しながら行きつ戻りつゆっくりじっくりと、というのがセオリーだ。相手が多くてスペースのない場所へロングボールを放り込むなんてのは愚の骨頂。ピタリと止めなきゃならない味方は、どこでもいいから蹴り返せばOKの相手に対して圧倒的に不利な上に、数でも負けているのだから、パスなんて通るわけがない。
密集しているときのシュートは、相手に当たってイレギュラーする率が高いんだから思いっきり強く。また、コースを狙おうとしても密集していてすぐつめられるんだから、タイミング重視で強引に打つ。これが鉄則。
そして芝がかたいんだから、転がさずに浮かせる。芝がかたいということは、ボールが地面から浮いているってことだから、浮き球はいつもより蹴りやすいはずだ。
引き籠もってガチガチに守ってる相手にはあえてプレッシャーをかけないで、ボールを持たせて、攻め上がらせて、最終ラインを前に引き出す。そしてセンターサークルあたりでのパスミスを狙って、パスカットできたらそこからはいつもの自分たちのサッカーを展開。今度はスペースがあるんだから、前よりもずっとやりやすい状況でプレーができる。
──と、他にももっといろいろあるのだが、そういうことを書きたかった訳ではなくて、なぜ負けているときの方が面白いのか、楽しいのか、ということを書きたいので、そちらへと話を戻す。
上に書いたようなことは、試合中にベンチから指示されるようなことではない。
こういう類(たぐい)のことは、試合中に、選手個人個人が自分で状況を分析して、判断するレベルの、極々基本的なことだということを、まず言いたい。
なぜならこれに似たようなことを、子供たちは遊びの中ではいつもやっているからだ。
雨上がりのぬかるんだ場所で鬼ごっこをしたら、ちゃんとぬかるみで自分は有利、鬼は不利になるような逃げ方をする。
ドッチボールで誰を狙うか、どこを狙うか、どういう順番でボールを回すか、風向きは、クセは、そういったことをちゃんと計算する。
ポートボール(リングの代わりを人間がやる、バスケットボールに似た競技)のゴールマンの身長が高いときは、ギリギリ手が届くくらいの高さに投げるし、ジャンプボールではフェイントをかけたりする。
ビデオゲームで遊ぶときだって、攻略本や前にやったときの記憶や友だちから聞いた情報など元に、戦略を研究する。
お小遣いをもらいたいときは、ちょうだいちょうだいとねだる前に、自分からお手伝いや宿題をやっていい子アピールしておく。
それと同じことを、サッカーでもやってくれってことが言いたいのだ。
そしてそれが見えたとき、私は「面白い」「楽しい」と感じる。
「お、あのガキ(あるいはガキども)、やるな」なんて思わせて欲しいのだ。
僕達はコーチに命じられるまま、このプレーを訓練してきました、なんていうプレーは、「お見事」とは思うけど俺には面白くない。俺がわざわざピッチまで足を運ぶのは、あるいは人生の無駄な時間をサッカーに費やすのは、台本通りの演技を見るためじゃない。そんなもん、俺は見たくない。
今、将棋の竜王戦(りゅうおうせん)というのをやっている。
今日、その第3局が始まった。
将棋というゲームにプロが存在していられるのは、そこに勝敗以上の付加価値があるからだ。
そしてその付加価値とは、「心」にあると私は確信している。
「心」とは「心理状態の揺らぎ」そのものである。「心」は決して「考え」や「信念」ではない。その「考え」や「信念」がどう揺らぐかが「心」なのだ。
今期竜王戦は、ここまで羽生(はぶ)名人の2連敗で来ている。
そして面白いのは、渡辺明(わたなべあきら)若き永世竜王のジンクスだ。これがいかにもアヤシイ。
局面が苦しくなるとトイレに立ち、しばらくして戻ってくると、自信満々に会心の一手を指すのだ。これについてはもうずっと、トイレに籠もってパソコンをいじってるんだ、とか、携帯でアドバイスを受けているんだ、とか言われて来た。だがこれも結局のとこ、そのパソコンソフトなり、アドバイザーなりが、羽生名人よりも強くないと意味がないじゃないかということで、噂は噂のままになっている。でもしかし、この、苦しくなると席を立ち、戻ってきたら逆転の一手、というパターンはそのまま今日まで続いている。おそらく渡辺竜王は、こうした噂までをも、心理戦の武器として利用しているのだと私は理解している。そして対局相手もそれをわかっている。わかってはいるのだけれど、考えるな考えるな、盤面に集中しろ、とすればするほど、集中が乱されてしまっているのが考慮時間からもなんとなく読み取れる(特に昨年(2009)の22期森内戦はわかりやすかった)。将棋の超一流クラスであってもそうなのだ。だから将棋は、プロが成立している。いくら強くても、コンピュータソフト同士の対決では、プロ制度は維持できない。しかし、プロ対コンピュータなら、興行は成立するのだ。そこに「心」が介在するからだ。
私は同じことをサッカーにも求めている。
それは少年サッカーであっても同じことだ。
あらゆるサッカーのトレーニングは、この「心」に経験を積ませる、引き出しを増やす、ひらめくノウハウを身につけさせる、ために成されるものだと確信している。
どんなにいい、効果的だとされている練習プログラムであっても、それをやる選手の心が閉じてしまっていてはまったく意味がない。ロボットのように凍りついてしまっていては、ただバーベルを上げ下げしているのと何も変わらない。
シュート練習でも、ミニゲームでも、練習試合でも、それらはすべて「心」を楽しくするためにやっているのだ。
