2012年1月24日火曜日
日本政府にとっての日本国債とは
相手は感覚的に、家計や商店の商売に置き換えて考るようなので、それにのっとって試みてみた。
「 八百屋さんが、一年後にこれで1万1千円分の買い物ができる商品券を今1万円で売ります、みたいな感じかな。
八百屋さんが日本政府で、客が国民や銀行あたり。
客には、自分の家で使う野菜を買う人もいるし、食べ物屋さんの仕入れの場合もある。
この食べ物屋さんが、いってみれば銀行とか保険屋さんとかだね 」
日本は自前の広大な畑を持ってるから、いくらでも野菜を売ることができる。
これはつまり、日本円を作ることができるっていうことのイメージ。無限の畑。
ギリシャが大変なことになってるのは、自分の畑を持っていなかったからなんだよね。
ギリシャ通貨ってのはなくて、全部ユーロでしょ。
つまり、自分の畑じゃない。ユーロさん、EUさんの畑から仕入れてたんだけど、それを仕入れることができなくなっちゃった。
なんで仕入れられなくなったかというと、ギリシャ屋さんの商品券を誰も買ってくれなくなったから。
なんで買ってくれなくなったかというと、ギリシャ屋さんが野菜を仕入れられなくなりそうだっていう噂が広まったから。遊びすぎちゃったんだよね。
さらにまずいのは、あらためて帳簿を調べてみたら、噂が事実だったことがばれちゃった←これが去年。
でも日本政府の場合は、言ったように無限の畑を持っているので、ほとんどただでいくらでも野菜を仕入れることができる。
だから日本屋の商品券であるところの、日本国債を誰も買わなくなることなんてないんだよ。
私はこれで納得してもらえる。誤解は解ける、と思った。
だがこの説得は、失敗に終わったのである。
2012年1月22日日曜日
増税賛成の理屈?
と言ったら、
「増税は腹がたつけど、もっと嫌なのは国債!」
と返された。
理由を聞いてみると、「借金で賄おうとするのがイヤ」なのだそうだ。
「将来返すお金がなくなったらどうするの!」
この感覚が、『増税>国債』派の大勢なのだろうと仮定して、説得を試みてみた。
しかし失敗に終わった。
どういう説得を試みたのかは次回以降へ
2011年12月2日金曜日
頭が良いんだか悪いんだか
2011年(平成23年)12月2日 金曜日
オピニオン面 私の視点
TPP交渉 反対するなら批准手続きで
渡辺頼純 わたなべ よりずみ
元GATT事務局経済問題担当官
慶應大総合政策学部教授
TPP(環太平洋経済連携協定)を巡る議論が迷走している。
与野党を問わず「慎重派」と称する抵抗集団が、「反対のための反対」に時間を浪費している。
菅直人前首相が昨年10月の国会演説でTPP交渉参加を話題にしてから1年以上も「慎重に」議論してきた。
国民は彼らの言う「慎重」とは「何もしないこと」だと感じ始めている。
そもそもTPP協定なるものはまだ出来上がっていない。
交渉次第で日本にとって有益なものとなりうるのに、なぜ国会議員は「交渉入り」することにさえ反対するのか。
TPPを交渉することと、交渉を経て合意されたTPPという国際協定を受諾することは、制度上異なっている。
交渉するのは外務省を中心とした政府であり、この交渉結果を日本として受け入れるかどうかを決定する「批准」行為は国会の仕事である。
政府に交渉させて、その結果が国益に反しているなら、その時点で国会が批准しなければ良いだけの話だ。
ましてや国会が政府に対し、交渉する前から「コメは除外せよ」「医療は外せ」などと迫ることは交渉上必要な柔軟性を奪うことになり、百害あって一利なしだ。
交渉の本質は「条件闘争」であり、その「条件」は交渉の間はブラックボックスにしまい込んでおかなければならないからだ。
TPPは本当に日本にメリットをもたらすのか。
この質問も、国際交渉についての理解の欠如に由来する。
答えは簡単で、「日本にメリットをもたらすように交渉する」ことが肝要なのだ。
1986年から94年まで続いたGATT(関税貿易一般協定)のウルグアイ・ラウンドを思い出してほしい。
交渉を開始した時点でいったい誰が、今日のWTO(世界貿易機関)協定という「交渉の果実」を想定していただろうか。
TPPを巡っては農業が問題とされることが多い。
しかし、農業問題は21もあるTPPの交渉分野の一つでしかない。
他のほとんどの分野で日本は「攻め」の姿勢で臨むことが出来る。
工業製品は言うまでもなく、知的所有権の保護強化、投資環境の改善、インフラ輸出など日本にとってのメリットは多々ある。
農業はどうでもよいと言っているのではない。
むしろ逆だ。
日本農業は保護され過ぎてここまで衰退した。
今、変えるべきは「農政」であって、農政を変えることで農業を再生するのである。
そのためには日本の農業を国際競争にさらすことが重要で、TPPはそのための、またとない機会を与えてくれている。
──以上──
『他のほとんどの分野で日本は「攻め」の姿勢で臨むことが出来る。』
まったくイメージがわかないのだが、「攻めの姿勢の交渉」とははたしてどういうものなのだ?
そのあげく
『結果が国益に反しているなら、その時点で国会が批准しなければ良いだけの話だ。』
なんてことが可能なのだろうか?
どうも「国際交渉についての理解が欠如」しているらしいオレにはまったくわからん。
ちんぷんかんぷんだ。
っつうか、「ちんぷんかんぷん」って何だ?
2011年6月27日月曜日
配ることは簡単じゃない。
毎日新聞 2011年6月27日 地方版
◇石巻の避難所
石巻市の門脇中学校の避難所で26日、慰問に訪れた人気グループ「SMAP」のメンバー、中居正広さんが子供たちに配ったゲーム機を、市職員が、クラシックバレエの披露のために同校にいた子供たちから「避難所外の子供」を理由に回収したことが分かった。市は抗議を受け、返却することにしたが、市の対応に批判の声も上がっている。
市などの説明によると、中居さんは同日、被災した子供と一緒に、市内のバレエ教室の子供に人形や1台数万円のゲーム機を配った。中居さんから「頑張ってね」とプレゼントを手渡された子供たちは大喜びした。
ところが、被災者の子供の保護者らから「ボランティアで訪れた子供が高価なプレゼントを受けるのおかしい」と市職員に抗議。これを受け、市職員はバレエ教室の子供に返還を求めた。ゲーム機を回収された小学4年生の女児は「中居さんからもらったと、友達に自慢しようと思っていたのに」とがっかりしていたという。
一方、市には「子供たちの心を傷つけた」などと対応を批判する苦情の電話が相次いだ。市避難所対策室では「配慮に欠けた」と陳謝。ゲーム機をバレエ教室を通じて子供たちに返すことにした。【石川忠雄】
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もしこれが大人のやったことだったら、事件としてはわかりやすい。
要するに、『ボランティアスタッフによる支援物資横領事件』に過ぎないからだ。
(そういえば、震災当初はとある有名市民平和運動船団体が、支援物資を独り占めしているというような報道もあったと記憶しているが、あれはどうなったのだろうか? ボランティア担当大臣とかいうのもいたような……)
さて話を戻せば、本来は異論など出る余地のない単純な構図の事件であるはずなのに、なぜ今回のことが論議を呼んでいるかというと、横領したのが「ボランティアすることを大人から強制させられた‘被災者じゃない子供たち’」であるからだ。
横領した側の意見として、記事中では「小学4年生の女児」によるコメントが紹介されている。
このコメントが、直接本人から聞き取ったものなのか、あるいは市職員、あるいは他の第三者からの又聞き、又々聞き、あるいは記者による想像、のいずれなのかわからないが、そうした内容の発言が実際にあったと仮定してみると、この女児にはそれが『支援物資』であったかどうかの認識はなかったであろうことが読み取れる。
はたしてこの小4の女の子に、ボランティアというものが理解できていただろうか?
また、被災している子供たちの状況が理解できたいただろうか?
私には、彼女が理解できていたとは、到底思えない。
大人でさえ、「ボランティア」というものを誤解している人が大勢いるのだから、小4の子が理解していなかったとしても、決して責められるものではない。
むしろ、退院するあてのない難病の子供たちがいる小児病棟へ、元気な子供たちを大勢連れて行って「さあ、ボランティアに来ましたよ! お友達になりましょうね!」と得意満面になっている大人たちの醜悪な達成感と同じ臭いがただよってくるようで、不快極まりない──は言い過ぎでも、ちょっとどうなのかなぁとは思う(私の場合は、です)。
今回の騒動を経て学ぶべきことがあるとすれば、こうした類(たぐい)の支援物資は、被災者個人に渡すのではなくて、避難所の共有物とするような方法にしたほうが混乱が生じにくいだろう、ということだ。
あの子はもらったけど、うちの子はもらえなかった。
あの人はもらえたのに、わたしはもらえなかった。
避難所という、強ストレス下のとても狭い共同体において、上記のような不公平感は危険な状況を招きかねない。
私が危惧しているのは、震災後の初盆が終わった今年の秋以降に急増するであろう、被災地での自殺や失踪のことだ。
その際、助けになるのは、地域や避難所という小さなコミュニティでの「つながり」であり「一体感」だと私は確信している。
なので、その「つながり」や「一体感」を浸食し、脆(もろ)くさせ、断ち切る要因のひとつである「不公平感」の種をまくような今回のゲーム機騒動は、支援する側にもうちょっと想像力があれば子供たちみんなが喜んだだろうに残念だなあ、というのが私なりの感想だ。
何の本だったか記憶が確かじゃないけど、内輪もめを起こさせるには足りないように与えればいい、みたいなことが書いてあった。
君主が領民を支配する方法だったか、敵の力を削ぐ方法だったか、なんかそんなようなことについての話だったはずだ。
「援助する」とか「手を差し伸べる」ってのには、情熱や共感力にプラスして、俯瞰(ふかん)できる冷静さと先を読める賢さも必要なんだよね。
サッカーと一緒。
追伸 そもそもこの慰問バレエの子供たちには、このゲーム機などの所有権はないのだから、さっさとあやまって返却した方がいい。たまたまその場所にいて自分がそれ受け取ったからといって、その物を自分の物にできるわけではない。病室見舞いの品や、引っ越しあいさつの品を、たまたまその場所にいて直接受け取ったからといって、第三者が自分の物にできるわけじゃないのと同じことだ。品物の送り主が入院している人や引っ越し先の隣人へ渡したと思っていることは明らかだし、社会常識に照らしても、それが誰に贈られた品なのかも明らかだからだ。
なので、今回避難所の被災児童へ贈られた『中居氏のゲーム機』も、当然その所有権は避難所の被災児童にあることは明らかであって、レンポゥやセンゴクウやエダノッチが強弁しても、「避難所の被災児童、もしくは避難所の管理責任者、またはそれらに類する以外の人間」に所有権は発生しない。ボケかけたおばあちゃんが、銀行の待合で銀行員と間違えて知らない人に入金を依頼したとして、じゃあその現金を手渡された第三者がそれをもらえるのかというと、そんなことにはならないでしょ。そんなことしたら横領になっちゃう。
これが野原の真ん中で「これあげる」って手渡されたのなら、「ありがとう」ってごっちゃんしちゃえばいいんだけど、誰がどう見たって、誰にあげよううとしたのか明らかな今回みたいなケースでは、「ごめんね」って素直に返した方がお利口です。
2011年6月6日月曜日
岡ちゃんと菅ちゃん
日本代表・岡田監督「進退伺は冗談」
2010/05/25(火) サンスポ
サッカー日本代表の岡田武史監督(53)は25日、前日に行われた南アフリカW杯への壮行試合を兼ねた韓国戦で0-2で敗れ、日本サッカー協会の犬飼基昭会長(67)に進退を伺った件について「真剣に言ったわけじゃない。これからは口を慎みたい」と話し、冗談めかした発言だったと弁明した。
岡田監督はきょうの練習後の会見で「選手が付いてきてくれているのに投げ出すことは絶対にない」と昨日の憔悴しきった表情とは違い、晴れやかな表情で応えた。
岡田監督は「1年で韓国に2回も負けて申し訳ない。当然責任問題ということになると思うので、会長に問いただす…というか、尋ねました。でも『やれ』ということでしたので、前を向いてやるしかないと思っています」と発言していた。
岡田監督、“進退伺”は冗談だったと弁明
2010/05/26(水) 06:42:10 スポニチ
0―2で惨敗した24日の韓国戦後に日本サッカー協会の犬飼基昭会長(67)に“進退伺”を
申し入れた日本代表の岡田武史監督(53)が一夜明けた25日、収拾に追われた。
最終的にはW杯本大会で指揮を執ることをあらためて明言したが、説明に食い違いが
生じるなど釈明も迷走した。日本代表は26日未明にチャーター便で日本を出発し、
同日午後(日本時間同日夜)に直前合宿地スイス・ザースフェーに入る。
釈明までも迷走した。前代未聞のW杯壮行試合直後の監督の“進退伺”。韓国戦の会見で
自ら衝撃的事実を公表した岡田監督は一夜明けたこの日、事態収拾に動いた。
午後、選手全員が参加して埼玉県内で行われた練習の開始前に約6分間のミーティングを
行った。円陣の中で岡田監督は「心配していないかもしれないが、あれはジョーク。
こんなところで仕事を投げ出すつもりはない」と前夜の“進退伺”が冗談だったと釈明した。
続いて練習後、報道陣に対しては「冗談ではない。でも、言ったこと自体は真剣に言ったわけ
じゃない。僕が選手を決めて預かって、選手がついてきてくれているのに、それを僕が自分から
投げ出すことは絶対しない」と弁明した。
さらに首相官邸に鳩山由紀夫首相を表敬訪問した後、原博実強化・技術委員長、犬飼会長と
それぞれ会談。犬飼会長には「“僕がもう1回やります”という意思表示だった」と真意を説明した。
自らの不用意な発言が波紋を広げ、選手に不安を与えたことから必死に取り繕ったが、
コメントには矛盾もあり説得力には欠けた。
岡田監督、暴言一転!進退伺は冗談だった
