ここ数年が、実は日本にとってけっこう大変な時期になっていると、私は思う。
増税すれば、その税率はもう二度と下がらないだろうし、年金や生活保護や医療費の条件が変更されれば、それもずうっとそのままだろう。まあ、悪化することはあっても、改善されることはない。
福島のことについても、自分たちの任期中はどうにか先送りしたい、という国会議員だけなのではないだろうか。
三陸沿岸の復興なんて、考えてもいないのかもしれない。
拉致の問題だってそうだった。
結局、敗戦後に起きた問題は、何一つ解決していない。何一つだ。
一日本国民の立場からこれをどう思うのかというと、明日は我が身だなってこと。
自分が何か災難に遭った場合、たぶん心配はしれくれるだろうけど、誰も具体的に助けてはくれないだろう。
現代日本はそういう国で、現代日本人もそういう人たちなのだ。
と、私は覚悟を決めている。
2012年1月22日日曜日
2012年1月18日水曜日
最後だとわかっていたなら
最後だとわかっていたなら
作/ノーマ・コーネット・マレック
訳/佐川 睦
サンクチュアリ出版
あなたが眠りにつくのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように
祈っただろう
あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて
抱きしめただろう
あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう
あなたは言わなくても
わかってくれていたかもしれないけれど
最後だとわかっていたら
一言だけでもいい…「あなたを愛してる」と
わたしは 伝えただろう
たしかにいつも明日はやってくる
でももしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるのだとしたら、
わたしは 今日
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい
そして わたしたちは 忘れないようにしたい
若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだということを
愛する人を抱きしめられるのは
今日が最後になるかもしれないことを
明日が来るのを待っているなら
今日でもいいはず
もし明日が来ないとしたら
あなたは今日を後悔するだろうから
微笑みや 抱擁や キスをするための
ほんのちょっとの時間を
どうして惜しんだのかと
忙しさを理由に
その人の最後の願いとなってしまったことを
どうして してあげられなかったのかと
だから 今日
あなたの大切な人たちを
しっかりと抱きしめよう
そして その人を愛していること
いつでも
いつまでも大切な存在だということを
そっと伝えよう
「ごめんね」や「許してね」や
「ありがとう」や「気にしないで」を
伝える時を持とう
そうすれば もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから
Fin
作/ノーマ・コーネット・マレック
訳/佐川 睦
サンクチュアリ出版
あなたが眠りにつくのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように
祈っただろう
あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて
抱きしめただろう
あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう
あなたは言わなくても
わかってくれていたかもしれないけれど
最後だとわかっていたら
一言だけでもいい…「あなたを愛してる」と
わたしは 伝えただろう
たしかにいつも明日はやってくる
でももしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるのだとしたら、
わたしは 今日
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい
そして わたしたちは 忘れないようにしたい
若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだということを
愛する人を抱きしめられるのは
今日が最後になるかもしれないことを
明日が来るのを待っているなら
今日でもいいはず
もし明日が来ないとしたら
あなたは今日を後悔するだろうから
微笑みや 抱擁や キスをするための
ほんのちょっとの時間を
どうして惜しんだのかと
忙しさを理由に
その人の最後の願いとなってしまったことを
どうして してあげられなかったのかと
だから 今日
あなたの大切な人たちを
しっかりと抱きしめよう
そして その人を愛していること
いつでも
いつまでも大切な存在だということを
そっと伝えよう
「ごめんね」や「許してね」や
「ありがとう」や「気にしないで」を
伝える時を持とう
そうすれば もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから
Fin
2011年6月21日火曜日
今どきンな簡単に米が腐るか怒アホ!
支援米2トン被災地に送らず 神社本庁職員ら持ち帰る
2011/06/20 11:44 【共同通信】
東日本大震災の被災者を支援しようと、三重県伊勢市の伊勢神宮が神社本庁(東京都渋谷区)に送った米5トンのうち2トンが、福島県などに送られず、神社本庁の職員らが自宅に持ち帰っていたことが20日、分かった。
神社本庁によると、各県の神社庁を通じ、5トンのうち宮城に2トン、岩手に1トンを送った。残る2トンは福島県などに送る考えだったが、福島県神社庁からは、被災者が何度も移転していることなどを理由に「送るのをしばらく待ってほしい」と返答があり、神社本庁は「米が腐る可能性がある」と判断し、職員らに持ち帰らせたという。
消えた被災者支援用の“神のコメ”
2011年6月20日 「週刊ダイヤモンド」編集部 宮原啓彰
行方は神社本庁職員の胃袋へ
神社界のトップに立つ伊勢神宮が、東日本大震災の被災地へ送った“特別なコメ”を、全国約8万の神社を管理・指導する立場の神社本庁の職員が無料で食べていたことが本誌の取材で分かった。
このコメは、「御料米(ごりょうまい)」と呼ばれるもの。伊勢神宮が天皇に代わって栽培するものと位置付けられており、祭典や神事に使う最も神聖なコメとされる。
伊勢神宮は3月下旬、神社本庁を通じてこのコメ5トンを東日本大震災で甚大な被害を受けた岩手、宮城、福島の3県に食糧支援として送った。
しかし、福島第1、第2原子力発電所の事故による混乱で、神社本庁の下部組織である福島県神社庁が県内の各神社への配布を断念、福島に割り当てられたコメ2トンの受け取りを固辞する事態となった。
ところがである。複数の関係者によると、神社本庁は福島に送られるはずだったコメを保管したり伊勢神宮に戻したりせず、職員に無料で配ることを決めたというのだ。
職員らは、5キログラム程度ずつ袋に小分けして自宅に持ち帰ったとされ、すでに食べてしまったとみられている。
この件について、神社本庁は「そのような事実は確認していない」としているが、外部から問題視された後、「事実関係をごまかそうとしていた」(関係者)疑惑もあるという。
支援米2トン被災地に送らず 「米が腐る」神社本庁職員ら持ち帰る
2011.6.20 11:50 産経
東日本大震災の被災者を支援しようと、三重県伊勢市の伊勢神宮が神社本庁(東京都渋谷区)に送った米5トンのうち2トンが、福島県などに送られず、神社本庁の職員らが自宅に持ち帰っていたことが20日、分かった。
神社本庁によると、各県の神社庁を通じ、5トンのうち宮城に2トン、岩手に1トンを送った。残る2トンは福島県などに送る考えだったが、福島県神社庁からは、被災者が何度も移転していることなどを理由に「送るのをしばらく待ってほしい」と返答があり、神社本庁は「米が腐る可能性がある」と判断し、職員らに持ち帰らせたという。
----------------------------------------------------------------
これって、言い逃れ不可能なくらい完璧に、支援物資のネコババ横領。
お米が通貨だった時代もある日本文化の象徴たる神道の総本山による組織的な犯罪と考えれば、『義援金』を横領したようなもんだ。
誰かが、組織は頭から腐ると言っていたけど、こりゃあ頭も心も腐って来てるかも……日本。
しかし、そんなことに負けてはいけないのだ!