極論すれば、サッカーにおける目標は、FIFAワールドカップの準決勝・決勝とUEFAチャンピオンズリーグの決勝戦のみだとも言える(もちろんここで言っているのは、選手としてピッチに立つとかそういう狭いことではない)。これら以外のすべては、この目標へ至るための準備なのだ、とそうとらえると毎日の練習や、埼玉県内での公式戦への向き合い方も変わってくるのではないだろうか。
今年の全日本少年サッカー大会で優勝したバディーSCにしても、まさかこれで「サッカー人生はいゴールです」とは考えていないはずだ。
神様のいたずらで、ある日ふと目覚めたら、10番背負ってワールドカップの決勝戦のピッチに立っていた、としよう。
そのときに、パニクって、泣き出して、逃げ出してしまうか、理由はわからなくてもその状況にいるのだからそこで自分にできる最善を尽くそう、この状況を最大限に楽しもう、と即集中するかは、すべて「心」が決定する。
自分の心は、自分の中にしかない。
洗脳やマインドコントロールという技術にしても、それらは心を直接コントロールすることはできない。
心は自分の外へ出て行くことはできないし、自分の外から誰も触れることはできない。
いや、自分でさえ、自分の心に触れることはできない。
心とは、自分の中にいる、もうひとりの自分なのだ。
(精神分裂病とか統合失調症とか多重人格とか、そういうことじゃなくて、哲学的な意味で。わかりやすい例をあげれば、自分の心を認識しようとしたとき、その認識しようとしている自分は心を認識できるのか、また逆に自分の心は、心を認識しようとしている自分を認識できるのかってこと)
22人(+ベンチやレフェリー、そしてサポーター)の心が、ひとつのボールをめぐって揺れ動く。
それがサッカーの持つ魅力であり、楽しさだろうと私は確信している。
だからこそ、サッカーは負けている時の方が面白いし楽しいのだ、と私は断言できるのだ。
おわり
2010年10月27日水曜日
少年団大会─県大会熊谷会場の風対策─
気象庁のデータを見ると、11月の前半までは、そう寒くないみたいだ。
晴れていれば、最高気温20℃前後、最低気温13℃前後。
曇っていれば、最高気温13℃前後、最低気温8℃前後。
(註)日本気象協会「tenki.jp」を参考にした私見です。
しかし忘れてはならないことがある。それは──風。
赤城おろしとも呼ばれる、強い強い北風だ。
風のせいで実力が発揮できないなんてことになったら、選手たちはもちろんのこと、観戦に行くであろう俺もがっかりしょぼーんになる。
関係者各位には、防寒と風対策だけは、後悔のない準備をしておいて欲しい。
防寒については、当日の服装とホッカイロでいいと思うのだが、問題は風の方だ。こればっかりは、当日に対策というわけにもいかない。前もっての練習がカギになる。
要するに風への対策とはなんぞやと聞かれれば、それは「空中でのイレギュラー」対策だと俺は答える。
コンディションの悪いグラウンドで、転がるボールがイレギュラーするように、コンディションの悪い空中でもボールはイレギュラーするのだ。
対応策は、どちらも同じ考え方でいい。
ではどうするかといえば、
ボールを受ける時は、
(1)ボールのコース上に体の正面を入れること。
(2)いつもよりひざを曲げて、とっさの可動範囲を広げること。
(3)ボールへも、仲間へも、相手へも、「いつ突然変化するかもしれない」と用心しておくこと。
ボールを蹴る時は、
(4)グラウンダーを蹴るときは、ボールに順回転をかけること。
(5)浮かすボールには、意図的にカーブをかけるつもりで。
(6)シュートは風に乗せるように。
(1)(2)(3)のための良い練習方法として俺が紹介したいのは、4人一組になっての胸トラップ練習だ。
・2人ずつ組んで、10~20メートル程度離れて向かい合う。
こんな感じで(iは人、矢印は向き)
i→i→_______。←i←i
・一方が、向かい合っている相手に向かって、手を使ってロビングボールを蹴る。
・蹴られた瞬間に、ボールを受ける側の前に並んでいる方が、後ろにいる奴のまわりをぐるりと一周する。
・回ってから、飛んできたロビングボールを胸トラップ。
・トラップしたボールを、後ろの奴、つまり今ぐるりと回ったポスト役の奴、にパスする。ソールを使った転がしパスじゃなくて、ちゃんとゴロを蹴ること。
・ボールを受けた奴が今度は前に出て、さっきロビングボールを蹴った側、つまり向かい側の連中、に蹴る。
これを繰り返す。
距離を伸ばしたり、ボールの質を変えたりして、状況に変化をつけるも良し。
胸トラは、コースの正面に入る練習。
ぐるりと回るのは、擬似的なとっさの動きの練習。
後ろの奴へ渡すパスをちゃんと蹴らせるのは、胸トラからのターンの練習。
ロビングボールを蹴るときは(6)の練習も意識して、ボールの軌道が描く「弧(こ)」をイメージさせる。
(4)については、その理由を説明してあげること。
グラウンダーでふつうに蹴ると、無回転か逆回転でボールは進み始めて、ある地点で地面の抵抗の影響に負け、回転の向きが変わって順回転となる。この順回転になる直前の一瞬回転が変化するときに、風の影響を受けやすい。強風のときに、パスしたボールの勢いが急になくなったりするのはこういう理由から。また、逆回転や無回転というのは、もともと風の影響を受けやすいということもある。