(2010年5月30日) デイリースポーツ
サッカー日本代表の岡田武史監督(53)は25日、前日に行われたW杯壮行試合を兼ねた韓国代表との試合後、日本協会の犬飼基昭会長(67)に進退を伺った件が、冗談での発言だったと弁明した。選手たちはこの日、指揮官の“無責任発言第2弾”にも動揺した様子はなく、さいたま市内で軽めの調整を行い国内合宿を打ち上げた。26日未明にチャーター機で直前合宿地のスイスに出発。6月6日に南ア入りする。
この日も周囲に耳を疑わせた。惨敗から一夜明け、指揮官は薄ら笑いを浮かべて言い放った。「進退伺?冗談…じゃないけど、そんなにみんなが真剣にとらえるとは思わなかった。会長に言ったこと自体は、全然そんな真剣に言ったわけではない」。W杯での指揮を放棄するような暴言の弁明もまた、あまりに子供じみた言い訳だった。
韓国に0‐2と完敗を喫した直後、壮行試合を観戦したサポーターへのあいさつを投げ出し、犬飼会長に「会長もいろいろ言われるけど、僕でいいんですか」と伺い、直後の会見で青白い顔を浮かべながらそれを暴露。だが、この日は一転「真剣に言ったわけではない」と取り繕う始末。練習前のピッチ上で行われたミーティングでは、選手に対して「あれは冗談の発言だった」と伝えたというから驚きだ。
練習後に首相官邸を表敬訪問した後に犬飼会長と会談し、「僕でいいんですか、というのは、僕がやりたいという意味だった。言葉足らずで申し訳ない」と、これまた報道陣への弁明とは整合性の付かない言い方で釈明。事実上、現段階での監督交代は不可能なだけに同会長も「どうせ(責任問題について)聞かれるだろうから、先に言ったと聞いている」と、苦しい擁護をせざるを得ない状況だ。
指揮官は“冗談”と言い張るが、日本協会の原技術委員長からは「(勘違いを生む)余計なことは言わないでください」と厳重注意を受けた。無責任の上塗りとなる“冗談発言”。W杯ベスト4という目標も、もはや大風呂敷を広げた“冗談”にしか聞こえない。
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また、以下は、岡田前監督と鳩山前首相を俎上(そじょう:まな板の上という意味)にのせて、リーダーシップについて述べられたコラムであるが、とても面白いので是非目を通してみて欲しい。
サッカーワールドカップ(W杯)南アフリカ大会出場を前に日本代表の岡田武監督らが鳩山由紀夫首相を表敬訪問した。26日付の岐阜新聞は2人が並んでいる写真を掲載し、次のような見出しをつけた。
迷える「ツートップ」
思わず膝を打つようなうまい表現だ。
鳩山首相は、普天間で〝迷〟走を繰り返した挙げ句、連立パートナーの社民党からは「辺野古移設反対」という造反を掛けられ対応に苦慮している。もうひとりのトップである岡田監督は、先日の韓国戦で完敗した後の記者会見で進退伺いについて言及したが、翌日になって「真剣に言ったわけじゃない」と冗談であったと釈明、マスコミから「軽率すぎる」と大ブーニングを浴びせられている。
このツートップの共通点は、『トップの言葉の重み』というのをあまりにも自覚していない点にある。自分の発言が周囲にどのような影響を及ぼすのかを常に頭の片隅に置いていれば、滅多に口が滑ることはないはずだ。トップが前言を翻し、ブレまくっていては部下も付いていけなくなる。そして、こうしたトップは往々にして「リーダーシップが取れない」という烙印を押される。
ではリーダーシップとは何だろうか?
ドラッカーのリーダーシップ論の主旨は、簡単明瞭である。
すぐれたリーダーシップにはカリスマ性は無用であり、生まれながらのリーダー的資質も存在しない。
ドラッカーは、カリスマ性(個人的崇拝)は、組織から柔軟性を奪うことでシステム化を遠ざけ、組織そのものの衰退や破滅につながると否定し、さらに次のように述べている。
リーダーシップとは神秘的なものではなく、平凡で退屈なものであり、その本質は行動にある。それは集団をよりよい方向へ導くための行動手段であって、リーダーシップを身につけること自体が目的化してはいけない。
言い換えれば、たとえ凡庸な人間でもリーダーシップを発揮することは十分に可能であるということである。またリーダーシップは、持って生まれた天賦ではなく、一種のスキルとも判断できる。
そしてドラッカーは、すぐれたリーダーシップの条件を3つ掲げている。
1、リーダーシップを「仕事」ととらえる
組織の〝使命〟を〝目標〟に定義し直すことで、組織の生産性を上げ、成果に結びつけていく。鳩山首相も、岡田監督も使命と目標が混同してしまい、明確な戦略が策定できていないのではないだろうか?
2、リーダーシップを地位や特権ではなく「責任」ととらえる
「責任」である以上、失敗したら最終的に〝腹〟を切らねばならない。だから岡田監督の進退伺いは決して冗談では済まされない話だし、鳩山首相も普天間の問題が公約とは違う決着になった場合には、相応の責任を取る必要があると思う。
3、信頼が得られる人物であること
ただし、それは必ずしも好かれることではない。鳩山首相も岡田監督も人間的には「いい人」かもしれないが、リーダーとして信頼できるかと問われると、疑問符が付いてしまう。
では信頼感とはどこから生まれるのか? ドラッカーは下記のようなことを挙げている。
★話が信じられる(その言動が真意に基づいていると信用できる)
★言動が一致している
★一貫性がある
小泉内閣以降の歴代内閣を振り返ってほしい。どの内閣も首相の言動がふらつく、俗に言う「ブレた」ことから支持率の下落が始まり、1年ほどで終焉を迎えてしまった。逆説的に考えれば、小泉元首相が長期政権を維持できたのは、『変人』と言われようとも自分の政治的信条(例えば郵政民営化)を曲げずに貫いたことが国民から信頼を得られる要因になったのではないだろうか。
さて、崖ぷっちに立たされた鳩山首相と岡田監督のツートップは、起死回生を図ることができるか。しかし、ふたりがリーダーシップを取り戻すために残された時間や手段はあまりにも少ない。
参考文献 『ドラッカー理論』(かんき出版、久垣啓一著)
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菅直人内閣に対して「リーダーシップがない」とか「問題処理能力がない」などと批判するのはお門違いである、と私は確信している。
なぜなら、菅内閣の中核であるところの現首相である菅直人氏、現官房長官である枝野幸男氏、そして前官房長官である仙谷由人氏は、『政治資金の面で問題がない政治家』ということでその地位を得た人たちだからだ。
さらに思い出して欲しいのは、彼らをその地位につけたのは、一般国民ではなくて、民主党の党員とサポーターたちだ。もちろん民主党の党員やサポーターの中にも日本国民はいるだろうが、そうでない人も大勢いる。そういう人たちから多数票を得た人たちなのだから、日本国の危機に際して、優先順位をどうつけるかやその問題処理にたいしてそれほど気乗りしないというのも仕方がないではないか。だって、元々そういう人たちなのだから。
この3人の何がすごいって、これだけのプレッシャーがある中で、誰1人食事が喉を通らないなんてことになっていないってこと。
3人とも、どう見たって、震災前よりも体重が増えている。
この3人にとって、この度の一連の大災害(大人災)は、その根っ子のところでは“他人事”なのだろう。
知識や思考では「危機」だろうとは認識していても、個の人間としての本能的、根元的な部分では、間違いなく「危機」だと認識してない。
もっと踏み込むと、彼らはそのことを誤解している。
こんな危機にあっても冷静でいられるのは自分が優秀だからだ、とか、混乱時だからこそ物事を客観的に捉えられる自分たちでなければ事態を収拾することはできない、などと誤解している。
逆だ。
こういう時、彼らのようなタイプは害毒だ。
八甲田や真珠湾のときの指揮官や外交官らのように。
リーダーに必要なのは、熱いハートとクールな頭脳なのに、
菅政権三人衆は、冷たいハートとすぐカッカする思考回路しか持っていない。
国民として私は、どんな批判があろうとも、一票を投じる機会が欲しい。
一日でも早く。
冬が来る前に。
2011年3月28日月曜日
次は西日本大震災
いずれ起きるだろうと言われていても、明日明後日に起きることはないだろう、と漠然と考えていた巨大地震と巨大津波が起こってしまった以上、次は西日本大地震が起きる、と考えるしかない。他に選択肢はない。起きないかもしれない、という選択肢は消滅したのだ。その現実から目を逸らさずに、従来の防災対策を根本から立て直さなければならない。
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東南海・南海地震(紀伊半島・四国沖地震)
東南海(とうなんかい)・南海(なんかい)地震が30年以内に発生する確率は約40~50%と言われている。
東海・南海・東南海連動型地震(駿河・紀伊・四国沖地震)
東海地震、南海地震、東南海地震の3つの地震が短期的に、或いは同時発生するという超巨大地震。約300年前の宝永地震(1707年10月28日)では東海、近畿、中部、南部、四国、信濃、甲斐、北陸、山陽、山陰、九州で倒壊家屋が出るという凄まじい被災範囲を持った災害。
広範囲で4~5mの津波が太平洋沿岸で観測され、最大では高さ30mに。
建物全壊50万棟以上、死者数2~30,000人、経済被害は53~81兆円という被害想定もなされている。
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これらの被害予測は、根本からの洗い直しが急務となるだろう。
東日本大震災(東北関東大地震・東北地方太平洋沖地震)が太平洋プレートと北米プレートの接線で発生した以上、それぞれに隣接するユーラシアプレートとフィリピン海プレートにも変動が生じないとは言い切れない。枝野官房長官流に言うならば「ただちに地震が発生するというわけではないが──」といったところだろうか。
「これを機に、東京への一極集中を改めて、首都機能のバックアップを大阪に造ろう!」という発想はもはや過去のものとなった。
なぜなら3月11日以後、私たちは「30年以内には確実に西日本大震災が起きる」という前提に立った上で、すべての発想を構築しなければならなくなったからだ。
大前提が、「かもしれない」ではなく、「確実に起きる」となることは、政策決定の過程を根本的に変えてしまう。
市民生活にかかわる部分を考えても、海岸線に近い土地へ資産価値の高い構造物を設置することは、いずれそれらすべてを失うことを意味することになるので、不動産の価値も大きく低下することになる。
将来の大震災リスクでいえば、もう起きてしまった東日本とまだ起きていない西日本とでは、上でも書いたように、後者の方が間違いなく高いので(少なくとも今回起きた規模の地震が、再び同じ場所で起きるためには、百年以上の間隔が必要となる)、東京から西日本への移動というモーメント(グイッと回す力、動かす力)よりも、東京から海外へというモーメントの方が強まると私は考えている。
それよりも経済への大きな影響として私の頭から消えないのは、不動産神話の崩壊が加速度的に進むのではないかという危惧だ。液状化した浦安地区が良い例だが、かつて“ウォーターフロント”と称された海辺の埋め立て地の不動産評価は、今後どうなってしまうのだろう? 小学校社会科の時間に「太平洋岸ベルト地帯」と習った地区は、海抜0メートルに近い地区でもある。今回と同等の津波が襲ってくれば、まったく抵抗する術(すべ)を持たない地区だ。壊滅はまぬがれない。地下街の被災状況などは、予測することさえ恐ろしいくらいだ。
首都機能をどこかに移転し、そこを万一のバックアップにした東京との二元体制──にはならない。
バックアップとするには、同じ物を複数用意しなければならないのだが、財政が極端に厳しい日本で(それも今後はますます逼迫(ひっぱく)してくる)、そんな余裕など生まれっこない。
政治は東京で、経済は大阪、という分業制にすれば──ともならない。
政治と経済はもはや不可分であって、その傾向はすでに「政経一体」といって良いくらいで、切り離すことなどできない。
歴史的にも、京都が都であった時代には、関西圏が経済でも中心となっていた。
現在の、ますますスピードが求められる経済環境の中で、政経の分離をさせるには中国共産党のように、すべてを超越した圧倒的な制限をかけて、強引に成り立たせるしかない。そこでは当然、平等や公平といった近代法治社会の常識は通用しない。そんなことが日本で許されるとは思えないので、日本ではこれからも政治と経済は子猫が遊んだ毛糸玉のごとくに絡み続けるしかないのだ。
【東京の魅力は一極集中のみ】
日本が重要だったから東京が重要だったのではなく、すべてが集まっていることが便利だったので東京に魅力があったという上での、東京の重要さだったのだ。そこをはき違えてはいけない。
あらゆる面で、かつて東京はアジアのハブだった。
原発リスクによって東京を離れる企業や人は確実に増えるだろう。それは賃料の低下と、空室率の上昇につながる。このことによって、東京近郊や東海、関西、九州にあった企業や人も、東京への進出が可能となる。東京の国際的な地位は落ちるが、国内的な地位はますます上がることになるだろう(またそれは同時に、日本の有力企業のグローバル化を推し進めることにもなる)。
もちろんこの流れに最も強烈に押し流されるのは、東北の企業と人だ。東京の不動産・ビル関係の業界も、東北への営業を強化するだろうし、復興支援での人と物の往来が東京進出への垣根を低くもするからだ。
その結果、仙台という街の性質が、「東北の中心都市」から「東北の終点」に変貌する可能性だって相当ある、と私は考える。終着点となった街が栄えたためしはない。
【東北に上海を】
悲しいかな、もはや日本には、壊れてしまった東北をすべて元通りに治す(修復する)財力はない。大規模埋め立てに適した場所のない、リアス式海岸地域では、がれきの撤去すらままならないだろう。