FIGHTぉー!
2011/06/20 11:44 【共同通信】
東日本大震災の被災者を支援しようと、三重県伊勢市の伊勢神宮が神社本庁(東京都渋谷区)に送った米5トンのうち2トンが、福島県などに送られず、神社本庁の職員らが自宅に持ち帰っていたことが20日、分かった。
神社本庁によると、各県の神社庁を通じ、5トンのうち宮城に2トン、岩手に1トンを送った。残る2トンは福島県などに送る考えだったが、福島県神社庁からは、被災者が何度も移転していることなどを理由に「送るのをしばらく待ってほしい」と返答があり、神社本庁は「米が腐る可能性がある」と判断し、職員らに持ち帰らせたという。
消えた被災者支援用の“神のコメ”
2011年6月20日 「週刊ダイヤモンド」編集部 宮原啓彰
行方は神社本庁職員の胃袋へ
神社界のトップに立つ伊勢神宮が、東日本大震災の被災地へ送った“特別なコメ”を、全国約8万の神社を管理・指導する立場の神社本庁の職員が無料で食べていたことが本誌の取材で分かった。
このコメは、「御料米(ごりょうまい)」と呼ばれるもの。伊勢神宮が天皇に代わって栽培するものと位置付けられており、祭典や神事に使う最も神聖なコメとされる。
伊勢神宮は3月下旬、神社本庁を通じてこのコメ5トンを東日本大震災で甚大な被害を受けた岩手、宮城、福島の3県に食糧支援として送った。
しかし、福島第1、第2原子力発電所の事故による混乱で、神社本庁の下部組織である福島県神社庁が県内の各神社への配布を断念、福島に割り当てられたコメ2トンの受け取りを固辞する事態となった。
ところがである。複数の関係者によると、神社本庁は福島に送られるはずだったコメを保管したり伊勢神宮に戻したりせず、職員に無料で配ることを決めたというのだ。
職員らは、5キログラム程度ずつ袋に小分けして自宅に持ち帰ったとされ、すでに食べてしまったとみられている。
この件について、神社本庁は「そのような事実は確認していない」としているが、外部から問題視された後、「事実関係をごまかそうとしていた」(関係者)疑惑もあるという。
支援米2トン被災地に送らず 「米が腐る」神社本庁職員ら持ち帰る
2011.6.20 11:50 産経
東日本大震災の被災者を支援しようと、三重県伊勢市の伊勢神宮が神社本庁(東京都渋谷区)に送った米5トンのうち2トンが、福島県などに送られず、神社本庁の職員らが自宅に持ち帰っていたことが20日、分かった。
神社本庁によると、各県の神社庁を通じ、5トンのうち宮城に2トン、岩手に1トンを送った。残る2トンは福島県などに送る考えだったが、福島県神社庁からは、被災者が何度も移転していることなどを理由に「送るのをしばらく待ってほしい」と返答があり、神社本庁は「米が腐る可能性がある」と判断し、職員らに持ち帰らせたという。
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これって、言い逃れ不可能なくらい完璧に、支援物資のネコババ横領。
お米が通貨だった時代もある日本文化の象徴たる神道の総本山による組織的な犯罪と考えれば、『義援金』を横領したようなもんだ。
誰かが、組織は頭から腐ると言っていたけど、こりゃあ頭も心も腐って来てるかも……日本。
しかし、そんなことに負けてはいけないのだ!
FIGHTぉー!
親が与えるべきはフェンスじゃない。
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ため池で男児2人死亡・宮城 近くにカエルのバケツ
2011.6.18 22:31 産経新聞
18日午後6時20分ごろ、宮城県松島町幡谷のため池で、同所の町立松島第五小6年、佐藤公亮君(11)と保育園児、目々沢美昭君(5)が沈んでいるのが見つかった。2人は仙台市内の病院に運ばれたが、いずれも死亡。塩釜署は水難事故とみて調べている。
同署によると同日午後4時ごろ、ため池の近くに子供用の自転車1台、靴2足、ズボン※aがあるのを男性が見つけた。地元消防などが捜索したところ、水底に2人が沈んでいた。ため池は水深約2メートル。両岸の幅が最長約165メートルで、農業用水用とみられる。
現場には2人のほか、6歳の男児がおり、同署が事情を聴いている。2人は友達同士で、現場近くにカエルの入ったバケツがあったという。
ため池転落、2児死亡 フェンス、看板なく 宮城・松島
2011.6.20 01:45 産経新聞
18日午後6時20分ごろ、松島町幡谷のため池で、同町幡谷の松島第5小6年、佐藤公亮君(11)と保育園児、目々沢美昭君(5)が沈んでいるのが見つかり、間もなく死亡が確認された。ため池の周りにフェンスや注意を促す看板はなかった。塩釜署は水遊び中の事故とみて調べるとともに、ため池の管理者の特定も進めている。
一緒に遊んでいた小学1年の男児(6)も溺れたが、自力で逃げて無事だった。
調べによると、ため池は住宅地から1キロほど離れた農道の奥にあり、水深約2メートル。フェンスや注意を促す看板はなく、誰でも容易に入れる状態だった。2人の服と靴が現場に残されていた※aことから、同署は水遊び中に何らかの原因でため池に落ちたとみている。
ため池は子供たちに「ザリガニやカエルが取れる池」として知られ、佐藤君は1週間ほど前にも別の子供とオタマジャクシを取りに来ていたという。目々沢君の母親は「フェンスや看板さえあれば、あんなことにはならなかったかもしれない。悔しいです」と話した。
近所の人などによると、佐藤君と目々沢君はともに共働きの両親を持つ一人っ子。家が隣同士で、2人でよく遊んでいたという。
佐藤君の同級生の角田真綾さん(11)は「公亮君はよく行き先も決めずに遠くに行くことがあったから、心配はしていたんだけど。修学旅行も学習発表会もまだなのに…お線香は悲しくてあげられない」と話した。
孫が佐藤君や目々沢君とよく遊んでいたという同町の会社員、川住雅彦さん(54)は「公亮君は面倒見の良い子でよく孫を預けていた。もう遊べなくなると思うと…」と声を詰まらせた。
男児2人死亡:農業用ため池でおぼれ? 宮城・松島町
毎日新聞 2011年6月18日 23時40分
