2010年10月17日日曜日

サッカーをより楽しく観る方法 ─テレビ観戦編─

まず大前提として、これから始まる試合についての先入観を一切消すことが、とても重要だ。
選手のことだとか、チームの状況だとか、監督のことだとか、自分の好き嫌いだとか、その手の事前情報をまっ白にしてから試合を観るようにした方が、より楽しい。

ある映画や小説を、さあこれから観よう読もうとしたとき、隣のアホがあらすじを語ったり、宣伝で内容の雰囲気がわかってしまったりしたら「安心」かもしれないが、「楽しさ」はぐんっと減じてしまう。それと同じことだ。

「未知への不安」は楽しさを増すための重要な要素(隠し味)なのだ。

もうここ数年くらい映画や小説がぱっとしないが、それにはこの社会があまりにも宣伝上手になってしまったことも、きっと影響しているのではないか、とわたしは思っている。
実際、小説については、書店で新刊を買うよりも、ブックオフで昔の知らない文庫でも買った方が、「当たり」に当たる確率がはるかに高い。これは、小説作家を志望する人材の能力や層が昔の方がレベルが高かったということも当然あるだろうが、それに加えて、「その物語がいったいどんな物語なのか、誰も教えてくれない」ということも、間違いなく関係している。

最近出会った当たり本としては、
『仙谷自衛隊』もとい『戦国自衛隊』 半村良(はんむらりょう) 著
『燃える男』 A.J.クィネル 著
『ナイト・ホークス』 マイクル・コナリー 著
などがあった。もし気が向いたら、ブックオフか図書館で手にされることをお奨めする。

まあそういうことで、サッカーの試合を観る前には、その対戦カードについての事前知識をまっ白にするということが、観戦をより楽しむための第一のポイントになる。

次のポイントは、音声を消すこと、だ。
日本のサッカー中継は、私の観戦を邪魔することしかしてくれない。
ペラペラと、トンチンカンで的はずれでいい加減で間違いだらけな周辺情報と実況と解説を、デカイ声と嫌らしい口調と語彙でしゃべり続けてくれる。

もしこれが映画館や劇場だったらどうだろうか?
隣や後ろに座っている客が、ペラペラペラペラと、この役者はどうだ、この演出家(監督)の前の作品はどうだ、評価はどうだ、今のシーンの意味はこう、この演出は失敗だ成功だ、なんてことをくっちゃべっていたら、あなたはどうするだろうか(たまたま偶然、あなたの足下にショットガンが落ちていたとしたら)?

音声は消す。

それではさみしいという人は、実況・解説の声が聞き取れない程度の音量に抑える。これだけで、試合の中のプレーが光り輝いてくる。選手の視線や、ボールに足がくい込む感じが伝わってくる。
耳からの余計な情報をカットすることで、視覚情報への集中度が増すせいなんだろうな。

【より楽しむ観戦法─試合中編─】

悲しいかな、自分がどんなに気持ちを込めて応援しようと、あるいは念を送ろうと、選手たちのプレーや試合の結果にはまったく影響しない。これがいかんともしがたい現実だ。

はるか昔の昭和の風景に出てくる「打て~長島ぁ~!」とテレビに向かって叫ぶ“ランニング”姿のお父さんみたいに、テレビへ話しかける応援もそれはそれで楽しいことは楽しい。
でもここでは、それよりも「より楽しく」楽しむ方法を紹介しているつもりなので、その「昭和式観戦法」はいったん脇へ置いて欲しい。

キックオフ直前の各選手の配置をみると、将棋の駒組みみたいに、「どういう戦術」を狙っているのかがよくわかる。
特にDFラインの幅、そしてDFとボランチとの距離は、必ずチェックしたい。正直いって攻撃に関しては、相手とのかねあいやその日の好不調が大きく影響するので、試合前にチェックしても意味はない。

試合が始まったら、ボールを持っている選手とそのボールを奪おうとしている選手の二人に注目、するのではなく、その選手からパスをもらおうとしている選手と、ボールを奪おうとしているチームのボランチとDFラインの動きと距離の間隔(こっちとこっちは狭く、こっちとあっちは広め、とか)に注目する。

どういう形で、何人の選手がパスをもらおうとしているのか、位置(後ろ、横、前)、距離(超近、近、中、中遠、遠、裏)、もらいかた(足下、スペース)を見ると、どういう攻撃をしていきたいとチームが意図しているのかがわかる。

DF側が、どこをどういう攻撃から守ることを最重要視しているのかを読むには、やはり相互の距離から分析するのがわかりやすい。開けられたくないドアにカギをたくさんつける心理、大事な物を何重にも包む心理、台所の流しのまわりにゴキブリほいほいをたくさん仕掛ける心理と同じだ。頭でっかちな小学生がするみたいに、心理の逆をついたとかほざいて「わざと空けておく」というような賭けをするようなアホは、選手にも監督にもいない。守備戦術にまやかしはないのだ。

こういう点に意識を傾けながら試合を観戦していると、自然と「流れ」が見えてくる。
今どっちの流れなのかはボールの保持率とは関係がないし、シュートが打たれたかどうかとも関係がない。
ただそこに客観的な、絶対基準というものも存在しない。
その「流れ」を見る・読む「感覚」は、それぞれの経験と知識に拠(よ)る、それぞれのものさしに頼るしかないのだ。
将棋や囲碁の形勢判断のように、「個々の局面・1対1の優劣」「戦術・システムの働き・利き具合」「ゴール前の固さ」の3つの要素を、それぞれがどう評価するかを土台にして判断することになる。

ちなみに、私の愛する少年サッカーでも、「個々の局面・1対1の優劣」「ゴール前の固さ」を見れば、そのチームがどのくらいのチームなのか予測することができる。

「流れ」は春の風のように、たえまなくその向きと強弱を変え続ける。
そしてそれが一定となったとき、試合の情勢も決してしまう。
だから自軍を劣勢と見ている指揮官は、その流れが固まってしまいそうになる前に、選手交代などで再び流動性を取り戻そうと試みるのだ。

選手交代は、その指揮官が今の流れをどう見ているのかを読み取るヒントになる。

そうしたことを想像するのも、サッカー観戦をより楽しくする工夫のひとつだ。


でもいろいろここまで書いてきたけど、ビールと焼き鳥で仲間と騒ぎながらってのも、素直に楽しいです。はい。

サッカーは楽しい!

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