このまま行けば、なし崩し的に、以前あった街の劣化バージョンが再建される。そして東北の経済は、塩害に悩むであろう農業、無限の海底沈殿物に苦しまざるをえない漁業といった一次産業から、人も設備も失った二次三次にいたるまで、急速にしぼんでしまうことになる。よって働ける世代は、仕事を求め、否応なく地元を離れることになる。
小さな漁港が連なる、自然豊かな三陸地域の再建は、これから100年かけて成し遂げられるかどうか、というくらいの壮大な目標となったと私は断言する。というか、人も金も自然もすべてなくなってしまった状況でそれは不可能だ。一時的な復興需要で多少の延命ができたとしても、それは“次の仕事”を生まない“終わればそれまでの仕事”に過ぎず、結局若者たちは土地から離れていくしかないからだ。
しかし、私に見えている数年後の三陸地方は光り輝き、活気に満ちあふれている。
ただしそこに、優しい笑顔と民話や自然が染みこんだ『いい意味での田舎』はもうない。
数え切れないほどの巨大船が行き来する太平洋とアジア・ロシアを結ぶハブ港と、貨物機が離発着するハブ空港と、コンテナを満載したトレーラーが直接入れる高速道路と、沖縄から移転してきた米軍基地と、世界中からやってきた移民労働者と、犯罪と、環境汚染と、騒音と、ゴミのあふれる、マラリア蚊のいない上海でありドバイだ。
家に鍵をかけないで出かけても、なんの問題もなかった『田舎』は、殺人、レイプ、強盗が日常となる地域となるだろう。
私は決してこんな風になって欲しいわけではない。
遠野物語や、関口知宏の鉄道旅に出て来たような東北が好きだし、憧れてもいる。
でも、でも……仕方がないのだ。
被災した土地の大部分(実質的な資産価値を失った土地)は、国が買い上げる、もしくは半ば強制的に代替地へ等価交換するしかないだろう。
そうして地上げた空間を、すべて防災公園にできるだけの余裕は、現在の日本にない。
アジアの中で経済的優位性を失った現況、袋小路に陥っている沖縄の基地問題、進行した少子高齢化、そして東北の復興(復旧ではない)、これらを考えたとき、用地と口実を得た政権・政府が「平成ニューディール」を選択しない訳がないのだ。他人の金ででかいことをしたいのが、政治家という人種だからだ(「仕分け」なんかやって喜べるという資質の持ち主は、本来なら市民オンブズマン的な職業の方が適している)。
多くの、という言葉では言い表せないほどの、無限の尊い犠牲を、私たち日本人は無駄にしてはならない。
すべてを無為に浪費してはいけない。
岬の先の先まで開発しつくし、絶海の孤島であっても権利権利規制規制でがんじがらめになっていて、何をするにも時間と手間に忙殺されるのが当たり前だと思っていた平成の日本に、忽然と広大なスペースが現れた。
それは神からのプレゼントなどでは決してなく、無念と苦痛と涙と血が染みこんだ、延々とつながる過去から未来への、奥歯がくだけんばかりの力で握りしめた“石のこぶし”のような『現実』なのだ。
私たちはそれを、ただ無駄にしない程度では許されない。
亡くなった方たちも、失われた資産も自然も文化も歴史も思い出も、そして未来の日本人も、決してそんなことは許さない。
私たちはそれを“生かさなければならない”“歴史的な意味での新しい生命を誕生させなければならない”そういう使命を負ったのだ。
これからの選挙での一票は、それがどんな選挙であっても血の一滴だ。
もう二度と投票できなくなってしまった犠牲者の想いを胸に、その候補が命がけでその職務のために尽くしてくれるのか。他のすべてを犠牲にしてまで、政治家という権利を得たいと望んでいるのか。それを見極めて一票を投じようと、私は心に決めた。
掲げる政策を考慮する、などという愚かで傲慢な態度はもう改める。
どうせ実現するつもりなんてない政策に惑わされるのはもうやめる。
知名度を信用と混同したりなんてもうしない。
自分の投じた一票については、己の血で償うくらいの覚悟で、次の選挙からは臨(のぞ)んでみようと思っている。
終わり
【追伸】
「街は生きている」
この事が悪い方へ働かないことを、心から願う。
被災地であっても、その周辺には被害のほとんどないような人々もいる。
その人たちが経済活動を始めると、そこには「利権」が生まれ、「利権」は「そのままの形での復旧」を求めるようになる。
それが各被災地域で散発的に起き、まだら模様に「生きている街」が蘇ると、それはかつての大宮駅西口バラックや、複雑な権利関係や、立ち退き交渉と補償問題といった、「いつか来た道」を繰り返すことにもなる。
人がいなくなった被災地では、そこに残って経済活動を始めた人や集団の発言権が、威圧的なまでに大きくなる。
どんなに優れた人材であっても、「お前は一度街を捨てたじゃないか」とか「街が一番苦しかったとき、お前はどこで何をしてたんだ」「あとから来て何を言ってるんだ」「この街を再建したのは俺たちだ」などという圧力に対抗するだけの説得力を持つことは、感情を持つ動物である人間の集団社会ではまず無理だ。先の戦争でも、空襲などの戦災で居住していた家族全員が亡くなり、後々正当な権利者である親族がその土地や権利を確認したらすでに知らない誰かがそれらを乗っ取っていて、抗議しようとしても街はみんなその乗っ取った側の味方ばかりだった、というような事例がいくつもあった。
こういう混乱にまぎれて占拠した土地を合法的に所有するためには、10年もしくは20年の時効取得を画策することになることもあって、再開発などはますます進まなくなる。理由が正当な理屈ではないから、どう説得しても交渉は決裂必至で、結局は土地代以上の金銭によって明け渡してもらう他なくなる。もしそんなことにでもなったら、まさに暗黒の昭和史よ再び、だ。まあ今回の被災地域には、長年地元のに居住してきた血縁関係の濃いちゃんとした地域住民がほとんどだろうから、終戦後のようなことにはならないだろうが、可能性はゼロではない(by 官房長官)。
「地球は日本の都合を考慮してはくれない」
問題は次から次へと起きてくる。
時間は一時も止まってはくれない。
街が生きているのと同じように、世界もまた生きているのだ。
日本政府は、今度もまた頼りにはならないだろう。
自分にとっては自分の病が最重要であっても、自分以外にとっては他人の病は他人の病でしかないように、被災の深刻さは被災者当人にしかわからないし、それは被災者個々によってもそれぞれだ。
緊急時の今は力を合わせることができていても、余裕が出てくればそこにエゴも顔を出してくる。
中東情勢が厳しくなり本格的な戦争となった時、石油の供給を中東に頼り、今回の被災でも米軍及び世界の助けを借りた日本が、これまでと同じ対応でいられるとは、私には到底思えない。
「お前、“トモダチ”のはずだよな?」
そう問われたとき、日本は
「いや、お前らとは友達じゃない」
とは言えないだろう。
自衛隊への負担、財政面での負担、政府の機能、政権の能力、国民の関心、物資の振り分け、これらを考え、中東民主革命戦争と東日本大震災とを天秤にかけた時、より重きを置かれるのは果たしてどちらなのか。
私には、日本政府が前者を選択するように思われて仕方がない。
そうならないためにも、中東情勢はどうにか落ちついて欲しいし、中国経済もあと数年はがんばって欲しいと、心から切に願っている。
難問山積してる状況で、トップとその補佐役が、組織経営能力も決断実行経験も共に乏しい市民運動家と活動家系弁護士のコンビ(あるいはトリオ)というのは、運がないとしか言いようがない。
確かに彼らはお金にはクリーンだったのかもしれない(まあ直近の報道ではそうでもなさそうな感じではあるが)。しかし、そんな理由で医者を選び、彼らにメスを持たせて腹を切らせる患者がいるだろうか?
最終的に報いを受けるのは、手術を受ける自分なのだということを、私は麻酔の覚めつつある激痛と共に思い知らされる患者のような心境の中に、今いるのである。
了
2011年3月18日金曜日
大卒サラリーマンが一番損?
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※為替は2011.03.10のレートである1ドルおよそ82円でゲゲが計算。
【コラム】ハーバード大はお得か、高等教育のお値段検証-コトリコフ
3月9日(ブルームバーグ):教育を受ければそれなりの見返りがあり、良い教育ほど見返りが大きいという考えはほぼ万人共通の常識になっている。私のような大学教授にとっては商売が廃れる心配がないわけで、実に有難い話だ。
残念なことに、この考えは事実と異なるようだ。経済学者のステーシー・デール、アラン・クルーガー両氏の最近の研究は、トップクラスの大学を出ても将来の収入に大きな違いをもたらさないことを示した。過去の複数の研究でも同じような結果が出ていた。
ハーバード大学に入学を希望していた若者が、私の勤めるボストン大学に入学しても将来を心配することはない。最高級の高等教育の見返りが、普通の高等教育の見返りよりも大きいということはない。それは朗報だが、そもそも高等教育を受けることにそれなりの見返りがあるということ自体、真実なのだろうか。
一見、答えは明らかなように思われる。平均として、博士号を持つ人は修士号を持つ人よりも多くを稼ぎ、修士号を持つ人は学士号を持つ人よりも所得が多い。大学卒業者の方が高卒者よりも給料が高い。教育に見返りがないなどと、どうして言えるだろうか。
その答えは、教育は「ただ」ではないというものだ。トップクラスの大学に通うには今、食費と寮費、授業料を合わせて1年に5万ドル(約410万円)がかかる。これは直接のコストだが、これに加えて、就労せずに学習に費やす年月という隠れたコストがある。
すべてを含めて
教育の「見返り」を考える時は、すべてのコストを含めて計算しなければならない。所得税は1年間の所得に対して課される。生涯収入が同じならば、働く年数が少なく1年当たりの所得が多い人の方が、高税率のグループに入る可能性が高い。
一方で、社会保障税は課税対象額に上限があるため、生涯の稼ぎを短い年数に圧縮することで単年の所得が増えても、上限を超えてしまえば単年の課税額は増えず、一生に支払う税額は少なくなる公算だ。現在の上限は10万6800ドル(約876万円)。早くから社会保障税を払っても給付額は増えないことも、就労を遅らせる人に有利だ。
結局のところ、教育の金銭的見返りはあるのだろうか。実は必ずしもそうではない。ジョーとジル、スー、マットという4人の18歳の若者がいたとしよう。ジョーは大学に行かず配管工になった。
医者
ジルは医者を目指して授業料の高い私立大学に4年間通った後、さらに高額のメディカルスクールで4年間勉強し、低賃金のインターンを2年、研修医を1年務め、高校卒業から11年後にやっと一般開業医として本物の仕事に就く。
スーとマットはともに、ジルと同じ高い私立大学で教育学の学士号を得る。マットはさらに2年間勉強して修士になる。
この4人が皆、結婚せず62歳になるまでオハイオ州で働いたとしよう。収入がピークになる50歳の時、配管工のジョーの年収は7万1685ドル(約588万円)。教員になったスーは8万9584ドル(約735万円)。修士号を持つ教師のマットは10万3250ドル(約847万円)。医者のジルは18万5895ドル(約1524万円)を稼いでいる。架空の4人の収入は年齢と州、職業に基づきデータを使って算定した。
では4人が在学中の学費と生活費を一般的な金利で借り入れたとしよう。この場合、一生での可処分所得が多くなるのは誰だろうか。私の会社のソフトウエア「ESプランナー」を使ってこれを計算してみた。
可処分所得
学費や所得税、社会保障税・給付などを計算に入れた可処分所得が簡単にはじき出される。医者のジルは19-100歳の間、年3万3666ドル(約276万円)を使える。ピーク時の18万5895ドル(約1524万円)に比べるとひどく少ないが、ジルが働いて金を稼ぐのはこの81年のうち31年だけなのでこうなる。高所得の50歳の時の税負担は所得の36%に達する上に、学資ローンも返さなければならない。学資ローンの金利5%はジルが貯金を安全に運用して得られると考えられるリターン(3%)を上回る。
配管工のジョーの平均年間可処分所得は3万3243ドル(約273万円)。勉強し試験を受け、病院での夜勤に耐えたジルと423ドル(34,686円)の差しかない。教員のスーはジョーより少ない2万7608ドル(約226万円)。大学院を出たマットはさらに低く2万6503ドル(約217万円)。
高等教育の投資リターンについての精緻な研究に比べれば大ざっぱな数字だが、金銭的な見返りだけを目的に高等教育を受けようとする人にとっては重大な赤信号だ。同時に、経済的に成功するための確実な手段だとして高等教育を奨励する政府の政策にも、大きな疑問を投げ掛ける。(ローレンス・コトリコフ)
(ローレンス・コトリコフ氏はボストン大学の経済学教授で、エコノミック・セキュリティー・プランニング社の社長です。このコラムの内容は同氏自身の見解です)
原題: Study This to See Whether Harvard Pays Off:Laurence Kotlikoff (抜粋)
更新日時: 2011/03/10 07:23 JST
Bloomberg
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Study This to See Whether Harvard Pays Off: Laurence Kotlikoff
March 08, 2011, 7:08 PM EST
By Laurence Kotlikoff
March 9 (Bloomberg) -- The notion that education pays and that better education pays better is taken for granted by almost everyone. For college professors like me, this is a very convenient idea, providing a high and growing demand for our services.