風の影響を受けないで、仲間までピシッとパスを届かせるためには、蹴った瞬間から順回転(ボールの進む方向へ、上から下へグルグルする回転。でんぐり返り回転。下り坂を転がるような回転)のボールじゃなきゃだめ。
ボールのどこを、どういう風に蹴ればいいのかを、各自に練習させる。これはひとりでも壁相手にできる。
(5)については、風の強い日に浮き球はどうせまっすぐには飛ばないんだっていう前提でパスイメージを組み立てるんだ、という意識付けをしてあげる。
風の強い日に、風下から風上に向かって、「いつも通りに」浮き球で縦にクリアしたら、ピンチがピンチを生んでしまう。これって、わかっているようで、実際試合になると、子供たちはやってしまいがち。どうしてかというと、そうじゃないクリアの練習をしてないから。
風の強い日用に、横に出すクリアの練習もしておく方がいい。
ゴールキックも、確実にサイドラインへ出す蹴り方(もちろん真横とかはナシ。確実にサイドに出せる最大限の飛距離を蹴る練習ということ)を、自信が持てるくらいに復習練習しておくべきだ。
クリアミス、トラップミス、飛距離予測ミス、ゴールキックミス、そういうミスで試合が決定してしまうようなことにはなって欲しくないが、往々にしてサッカーとはそういう類(たぐい)のことで勝敗の決まってしまうことが多いスポーツである(こういう競技は、他にはあまりない。1点の重要さに対して、ゴールが大きいということの影響だろう)。
では、試合当日がおだやかな天候であることを心より祈って。
晴れていれば、最高気温20℃前後、最低気温13℃前後。
曇っていれば、最高気温13℃前後、最低気温8℃前後。
(註)日本気象協会「tenki.jp」を参考にした私見です。
しかし忘れてはならないことがある。それは──風。
赤城おろしとも呼ばれる、強い強い北風だ。
風のせいで実力が発揮できないなんてことになったら、選手たちはもちろんのこと、観戦に行くであろう俺もがっかりしょぼーんになる。
関係者各位には、防寒と風対策だけは、後悔のない準備をしておいて欲しい。
防寒については、当日の服装とホッカイロでいいと思うのだが、問題は風の方だ。こればっかりは、当日に対策というわけにもいかない。前もっての練習がカギになる。
要するに風への対策とはなんぞやと聞かれれば、それは「空中でのイレギュラー」対策だと俺は答える。
コンディションの悪いグラウンドで、転がるボールがイレギュラーするように、コンディションの悪い空中でもボールはイレギュラーするのだ。
対応策は、どちらも同じ考え方でいい。
ではどうするかといえば、
ボールを受ける時は、
(1)ボールのコース上に体の正面を入れること。
(2)いつもよりひざを曲げて、とっさの可動範囲を広げること。
(3)ボールへも、仲間へも、相手へも、「いつ突然変化するかもしれない」と用心しておくこと。
ボールを蹴る時は、
(4)グラウンダーを蹴るときは、ボールに順回転をかけること。
(5)浮かすボールには、意図的にカーブをかけるつもりで。
(6)シュートは風に乗せるように。
(1)(2)(3)のための良い練習方法として俺が紹介したいのは、4人一組になっての胸トラップ練習だ。
・2人ずつ組んで、10~20メートル程度離れて向かい合う。
こんな感じで(iは人、矢印は向き)
i→i→_______。←i←i
・一方が、向かい合っている相手に向かって、手を使ってロビングボールを蹴る。
・蹴られた瞬間に、ボールを受ける側の前に並んでいる方が、後ろにいる奴のまわりをぐるりと一周する。
・回ってから、飛んできたロビングボールを胸トラップ。
・トラップしたボールを、後ろの奴、つまり今ぐるりと回ったポスト役の奴、にパスする。ソールを使った転がしパスじゃなくて、ちゃんとゴロを蹴ること。
・ボールを受けた奴が今度は前に出て、さっきロビングボールを蹴った側、つまり向かい側の連中、に蹴る。
これを繰り返す。
距離を伸ばしたり、ボールの質を変えたりして、状況に変化をつけるも良し。
胸トラは、コースの正面に入る練習。
ぐるりと回るのは、擬似的なとっさの動きの練習。
後ろの奴へ渡すパスをちゃんと蹴らせるのは、胸トラからのターンの練習。
ロビングボールを蹴るときは(6)の練習も意識して、ボールの軌道が描く「弧(こ)」をイメージさせる。
(4)については、その理由を説明してあげること。
グラウンダーでふつうに蹴ると、無回転か逆回転でボールは進み始めて、ある地点で地面の抵抗の影響に負け、回転の向きが変わって順回転となる。この順回転になる直前の一瞬回転が変化するときに、風の影響を受けやすい。強風のときに、パスしたボールの勢いが急になくなったりするのはこういう理由から。また、逆回転や無回転というのは、もともと風の影響を受けやすいということもある。
風の影響を受けないで、仲間までピシッとパスを届かせるためには、蹴った瞬間から順回転(ボールの進む方向へ、上から下へグルグルする回転。でんぐり返り回転。下り坂を転がるような回転)のボールじゃなきゃだめ。
ボールのどこを、どういう風に蹴ればいいのかを、各自に練習させる。これはひとりでも壁相手にできる。
(5)については、風の強い日に浮き球はどうせまっすぐには飛ばないんだっていう前提でパスイメージを組み立てるんだ、という意識付けをしてあげる。