18日午後4時20分ごろ、宮城県松島町幡谷土屋沢(はたやどやさわ)の農業用ため池の近くに、子供の服や靴※aがあるのを近くの男性が見つけ、駐在所に通報した。宮城県警塩釜署や消防が捜索し約2時間後、近くの小学6年、佐藤公亮(こうすけ)君(11)と保育園児の目々沢美昭(めめざわ・よしあき)君(5)が岸から約3メートル、水深2メートルの場所に沈んでいるのを見つけた。※b病院に運ばれたが死亡した。
塩釜署などによると、ため池は長径約160メートルの細長い形。2人は友達同士で、近くに自転車1台とカエルが入っていたバケツがあった。同署は2人がカエルを捕るなどして遊んでいるうちに深みにはまり、おぼれた可能性が高いとみて調べている。
同署によると、池の周囲には高さ1メートル余の柵があったが、出入りするために一部途切れていたという。立ち入りを禁止する看板などはなかった。【須藤唯哉】
----------------------------------------------------------------
主婦の機転!小3男児が池に転落、ペットボトルで“救助”
2011.6.4 10:36 産経新聞
3日午後4時ごろ、和歌山県有田川町の池に小学3年の男児(8)が足をすべらせ転落した。近所の主婦がとっさの判断で投げ入れた空のペットボトルが浮輪代わりとなり、約5分後に自力で岸へ上がった。
県警湯浅署によると、男児は放課後、同級生3人と同町水尻の扇谷池(直径約100メートル)近くで遊んでいて転落、岸から約3メートル離れた水深約2メートル付近※bで溺れかけた。騒ぎに気づいた主婦、田中ひとみさんが自宅から2リットルの空のペットボトル3本を持ち出し池へ投げ入れ、男児は1本をつかみ岸へたどり着いた。目立ったけがはなかった。
署員が駆けつけると、同級生らは安心し切って泣いており、田中さんは「助かってよかった」と話していたという。
湯浅署は近く田中さんへ感謝状を贈る予定だ。
----------------------------------------------------------------
「長さ1m位の棒に50㎝くらいのたこ糸を付けて、その先にさきイカを取り付け、ザリガニがいそうな水辺に入れましょう。しばらくして、ザリガニがはさみでしっかりとさきイカを捕まえたらゆっくりと引き上げましょう」
おもしろいのは、ザリガニ釣りで挑戦している子どもたちが、お母さんやお父さんと「怖い、つかめない」なんてやっているうちに、親の方が飽きた子どもそっちのけで夢中になり、ザリガニに真剣勝負を挑んでしまっています。
さらには、そんな親子をしり目に、小学校低学年の「熟練者」がザブリッと用水に入り、手慣れた手付きで次ぎから次ぎと獲物をゲット。ところが、彼の入れ物には最大級がいつも一匹だけ。どうやら大きさにこだわりがあるようで、「フン!小さいな!」とばかり、周りで羨む親子を挑発するように小物は用水へ戻してしまします。
----------------------------------------------------------------
※a 靴とズボンを脱いで池に入ったこの子たちは、ケガをする危険よりも、服を汚さないことの方が重要だと思っていたと推察できる。
※b 奇しくも、状況は一緒。
----------------------------------------------------------------
誰かがこの子たちに、「池で遊ばないこと」じゃなくて「池で遊ぶときのリスク管理ノウハウ」を伝えていたら、おそらく違う結果になっていただろう。
子供は危ない場所で遊ぶ生き物だという前提を受け入れて、そのうえで大人として、親として、その子たちに伝えることがあるはずだ、と私は思う。
日本中の池をフェンスで囲んだとしても、それを乗りこえて、あるいはくぐってザリガニ釣りやカエル捕りに行くのが“子供”という生き物なのだから。
ため池で男児2人死亡・宮城 近くにカエルのバケツ
2011.6.18 22:31 産経新聞
18日午後6時20分ごろ、宮城県松島町幡谷のため池で、同所の町立松島第五小6年、佐藤公亮君(11)と保育園児、目々沢美昭君(5)が沈んでいるのが見つかった。2人は仙台市内の病院に運ばれたが、いずれも死亡。塩釜署は水難事故とみて調べている。
同署によると同日午後4時ごろ、ため池の近くに子供用の自転車1台、靴2足、ズボン※aがあるのを男性が見つけた。地元消防などが捜索したところ、水底に2人が沈んでいた。ため池は水深約2メートル。両岸の幅が最長約165メートルで、農業用水用とみられる。
現場には2人のほか、6歳の男児がおり、同署が事情を聴いている。2人は友達同士で、現場近くにカエルの入ったバケツがあったという。
ため池転落、2児死亡 フェンス、看板なく 宮城・松島
2011.6.20 01:45 産経新聞
18日午後6時20分ごろ、松島町幡谷のため池で、同町幡谷の松島第5小6年、佐藤公亮君(11)と保育園児、目々沢美昭君(5)が沈んでいるのが見つかり、間もなく死亡が確認された。ため池の周りにフェンスや注意を促す看板はなかった。塩釜署は水遊び中の事故とみて調べるとともに、ため池の管理者の特定も進めている。
一緒に遊んでいた小学1年の男児(6)も溺れたが、自力で逃げて無事だった。
調べによると、ため池は住宅地から1キロほど離れた農道の奥にあり、水深約2メートル。フェンスや注意を促す看板はなく、誰でも容易に入れる状態だった。2人の服と靴が現場に残されていた※aことから、同署は水遊び中に何らかの原因でため池に落ちたとみている。
ため池は子供たちに「ザリガニやカエルが取れる池」として知られ、佐藤君は1週間ほど前にも別の子供とオタマジャクシを取りに来ていたという。目々沢君の母親は「フェンスや看板さえあれば、あんなことにはならなかったかもしれない。悔しいです」と話した。
近所の人などによると、佐藤君と目々沢君はともに共働きの両親を持つ一人っ子。家が隣同士で、2人でよく遊んでいたという。
佐藤君の同級生の角田真綾さん(11)は「公亮君はよく行き先も決めずに遠くに行くことがあったから、心配はしていたんだけど。修学旅行も学習発表会もまだなのに…お線香は悲しくてあげられない」と話した。
孫が佐藤君や目々沢君とよく遊んでいたという同町の会社員、川住雅彦さん(54)は「公亮君は面倒見の良い子でよく孫を預けていた。もう遊べなくなると思うと…」と声を詰まらせた。
男児2人死亡:農業用ため池でおぼれ? 宮城・松島町
毎日新聞 2011年6月18日 23時40分