Unfortunately, the facts seem to disagree. A recent study by economists Stacy Dale and Alan Krueger showed that going to more selective colleges and universities makes little difference to future income once one accounts for the underlying ability of the student. Their work confirms other studies that find no financial benefit to attending top-tier schools.
It’s good to know that Harvard applicants can safely attend Boston University (my employer), and that better higher education doesn’t pay better. But does higher education pay in the first place?
The answer seems obvious. On average, doctorate holders earn more than those with master degrees, who earn more than those with bachelor degrees, who earn more than high school graduates. How can education not pay?
The answer is that education isn’t free. Top undergraduate programs are now charging students $50,000 a year to eat, sleep and, hopefully, attend class. But that’s just the direct cost. Education’s hidden cost is the time spent learning rather than earning.
Making School Pay
For education to pay it has to cover all its costs. It also has to make up for the progressive income tax, which taxes annual earnings, not lifetime earnings. If person A earns the same amount over her lifetime as person B, but does so in fewer years, A’s annual earnings, in the years she works, will be higher than B’s. This compressing of lifetime earnings into fewer years can potentially land person A in higher tax brackets during her working years.
Social Security’s payroll tax cuts the other way. It’s regressive, thanks to its ceiling on taxable income. Earnings bunching can lower lifetime payroll taxes provided the bunching pushes annual earnings above the ceiling, now at $106,800.
Social Security’s benefits formula provides no reward for paying taxes early. This too helps those who stay in school and start their careers late. On the other hand, the formula doesn’t credit earnings above the ceiling, which can penalize the better educated.
But what’s the bottom line? Does education pay?
Not necessarily. Consider four equally talented 18 year- olds -- Joe, Jill, Sue, and Matt. Joe takes a pass on attending college. Instead, he decides to become a plumber.
Jill chooses medicine. She goes to an expensive private college for four years, an expensive medical school for four years, does a low-paying internship for two years followed by a low-paying residency for one year, and finally, 11 years after high school, gets a real job, as a general practitioner.
Teaching Education
Sue and Matt both get bachelor’s degrees in education at the same expensive college Jill attends, but Matt spends an extra two years after college getting his masters.
All four of these hypothetical kids settle down in Ohio, remain single, and retire at 62. At age 50, the peak earnings year for all four, Joe, the plumber, makes $71,685 (in today’s dollars). Sue, the teacher, makes $89,584. Matt, the teacher with the master degree, makes $103,250. And Jill, the doctor, makes $185,895. All figures and others used in this analysis are based on earnings data by age, state and occupation.
Earning Power
Who ends up with the higher lifetime spending power assuming Sue, Matt, and Jill had to borrow, at high prevailing interest rates, to pay tuition and cover living expenses while in school?
To answer this question, I used ESPlanner, my company’s financial planning software. The program figures out, in two seconds, each kid’s sustainable spending, taking account of educational costs, foregone earnings, annual federal and state income taxes, annual payroll taxes, Social Security benefits, and Medicare Part B premiums.
Jill, the doctor, has the highest living standard. She gets to spend $33,666 year in and year out from age 19 through 100 This is after paying all her taxes and Medicare Part B premiums. Age 100 is the maximum age to which the kids might live and, thus, must plan.
Come again? Only $33,666? That’s a far cry from Jill’s peak earnings of $185,895. Yes, but remember, Jill has only about 31 years of significant earnings to cover some 81 years of living. And when Jill works, she gets nailed by the taxman. At age 50, for example, Jill pays 36 percent of her earnings in federal and state income taxes and payroll taxes.
Finally, Jill has a bucket load of student loans to repay at an assumed 5 percent real interest rate, which exceeds the assumed 3 percent real return she can safely earn on her savings.
Plumber’s Pay
To add insult to Jill’s injury, Joe the plumber’s sustainable spending is almost as high -- $33,243. All those grueling years of study, exams, late-night emergency calls, and Jill gets to spend a measly $423 more per year than a plumber.
What about Sue, the teacher? Sue has less spending power -- $27,608 -- than Joe.
And Matt, with his masters? His spending power is even lower than Sue’s, at $26,503. Too bad he didn’t run the numbers before sending in his graduate-school application.
These examples are a far cry from an exhaustive study of the returns on investing in higher education. And they treat higher education as purely a financial investment and ignore its tremendous personal and social non-pecuniary rewards. Still, the examples present a big red flag for those who pursue higher education solely for the money. And they raise a major question about government policy that promotes higher education as the sure path to economic success.
(Laurence Kotlikoff is professor of economics at Boston University, president of Economic Security Planning Inc. and author of “Jimmy Stewart Is Dead.” The opinions expressed are his own.)
こういうデータもあることをちゃんと教えれば、就職活動がうまくいかないくらいのことで自暴自棄になる若者も減ると思うのだがなあ。
おわり
2011年3月17日木曜日
2011年3月6日日曜日
人を動かすには順序がある
「AIDMA」と書いて「アイドマ」と読みます。
これは何かというと、人が物を買うという行動を起こすまでにはどういう段階を経るか、は5段階に分類できるという説を説明するキーワードです。
1920年代に、アメリカのサミュエル・ローランド・ホールという人が提唱しました。
A Attention 注意
I Interest 関心
D Desire 欲求
M Memory 記憶
A Action 行動
インターネットが一般化してからのマーケティング・広告業界では、もはや古典として軽んじられている菅も、もとい感もあるのですが、なかなかどうして、普段の生活の中での自分の行動や他人の行動をコントロールする際には十分現役で使える法則だと、私は確信しています。
【AIDMAを日常生活に応用する方法】
私などは、自分で自分に行動を起こさせるようもっていくのに、このAIDMAを使います。
最後のA(Action)から順を逆に追っていくのです。
まず手はじめに、M(Memory)を補佐するため、行動に移すべき事柄をかき出したり、張り出したりします。忘れないようにするわけです。
それでもだめなら次のD(Desire)です。
その行動を起こしたら、何が手にはいるか、どういう変化が期待できるか、そういうことをできるだけ具体的に絵にします。文字だと私はイマイチなんですよね。やはり絵の方が私には向いているみたいです。その絵には、必要なら地名とかブランド名とか金額とかも、調べて正確に書き込みます。
しかしこれでもダメってことはしょっちゅうです。
となるとI(Interest)が必要になります。やはりどんなときも愛は必要なのです。
実はこの段階がもっとも重要なのではと、私は思っています。
つまり、本気でその気があるのか、マジでやりたいの? ってことを確認すること、それがこれなのです。
たまたま流行っていたから、とかテレビで見たからとかだと、それって自分の「関心」じゃないですよね。向こうから与えられた「関心」だと私は思うんです。そしてそれじゃあ、人を動かすことはできない。少なくとも、私はそれでうまくいったためしがありません。
ただし、第一観では本物の自分の関心ではなかったように見えても、視点や切り口を変えると、同じテーマであっても本物の関心をつかむことができる場合が少なくありません。少なくとも私の場合はそうです。
その視点や切り口を見出すために必要なのが、最後に残った最初のA(Attention)です。
今日、東北新幹線の新型車両『はやぶさ』が運行デビューしました。
東京駅は鉄道ファンでごったがえしたとニュースでやっていました。
彼らをそこまで突き動かしている原動力は、鉄道に関する知識の量と深さです。知っているからこそ価値がわかるのであって、知っているからこそもっと知りたくなるのであって、知っているからこそ愛してしまうんです。
浦和レッズの熱心なサポーターも同じだと思います。みんな、知っているからこそ、行動してしまうんです。
知らないことにああはなれません。
もし子供たちにもっと自主練習をさせたいなあと思っているのなら、あるいは我が子にもっと自宅学習させたいなあと思っていらっしゃるのなら、この「AIDMA」を骨格にして計画を肉付けしてみてはいかがでしょうか。
ただ口でいくらすっぱく「やれ! やれ!」言っても、自分も含めて人は動きません。
「もっと練習しろ!」「もっと勉強しろ!」
で成果が上がるなら、誰も苦労はしていないでしょう。
まあこれも、私はこうしてきましたよっていう程度のヨタ話ですから、そのつもりでお願いします。
bye-bye
追伸
名古屋グランパスの永井謙佑選手(FW 177cm 74kg 福岡大←九州国際大学付属高)は相当いいね!
ケガにも強そうだし(今日のあのPKになったタックルなんて、田中達哉選手なら骨折、小野伸二選手だったら足がもげてたはず)。
2011年2月14日月曜日
人間の5つの欲求
ブルックリン生まれのマズローは、ロシア移民の貧しいユダヤ人を両親に持つ。7人兄弟の長男の彼は、両親の期待を背負い学問の道へと進んだ。貧しい生活、マイノリティへの所属、アカデミックでの成功。マズローの欲求段階説には、こうした生い立ちが色濃く影響しているだろうことを理解した上で、読み進めて欲しい。
マズローによると、人間の欲求は五段階に分けることができて、下位の欲求から順を追って充足を目指んだよってことらしい。彼はこれに「欲求段階説」っていう名前をつけて発表した。
その欲求を下位から順に言うと、生理的欲求→安全の欲求→帰属の欲求→自我の欲求→自己実現の欲求となる。
●生理的欲求
おなかが空いたので食事をしたいとか、ねむたいので眠りたいとかみたいに、人が生きていく上で欠かせない基本的な欲求。
これが満たされないと、いらだちや不快感を覚え、時には生命の危険さえも──。
●安全の欲求
読んで字のごとく、(自分が)生きることを脅かされないことの欲求。
たとえば、暴力や災害などにより自分の生存を脅かされると、その危険な状態からいかに逃れ、回避し、自己の生命の安全を確保するかに必死とならざるを得ず、他のことが考えにくくなる。将来的なリスクを考えることもこの欲求に含まれる。
●帰属の欲求(社会的欲求、親和の欲求、愛情の欲求)
会社、家族、国家など、あるグループへ帰属していたいという欲求。
この欲求は、生存を脅かされない状態になってこそ生じるものだというのが、この説でのポイント。
また、基本的欲求(生理的欲求と安全の欲求)が満たされた“次に”この欲求を持ってきていることから見て、マズローがこの帰属欲求を、それだけ基本的なものだととらえていることがわかる。
親和の欲求(自分をあたたかく受け入れてくれる集団の中に入りたい)とも、愛情の欲求(自分のことを愛して欲しい)とも言う。
●自我の欲求
最終段階のひとつ手前にこれがくるところが、「The 人間」って感じがして私は好きだ。なぜならこの欲求は、他人からの賞賛を求める欲求であり、それはグループへの帰属が前提となるからだ(なんかしらグループに属しなければ、自分を、認めてほしい褒めて欲しいリスペクトして欲しい他者を認識することなんてあり得ないから)。
