2010年10月26日火曜日

強制起訴制度は三権分立外れで違憲っす

朝日新聞 
2010年 平成22年 10月26日(火)
オピニオン面  私の視点

強制起訴制度 三権分立外れ、違憲では

弁護士・元参議院法制局第3部長播磨益男(はりま ますお)  ←ハリマオじゃないよ(by あしたのジョー)



検察審査会の議決で強制起訴されることになった民主党の小沢一郎氏が、国に議決の取り消しなとを求める行政訴訟を起こすとともに、起訴に向けた手続きの停止も申し立てた。
ところが、申し立てを却下した東京地裁に続き、東京高裁も即時抗告を棄却した。
私は小沢氏側の主張とは別に、国家権力の行使にあたる強制起訴制度そのものが違憲の疑いが濃厚であると考える。

憲法は立法、司法、行政がそれぞれ独立した三権分立の仕組みをとり、国家権力の行使については三権の抑制と均衡を維持することにより、責任をもって国民の基本的人権の保障を図っている。

国が、罪を犯した疑いのある人の刑事責任を問うて起訴するのは、基本的人権の保障を踏まえても、なお百%有罪であると確信するからである。
起訴は国家権力である行政権の行使であり、感情に走らず、きわめて冷静に判断する必要があるのだ。

万一、起訴権限の乱用があれば、第一義的には検察官の責任が問われる。
無罪判決を受けた厚生労働省元局長のケースは、明らかになった大阪地検特捜部による証拠改ざん事件を踏まえれば、まさに検察官による起訴権限の乱用と考えるべきだろう。

憲法65条は「行政権は、内閣に属する」と規定し、同66条3項は「内閣は行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う」としている。
起訴権限の乱用についても、最終的には内閣の行政権行使の責任が問われることになるのである。

ところが、国家機関である検察審査会は憲法上、内閣から完全に独立した行政委員会となっている。
同じ行政委員会の人事院は内閣の所轄下、国家公安委員会は内閣総理大臣の所轄下にあり、行政権行使について内閣が最終的に責任を負うが、検察審査会にこうした仕組みはまったく存在しない。
ゆえに検察審査会の強制起訴議決は、起訴権限の乱用があっても内閣が憲法上の行政責任を取り得ない、取りようのない行政無責任の法制度といえる。
三権分立の枠組みをはみ出し、違憲の疑いが濃厚だ。

小沢氏に対する強制起訴議決の要旨は、「国民は裁判所によって本当に無罪なのかそれとも有罪なのかを判断してもらう権利がある」としている。
嫌疑不十分で2度も不起訴とした検察官の行政権行使に対し、疑いのある人は百%有罪の確信がなくても裁かれるべきだとする論理だ。
強制起訴議決で被告とされた人の無罪が確定した場合に基本的人権はどうなるのか。
検察審査会(審査員)は責任を取るのだろうか。

議決を行政権(検察官)に対する勧告的性格にとどめ、法的拘束力がなかった改正前の規定に復元させるべきではないか。改正前の法制度でも、検察審査会の勧告的議決をもとに検察官が再捜査して起訴した例はいくつも存在するのだ。

以上

-----------------------------

検察審査会の抱える問題について、私の理解とほぼ同じ認識である。この播磨氏は、改正後の検察審査会は違憲であるので改正前の形に戻すべきだ、という主張だ。
私の考えは、検察審査会は廃止して、検察「官判断」審査会にすべきだ、という考えだ。つまり、事件そのものではなく、その事件について検察官が下した判断について、一般市民が、市民の立場に立脚して検証するのだ。

裁判員制度もそうだが、私にはどうしても、市民が市民を裁く、市民が市民から人権を奪う、という考え方に賛同できない。同時に、政府の「検察官適格審査会」や第三者機関「検察の在り方検討会議」を政治家が仕切るというのにも大反対だ。こういう審査検討こそ、市民の手でなされるべきである、と、私は確信している。



【おまけ】
同じ新聞の社会面に、こんな訂正記事が載っていた。


訂正
6日付「榊莫山さん死去」の記事で、榊さんが「京都大学文学部卒」としましたが、卒業の事実を確認できなかったため、この部分を削除します。


おそらく記者の思い込みによる誤報だと思うが、この訂正文からは経歴詐称の責任がまるで本人にあるかのようにも読み取れる。実に朝日新聞らしい、責任逃れ、読者に誤読させるよう誘導する文体、絶対に謝罪しない姿勢、死人に口なし、従わぬ弱者は弱者に非ず、好き嫌い=報道するしない、俺様最高、俺って最高じゃん! 悪いのは全部俺以外、つうか、俺様が朝日新聞だし、書いてやっただけで感謝しろ“愚国民ども”、っていう態度が見え見えの訂正記事。

ステキ、朝日新聞。

榊莫山氏サイドが京大卒と記載してくれと申し入れたのならともかく、そうじゃないのなら、記者の調査能力不足が間違いの原因であることをはっきり書いて、謝罪するような文体で訂正するべきだろ。
「榊さんが「京都大学文学部卒」としました」って、まるで榊氏自身が生前に「わては京都大学を出とりまんねんでおます」って喧伝してたみたいじゃん(そうなのかもしれんが)。

仮に榊氏側が「京大卒」にしてくれと言ってきたのだにしても、記事にしたのは朝日新聞の記者なんだから、責任はその記事にOKを出した編集長にあるんじゃないの? 内容についてクレームや問い合わせがあっても「記事にある通りです」としか答えないくせに、記事として書いてあることの責任についてもあいまいにするようなこの“やり口”は、ものすごく子供っぽい。
百歩譲って、今日から「あさひしんぶん」じゃなくて「あちゃひ~ちんぶん~」と改名するのなら、まあ許してあげなくもないけど。


では、これからもお仕事がんばってください。いろんな意味で(あ、もちろんこれ、いい意味じゃないです)。



0 件のコメント:

コメントを投稿