風の強い日に、風下から風上に向かって、「いつも通りに」浮き球で縦にクリアしたら、ピンチがピンチを生んでしまう。これって、わかっているようで、実際試合になると、子供たちはやってしまいがち。どうしてかというと、そうじゃないクリアの練習をしてないから。
風の強い日用に、横に出すクリアの練習もしておく方がいい。
ゴールキックも、確実にサイドラインへ出す蹴り方(もちろん真横とかはナシ。確実にサイドに出せる最大限の飛距離を蹴る練習ということ)を、自信が持てるくらいに復習練習しておくべきだ。
クリアミス、トラップミス、飛距離予測ミス、ゴールキックミス、そういうミスで試合が決定してしまうようなことにはなって欲しくないが、往々にしてサッカーとはそういう類(たぐい)のことで勝敗の決まってしまうことが多いスポーツである(こういう競技は、他にはあまりない。1点の重要さに対して、ゴールが大きいということの影響だろう)。
では、試合当日がおだやかな天候であることを心より祈って。
2010年10月18日月曜日
後悔しないチームの作り方
まあ、後悔することも大事なことですし、負けからしか学べないこともたくさんあるんですけど、それはそれとしてここでは「子供たちがサッカーの試合を楽しめて、そして育成の面からも効果のある」チームを作るためには、こういう考え方もあるよ、ということをざっくり書いてみます。
毎年たくさんの団員が入ってきて、そこから選抜してチームを作らなくてはならない(これはこれで苦労もストレスも悩みも多いんですけど)ようなチームは想定しておりませんのであしからず。
県サッカー少年団大会の北足立郡北部地区予選が終わって、4種リーグも残すところ1~2試合となりました。
各チームのパパさんコーチの皆さんにも、いろいろと思うところがあるのだろうと想像します。
あそこでああすればよかったとか、ここはこうすべきじゃなかったとか。
サッカーのチーム作りで意外と忘れられがちなのが、「よそのチームをよく見てみる」ということです。
よそのチームをよく見ることは、自然と自分のチームを見ることにもなるんですけど、皆さん結構なおざりにされているみたいです。
「うちのチームは弱いから」「うちの子はヘタだから」
なんて嘆(なげ)く前に、よそのチームをよく見てください。
ほら、よそのチームにだってヘタな子はいくらでもいるじゃないですか。
でも、サッカーのチーム作りって、上手な子をそろえること、じゃあないんです。
チーム作りっていうのは、そのチームの戦力・装備で得られる戦果・効能を最大化するように、選手たちを配置することなんです。
シンプルに言えば「穴(弱点)を隠す」ということです(塞(ふさ)げればいいんですけど、なかなかそうは行きませんので)。
どんなに上手でスピードがあって体力も体格も頭脳もすばらしい子がいたとしても、彼ひとりでは試合に勝つことはできません。
サッカーとはそういうスポーツです。エースで4番のように、ストライカーとキーパーを同時にこなすなんて無理なんですから。サッカーチームには必ずデコボコがある、そう思ってください。必ずどこかに穴があいているんです(レベルが上がると、この穴が出現するには状況や時間帯といった条件がかかわってくるんですけど、それでも穴は必ずあります。サッカーですから)。
よそのチームを見るときは、この「穴」はどこにあるのかを探すことから入ります。
ふつうのチームでは、うまい子、はやい子、を前中央に置いて、大きな子をゴール前に置いて、とこんな感じでポジションを決めてゆきます。
ゴールキーパーをやりたがる子も、やらせたがる親も、日本では少ないです現状をふまえ、それならこのチームではどんな子がゴールキーパーを担っているんだろう? そういうちょっと意地悪な視点から見ることも大事です。
前へのボールへの対応、DFとの関係、高さやコーチング、ギリギリの競りあいで体を張れるかどうか、この辺をチェックすればおおよそのことはわかります。
そしてたいていのチームで「穴」になるのは左サイドのMFとDFの間です。
これは選抜チームではない街チームの悲しさで、まともな左利きの選手を2人持つことはなかなか難しいことにその理由があります。
守備側の左サイドというのは、相手攻撃側から見れば、右利きの選手が最もドリブルもシュートもパスもしやすい位置になります。ここに穴があると、そのチームはどうしても不安定な試合運びになってしまいます。自分たちが押していても、そのエリアへのロングボール一発でたちまち失点、みたいなことが頻発するからです。
ですから、この位置が「穴」になっているのかいないのか、それとGKが嫌々GKをやっているのかいないのか、その2点を見極めようという気構えでよそのチームを見ていると、さきほど言ったように、自然と自分のチームも見えてくるようになります。
これで第一歩目をふみだせました。
では次に、自分のチームには大きな穴があいていることもわかった。そしてGKも、あまりやる気がないことがわかった。らどうするか、です。
まず穴をふさぐことを最優先してチームを再構成しましょう。
船底の穴をふさぐこと、出血をとめること、それがいい結果に続く道へと通じるのです。
ここは思い切って、左サイドには左利きという既成概念を捨て去って、動ける子そこそこうまい子を左へ持ってきてみましょう。
この狙いは、相手の右サイドと真っ向勝負できる左サイドにすることです。ですから左サイドから左足であげる美しいクロスボール、なんてのは夢のまた夢、自分たちには関係ないものだと割り切ります。