名声とか地位とか高級品とか装飾品とか「世界に一つだけの花信仰」とか「ぼくのわたしの個性は尊重されるべき価値観」とか「他人が持っているものは持ちたくない症候群」とか「自分は自分でいいよね、ね、ね」とか「自分さがしの旅してますアピール」とか、その手の欲求も、実はここに当てはまる。
この欲求には二種類あって、そのひとつは仕事の遂行や達成で、もうひとつは、そのことによって他人から注目され、賞賛されること。シュートを決めたらみんなから祝福して欲しいのって当たり前だもんね。
●自己実現の欲求
これが最後の欲求。最終到達点。
これは、あるべき自分になりたいっていう欲求のこと。
将棋の羽生名人が将棋を追求し続けている原動力は、間違いなくこれだと思う。
もう羽生名人クラスになると、将棋で勝って人から「すごいですね」とか「頭が良いんですね」とかって褒められたいなんていう欲求なんてないはずなんだ(もしあったら、それは自我の欲求になってしまう)。
“ライバルは自分”っていう表現があるけど、それとも違って、この欲求の背景には、『自我を越えた、ある種の無償性』があるとされてる。
マズローの欲求段階説ってのは、自己啓発系の本とか、中間管理職向けの組織マネジメントセミナーなんかで人気のテーマだ。
でも、わが子や他人の為に自分の身を投じる例なんかが代表的だけど、実際にはこの段階通りに人間はできていない。
また「誰でもいいから殺してみたかった」とか「生きている実感が欲しくてリストカット」みたいな欲求も、この5段階のどこにも属していない。
なのになぜこの説を紹介したのかというと、まだ小学生段階の育成でなら、この説も役に立つだろうと考えたからだ。
その子(人)が抱え悩んでいるのは、はたしてどの欲求なのか、それを判断する際に、この段階欲求説が頭の片隅にあると観察しやすい(まあ、これはわたしの個人的体験からなのだが)。
悩んでいる子から発せられる言葉だけを聞いていると、「自我の欲求」に思えたものが、よく観察しているうちに実は「生理的欲求」がとか「安全の欲求」だったことがわかってメシを腹いっぱい食わせたら元気になった、なんてこともある。
バカバカしいと思わないで、こんな考えもあるんだなあ、くらいでもいいので、ちょこっと頭にメモって置いて頂けたら本望である。
BYE
2011年1月22日土曜日
そもそもマニフェストを持ち出したのは民主党リベラル左派。
2009年夏の総選挙用のCM(アニメ)らしい。
まあ現実もこの通りになってしまっているんだけど、自民党が「だめ亭主」で「だめラーメン屋(俺の感覚だと、旧街道沿いの古いドライブイン)」だったからこうなったんだよなあ(でもってまだ何も変わってないみたいだし)。
選挙にマニフェストを持ち込んだ民主党の左派(リベラル)連中自身が率先して、「できっこないマニフェストなんだから修正してもいいんだ」とかって言い出してるんだから、軽いよなあ。軽い軽い。
むしろリベラル派だからこそ、約束とか言葉を大切に扱って欲しいと私は思うのです。
これじゃあ、リベラル=口先だけ、リベラル=ウソつき、リベラル=切り捨て、ってことになっちゃうじゃん。
「政治とカネの問題に決着を付ける」もいいけど、それよりもさあ
「政治と約束(マニフェスト)の問題」や「政治と言葉の問題」
にも決着を付けてくれって話っすよ。
どっちかっつうと、政治家としての資質や倫理面では、「他人のカネ」よりも「自分の言葉」や「自分がした約束」についてどういう態度をとるのかの方が、決定的に重要なんじゃないかなあ、と私は思うわけです。はい。
この景気状況、原油高、資源高で、増税するための内閣改造をするんだから、ホントどーかしてる(ガソリン値下げ隊の出番です!)。
増税論議を「逆エコポイント」として使えば消費を刺激できるって話が出てるらしいけど、現実は絶対にそんなことにはならない。
いやな事件が増えるだけっていう結果となることに、100万チュニジアディナールを賭けます。
終
2010年11月16日火曜日
久々にアルディージャを考える。
たとえばこんな↓ことをやったら、土壷(どつぼ。関西の肥だめ)にはまります。
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伝統的な商圏外への拡張戦略をやめ、本来の商圏にに集中しろ。
安値での集客より、定価で買う顧客を大事にしろ。
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これは三流の安っすいコンサルなんかが提案する経営改善策の典型。
ブックオフの105円コーナー並んでいるような、経営指南本の第一章にも書いてあることが多いです。
「伝統的な商圏」や「本来の商圏」に顧客がいるのなら、これもあながち間違いだとは言えない場合もあるかもしれないかもしれないですけど、旧大宮市東部には、それほど熱いサッカー熱は元々ないですし、じゃあ自称「サッカー王国」であるところの埼玉県全域を商圏にできるかというと、それも難しい。大宮より北側の観客をナイターに集めようと思ったら、大きな無料駐車場がないと厳しいです。帰りの足がなくなっちゃいますから。
「安値での集客より、定価で買う顧客を大事にしろ。」については、年間シートじゃなく定価で入場し続けている熱烈なサポの心情としてはそうなるのも理解できますけど、、、としか言いようがないですねえ。
新聞拡張団がなぜ存在するのかや、旅客航空券の販売方法などがなぜああなってるのかや、一休.comやクレジットカードというビジネスモデルがなぜ成立するのか(宿泊施設や商店の側から見て)、を考えてみれば、「集客」こそが経営の根幹・土台なのだということが、経営戦略を考える上での大前提となっていることは、おわかりいただけるとは思うんです。
人・物を含めた設備というのは、使ってなんぼです。置いておいたら、人は経験を積めないし、物は劣化も早くなりますし。それに来客数が多ければ、そこから別な展開(広告とか販促とかグッズ販売とか飲食とか)につなげることもできます(ネットビジネスなんて全部これです)。でもそれも、たくさんのお客さんあってのこと。いないお客さんに焼きソバは売れません。
そもそもアルディージャが陥っている深い穴は、世界全体が陥っている大きくて深い穴の一部なのだと言う面もあります。
そのことを理解したうえで、(お金をかけずに)何ができるか、アイデアを考えてみましょう。
今、世界中でスポーツ観戦&体験市場が縮小しています。それはサッカーに限らず、バスケットボール、バレーボール、テニス、ゴルフ、野球、マラソン、水泳、そしてエンターテイメントスポーツの代表格である、ボクシングやレスリング・格闘技系、その他すべて軒並み絶不調なんです。
(まあもっとも、この話はスポーツだけじゃなくて、映画やテレビ、ギャンブル、そしてセックス産業においても同じ状況なんですけど)
例外は極一部のスーパースターやスーパーチーム、あるいはスーパーイベントです。
このあたりにアルディージャの未来へのヒントがあると仮定して、分析を進めてみます。
【ローマ人はコロセウムに熱狂した】
コロシアムでは実際に命のやり取りが行われていたから、だけで観客が熱狂したわけではありません。
ついこの間まで、生活と死は隣り合わせの関係でした。人が死ぬところなんて別に珍しくなかったのです。
ではなぜコロシアムで人々は熱狂したのか。満員になったのか。
それは、そこが、自分を解放させることのできる「場」だったからです。
普段の生活の中でやったら変人に思われる、あるいはどこかへ連れて行かれてしまうような「興奮」「狂気」「雄叫び(おたけび)」を、コロシアムでは発することができました。
当時のローマは現代に優らずとも劣らないストレス社会、自己抑制社会でした。
ポンペイの遺跡から、豪華な食事の絵が描かれた壁や床が発掘されていますが、あれらの意味するところは、そこに酒池肉林の日常が存在したこと、ではなく、それを渇望していた日常があったということです。ありふれているものに人の関心は向きません。ここにはないけど欲しいものに人の関心は惹きつけられるのです。
コロシアムの秘密がわかってきました。
コロシアムには「ここにはないけど欲しいもの」があったのです。それは「自分を解放させることのできる「場」」です。
つまり、「普段の生活の中でやったら変人に思われる、あるいはどこかへ連れて行かれてしまうような「興奮」「狂気」「雄叫び(おたけび)」」を発しても耳目(じもく。世間からの注目)を集めない状況です。それをしているのは自分だけではない環境。それこそが、コロシアムに足を運ばせていたのではないでしょうか。
ここで目を転じて、もうここ10年以上、世界で最も成功しているプロサッカーリーグの双璧である、イングランドのプレミアリーグと、ドイツのブンデスリーガを見てみましょう。
両リーグでは、スター選手のいないチームであっても、スタジアムは満席です。いつも興奮のるつぼです。
では毎試合毎試合、同じ観客が足を運んでいるのでしょうか。
意外なことですが、両リーグとも実は年間シートの占める割合はそれほどではありません。私の記憶ですが、おそらく5割は行っていなかったはずです。大半の観客が当日券か単試合前売り券で入場しているのです。
それでスタジアムは満員御礼。
なぜこんなことが起きえるのでしょう。
わたしはその理由として「テレビ中継の工夫」を第一に上げます。
おいしいお店特集とか、納豆ダイエットブームとか、スカイツリーのこととか、そういう「テレビが作る人だかり」というのを思い返してみればわかるのですが、人は、人だかりに惹かれます。
長い行列に並んでみたり、バーゲンですでにできている人だかりがさらに膨れ上がる現象は、人間の本能に直結した行動です。
【生存本能】
他者が集(たか)っている=そこにエサ(食べ物)がある
この行動パターンはまた、相乗的な経済効果も生みます。
「あそこに人が集っている」→何かお得なことがある(行かないと損をする)→さらに人集りが大きくなる→あれだけ集っているのだから、流行っているのだろう→宣伝・広告・販売・周辺ビジネス→行政もインフラ整備→便利になってイベントが増える→人が集まる→「あそこに人が集っている」→あとはループ……
イングランドやドイツの新しいスタジアムへ行って意外に思うのは、想像していた以上にゆったり作られていることです。それこそ見下ろすような角度の観客席でぎゅーぎゅーに詰め込まれて観戦するのかと思って気合いを入れていくと、拍子抜けするくらいに快適で、きれいで、移動もスムース。そして、だからこそ、実際にスタジアムで観戦した人は、楽しさを満喫できるんですし、他の人にもスタジアム観戦を薦めますし、自分もまた足を運ぼうと思うんです。サッカーの試合だけなら高いチケットでも、それ以上の満足を得られれば、とてもリーズナブルなイベント参加料、ストレス発散効果料金だからです。
では、まず、お客さんに足を運んでもらう工夫として、大宮アルディージャは何をすべきなのでしょうか。
それは、
テレビカメラの位置を、バックスタンド側に移動すること
です。
NACK5スタジアムの中継画面は、興ざめそのものです。
狭く薄いバックスタンド越しに見える、立派な野球場、そして広い空。
コロセウム感なんてまったくありません。ゼロ以下です。
観客の興奮も上へスカスカ抜けていってしまいます。
試合を見ながら、隣の野球場の観客席の様子や照明灯、そして雲の形などが、どうしても目に入ってきてしまうようなテレビ画面は、サッカーへ集中させない手段としては最高ですが、サッカーを見たい層には最悪です。「オレンジ一色に」などとたまに企画しているみたいですけど、あれではどうがんばっても、緑一色(ピッチの芝と公園の木々、野球場の壁面)オレンジちょろちょろです。
テレビ中継をするカメラの位置を、現在のメインスタンド側から、バックスタンド側へと移動させることを私は提案したいです。
そしてメインスタンドには、市の名士や、スポンサーの関係者、できれば有名人著名人、ベンチ入りしていない選手とその家族、彩りとしてきれいどころ、などに座って頂きます。それもアルディージャの社長やさいたま市長、そして選手たちの周辺にです。そうすればそこは必ずテレビ中継中に映像で抜かれますから、視聴者にも「あんな人も来てるんだな」と感じてもらえますし、またスポンサーの皆様にもテレビにうつったことで若干の満足もいただけます。「昨日、おたくの社長テレビにうつってましたね」これだけでも、営業トークのちょっとしたネタにできますから。実際、プレミアでもその効果をスポンサー獲得に利用しています。プレミアレベルの中継だと、世界中の営業先や消費者に、社長の顔を宣伝できますから、一国の一経済誌に載るよりもずっと効果的です。
アルディージャへのスポンサードで効果を実感してもらうには、こういう方法も使っていくべきだと思います。
とにかくまずは、テレビ中継の時に視聴者が見るのは、「選手とボールと観客、これだけ」という状態にしないと、実際に行ってみたくなるようなテレビ画面は作れません。
ちっぽけで数段しかない観客席、大きくて立派な野球場、広い空、森の木々、これでは熱狂なんてできそうもないじゃないですか。違いますか?
(まあ、世の中には、空の下、自然の中でじゃないと興奮しない、という趣味の人もいるにはいますけど)
折り込み広告や埼玉新聞に全面広告を入れたって、これまで以上の集客効果なんて得られません。
それはもうすでに実証されていることです。
テレビのサッカー中継は、CMだけが宣伝ではないんだ、ということにアルディージャの経営陣は気づいてください。いや、気づけなければ、ずうっと横ばいに近い下降線です。
テレビにうつっているもの、それすべてが広告に使えるんだという視点に立って、チームの経営を再建して欲しいと思っています。
これは、あのNACK5スタジアムだからできることなんですよ。
巨大な埼スタじゃあ不可能なんです。
短所を長所に、
欠点を個性に、
不利を有利に変えてこそ、経営手腕、リーダーの腕の見せ所です。
NACK5スタジアムが、シーズンの間ずうっと毎試合、大宮アルディージャのサポーターであふれかえっている姿を私は見てみたい。
そのためにも、まず、テレビカメラの位置を変えましょうね。鈴木茂社長さま。
終
2010年11月1日月曜日
YO!! 身売りヴェルディ。ふんばれ!YO
東京V存続承認…八王子に移転へ
2010年10月30日08時08分 / スポーツ報知
J2の東京Vが来季から東京・八王子市内に拠点を移すことが29日、分かった。Jリーグはこの日、臨時理事会で経営再建を目指す東京Vの今季の収支計画と来季の予算(約8億1500万円)を承認し、来季の存続が決定。Jリーグの事務局長と兼務していた羽生英之社長が東京Vの社長に専念することも決まった。複数の関係者の話によると、現在使用している東京・稲城市のよみうりランドから今年いっぱいで撤退し、八王子市内に拠点を構えるという。
この日、新体制で計13の企業と個人が株主となることが明らかになった。筆頭株主がスポーツクラブなどを運営するバディ企画研究所で、約3分の1の株式を保有。「八王子に拠点を移すことがバディの条件」と関係者。さらに、よみうりランド内のクラブハウスの年間使用料で折り合いがつかなかったこともあり、来季からクラブハウス、練習場などの拠点を筆頭株主のバディ―が事業展開する八王子市内に移すことになった。また、ヴェルディとバディのサッカースクール(小学生)が統合される可能性もある。
リーグ戦開催時の本拠地はこれまで通り調布市の味の素スタジアム。チーム名称やチームカラーも変更はない。問題なのは練習場。現在のように特定の場所に固定はされず、八王子市の保有するグラウンドや、民間のグラウンドを借り、転々とすることになるようだ。
「ゼロからのスタート」と羽生社長。新拠点の八王子からの再スタートに注目が集まる。
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どういう経緯(いきさつ)があるのか、今回ヴェルディを買ったのは下記の上の方の「バディ」で、今年の全日本少年サッカー大会で優勝したのは下の方の「バディー」で、両者は本社所在地も経営者もまったく異なる、まったくの別会社・団体ということらしい。
まあ、「キャノン」と「キヤノン」みたいなこともあるし(ヤの字が大きい方が正しい社名)、観光地の本家、宗家、元祖、屋、家、みたいなこともあるから、同じ業界で似た名前ってのも決して珍しくはないけど、どうして「buddy」で重なったのかなあ? 流行したことあったっけ? 赤ちゃん命名の『たまヒヨ』みたいに、起業創業お奨め名前特集でもあったのかな。
株式会社バディ企画研究所
〒156-0056 東京都世田谷区八幡山2丁目19 - 15
http://www.buddy-sports.co.jp/
株式会社BSC バディースポーツクラブ
〒232-0017 神奈川県横浜市南区宿町2-36
http://bsc-buddy.jp/
それにしても「バディ企画研究所」のURLが「buddy-sports.co.jp」で、「バディースポーツクラブ」の方のURLが「bsc-buddy.jp」というのは、わざと混乱させようとしてるのか? まあ偶然だろうけど、消費者・利用者からすれば「バディースポーツクラブ」がちゃんと別にあるのに(絶対に、自社サイトを設けるにあたってのURL選定の際にはわかってたはず)URLで「buddy-sports.co.jp」を名乗るようなことはやめて欲しい。率直に言えば、まるでフィッシングサイトみたいで不親切だ。
世の中には、もっと紛らわしいというか悪質なのもあるので、こんなのはまあかわいいもんだけど、できればこのヴェルディ買収を機に改善して欲しいなあ。
◆こんなにある、まぎらわしいURL◆
※URLを読んで、素直に想像したサイトにはつながらないので注意! いやむしろ絶対につなぐな! 悪質サイトもまじってるかもしれんぞ! ちなみに私はどこも試してませんのであしからず。
h\\p://www.playstation2.co.jp
h\\p://www.yahooo.co.jp
h\\p://www.yahee.com/
h\\p://www.goo.co.jp
h\\p://www.ebay.co.jp
h\\p://www.miclosoft.com/
h\\p://www.kdd.gr.jp/
h\\p://www.micros0ft.com/
h\\p://www.u-tokyo.ac/
(東京大学のサイトじゃない)
h\\p://www.excite.ne.jp/
h\\p://www.yahoo.gr.jp/
h\\p://www.yamoo.com/
h\\p://www.yuhoo.com/
h\\p://www.yarhoo.com/
h\\p://www.jahoo.co.jp/
h\\p://www.praystation.com/
h\\p://www.matsuzakaya.co.jp
h\\p://www.ww.com
h\\p://www.www.com
h\\p://www.wwww.com
h\\p://www.wwwww.com
h\\p://www.wwwwww.com
h\\p://www.wwwwwww.com/
h\\p://www.real.co.jp/
(ちなみに、realplayerの グローバルアドレスはh\\p://www.real.com/で、正しい日本サイトはh\\p://www.jp.real.com/)
h\\p://www.whitehouse.com/
(なんと! ホワイトハウス!)