18日午後4時20分ごろ、宮城県松島町幡谷土屋沢(はたやどやさわ)の農業用ため池の近くに、子供の服や靴※aがあるのを近くの男性が見つけ、駐在所に通報した。宮城県警塩釜署や消防が捜索し約2時間後、近くの小学6年、佐藤公亮(こうすけ)君(11)と保育園児の目々沢美昭(めめざわ・よしあき)君(5)が岸から約3メートル、水深2メートルの場所に沈んでいるのを見つけた。※b病院に運ばれたが死亡した。
塩釜署などによると、ため池は長径約160メートルの細長い形。2人は友達同士で、近くに自転車1台とカエルが入っていたバケツがあった。同署は2人がカエルを捕るなどして遊んでいるうちに深みにはまり、おぼれた可能性が高いとみて調べている。
同署によると、池の周囲には高さ1メートル余の柵があったが、出入りするために一部途切れていたという。立ち入りを禁止する看板などはなかった。【須藤唯哉】
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主婦の機転!小3男児が池に転落、ペットボトルで“救助”
2011.6.4 10:36 産経新聞
3日午後4時ごろ、和歌山県有田川町の池に小学3年の男児(8)が足をすべらせ転落した。近所の主婦がとっさの判断で投げ入れた空のペットボトルが浮輪代わりとなり、約5分後に自力で岸へ上がった。
県警湯浅署によると、男児は放課後、同級生3人と同町水尻の扇谷池(直径約100メートル)近くで遊んでいて転落、岸から約3メートル離れた水深約2メートル付近※bで溺れかけた。騒ぎに気づいた主婦、田中ひとみさんが自宅から2リットルの空のペットボトル3本を持ち出し池へ投げ入れ、男児は1本をつかみ岸へたどり着いた。目立ったけがはなかった。
署員が駆けつけると、同級生らは安心し切って泣いており、田中さんは「助かってよかった」と話していたという。
湯浅署は近く田中さんへ感謝状を贈る予定だ。
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「長さ1m位の棒に50㎝くらいのたこ糸を付けて、その先にさきイカを取り付け、ザリガニがいそうな水辺に入れましょう。しばらくして、ザリガニがはさみでしっかりとさきイカを捕まえたらゆっくりと引き上げましょう」
おもしろいのは、ザリガニ釣りで挑戦している子どもたちが、お母さんやお父さんと「怖い、つかめない」なんてやっているうちに、親の方が飽きた子どもそっちのけで夢中になり、ザリガニに真剣勝負を挑んでしまっています。
さらには、そんな親子をしり目に、小学校低学年の「熟練者」がザブリッと用水に入り、手慣れた手付きで次ぎから次ぎと獲物をゲット。ところが、彼の入れ物には最大級がいつも一匹だけ。どうやら大きさにこだわりがあるようで、「フン!小さいな!」とばかり、周りで羨む親子を挑発するように小物は用水へ戻してしまします。
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※a 靴とズボンを脱いで池に入ったこの子たちは、ケガをする危険よりも、服を汚さないことの方が重要だと思っていたと推察できる。
※b 奇しくも、状況は一緒。
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誰かがこの子たちに、「池で遊ばないこと」じゃなくて「池で遊ぶときのリスク管理ノウハウ」を伝えていたら、おそらく違う結果になっていただろう。
子供は危ない場所で遊ぶ生き物だという前提を受け入れて、そのうえで大人として、親として、その子たちに伝えることがあるはずだ、と私は思う。
日本中の池をフェンスで囲んだとしても、それを乗りこえて、あるいはくぐってザリガニ釣りやカエル捕りに行くのが“子供”という生き物なのだから。
2011年6月12日日曜日
闘え! 闘え! 闘え!
クロアチアの愛国歌
『ウ・ボイ!(闘え!)』
いざ戦闘へ、戦闘へ!
鞘(さや)から剣を抜け
われらの死に様を 敵に知らしめよ
わが街は すでに戦火に包まれ
その火の手は ここまで迫り来る
敵の叫び声が聞こえる 激しく凶暴なまでに
わが胸に 戦意は高まり
わが刃音は 敵の叫びもかき消す
諸君、ズリンスキーに別れのキスを
兄弟たちが交わすキスのように!
われに続け とりでの門へ
わか勇敢な兵士たちよ!
----------------------------------------------------------------
クロアチアの作曲家
イバン財津、もといイバン・ザイツ(1832-1914)が1866年に男声合唱曲として作曲。
作詞はフラーニョ・マルコビッチ(の穴)。
(註)ズリンスキー
ニコラ・シュービッチ・ズリンスキー将軍。
ヨーロッパ同盟対イスラム(オスマン・トルコ)の戦争において、天下分け目となった戦で奮闘した。
1566年(家康が松平から徳川へ改姓した年。34年後の1600年に関ヶ原合戦となる)の夏、現在はハンガリー南部の小さな街(人口1万人弱)シゲトバルとなっているかつての城塞都市で、欧州軍の中核であるハプスブルク軍の将軍として、わずか3000名の兵を率いて10万を越えるトルコ軍に相対した。「ウ・ボイ!(クロアチア語:U boj!)」は最終決戦前にあげた鬨(とき)の声。トルコ軍はこの戦いに勝利するもウィーン侵攻を断念し、イスタンブールへ引き返した。ズリンスキーなければ、ウィーンはイスラム化していたと言われている。欧州を救ったことで国民的英雄となったズリンスキー将軍は、死後およそ450年経った現在もクロアチア、ハンガリー両国で尊敬を集めている。
(ま、世界史で習ったときの記憶だと、オスマン・トルコ側の自滅なんだけどね)
----------------------------------------------------------------
『ウ・ボイ!(闘え!)』
いざ戦闘へ、戦闘へ!
鞘(さや)から剣を抜け
われらの死に様を 敵に知らしめよ
わが街は すでに戦火に包まれ
その火の手は ここまで迫り来る
敵の叫び声が聞こえる 激しく凶暴なまでに
わが胸に 戦意は高まり
わが刃音は 敵の叫びもかき消す
諸君、ズリンスキーに別れのキスを
兄弟たちが交わすキスのように!
われに続け とりでの門へ
わか勇敢な兵士たちよ!