ゴールキーパーについては、チームのエースだとか人気者だとかは関係なく、気持ちが強くて反射神経もジャンプ力も判断力もある子を上から順に3人選んで、交代で任せるようにします。普段の練習に加えて、GK練習もプラスです。
エース級がゴールキーパーを務めることで、チーム内におけるGKというポジションのステイタスを向上させることが狙いです。ゴールキーパーを、ヘタで足の遅い使えない奴がやるポジションだという「草野球のキャッチャー」的なイメージから、できるリーダーのやるポジション、「古田敦也クラスじゃないとつとまらないポジション」というイメージへアップさせてしまいます。これに成功すれば、チームの雰囲気もぐっとよくなります。
実際、ゴールキーパーを経験しておくことは、得点感覚を磨くためや、またディフェンスとのコンビネーションを強めるためにも非常に効果のあるものです。
穴がふさがって、質の良いGKも確保できたところから、チームはいよいよスタートします。
各選手の特性、パスを出すタイプなのか、パスを受けるタイプなのか、足下でプレーするのか、スペースでプレーするのか、恐がりなのか、勇気があるのか、いざというとき向かっていくか、逃げるのか、そのあたりを考慮しながらポジションにとりあえずはめ込み、練習と試合を重ねながら徐々に煮詰めていけば、そんなに間違ったチームにはならないと思います。
最終的にできあがったチームが最初のチームとはまったく違う姿になったとしても、むしろそれはそれだけチーム力がアップした証だと考えるべきで、遠回りをしたとかはじめからこうしてればよかったなんて思ってはだめです。名画の下には、何度も書き直された幾重もの下書きがあるものなのです。
チーム作りにはそれこそ指導者の数だけ考え方、やり方があります。
子供たちのサッカー選手としての可能性もひとつではなく、いろいろ。だからいろんなポジションを“真面目に”こなそうとする期間を持つことは、個々の幅を広げます。子供の頃からずっとワンポジションという子よりも、ゲーム(もちろんサッカーの)に対する取り組み方と見方・考え方が多面的になるんです。このことも頭の片隅に入れておきましょう。
来年の初夏、たくさんの個性的なチームが魅惑的なサッカーを展開して、楽しませてくれることを期待しています。
毎年たくさんの団員が入ってきて、そこから選抜してチームを作らなくてはならない(これはこれで苦労もストレスも悩みも多いんですけど)ようなチームは想定しておりませんのであしからず。
県サッカー少年団大会の北足立郡北部地区予選が終わって、4種リーグも残すところ1~2試合となりました。
各チームのパパさんコーチの皆さんにも、いろいろと思うところがあるのだろうと想像します。
あそこでああすればよかったとか、ここはこうすべきじゃなかったとか。
サッカーのチーム作りで意外と忘れられがちなのが、「よそのチームをよく見てみる」ということです。
よそのチームをよく見ることは、自然と自分のチームを見ることにもなるんですけど、皆さん結構なおざりにされているみたいです。
「うちのチームは弱いから」「うちの子はヘタだから」
なんて嘆(なげ)く前に、よそのチームをよく見てください。
ほら、よそのチームにだってヘタな子はいくらでもいるじゃないですか。
でも、サッカーのチーム作りって、上手な子をそろえること、じゃあないんです。
チーム作りっていうのは、そのチームの戦力・装備で得られる戦果・効能を最大化するように、選手たちを配置することなんです。
シンプルに言えば「穴(弱点)を隠す」ということです(塞(ふさ)げればいいんですけど、なかなかそうは行きませんので)。
どんなに上手でスピードがあって体力も体格も頭脳もすばらしい子がいたとしても、彼ひとりでは試合に勝つことはできません。
サッカーとはそういうスポーツです。エースで4番のように、ストライカーとキーパーを同時にこなすなんて無理なんですから。サッカーチームには必ずデコボコがある、そう思ってください。必ずどこかに穴があいているんです(レベルが上がると、この穴が出現するには状況や時間帯といった条件がかかわってくるんですけど、それでも穴は必ずあります。サッカーですから)。
よそのチームを見るときは、この「穴」はどこにあるのかを探すことから入ります。
ふつうのチームでは、うまい子、はやい子、を前中央に置いて、大きな子をゴール前に置いて、とこんな感じでポジションを決めてゆきます。
ゴールキーパーをやりたがる子も、やらせたがる親も、日本では少ないです現状をふまえ、それならこのチームではどんな子がゴールキーパーを担っているんだろう? そういうちょっと意地悪な視点から見ることも大事です。
前へのボールへの対応、DFとの関係、高さやコーチング、ギリギリの競りあいで体を張れるかどうか、この辺をチェックすればおおよそのことはわかります。
そしてたいていのチームで「穴」になるのは左サイドのMFとDFの間です。
これは選抜チームではない街チームの悲しさで、まともな左利きの選手を2人持つことはなかなか難しいことにその理由があります。
守備側の左サイドというのは、相手攻撃側から見れば、右利きの選手が最もドリブルもシュートもパスもしやすい位置になります。ここに穴があると、そのチームはどうしても不安定な試合運びになってしまいます。自分たちが押していても、そのエリアへのロングボール一発でたちまち失点、みたいなことが頻発するからです。