昔はこんなのもありました。
h\\p://www.j-phone.co.jp/
下の方に小さく 「当サイトは日本テレコム株式会社の運営する移動体通信事業とは関係ありません。」 って書いてあったりしました。いまなら「i-phone」と間違えるかもしれない。
そしてつい先日は、こんなことまで──
「国勢調査オンライン窓口( h\\p://www.e-kokusei.go.jp )とまぎらわしいURLを持つサイトh\\p://www.e-kokusei.go.jp.net/ が確認されました。」
要するに、紛らわしいサイトにダマされる方が悪いってのが、ネット社会なんだよね。コワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイ……ゲシュタルト崩壊。
創業当初は「企画研究所」なんつう胡散臭い(うさんくさい)とこから出発して(失礼ご容赦。一般のイメージってこと)、日本リーグ時代からの古豪プロサッカーチーム、元読売クラブ現東京ベルディ(1969はどこいった?)のオーナー会長におさまっちゃったんだから、楽しいだろうなあ。
目論見(もくろみ)としては、八王子を中心にした三多摩地域にベルディブランドの総合スポーツクラブを構築するってことなんだろうけど、どこまでヴェルディ人脈をつなぎ止めることができるかによっては、もろとも沈没しちゃいそう。
でもまあ、一昨年2009年の初頭にあった、学習塾の「TOMASトーマス(リソー教育)」への売却がおじゃんになったときには心底心配したが、とりあえず嫁入り先が決まってよかったよかった。
1999年(平成11年)のはじめには、読売新聞とよみうりランドが撤退して、日本テレビが100%オーナーになった。
2001年(平成13年)からは、資本の分散化(要は株の売却)と増資が始まった。
2006年(平成17年)にはサイバーエージェントが買収。
2007年(平成18年)にはサイバーエージェントが売却。
2008年(平成19年)にはサイバーエージェントは胸スポのみのスポンサー。
2009年(平成20年)にはサイバーエージェント完全撤退。
2009年(平成20年)日本テレビが撤退。「東京ヴェルディホールディングス(崔暢亮会長)」に完全譲渡。
こういう状況にあるチームを支えようとしてくれる企業や個人は、もはや合理的な判断で決断したのではないだろう。
ベルディというチームだからこそ、心を動かされたのだと思う。
ただ、残念ながら、読売クラブの頃からの積み重ねのせいだろうか、OBらの言動のせいだろうか、サッカーを愛する人とこのチームを愛する人の重なる部分は非常に少ない。良くも悪くも「個」の集まり、それがヴェルディというチームだ。
それぞれが「個」であるので、チームを愛するファンよりも、選手という個を愛するファンの方が主力となってきた。また、個の組み合わせがうまくいっているときは相乗的な力を発揮するが、うまくいなかいとバラバラでどうしようもなくなる。
ヴェルディが、経営的に昔のような輝きを取り戻すことはないだろう(元々、読売グループからの損失補填が頼りだったし)。でも、チームとして、サッカーに輝きを取り戻すことは、一度くらいはあるかもしれない。
どうかその日まで、支援を決断された皆様は、見捨てないであげてください。
お願いします。
以上
2010年10月20日水曜日
大宮アルディージャを考える
2010.10 .19
2010年10月2日(土)に開催したホームゲームでの公式入場者数について、本来発表すべき入場者数との相違が発生したことを受けて、過去の入場者数も含めて調査を実施いたしましたので、その結果等をご報告いたします。なお、今回の件につきまして、多数の方々に対してご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。
◆入場者数の実態等について
過去のホームゲームにおける公式入場者数とゲート通過入場者数(ゲートカウンター実数) +ゲート外入場者数の数値について調査した結果、2007年11月11日のNACK5スタジアム大宮オープン以降の全てのホームゲームにおいて、VIP来場者やビューボックス利用者、車いす観戦者に加えて、選手家族やイベント関係者等についても、入場ゲートを通らないで入場させる運営を行っていたこともあり、以下の通り、ゲート通過入場者数の数値に相当数の上乗せを行って公式入場者数として発表を行っておりました。
<概況>
2007シーズン__対象試合計__公式入場者数__ 27,710 __ゲート通過+ゲート外入場者数___23,020_差分_ 4,690
2008シーズン_________計__公式入場者数__205,265__ゲート通過+ゲート外入場者数 __179,456 _差分_25,809
2009シーズン_________計__公式入場者数__301,038__ゲート通過+ゲート外入場者数 __252,428 _差分_48,610
2010シーズン_________計__公式入場者数__199,549___ゲート通過+ゲート外入場者数 __166,921 _差分_32,628
再)前節(対浦和)___________公式入場者数__33,660____ゲート通過+ゲート外入場者数___29,575_差分___4,085
※ゲート外入場者は「VIP来場者」「ビューボックス来場者」「車いす観戦者」
※数値の根拠
・ ゲート通過入場者数・車いす観戦者数:警備業務委託先である会社より受領した入場者数集計表
・ VIP来場者数:VIP座席表(但し、ビューボックス利用者を除く)
・ ビューボックス利用者数:ビューボックス座席表
◆本来発表すべき入場者数との相違が発生した背景について
(1) 当クラブにおけるJリーグが定義する入場者数についての理解不足、不適切な運用による入場者数の補正
NACK5スタジアム大宮が使用開始となった2007年11月11日開催のホームゲームにおいて、事前にスタジアム収容人数(15,300人)の95.0%にあたる14,530枚の発券を行ったところ完売となり、また当日、幹部2名(以下、両名)がピッチレベルから確認した限りでもスタンドは満員の状態でありました。
実際、当日のゲートカウンター実数は11,725人となっていたものの、ゲートを通過しないVIP、選手家族イベント関係者等多数のお客様が入場していました。こうした状況を踏まえて、両名が本来はゲートを通過したもの以外については、VIP来場者、ビューボックス利用者、車いす観戦者及びそのヘルパーのみを入場者数としてカウントすべきところ、ゲートを通らずに入場いただいた選手家族、イベント参加者等についても、当日のイベント等の開催状況、スタジアムにおける観客の着席状況等について総合的に勘案して、入場者数を推計し、公式入場者数の補正を行っていました。
なお、この後も先般の埼玉スタジアム2○○2でのホームゲームに至るまで、本来、ゲートを通さなければならない選手家族、イベント参加者等について、ゲートを通らずに入場していただくという運用は続いておりました。
(2)安全性・快適性に配慮したスタジアム収容可能人数との兼ね合い
2007年12月1日及び2008年3月9日にホームゲームを開催した際(ゲートカウンター実数はそれぞれ11,243人及び12,482人)、スタジアム所在エリアを管轄する大宮警察署から、安全面の確保ができない状況と見受けられるため何らかの対策を講じるよう指導を受けました。
これを踏まえ両名が、独自にスタジアムにおけるお客様の安全性や快適性の確保を目的として入場可能上限数を15,300人よりも低く設定し、これに基づいて入場者数を抑制いたしました。その際、見た目が満員にも関わらず、公式入場者数が少ないといった違和感を生じさせないようにするため、入場者数の上積みを行い、以降こうした行為を恒常化させました。
(3)「2009年までに年間観客動員30万人」の自主目標の達成
当クラブの進むべき方向性をより多くのファンやサポーターの皆様、スポンサー様にご理解いただくために、自らに対するコミットメントと内外に対するアピールという意味をこめて、2007年4月に「アルディージャの誓い」を定め、その中で「2009年までに年間観客動員30万人」との自主目標を設定し、その達成に向け全力で取り組んでおりました。そうした中で、目標が未達成となった場合は、支援の縮小やサポーター離れ等、クラブにとっての不利益が生じることを両名が懸念し、入場者数の上積みを行っていました。
◆認識した問題点について
今回の調査の結果、認識した問題点は次のとおりです。
A : 入場者数に関するJリーグ統一基準がクラブ内で共有されていなかった。
B : Jリーグ統一基準を遵守する上で、本来は入場ゲートを通過する必要がある選手家族、イベント関係者等の観戦者を、入場ゲートに誘導する運営体制の整備がなされていなかった。
C : 特定の人物のみで公式入場者数を決定する仕組みになっていた。
◆再演防止策について
□Jリーグ統一基準の社内理解を確実なものにするため、他Jクラブでの研修を速やかに実施します。
□10月24日(日)のホームゲーム開催時より、次の対策を行います。
(1) 公式入場者数の発表については、Jリーグ統一基準に基づき、入場ゲート通過者、VIP来場者、ビューボックス利用者、車いす観戦者の各数値を加算する運用を行います。
具体的には、後半30分までに警備業務委託先である会社より受領した入場者集計表及びVIP座席表・ビューボックス座席表を運営本部内に明示し、複数のクラブスタッフの確認を経てクラブ代表に報告した後、最終数値を発表します。
(2) 入場ゲート開門前にスタジアム内にいらっしゃるイベント関係者等がイベント終了後に試合観戦を行う場合、一旦入場ゲートの外に出て再入場して観戦してもらうよう事前アナウンス及び誘導を強化・徹底します。
(3) スタジアム来場者に再入場を許可する運用を行う際は、入場ゲートと再入場ゲートを個別に設置し、入場者数を重複してカウントしないようアナウンス及び誘導を強化・徹底します。
◆その他
クラブ代表である渡邉誠吾は、本件の責任を取り、問題を解決するための運営体制を確立次第、辞任いたします。また、今回の両名については、社内規程に基づき、厳正に対処いたします。
以上のとおり、調査結果等についてご報告申し上げます。
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一番の問題は、この項目だろう。
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(2)安全性・快適性に配慮したスタジアム収容可能人数との兼ね合い
2007年12月1日及び2008年3月9日にホームゲームを開催した際(ゲートカウンター実数はそれぞれ11,243人及び12,482人)、スタジアム所在エリアを管轄する大宮警察署から、安全面の確保ができない状況と見受けられるため何らかの対策を講じるよう指導を受けました。
これを踏まえ両名が、独自にスタジアムにおけるお客様の安全性や快適性の確保を目的として入場可能上限数を15,300人よりも低く設定し、これに基づいて入場者数を抑制いたしました。その際、見た目が満員にも関わらず、公式入場者数が少ないといった違和感を生じさせないようにするため、入場者数の上積みを行い、以降こうした行為を恒常化させました。
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これは何を言っているのかというと、NACK5スタジアムに入る観客数は1万2千人だと言っているのだ。
それ以上詰め込めると「安全面の確保ができない」つまり「過積載」「定員オーバー」だと警察から指導されているという事実は、とても看過することのできない重大な問題である。
「見た目が満員にも関わらず、公式入場者数が少ないといった違和感」というのも実は違和感でもなんでもなく、見た目と入場者数の方が正しいのであって、器の容量表示の方に「ウソ」があったのだ。
言ってみればこれは「偽装表示」そのものだ。
長い間、700mlのラフロイグ(ウイスキー)がすぐに空になってしまうのがどうも解せないと思っていたが、そのわけがこれでわかった。ラフロイグのビンには700ml入らないのだ。そうだそうだ、そうに決まった。だから決して私が飲み過ぎなわけではないのだ!