----------------------------------------------------------------
クロアチアの作曲家
イバン財津、もといイバン・ザイツ(1832-1914)が1866年に男声合唱曲として作曲。
作詞はフラーニョ・マルコビッチ(の穴)。
(註)ズリンスキー
ニコラ・シュービッチ・ズリンスキー将軍。
ヨーロッパ同盟対イスラム(オスマン・トルコ)の戦争において、天下分け目となった戦で奮闘した。
1566年(家康が松平から徳川へ改姓した年。34年後の1600年に関ヶ原合戦となる)の夏、現在はハンガリー南部の小さな街(人口1万人弱)シゲトバルとなっているかつての城塞都市で、欧州軍の中核であるハプスブルク軍の将軍として、わずか3000名の兵を率いて10万を越えるトルコ軍に相対した。「ウ・ボイ!(クロアチア語:U boj!)」は最終決戦前にあげた鬨(とき)の声。トルコ軍はこの戦いに勝利するもウィーン侵攻を断念し、イスタンブールへ引き返した。ズリンスキーなければ、ウィーンはイスラム化していたと言われている。欧州を救ったことで国民的英雄となったズリンスキー将軍は、死後およそ450年経った現在もクロアチア、ハンガリー両国で尊敬を集めている。
(ま、世界史で習ったときの記憶だと、オスマン・トルコ側の自滅なんだけどね)
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2011年6月8日水曜日
基礎大阪語会話
基礎大阪語会話
(註)大阪 oosaka/oozaka ;現地民は『でぇーはん』と発音。 元々は現地の言葉で「偉大なる阪神タイガース」という意味だったが、現在はそのような形でこの言葉が用いられることはない。阪神タイガースとは、当地で広く信仰されている民俗宗教における虎とシマウマの姿に似た神の名。
客「なんやコレ」 (何ですかこれは)
商「なんやと!」 (何を言っているんだ!)
客「『なんやと』ぉ!?」 (「何を言っているんだ!」だって!?)
商「なんや!?」 (何か言いたい事でもあるのか!?)
客「なんや!?」 (何でそんなに怒るんだ!?)
商「なんや!?」 (何だやる気か!?)
他「なんや」 (何事だ)
他「なんやなんや」 (何が起きたのだろう)
他「なんやケンカやて」 (何だかケンカだそうだ)
他「なんや」 (なんだそうだったのか)
客「なあんやあ」 (※威嚇の声)
商「ねえあんやあ」 (※威嚇の声)
警「もうなんやなんや」 (まぁいい加減にしなさい)
警「なんや?なんやねん」 (何があったんだ?)
商「なあーやねん!」 (何で関係ない人間が入ってくるんだ!)
警「なんやねんてなんや!」 (関係ないとは何だ!)
商「なんや!」 (お前もやる気か!)
客「なんやーーーーー!」 (※怒りを爆発させた声)
(註)大阪 oosaka/oozaka ;現地民は『でぇーはん』と発音。 元々は現地の言葉で「偉大なる阪神タイガース」という意味だったが、現在はそのような形でこの言葉が用いられることはない。阪神タイガースとは、当地で広く信仰されている民俗宗教における虎とシマウマの姿に似た神の名。
客「なんやコレ」 (何ですかこれは)
商「なんやと!」 (何を言っているんだ!)
客「『なんやと』ぉ!?」 (「何を言っているんだ!」だって!?)
商「なんや!?」 (何か言いたい事でもあるのか!?)
客「なんや!?」 (何でそんなに怒るんだ!?)
商「なんや!?」 (何だやる気か!?)
他「なんや」 (何事だ)
他「なんやなんや」 (何が起きたのだろう)
他「なんやケンカやて」 (何だかケンカだそうだ)
他「なんや」 (なんだそうだったのか)
客「なあんやあ」 (※威嚇の声)
商「ねえあんやあ」 (※威嚇の声)
警「もうなんやなんや」 (まぁいい加減にしなさい)
警「なんや?なんやねん」 (何があったんだ?)
商「なあーやねん!」 (何で関係ない人間が入ってくるんだ!)
警「なんやねんてなんや!」 (関係ないとは何だ!)
商「なんや!」 (お前もやる気か!)
客「なんやーーーーー!」 (※怒りを爆発させた声)
2011年6月7日火曜日
意見には個人差があります。
《大前提》
もちろん! 意見には個人差があります。
─君が代不起立訴訟─
卒業式などの君が代斉唱時に起立しなかったことを理由に退職後の再雇用を拒否したのは「思想や良心の自由」を保障した憲法に違反するなどとして、東京都立高校の元教職員13人が都を相手に慰謝料などを求めた訴訟。
最高裁判所第1小法廷平成23年6月6日決定(日の丸.君が代事件)宮川判事の反対意見
裁判官宮川光治の反対意見は次のとおり。
なお、{}や下線、※、フォント修飾はゲゲ。
------------------------------
本件は少数者の思想及び良心の自由に深く関わる問題であると思われる。憲法は個人の多様な思想及び生き方を尊重し、我が国社会が寛容な開かれた社会であることをその理念としている。そして、憲法は少数者の思想及び良心を多数者のそれと等しく尊重し、その思想及び良心の核心に反する行為を行うことを強制することは許容していないと考えられる。このような視点で本件を検討すると、私は多数意見に同意することはできない。まず、1において私の反対意見の要諦を述べ、2以下においてそれを敷衍{ふえん;上から目線でくわしくねちねち説明すること}する。
【1】
国旗に対する敬礼や国歌を斉唱する行為は、私もその一員であるところの多くの人々にとっては心情から自然に、自発的に行う行為であり、式典における起立斉唱は儀式におけるマナーでもあろう。しかし、そうではない人々が我が国には相当数存在している※a。それらの人々は「日の丸」や「君が代」を軍国主義や戦前の天皇制絶対主義のシンボルであるとみなし、平和主義や国民主権とは相容れないと考えている。そうした思いはそれらの人々の心に深く在り、人格的アイデンティティ{自分らしさ;人格的アイデンティティ=自分的自分らしさ=自分で「オレってこういうやつなんだ」と思っている自分らしさ=ヮタシってぇ~○○な人じゃないですかぁ~}をも形成し、思想及び良心として昇華{しょうか;本来の意味を越え、この場合は斜め上に行っちゃってること}されている。少数ではあっても、そうした人々はともすれば忘れがちな歴史的・根源的問いを社会に投げかけているとみることができる※b。上告人らが起立斉唱行為を拒否する前提として有している考えについては原審の適法に確定した事実関係の概要中において6点に要約されている。
多数意見も、この考えは、「『日の丸』や『君が代』が過去の我が国において果たした役割に関わる上告人ら自身の歴史観ないし世界観及びこれに由来する社会生活上ないし教育上の信念等ということができる」としており、多数意見は上告人らが有している考えが思想及び良心の内容となっていること、ないしこれらと関連するものであることは承認しているものと思われる。