ですから、この位置が「穴」になっているのかいないのか、それとGKが嫌々GKをやっているのかいないのか、その2点を見極めようという気構えでよそのチームを見ていると、さきほど言ったように、自然と自分のチームも見えてくるようになります。
これで第一歩目をふみだせました。
では次に、自分のチームには大きな穴があいていることもわかった。そしてGKも、あまりやる気がないことがわかった。らどうするか、です。
まず穴をふさぐことを最優先してチームを再構成しましょう。
船底の穴をふさぐこと、出血をとめること、それがいい結果に続く道へと通じるのです。
ここは思い切って、左サイドには左利きという既成概念を捨て去って、動ける子そこそこうまい子を左へ持ってきてみましょう。
この狙いは、相手の右サイドと真っ向勝負できる左サイドにすることです。ですから左サイドから左足であげる美しいクロスボール、なんてのは夢のまた夢、自分たちには関係ないものだと割り切ります。
ゴールキーパーについては、チームのエースだとか人気者だとかは関係なく、気持ちが強くて反射神経もジャンプ力も判断力もある子を上から順に3人選んで、交代で任せるようにします。普段の練習に加えて、GK練習もプラスです。
エース級がゴールキーパーを務めることで、チーム内におけるGKというポジションのステイタスを向上させることが狙いです。ゴールキーパーを、ヘタで足の遅い使えない奴がやるポジションだという「草野球のキャッチャー」的なイメージから、できるリーダーのやるポジション、「古田敦也クラスじゃないとつとまらないポジション」というイメージへアップさせてしまいます。これに成功すれば、チームの雰囲気もぐっとよくなります。
実際、ゴールキーパーを経験しておくことは、得点感覚を磨くためや、またディフェンスとのコンビネーションを強めるためにも非常に効果のあるものです。
穴がふさがって、質の良いGKも確保できたところから、チームはいよいよスタートします。
各選手の特性、パスを出すタイプなのか、パスを受けるタイプなのか、足下でプレーするのか、スペースでプレーするのか、恐がりなのか、勇気があるのか、いざというとき向かっていくか、逃げるのか、そのあたりを考慮しながらポジションにとりあえずはめ込み、練習と試合を重ねながら徐々に煮詰めていけば、そんなに間違ったチームにはならないと思います。
最終的にできあがったチームが最初のチームとはまったく違う姿になったとしても、むしろそれはそれだけチーム力がアップした証だと考えるべきで、遠回りをしたとかはじめからこうしてればよかったなんて思ってはだめです。名画の下には、何度も書き直された幾重もの下書きがあるものなのです。
チーム作りにはそれこそ指導者の数だけ考え方、やり方があります。
子供たちのサッカー選手としての可能性もひとつではなく、いろいろ。だからいろんなポジションを“真面目に”こなそうとする期間を持つことは、個々の幅を広げます。子供の頃からずっとワンポジションという子よりも、ゲーム(もちろんサッカーの)に対する取り組み方と見方・考え方が多面的になるんです。このことも頭の片隅に入れておきましょう。
来年の初夏、たくさんの個性的なチームが魅惑的なサッカーを展開して、楽しませてくれることを期待しています。
2010年9月18日土曜日
第14回国際交流サッカー大会U-12 前橋市長杯 観戦メモ
第14回国際交流サッカー大会U-12 前橋市長杯
2010年 平成22年 9月18日 土曜日
晴れ 微風
人工芝
フルコート(大人ピッチ)
通常ゴール(大人ゴール)
群馬県 前橋市
会場 図南(となん。ずなんじゃないよ、となんだよ)サッカーパーク野中
前橋市 野中町447-1
◆道順
(埼玉より国道17号を使って群馬へ侵入、太田、桐生方面より向かう場合)
国道50号を前橋市街へ向かって西進する。
「牛橋(欄干(らんかん)に牛の絵がある)」を渡り、次に「観音橋」を渡ったあたりから警戒。
野中町(東)交差点の次、野中町交差点(ひだりにうなぎ屋、たぶん)を左折(左折路あり)。
すぐ左手に見えるセブンイレブン前の道を右折。
またすぐ、小さな料理屋(『やかた』とかいう名前)横の道に左折する。
すぐにACミランをパクったようなマークの描かれたプレハブと、ネットに囲われたグラウンドが見えてくる。
そこが図南サッカーパーク。人工芝ピッチ。
バディーSC(空色) × 名古屋FC(赤)
2-0でバディー勝利。
バディーらしさのない、どんよりとした試合。名古屋も警戒しすぎ。
名古屋のゴールキーパーは、身長はあるのに動きがこじんまりしてるのが残念。
バディーは無理なシュートを狙っては、枠を外すの繰り返し。集中力も欠いていた。
渋滞に巻き込まれたらしく、試合開始予定よりも20分遅れて到着し、ほぼアップもなしに試合を始めたせいだろうか。
得点は、前半14分と後半12分。
アイリスFC住吉(緑) × 図南SC前橋(白黒横縞ゼブラ)
2-0で住吉の勝ち。
先制点のミドルシュートはお見事。
バディーSC(空色) × ペーニャFCバルセロナジャパン(赤青縦縞に赤パンツ)
3-0でバディーの勝利。
1点目(前9分)は、バディー17番得意の、サイドネットへ流し込むミドル距離のグラウンダーシュート。お見事。
バルサは赤パンツがかっこわるい。もちろん本家の赤パンツも。っつうか、バルサって「明度の高い赤青」よりも、 「濃エンジ・濃青」の方が、らしいと思うのだが、スペインでは違うのだろうか?