そう、これと同じことを、大宮アルディージャはしてくれた。
私の愛していた桜と冷たいイスと汚いトイレの大宮公園サッカー場を勝手に作り変えたあげくこのありさま。なんたることかと桜が泣いてるわ! 動物園のヒグマも化けて出てくるっちゅうねん! そやろ! なあ、あんさん。そやな。そやそや。もうかりまっか? そうでっか? そうでんなあ。そうでんなあ。
発想というか、考え方、世の中の見方、正義感、義務感が、まるっきり役所的というか、役人的というか、共産主義的なんだよな。
結局数字の帳尻が合えばOK、みたいなこの感じ。
毎年残留争いしてるだけで、一向に向上しないのも、なんか一緒って感じ。
勝ち点の帳尻合わせ職人。
ヤナ感じだよね~。
地元に近いから応援してはいるけど、昔っから経営の仕方とかチームの在り方には疑問を感じていた。
練習場がレッズランドの下流の荒川河川敷ってのもそうだし、地元とはまったく関係のない変な外国人監督や、その外国人監督つながりなのか大宮に愛着を持とうと思っていない外国人選手が増えたりさあ、そういうのって応援しようっていう気持ちが萎えるんだよね。
立派なスタジアムの前に、まともな練習施設の整備でしょうが、スポーツの常識で考えればさあ。
かっこいいスタジアムを建てただけじゃあ金メダルは取れないって。箱モノ発想が国体だよ、それじゃ。
店構えだけきれいにリフォームしたって、厨房や板前に問題を抱えたままじゃあ、お客さんは増えないって。わかんないのかな、こんなことが。
いっそのこと、今回のことを契機に一念発起、心機一転して、原点から「ホームタウン」について柱となるビジョンを立てて欲しい(今まではその場しのぎでまったくなかった)。
J1の規定に満たないサッカー場をホームにしていることは『原則的』にはできないんだし、じゃあNACKを再改修ってのも現実的じゃあない。しかし『サブ』としてなら十二分に使える。
マーケティングの基本からも、集客力のある店から顧客を奪うには、そのターゲット店よりも優れていることが最低条件なんだから、浦和レッズの横で店を張るには、大宮アルディージャでは力不足・覚悟不足だったってこと。もはや議論の余地なし。答えは出た。
今後どんなにがんばったって、お客さんが右肩上がりに伸びていくってことは絶対にない。そういう視点に立って、今後の再建を計画するべきだろうと私は思う。
あの横浜ベイスターズでさえ、横浜を離れるうんぬんって話になってるご時世に、率直に言って「大宮アルディージャ」のままでは希望は見いだせない。
10年以上、スタッフやボランティアや地元商工会や青年会があれだけがんばってもこの体たらくなんだ。現実を見つめよう。もしアルディージャの経営に、経営のプロがかかわっているのなら、経営のプロとしての判断を下すべき最後のタイミングだと思う。
もう浦和だあ大宮だあと争っている場合じゃない。
レッズの観客動員だって黄色信号なんだから(レッズの規模からするとすでに赤になりかかっている、という人もいる)。
さいたま市が一体になって、周辺のファンをレッズに集客するような政策をとらないと、観光資源としてのレッズも5年持たないかもしれない。それくらいJリーグの置かれている状況は厳しい。ザッケローニがたまたま当たったから救われているが、もしアルゼンチン戦、韓国戦で結果が出ていなかったら、代表試合の放映権料さえ、ばっさり切られていただろう。そうなったっていたらと考えるとぞっとする。
アルディージャはさいたま市や商工会、そしてNTTやスポンサー各社、サポーター、そしてそしての“Mr.勘違い野郎Jリーグ様(ちなみにもうひとりの勘違い野郎はジャスラック様です)”と真摯な話し合いをして、ホームタウンをどうするのか結論を出さなければならない。もはや状況と環境は、はっきりと変わってしまったのだ。
NTTと決別してJ2で生きていくのか(NTTにしてみれば、J2チームを抱える経営上の理由がないので)。いや奇跡的に株主からの賛同も得られ、NTTが「J2アルディージャでいいよ」と言ってくれたとしても、観客数の下降低迷は避けられない状況は変わらないことをどう分析・判断するのか。数年後には、市民認知度すら5割を切るだろう。
それでもいい、という生き方もある。熟慮の末、覚悟して、それを選択し、責任を背負い込む、とNTTとさいたま市が腹を決めたのならそれでもいい。いわば経営の籠城作戦ともいえる決断だけど。
「と、殿~!」「わしはどこへも逃げぬ。最後まで逃げぬぞ~」ガラガラガラ~。チャンチャン。
大宮アルディージャはもう限界。
むしろここまでよく頑張った、と私は思う。
日産のマーチがタイで作られ、NEC(日本電気)のパソコンが台湾で作られ、JAL(日本航空)は事実上倒産し、もしかしたら次は日立が倒産するんじゃねえかとまで言われるこのご時世、ホームタウンがどこにあるかなんて、大した問題じゃない。チームが愛されること、スタッフや選手たちがサッカーを続けられること、そしてファンとサポーターがアルディージャのサッカーを楽しめること、これらだけを経営陣は考えるべきであって、浦和と大宮の歴史だとか、チームができた経緯だとかっていう昔のくだらないことにはとらわれないことだ。そうじゃないと、アルディージャ自身が、数年で消滅してしまうだろう。
ピンチをチャンスに変えることができるかどうか、それが指揮官の役目だ。
涙を流して頭を下げることは、指揮官のすることじゃない。
船底に穴のあいた艦を港まで返すこと、エンジンから火を噴いている旅客機を着陸させること、それが“長”の務めだ。
船員や乗客に「ごめんんさない」と泣いて謝るのは、ヒーローじゃない。映画なら、雑魚の役だ。
チームのために、皆から嫌われても、怒号を浴びても、正しい決断をするのが“長”である指揮官の役目だ。
だから“長”はひとりなのだ。
さあ、大宮アルディージャの指揮官である“社長”さんは、どういう決断をするのかな。
まさか辞任の意向を示した直後に、さっさと親会社に帰って「いやあ、新聞に出ちゃったよ。まいったまいった。でもまあ、結構面白かったけどね」って歓迎会でスピーチして、あなたの人生の思い出の1ページにして終わりってわけじゃあないでしょうね。
はっきりいって、大宮アルディージャは、埼玉県のサッカーのためには、まだ何も寄与していませんよ。
旧大宮市と現さいたま市にとっても、何も寄与していませんよ。年に数回、大宮駅東口から氷川参道にかけてのあたりのゴミ拾いをちょこっとだけしただけですよね。
そして埼玉県の少年サッカーにも、まあったく寄与していません。
大宮アルディージャのジュニアチームができてよかった、なんて声を、少年サッカー関係者から聞いたことは一度もありません。
いったい何がしたいんですか?
本当に、サッカーを愛してますか? サッカーを楽しんでますか?
サッカーで儲けようと、本気で考えていますか? 真剣勝負で経営していますか?
さいたま市だって、Jリーグだって、アルディージャがつぶれるよりは、再建できる策に賛同してくれます。
アルディージャの経営陣は、どうか本気になってください。
お願いします。
【訂正&謝罪】
日立さまへ
失礼しますた。
日立、営業黒字2000億円超 高機能材料が堅調
2010/10/22 2:01
情報元 日本経済新聞 電子版
日立製作所の収益が拡大している。2010年4~9月期の連結営業損益(米国会計基準)は2000億円超の黒字(前年同期は247億円の赤字)となったもよう。従来予想は1700億円だった。新興国を中心とした景気回復の恩恵を受け、デジタル家電や自動車向けの高機能材料が堅調だ。4~9月期の連結営業利益で電機大手のトップになった公算が大きい。
でもですね~、ブレ幅がでかいっつうのは、躁鬱病みたいなもんで経営的には問題があるってことっすよ。
ご用心ご用心。
2010年9月28日火曜日
ジュビロ磐田ジュニアユースが2011年で廃止統合へ
ジュビロでは、磐田・掛川・浜松のサッカースクール3会場に所属するジュニアユースチームに加え、2007年4月より強化チームとして「ジュビロ磐田ジュニアユースチーム」がスタートし、合計4会場での活動を行っています。
「強化チーム」「強化育成チーム」の選手は全員セレクションで選ばれ、3年間かけてサッカーの基本的な技術や戦術を学びます。 「育成チーム(YJSS)」の選手を含め、選手一人ひとりの能力を最大限に伸ばし、豊かな人間性を兼ね備えた魅力的な選手を 一人でも多く育てることを目標としています。
「強化チーム」「強化育成チーム」「育成チーム」とチーム分けはされているものの、選手の成長に合わせ、 高校生年代の「ジュビロユースチーム」も含めたすべての指導者が綿密に連携を取りあい、選手の練習参加や 情報交換を行いながら、将来トップチームでプレーできる選手を、クラブ全体で育成することを目指しています。 力のある選手が、年代の枠を超えて上のカテゴリーの練習や試合に参加できるのは、一貫指導のクラブチームならではのメリットです。
無限の可能性を秘めた選手たちに、温かいご声援をよろしくお願いします。
※2012年からは、サッカースクール3会場(磐田・浜松・掛川)に統合し活動します。
※現ジュビロ磐田ジュニアユース選手(1・2年生)については、2011年まで活動します。
http://www.jubilo-iwata.co.jp/lib/images/lower/jryouth_system.gif
YJSSは、磐田・掛川・浜松のサッカースクール各会場で活動している育成を目的としたチームです。 ジュニア時代からヤマハ ジュビロサッカースクールに所属している中学生を対象にしています。
静岡県東部で活動するアスルクラロ沼津と提携し、アスルクラロ沼津のジュニアユースチームが、 「ACN ジュビロ沼津」として活動しています。
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ヤマハ発動機は12日、2010年から2012年までの3か年の新中期経営計画を策定した。
ヤマハの中期経営計画…工場閉鎖、人員削減で12年に営業利益率5%
新中期経営計画では、グループが商品開発と現場主義の基本を徹底し「モノ創りで輝き、存在感を発揮し続ける企業」となるために、構造改革と収益体質の確立に全力を挙げる。成果として「2010年連結営業利益黒字化」、「2012年連結営業利益率5%」の連結経営目標として設定した。
構造改革として計画期間中に国内12工場を7工場に削減、海外9工場から7工場に再編する。国内・海外合計で7工場を閉鎖する。人員削減については2009年に1620人削減したのに加え、2010年に
追加で1000人を削減
する。コストダウンではアジアで展開している
コストダウンを全世界に展開
し、2012年に600億円コストを削減する。
また、成長戦略として新中期経営計画で「新興国市場やアセアン市場での成長」「環境エンジンや電動技術の開発加速化による成長」に焦点を当てた成長シナリオを描き、「パーソナルモビリティ」と「エンジン」の2つの領域に集中して、資源を投入する。
具体的には、インドや中国などの新興市場に低価格モデルを投入したり、ASEAN市場でFI化を進める。
二輪車で2015年に燃費を現在の50%向上した次世代環境エンジンを開発するほか、電動二輪車の技術開発・市場投入に注力する。
数値目標は2012年に連結売上高1兆4000億円、営業利益700億円を目指す。また、3年間の設備投資は1200億円に抑制、有利子負債は3年間で1500億円圧縮する。
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かたやアントラーズは──
つくば育成施設の新設について
2010/09/28
標記の通り、茨城県つくば市下萱丸に育成施設を新設することになりましたのでお知らせします。
つくばエクスプレス(TX)みどりの駅徒歩8分に立地し、クリニックコース(未就学児~小学生)、鹿島アントラーズつくばジュニアチーム(小学生チーム)、同ジュニアユースチーム(中学生)の指導・練習拠点となります。また、フットサルコートの一般開放を行うほか、コーチによる幼稚園巡回など普及事業の拠点となります。
所在地: つくば市萱丸一体型特定土地区画整理事業地内B-43街区①街地
面積: 20,000m2
施設内容: 人工芝サッカーピッチ1面(105×68m) 人工芝フットサルコート(39×19m)3面、 クラブハウス(事務所含む)350m2、照明施設(100ルクス)
着工: 2010年10月
竣工: サッカー場2011年4月、クラブハウス同5月
用途: クリニック(未就学児~小学生向けサッカースクール)最大900名 ジュニアチーム、ジュニアユースチーム(各40名程度) 一般開放(フットサル)
イメージとしては、大宮アルディージャの秋葉の森公園を人工芝にして、照明を設けたって感じかな。
2010年8月29日日曜日
円高不況といいますが、円安の時も不況っていってませんでしたっけ?