上告人らが起立斉唱しないのは、式典において「日の丸」や「君が代」に関わる自らの歴史観ないし世界観及び教育上の信念を表明しようとする意図からではないであろう。
その理由は、
第1に、上告人らにとって「日の丸」に向かって起立し「君が代」を斉唱する行為は、慣例上の儀礼的な所作ではなく、上告人ら自身の歴史観ないし世界観等にとって譲れない一線を越える行動であり、上告人らの思想及び良心の核心を動揺させるからであると思われる※c。
第2に、これまで人権の尊重や自主的に思考することの大切さを強調する教育実践を続けてきた教育者として、その魂というべき教育上の信念を否定することになると考えたからであると思われる※d。
そのように真摯なものであれば、本件各職務命令に服することなく起立せず斉唱しないという行為は上告人らの思想及び良心の核心の表出であるとみることができ、少なくともこれと密接に関連しているとみることができる。
上告人らは東京都立高等学校の教職員であるところ、教科教育として生徒に対し国旗及び国歌について教育するということもあり得るであろう。その場合は、教師としての専門的裁量の下で職務を適正に遂行しなければならない。しかし、それ以上に生徒に対し直接に教育するという場を離れた場面においては(式典もその一つであるといえる。)、自らの思想及び良心の核心に反する行為を求められるということはないというべきである。なお、音楽教師が式典において「君が代」斉唱のピアノ伴奏を求められる場合に関しても同様に考えることができる。
国旗及び国歌に関する法律の制定に関しては、国論は分かれていたが、政府の国会答弁では、国旗及び国歌の指導に係る教員の職務上の責務について変更を加えるものではないことが示されており、同法はそのように強制の契機を有しないものとして成立したものといえるであろう。しかしながら、本件通達は、校長の職務命令に従わない場合は服務上の責任を問うとして、都立高等学校の教職員に対し、式典において指定された席で国旗に向かって起立し国歌を斉唱することを求めており、その意図するところは、前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を有する教職員を念頭に置き、その歴史観等に対する否定的評価を背景に、不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制しようとすることにあるとみることができる。本件各職務命令はこうした本件通達に基づいている。
本件各職務命令は、直接には、上告人らに対し前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を持つことを禁止したり、これに反対する思想等を持つことを強制したりするものではないので、一見明白に憲法19条に違反するとはいえない。しかしながら、上告人らの不起立不斉唱という外部的行動は上告人らの思想及び良心の核心の表出であるか、少なくともこれと密接に関連している可能性があるので、これを許容せず上告人らに起立斉唱行為を命ずる本件各職務命令は憲法審査の対象となる。そして、上告人らの行動が式典において前記歴史観等を積極的に表明する意図を持ってなされたものでない限りは、その審査はいわゆる厳格な基準によって本件事案の内容に即して具体的になされるべきであると思われる。本件は、原判決を破棄し差し戻すことを相当とする。
【2】
上告人らの主張の中心は、起立斉唱行為を強制されることは上告人らの有する歴史観ないし世界観及び教育上の信念を否定することと結び付いており、上告人らの思想及び良心を直接に※e侵害するものであるというにあると理解できるところ、多数意見は、式典において国旗に向かって起立し国歌を斉唱する行為は慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり、その性質の点から見て、上告人らの有する歴史観ないし世界観それ自体を否定するものではないとしている。
多数意見は、式典における起立斉唱行為を、一般的、客観的な視点で、いわば多数者の視点でそのようなものであると評価しているとみることができる。およそ精神的自由権に関する問題を、一般人(多数者)の視点からのみ考えることは相当でないと思われる。
なお、多数意見が指摘するとおり式典において国旗の掲揚と国歌の斉唱が広く行われていたことは周知の事実であるが、少数者の人権の問題であるという視点からは、そのことは本件合憲性の判断にはいささかも関係しない。前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を有する者でも、その内面における深さの程度は様々であろう。割り切って起立し斉唱する者もいるであろう※f。面従腹背する者もいるであろう。起立はするが、声を出して斉唱しないという者もいよう(なお、本件各職務命令では起立と斉唱は一体であり、これを分けて考える意味はない。不起立行為は視覚的に明瞭であるだけに、行為者にとっては 内心の動揺は大きいとみることもできる。他方、職務命令を発する側にとっても斉唱よりもむしろ起立させることが重要であると考えているように思われる。)。しかし、思想及び良心として深く根付き、人格的アイデンティティそのものとなっており、深刻に悩んだ結果として、あるいは信念として、そのように行動することを潔しとしなかった場合※g、そういった人達の心情や行動を一般的ではないからとして、過小評価することは相当でないと思われる。
【3】
本件では、上告人らが抱いている歴史観ないし世界観及び教育上の信念が真摯なものであり、思想及び良心として昇華していると評価し得るものであるかについて、また、上告人らの不起立不斉唱行為が上告人らの思想及び良心の核心と少なくとも密接に関連する真摯なものであるかについて(不利益処分を受容する覚悟での行動であることを考えるとおおむね疑問はないと思われるが※h)、本件各職務命令によって上告人らの内面において現実に生じた矛盾、葛藤、精神的苦痛等を踏まえ、まず、審査が行われる必要がある。
こうした真摯性に関する審査が肯定されれば、これを制約する本件各職務命令について、後述のとおりいわゆる厳格な基準によって本件事案の内容に即して具体的に合憲性審査を行うこととなる。
【4】
平成11年8月に公布、施行された国旗及び国歌に関する法律は僅か2条の定義法にすぎないが、この制定に関しては、国論は分かれた。