シンガポール・スポーツスクール(赤) × 図南(白黒ゼブラ)
2-0でシンガポールの勝利。
シンガポールはオーバーエイジらしく、みんな大きい。顔つきも大人びてる。速攻が得意みたい。
-----------昼飯を食いに行ったので、2試合観戦できず------------
名古屋FC(赤) × 図南(白黒ゼブラ)
1-0で名古屋の勝ち。
疲れもあるし、メシも食ったし、ピッチも広いし、で子供らみんなグダグダの試合。
バルサ(赤青ゼブラ) × 住吉(緑)
2-1で住吉の勝利。
バルサは前半に先制するも、後半に逆転された。
住吉の応援に来ていたご父兄に、ひとりにぎやかなお母さんがいた。さすが大阪って感じの。
住吉って大阪か? 確かに関西弁ではあったが……
バルサの応援に来ていたお父さんお母さんたちは、勉強家って感じだった。
なぜかやたらとバディーの情報に通じていた。なじぇ?
バルサって横浜にあるのかな?
バディー(空色) × シンガポール(赤)
2-1でバディーの勝利。
開始0分に先制、5分にカウンターから9番が見事な同点弾、10分に突き放し点。
後半13分に、バディー17番をマークしていたシンガポールの3番が、イエロー2枚で退場。
退場後、彼は観覧席のベンチでひとり黄昏(たそが)れてた。
「シンガポールからこんな田舎までやってきて、俺は何をやってるんだろう──」
と、思っていたかどうかは俺の想像。
とにかくシンガポールの選手たちはデカイ。16番なんて、まちがいなく180以上ある。
パスの出し手の14番(前半途中から完全につぶされてた)、カウンターの担い手9番(パスが来ないと何もできない何もしない)も、175センチ前後はありそうだった。
【備考】
バルサの子たちが、それぞれめいめい「スカウティング レポート」とかいうA4の資料を手に、試合を観戦していたのが印象的だった。資料に書かれていたのは、バディーの戦術と選手たちの特徴みたいだった。
「見せて」って頼んだら、隠されちゃったんでじっくりは読めなかったけど、結構こまかく分析してあるみたいだった。
途中でコーチが子供たちに「ビデオとはポジションが違ってるけど、特徴はそのままだろ」とか何とかってアドバイスしてた。
でも子供らは、コーチがいなくなったらそんな資料は丸めて畳んで、ちっとも見てなかったけど(コーチ残念!)。
子供たちに考えさせたいなら、ああいう「文章」じゃなくて、具体的な現象・事例を「発見」させるように工夫しないとダメダメ。
勉強でも文章題なんてのは一番嫌いなんだから。
サッカーはあそび。楽しくないと、楽しくないよ。
2010年 平成22年 9月18日 土曜日
晴れ 微風
人工芝
フルコート(大人ピッチ)
通常ゴール(大人ゴール)
群馬県 前橋市
会場 図南(となん。ずなんじゃないよ、となんだよ)サッカーパーク野中
前橋市 野中町447-1
◆道順
(埼玉より国道17号を使って群馬へ侵入、太田、桐生方面より向かう場合)
国道50号を前橋市街へ向かって西進する。
「牛橋(欄干(らんかん)に牛の絵がある)」を渡り、次に「観音橋」を渡ったあたりから警戒。
野中町(東)交差点の次、野中町交差点(ひだりにうなぎ屋、たぶん)を左折(左折路あり)。
すぐ左手に見えるセブンイレブン前の道を右折。
またすぐ、小さな料理屋(『やかた』とかいう名前)横の道に左折する。
すぐにACミランをパクったようなマークの描かれたプレハブと、ネットに囲われたグラウンドが見えてくる。
そこが図南サッカーパーク。人工芝ピッチ。
バディーSC(空色) × 名古屋FC(赤)
2-0でバディー勝利。
バディーらしさのない、どんよりとした試合。名古屋も警戒しすぎ。
名古屋のゴールキーパーは、身長はあるのに動きがこじんまりしてるのが残念。
バディーは無理なシュートを狙っては、枠を外すの繰り返し。集中力も欠いていた。
渋滞に巻き込まれたらしく、試合開始予定よりも20分遅れて到着し、ほぼアップもなしに試合を始めたせいだろうか。
得点は、前半14分と後半12分。
アイリスFC住吉(緑) × 図南SC前橋(白黒横縞ゼブラ)
2-0で住吉の勝ち。
先制点のミドルシュートはお見事。
バディーSC(空色) × ペーニャFCバルセロナジャパン(赤青縦縞に赤パンツ)
3-0でバディーの勝利。
1点目(前9分)は、バディー17番得意の、サイドネットへ流し込むミドル距離のグラウンダーシュート。お見事。
バルサは赤パンツがかっこわるい。もちろん本家の赤パンツも。っつうか、バルサって「明度の高い赤青」よりも、 「濃エンジ・濃青」の方が、らしいと思うのだが、スペインでは違うのだろうか?
シンガポール・スポーツスクール(赤) × 図南(白黒ゼブラ)
2-0でシンガポールの勝利。
シンガポールはオーバーエイジらしく、みんな大きい。顔つきも大人びてる。速攻が得意みたい。
-----------昼飯を食いに行ったので、2試合観戦できず------------
名古屋FC(赤) × 図南(白黒ゼブラ)
1-0で名古屋の勝ち。
疲れもあるし、メシも食ったし、ピッチも広いし、で子供らみんなグダグダの試合。
バルサ(赤青ゼブラ) × 住吉(緑)
2-1で住吉の勝利。
バルサは前半に先制するも、後半に逆転された。
住吉の応援に来ていたご父兄に、ひとりにぎやかなお母さんがいた。さすが大阪って感じの。
住吉って大阪か? 確かに関西弁ではあったが……
バルサの応援に来ていたお父さんお母さんたちは、勉強家って感じだった。
なぜかやたらとバディーの情報に通じていた。なじぇ?