これからもっと円高になるなら、それは欧米の不況が一層深刻化するってことだから、どーせ欧米への輸出は伸びない。つうか、海外からの行き場を失った資金がどっと流れ込んできて、また20年前のように不動産バブルになるかもしれない。関東なら、当時国道16号線沿いで起きたように、圏央道周辺の土地がどかっと上がるかもしれない。
そんな素人考えを巡らせていたら、日本サッカーの未来が見えてきた。
動く人体模型中田英寿が引退してから、日本サッカー界にはスターがいなくなった。
こんな状況は、杉山釜本時代以降では初めてのことだ。
育成段階で、欠点のない選手の方が重宝されるため、結果として「型破りなスター」の芽が摘まれているのだから、まあこうなるのも当たり前だ。
企業で言うと、ソフトバンクのように、名前だけはIT企業のようでいて、実態は旧態依然の技術専門誌出版業なのに、社長の頭の輝きと笑顔と勢いとでまかせで資金をかき集めて上場までしてしまう、ような企業の芽が摘まれている、今の産業界のようなものだ。
優等生の企業ばかりじゃあ、世の中に勢いは生じない。
町田で貸しレコード店を細々やってた“ディスコ狂い”の兄ちゃん(踊りはド下手。でも企画するイベントは面白かった)が、ディスコソングを集めたカセットを売ったら結構売れて、その勢いで調子に乗って、気がついたら大レーベルの社長様におさまって、元モデルの嫁さんと豪邸で暮らしてた、くらいのことがなきゃあ、世の中つまらない。
スター選手が育つためには「勘違い」と「お山の大将さ」が必要だと思う。
そういった意味で、J下部の小中年代チームと、また同じ意味で小中世代のトレーニングセンター(トレセン)は廃止した方がいいように思える。
勘違いしまくってるお山の大将の「男」同士をガツンとぶつけるから爆発するんであって、「お子様」の年代で顔見知りにさせて、妙な「お友達関係」を持たせてしまうことは、スポーツ選手の育成という面からは「百害あって一利なし」だ。
このままだと、円高になろうが円安になろうが不況だ不況だといってるのと同じように、いつまでたっても得点力不足だ、フィジカル負けだ、と嘆くような日本サッカー界のままになってしまう、かもしれない。
でもねえ、俺は、そろそろ次のスターが発見される時期に来ているような気もしてるんだ。
それも今の小6世代から。
次の次のワールドカップでは、19、20歳のスター選手が、日本代表の中心にいる、と私は予想する。
2010年8月23日月曜日
髪は男の命です。 (ジダン、ロッベン、イニエスタ、より)
うちの兄は2月前まで川崎フロンターレのユースに所属していました。
でも先輩が問題をおこしてしまいみんな坊主ということになってしまい
兄は1回は短くしたんですけど、長さがダメと言われ結局辞めてしまいました。
自分は無責任な気がします。親にもそうだしなれなかった人はとてもたくさんいるのに!
それに何より自分の可能性を髪で捨てほしくないです。
皆さんどう思いますか?
【ベストアンサーに選ばれた回答】
その程度の意気込みだって事ではないでしょうか?
因みに、静岡出身の自分の周りに、過去に中学県選抜~静岡学園で1年からレギュラーで全国制覇×2~エスパルス入団も2年で退団~現在:町の少年サッカーのコーチの友達がおります。
そいつは、志が低すぎたけど、同じような経歴で、未だに年収180万なんてサッカー馬鹿もいます。
志を持ちすぎても馬鹿をみるよ。ともお伝え下さい。
2010年8月21日土曜日
日本代表の新監督が決まらない。
それはそうだろう。
直近の2010FIFAワールドカップ南アフリカ大会であんなサッカーを見せたあとなのだから。
ワールドカップで日本が見せたサッカーも、ワールドカップに出場していた日本代表の選手たちも、魅力はなかった。
がんばったとは思う。結果も、期待以上のものだった。だがこれは日本国内での話だ。
大会を通じて日本代表に目を惹かれた海外メディアも、選手に食指を動かしたスカウトも、指揮してみたいと感じた一流指導者もいなかった。これが現実だ。日本の選手を使えばスポンサーがついてくる。日本で監督をすれば経済的に大きい(円高だし)。でも、日本代表だった選手たちはヨーロッパの一流チームからは忘れられ、日本代表というチームのことも、世界から忘れられてしまった。
そりゃ、あんなサッカーを世界の目にさらしたんだから、当たり前の帰結だ。
自業自得。
「代表選手があの程度の国へ行っても、自分の指揮力は活かせない」
「代表選手があの程度の国へ行っても、自分にできることはない」
紳士的な人はこう考えるだろう。
しかし言わんとすることは、一流のシェフが調理したからといって場末の店の日替わり定食がミシュラン三つ星クラスの味になることはない、ということだ。素材も調味料も設備も器具も整って、初めて一流は一流になりうる。
「弘法筆を選ばず」ということわざも、元々は「弘法筆を選ぶ」であって、その意味は、いくら名人でも筆が悪ければ良い字はかけない、だった。一流は一流を知る。あるいは「見極めてこその名人」ということなのだろう。
当面は日本のサッカー事情のことをよく知っている人に、日本代表監督をしてもらう以外に選択肢はない。
それこそJの今シーズンが終了するまでは、岡田前監督にやってもらって、「お前のやりたかったサッカーを、思う存分見せてくれ」と肩をたたいてピッチに送り出してみて欲しい。このまま逃げさせたら、日本サッカーのためにも岡田氏本人のためにもよくない。
俺がやりたかった日本代表のサッカーってのはこれなんだ! というのを、岡田責任逃れ雲隠れ武史前日本代表監督には、日本のサッカーファンに見せる義務がある、と私は思う。
このまま全部うやむやにして頬被りして、ほとぼりが冷めた頃に協会の役員に収まって高給と権力いただきでは、日本サッカーのためにならないと確信しているからだ。
2010年6月21日月曜日
ところ変われば、評価も変わる
http://gazoo.com/NEWS/NewsDetail.aspx?NewsId=4eff9a61-a230-46eb-8f5b-2e90ee07ba0c
【新型ジェッタ、価格は1万5995ドル(約147万円)から】
http://gazoo.com/NEWS/NewsDetail.aspx?NewsId=fab4e445-064c-4db7-9843-47c1c2eaa1e0
こういうことは知っている人にとっては常識なのだが、知らない人が知ったら裏切られたような気がするものだ。
しかし現実である。日本におけるドイツメーカーブランド(実際の生産国はアフリカや中国だったりするのに)の新車価格設定はめちゃくちゃに高い。
同じ価値のものは、この世にふたつとない。スーパーで並べて売られているスイカでも、ひとつひとつの評価は違っているものだし、それを買う人、つまり評価を下す人が異なれば当然評価も違ってくる。ある人にとって割安なスイカも、隣の人にとっては割高かもしれない。買ってみて、割る前と割った後では、また評価も違ってくる。あれだけ美味しそうに見えていたスイカが、割ってみたら種だらけだったり、鬆(す)が入っていたりした日には、もう腹立たしくさえ思えてくる。
日本で安い給料に甘んじているサッカー選手たちは、モンゴルや東欧から己の資質を高く評価してくれる日本へとやってくる巨デブどものように、サッカー選手への評価が高いヨーロッパを訪れてみてはいかがだろうか。
日本で選手の代理人業をしてる人たちにしても、実際には大したコネクションを持っているわけではない。いまもヨーロッパで頑張っているナルシスト松井選手にしても、少しでもヨーロッパ内でコネクションを持っていそうな人を見つけては、自分で自分を売り込んでいる。いまでも、だ。
日本の代理人が持っているネットワークは、ネット(網)というよりも、それこそスレッド(細糸)と言った方がピッタリするようなものなのだという実情をしれば、あのしょぼい代理人会社の人間の名刺を後生大事に保管するようなアホな行為もしないですむ(接待や付け届けまでするバカもいるって話だ)。
意外と侮れないのが、日本企業のネットワーク。
友人知人にヨーロッパで仕事をしている人がいれば、思い切って相談してみると力を貸してくれる、かもしれない。
あるいはネットを駆使してチームを調べ、自己紹介資料を自作して、何件か送ってみてもいい。
今からおよそ30年ほど前、静岡県清水港周辺では、港とブラジルを往復している貨物船を使ってブラジルへサッカー渡航するブームが起きた。いま、子供たちに人生と夢を語っている邦称『キング!』カズ選手も、確か清水FCに選ばれたことさえないような、体格的にもスピード的にも、技術的にもセンス的にも極ふつうの選手だったのに、それでも自分の意思でブラジルへと渡っていった。お兄さんの方は逆に、静岡サッカー界でエリートだったんだけど、渡らなかった。いや、エリートだったからこそ、そのコースから外れるような選択をする必要がなかったと考えるべきなのか。
当時は他にも大勢の子供たちが、清水からブラジルへと渡っていた。まあだからブームなんだけど。『武蔵、世界へ飛ぶ』なんていう本もベストセラーになったりしてた。数年後彼は帰国し、「ブラジル行ったからってブラジル人みたいなプレーが出来るようになるわけじゃないんだなあ」という当たり前の真実をみんなに教えてくれた。
でも、彼らがブラジル渡ったことは、決して人生の無駄なんかじゃあないと私は思う。失敗でもないし、成功でもない。それが彼らの人生だったってことなんだ。
Jリーグの下部組織に入れなかったからといって泣いているわが子には、高校に入ってからのいつかのタイミングで、ヨーロッパへの短期留学の機会をつくってあげたらどうだろう。3ヶ月から1年弱くらいの期間、交換留学か語学留学でもさせるつもりになって、サッカーと社会勉強、海外体験のために、ヨーロッパのどこかの街へと旅立たせる。
物価の安い国の小さな街へ男子高校生を送り出すのなら、費用だって日本の私立高校へ行かせるのとどっこいどっこいですむ。円高ユーロ安はしばらく続くから、その面でも追い風が吹いている。
簡単には連絡のつかない土地、何かあっても急には助けにいけない土地、でひとり暮らしをすると、短期間でも子供は見違えるほど大人になる。そして金にシビアになって、人生には貪欲になる。コミュニケーション能力も格段に向上する。それは「軽い」というのとは一味も二味も違う「深い」コミュニケーション能力だ。端的に言えば「騙されなくなる」。
日本でエリートコースに乗れなかったのなら、東欧や南欧に旅立ってみるがいい。神様はそのために、君をエリートコースから外したのかもしれない。「ああ、もう落ちこぼれた」と考えるよりも、そう考えた方が人生はずっと楽しくなる。
海外留学を安くすませるコツは、中間業者を極力絡ませないことだ。
愛知や浜松、川口や群馬あたりにうじゃうじゃいる外国人の子供たちは、誰も留学斡旋業者の頼りになんかなっていない。そんな業種業態が存在するのは、世界でも日本とカンコクくらいなものなんだから(出稼ぎ斡旋業者は世界中にいる。品よく言うと、人材派遣業、女衒(ぜげん)、手配師)。
まずは、ヨーロッパ各国の物価と、とりあえずの宿と学校とチームについていくつか調べる。
安い宿、掘り出し物の学校やチームであるほど、ちゃんとしたホームページなんて持ってないのが世界の常識だから、ネットだけじゃなくて図書館や本屋さんも利用する。調査の予算(書籍代)には1万円もかからない。変な塾やサッカースクールへ行かせるよりも、よっぽどいいと思うけど。
とりあえずの目処(めど)を付けたら、子供には、学費のかからない(休学にも甘い。私立は厳しい)県立高校へ進学すること、そしてそれまでの中学の3年間で、その国の日常会話ができるようになること、簡単な食事、家事を自分でできるようになること、を具体的な条件として目標にさせる。(実際に留学するしないは別にして)こういう目標設定ができることだけでも、思春期の子供の成長にとってはすばらしい効果が見込める。
もしかすると、本当にヨーロッパでサッカー選手になってしまうかもしれない可能性だって生まれてくるのだ。
このままエリートコース至上主義の日本にいるよりも、人生ずっと面白くなりそうに思えてきませんか?
2010年5月2日日曜日
機会損失と少年サッカー
機会損失というのは、得られていたかも知れないものを得るチャンス(機会)を失ってしまう(損失)ことを意味する。
サッカーという競技を成長期に経験することは、最も重要で最も重い臓器である脳を、最も高い場所に備える二足歩行動物である人間にとって、他では得難い体験になっている。片足で立ってボールを扱いながら、外部からの攻撃に耐え、なおかつバランスを失わずに全身を使ってけったり走ったりジャンプしたりする訓練は、なかなか他ではできない。
幼児期の知育にはピアノが最上であろうことに異論はない。
小学生くらいまでは、ピアノとサッカーを習わせておけば、学習塾にいって受験テクニックを詰め込むよりも、大学受験時には優位に立てるだろう。もちろん持って生まれたものの差はいかんともしがたいが、当人にとってのベストを発揮するには、塾よりもはるかに効率的だ。
上にも書いたが、人間にとっては転倒こそが危険である。
足の骨折や捻挫などは、正直ささいな問題だ。脳こそ守らなければならない。
年老いて、サッカーから遠く離れた生活を送るようになったとしても、少年期にサッカーで染みこんだバランス感覚を体は忘れない。本人は気づかなくとも、大きなケガから脳を守ってくれているはずだ。
また4年に一度やってくるワールドカップでのワクワク感も、サッカーを経験したことで何倍にもなる。
海外で働くようになっても、そこには必ずサッカーチームがある。
少年サッカーをしない、させないということは、子供たちの人生から、こうした機会を失わせることになるのだということを、大人たちは知って欲しい。
「でも僕は、アメリカがメインだから、サッカーよりも野球の方がいいと思うんだよね」
こういう考えもあるが、アメリカ人の大人って、意外とチームスポーツをする機会がないような気が、私はしている。
大人になって体を動かす機会というと、あってもプールとかバイク(チャリ)とかフィットネスクラブくらいしかないような…。
会社の同僚と野球なんてのは聞いたことないし、バスケなんてのもドラマのERでマークとダグがやってたのくらいしか、私は目にしたことがない。
メジャーリーグで活躍してる中米・カリブ出身の選手たちは、ずっとサッカーやってきて、お金のために高校生で転向した人たちばかりだから、そういう点からも少年期に野球をするメリットは、少なくともプロレベルになるということからするとないと言える。
ただ日本には甲子園という特殊事情があるので、もし甲子園出場が目標というのなら、できるだけいいリトルからシニアへとステップアップする道をオススメする。甲子園出場常連校の野球部へ入るには、これしか道はないのだから。