政府の国会答弁では、繰り返し、国旗の掲揚及び国歌の斉唱に関し義務付けを行うことは考えていないこと、学校行事の式典における不起立不斉唱の自由を否定するものではないこと、国旗及び国歌の指導に係る教員の職務上の責務について変更を加えるものではないこと等が示されており、同法はそのように強制の契機を有しないものとして成立したものといえるであろう。その限りにおいて、同法は、憲法と適合する。
これより先、平成11年3月告示の高等学校学習指導要領は、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。」と規定しているが、この規定を高等学校の教職員に対し起立斉唱行為を職務命令として強制することの根拠とするのは無理であろう。
そもそも、学習指導要領は、教育の機会均等を確保し全国的に一定の水準を維持するという目的のための大綱的基準であり、教師による創造的かつ弾力的な教育や地方ごとの特殊性を反映した個別化の余地が十分にあるものであって(最高裁昭和43年(あ)第1614号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号615頁参照)、学習指導要領のこのような性格にも照らすと、上記根拠 となるものではないことは明白であると思われる。
国旗及び国歌に関する法律施行後、東京都立高等学校において、少なからぬ学校の校長は内心の自由告知(内心の自由を保障し、起立斉唱するかしないかは各教職員の判断に委ねられる旨の告知)を行い、式典は一部の教職員に不起立不斉唱行為があったとしても支障なく進行していた。
こうした事態を、本件通達は一変させた。本件通達が何を企図したものかに関しては記録中の東京都関連の各会議議事録等の証拠によれば歴然としているように思われるが、原判決はこれを認定していない。しかし、原判決認定の事実によっても、都教委は教職員に起立斉唱させるために職務命令についてその出し方を含め細かな指示をしていること、内心の自由を説明しないことを求めていること、形から入り形に心を入れればよい、形式的であっても立てば一歩前進だなどと説明していること、不起立行為を把握するための方法等について入念な指導をしていること、不起立行為等があった場合、速やかに東京都人事部に電話で連絡するとともに事故報告書を提出することを求めていること等の事実が認められるのであり、卒業式等にはそれぞれ職員を派遣し式の状況を監視していることや、その後の戒告処分の状況をみると、本件通達は、式典の円滑な進行を図るという価値中立的な意図で発せられたものではなく、前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を有する教職員を念頭に置き、その歴史観等に対する強い否定的評価を背景に、不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制することにあるとみることができると思われる※i。本件通達は校長に対して発せられたものではあるが、本件各職務命令は本件通達に基づいているのであり、上告人らが、本件各職務命令が上告人らの有する前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念に対し否定的評 価をしているものと受け止めるのは自然なことであると思われる。
本件各職務命令の合憲性の判断に当たっては、本件通達やこれに基づく本件各職務命令をめぐる諸事情を的確に把握することが不可欠であると考えられる。
【5】
本件各職務命令の合憲性の判断に関しては、いわゆる厳格な基準により、本件事案の内容に即して、具体的に、目的・手段・目的と手段との関係をそれぞれ審査することとなる。目的は真にやむを得ない利益であるか、手段は必要最小限度の制限であるか、関係は必要不可欠であるかということをみていくこととなる。結局、具体的目的である「教育上の特に重要な節目となる儀式的行事」における「生徒等への配慮を含め、教育上の行事にふさわしい秩序を確保して式典の円滑な進行を図ること」が真にやむを得ない利益といい得るか、不起立不斉唱行為がその目的にとって実質的害悪を引き起こす蓋然性{がいぜんせい;そうなるだろうなって感じ}が明白で、害悪が極めて重大であるか(式典が妨害され、運営上重大な支障をもたらすか)を検討することになる。その上で、本件各職務命令がそれを避けるために必要不可欠であるか、より制限的でない他の選び得る手段が存在するか(受付を担当させる等、会場の外における役割を与え※j、不起立不斉唱行為を回避させることができないか)を検討することとなろう。
【6】
以上、原判決を破棄し、第1に前記3の真摯性、第2に前記5の本件各職務命令の憲法適合性に関し、改めて検討させるため、本件を原審に差し戻すことを相当とする。』
─意見本文異常、もとい以上─
※a そりゃあまあ確かに、地下鉄改札ロビーで立ちションする家族や国旗を燃やして踏みつける人たちを見たことはありますけど。
※b 誰が忘れがちで、誰に投げかけているの?
※c アバウト過ぎです。
※d 「魂」+「考えたからであると思われる」。ストーカー裁判での「愛があると考えたからであると思われる」みたいでいとをかし(おもむきがある)。
※e 仮にあったとしても「間接に」じゃないですか? だって「直接」っていうのは「直接」でしょ?
※f 中立さのまったくない表現にお里が知れます。
※g じたばたっぷりが全然潔(いさぎよ)くないんですけど。
※h 受容する覚悟なんて微塵(みじん)も感じられないんですけど。
※i 思想や信条といった内面はご自由に。でも公の立場にあるときはふさわしい行動をってことなのでは? 特に、学校という場ですし。
※j そうしたらしたで、また騒ぐくせに。
----------------------------------------------------------------
私の基本的な近代日本史観は、薩長の成功体験から抜け出せないのは「残念なことだなあ」って感じですかね。
間違った選択をすれば悪い結果になって、正しい選択をすれば良い結果になる、みたいな歴史観とはまるっきり逆の考えを持っています。私。
過去と現在と未来は連続していない、と思っているんです。
だからこの争いみたいに「過去が! 過去が! 過去の教訓が!」みたいな論によって今現在に何らかの影響を及ぼそうとする行為には賛同できないんです。それよりも、もっと「今」を良く見ましょうよ、って言いたくなります。
とは言っても、もし今、あらゆる選択で正解をしたからといってじゃあそれが良い未来につながるかっていうと、そういうことでもないんですけどね。
それはそうと、この宮川光治さんっていう最高裁判事のように『ご自分のご意見をしっかり持っていらっしゃって、それを公の判断に臆面もなく反映させる』ことで、国と国民を引っ張り回してくださる菅総理、枝野官房長官、仙谷前官房長官、ってすごくステキだと思います。
今度は自民党との大連立ですか?