バルサって横浜にあるのかな?
バディー(空色) × シンガポール(赤)
2-1でバディーの勝利。
開始0分に先制、5分にカウンターから9番が見事な同点弾、10分に突き放し点。
後半13分に、バディー17番をマークしていたシンガポールの3番が、イエロー2枚で退場。
退場後、彼は観覧席のベンチでひとり黄昏(たそが)れてた。
「シンガポールからこんな田舎までやってきて、俺は何をやってるんだろう──」
と、思っていたかどうかは俺の想像。
とにかくシンガポールの選手たちはデカイ。16番なんて、まちがいなく180以上ある。
パスの出し手の14番(前半途中から完全につぶされてた)、カウンターの担い手9番(パスが来ないと何もできない何もしない)も、175センチ前後はありそうだった。
【備考】
バルサの子たちが、それぞれめいめい「スカウティング レポート」とかいうA4の資料を手に、試合を観戦していたのが印象的だった。資料に書かれていたのは、バディーの戦術と選手たちの特徴みたいだった。
「見せて」って頼んだら、隠されちゃったんでじっくりは読めなかったけど、結構こまかく分析してあるみたいだった。
途中でコーチが子供たちに「ビデオとはポジションが違ってるけど、特徴はそのままだろ」とか何とかってアドバイスしてた。
でも子供らは、コーチがいなくなったらそんな資料は丸めて畳んで、ちっとも見てなかったけど(コーチ残念!)。
子供たちに考えさせたいなら、ああいう「文章」じゃなくて、具体的な現象・事例を「発見」させるように工夫しないとダメダメ。
勉強でも文章題なんてのは一番嫌いなんだから。
サッカーはあそび。楽しくないと、楽しくないよ。
2010年9月4日土曜日
状況条件を前提として、戦術を組み立てる。
朝から暑い。
クソ暑い。
と、思っていても仕方がないので、
まあ、こういうもんだ、と思ってみる。
そう思った上で、次にやることを考えてみる。
頭のどこかに、なんかわからない基準点があって、そこよりも気温が高いから「暑い」と思うのであって、基準を変えてみれば「不快」かもしれないが「暑く」はない、と思えるかも知れない。かなり強引だが。
「暑い」と思っていても、何も変わらない。
「痛い」と思っているのと一緒だ。
「痛い」と思っているだけでは、病も傷も治らない。
「痛い」原因をさぐって、それに対処する必要がある。
「下手だ」と思っていても、何も変わらないのと一緒だ。
「ミスる確率が高い」かもしれない。
「判断が遅れる」かもしれない。
でもそれを「下手だから」で片づけてしまっていては、何も変わらない。
「車が遅いから勝てない」なんてことを言うレーサーは、ダメなレーサーだ。
自分の車よりも速い車がいることを前提として、いかに勝つかを考えるのが戦術であり、戦う戦士であり、指揮する将軍なのだ。
ブスだから、ハゲだから、バカだから、となげいて人生をあきらめるかのような態度をとっていても、何も変わらない。
むしろそれを前提に、自分のための戦術を考える方がよっぽど面白い。
この世の主人公は自分なのだから。
だから、「暑い」というのは前提のひとつだととらえることにしよう。
ただ「暑い」ではなく、気温何度で湿度何%で、風はどれくらい、輻射熱は、どんなファッションが流行っているか、エアコンの稼働率は、そんなことを観察して、それらを前提として、「今」「今日」をとらえてみよう。
ほら、そうすれば、世界が違って見えてくる。
あれ? いつの間にか暑くなくなってきたぞ。
そんなわきゃない。
クソ暑い。
と、思っていても仕方がないので、
まあ、こういうもんだ、と思ってみる。
そう思った上で、次にやることを考えてみる。
頭のどこかに、なんかわからない基準点があって、そこよりも気温が高いから「暑い」と思うのであって、基準を変えてみれば「不快」かもしれないが「暑く」はない、と思えるかも知れない。かなり強引だが。
「暑い」と思っていても、何も変わらない。
「痛い」と思っているのと一緒だ。
「痛い」と思っているだけでは、病も傷も治らない。
「痛い」原因をさぐって、それに対処する必要がある。
「下手だ」と思っていても、何も変わらないのと一緒だ。
「ミスる確率が高い」かもしれない。
「判断が遅れる」かもしれない。
でもそれを「下手だから」で片づけてしまっていては、何も変わらない。
「車が遅いから勝てない」なんてことを言うレーサーは、ダメなレーサーだ。
自分の車よりも速い車がいることを前提として、いかに勝つかを考えるのが戦術であり、戦う戦士であり、指揮する将軍なのだ。
ブスだから、ハゲだから、バカだから、となげいて人生をあきらめるかのような態度をとっていても、何も変わらない。
むしろそれを前提に、自分のための戦術を考える方がよっぽど面白い。
この世の主人公は自分なのだから。
だから、「暑い」というのは前提のひとつだととらえることにしよう。
ただ「暑い」ではなく、気温何度で湿度何%で、風はどれくらい、輻射熱は、どんなファッションが流行っているか、エアコンの稼働率は、そんなことを観察して、それらを前提として、「今」「今日」をとらえてみよう。
ほら、そうすれば、世界が違って見えてくる。
あれ? いつの間にか暑くなくなってきたぞ。
そんなわきゃない。
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