きっとご本人たちは、自らを幕末の志士になぞらえたりなさって悦に入っているのでしょう。わかります。
“志士”累々 なんてことになったりして。
もちろん! 意見には個人差があります。
─君が代不起立訴訟─
卒業式などの君が代斉唱時に起立しなかったことを理由に退職後の再雇用を拒否したのは「思想や良心の自由」を保障した憲法に違反するなどとして、東京都立高校の元教職員13人が都を相手に慰謝料などを求めた訴訟。
最高裁判所第1小法廷平成23年6月6日決定(日の丸.君が代事件)宮川判事の反対意見
裁判官宮川光治の反対意見は次のとおり。
なお、{}や下線、※、フォント修飾はゲゲ。
------------------------------
本件は少数者の思想及び良心の自由に深く関わる問題であると思われる。憲法は個人の多様な思想及び生き方を尊重し、我が国社会が寛容な開かれた社会であることをその理念としている。そして、憲法は少数者の思想及び良心を多数者のそれと等しく尊重し、その思想及び良心の核心に反する行為を行うことを強制することは許容していないと考えられる。このような視点で本件を検討すると、私は多数意見に同意することはできない。まず、1において私の反対意見の要諦を述べ、2以下においてそれを敷衍{ふえん;上から目線でくわしくねちねち説明すること}する。
【1】
国旗に対する敬礼や国歌を斉唱する行為は、私もその一員であるところの多くの人々にとっては心情から自然に、自発的に行う行為であり、式典における起立斉唱は儀式におけるマナーでもあろう。しかし、そうではない人々が我が国には相当数存在している※a。それらの人々は「日の丸」や「君が代」を軍国主義や戦前の天皇制絶対主義のシンボルであるとみなし、平和主義や国民主権とは相容れないと考えている。そうした思いはそれらの人々の心に深く在り、人格的アイデンティティ{自分らしさ;人格的アイデンティティ=自分的自分らしさ=自分で「オレってこういうやつなんだ」と思っている自分らしさ=ヮタシってぇ~○○な人じゃないですかぁ~}をも形成し、思想及び良心として昇華{しょうか;本来の意味を越え、この場合は斜め上に行っちゃってること}されている。少数ではあっても、そうした人々はともすれば忘れがちな歴史的・根源的問いを社会に投げかけているとみることができる※b。上告人らが起立斉唱行為を拒否する前提として有している考えについては原審の適法に確定した事実関係の概要中において6点に要約されている。
多数意見も、この考えは、「『日の丸』や『君が代』が過去の我が国において果たした役割に関わる上告人ら自身の歴史観ないし世界観及びこれに由来する社会生活上ないし教育上の信念等ということができる」としており、多数意見は上告人らが有している考えが思想及び良心の内容となっていること、ないしこれらと関連するものであることは承認しているものと思われる。
上告人らが起立斉唱しないのは、式典において「日の丸」や「君が代」に関わる自らの歴史観ないし世界観及び教育上の信念を表明しようとする意図からではないであろう。
その理由は、
第1に、上告人らにとって「日の丸」に向かって起立し「君が代」を斉唱する行為は、慣例上の儀礼的な所作ではなく、上告人ら自身の歴史観ないし世界観等にとって譲れない一線を越える行動であり、上告人らの思想及び良心の核心を動揺させるからであると思われる※c。
第2に、これまで人権の尊重や自主的に思考することの大切さを強調する教育実践を続けてきた教育者として、その魂というべき教育上の信念を否定することになると考えたからであると思われる※d。
そのように真摯なものであれば、本件各職務命令に服することなく起立せず斉唱しないという行為は上告人らの思想及び良心の核心の表出であるとみることができ、少なくともこれと密接に関連しているとみることができる。
上告人らは東京都立高等学校の教職員であるところ、教科教育として生徒に対し国旗及び国歌について教育するということもあり得るであろう。その場合は、教師としての専門的裁量の下で職務を適正に遂行しなければならない。しかし、それ以上に生徒に対し直接に教育するという場を離れた場面においては(式典もその一つであるといえる。)、自らの思想及び良心の核心に反する行為を求められるということはないというべきである。なお、音楽教師が式典において「君が代」斉唱のピアノ伴奏を求められる場合に関しても同様に考えることができる。
国旗及び国歌に関する法律の制定に関しては、国論は分かれていたが、政府の国会答弁では、国旗及び国歌の指導に係る教員の職務上の責務について変更を加えるものではないことが示されており、同法はそのように強制の契機を有しないものとして成立したものといえるであろう。しかしながら、本件通達は、校長の職務命令に従わない場合は服務上の責任を問うとして、都立高等学校の教職員に対し、式典において指定された席で国旗に向かって起立し国歌を斉唱することを求めており、その意図するところは、前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を有する教職員を念頭に置き、その歴史観等に対する否定的評価を背景に、不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制しようとすることにあるとみることができる。本件各職務命令はこうした本件通達に基づいている。
本件各職務命令は、直接には、上告人らに対し前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を持つことを禁止したり、これに反対する思想等を持つことを強制したりするものではないので、一見明白に憲法19条に違反するとはいえない。しかしながら、上告人らの不起立不斉唱という外部的行動は上告人らの思想及び良心の核心の表出であるか、少なくともこれと密接に関連している可能性があるので、これを許容せず上告人らに起立斉唱行為を命ずる本件各職務命令は憲法審査の対象となる。そして、上告人らの行動が式典において前記歴史観等を積極的に表明する意図を持ってなされたものでない限りは、その審査はいわゆる厳格な基準によって本件事案の内容に即して具体的になされるべきであると思われる。本件は、原判決を破棄し差し戻すことを相当とする。
【2】
上告人らの主張の中心は、起立斉唱行為を強制されることは上告人らの有する歴史観ないし世界観及び教育上の信念を否定することと結び付いており、上告人らの思想及び良心を直接に※e侵害するものであるというにあると理解できるところ、多数意見は、式典において国旗に向かって起立し国歌を斉唱する行為は慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり、その性質の点から見て、上告人らの有する歴史観ないし世界観それ自体を否定するものではないとしている。
多数意見は、式典における起立斉唱行為を、一般的、客観的な視点で、いわば多数者の視点でそのようなものであると評価しているとみることができる。およそ精神的自由権に関する問題を、一般人(多数者)の視点からのみ考えることは相当でないと思われる。
なお、多数意見が指摘するとおり式典において国旗の掲揚と国歌の斉唱が広く行われていたことは周知の事実であるが、少数者の人権の問題であるという視点からは、そのことは本件合憲性の判断にはいささかも関係しない。前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を有する者でも、その内面における深さの程度は様々であろう。割り切って起立し斉唱する者もいるであろう※f。面従腹背する者もいるであろう。起立はするが、声を出して斉唱しないという者もいよう(なお、本件各職務命令では起立と斉唱は一体であり、これを分けて考える意味はない。不起立行為は視覚的に明瞭であるだけに、行為者にとっては 内心の動揺は大きいとみることもできる。他方、職務命令を発する側にとっても斉唱よりもむしろ起立させることが重要であると考えているように思われる。)。しかし、思想及び良心として深く根付き、人格的アイデンティティそのものとなっており、深刻に悩んだ結果として、あるいは信念として、そのように行動することを潔しとしなかった場合※g、そういった人達の心情や行動を一般的ではないからとして、過小評価することは相当でないと思われる。
【3】
本件では、上告人らが抱いている歴史観ないし世界観及び教育上の信念が真摯なものであり、思想及び良心として昇華していると評価し得るものであるかについて、また、上告人らの不起立不斉唱行為が上告人らの思想及び良心の核心と少なくとも密接に関連する真摯なものであるかについて(不利益処分を受容する覚悟での行動であることを考えるとおおむね疑問はないと思われるが※h)、本件各職務命令によって上告人らの内面において現実に生じた矛盾、葛藤、精神的苦痛等を踏まえ、まず、審査が行われる必要がある。
こうした真摯性に関する審査が肯定されれば、これを制約する本件各職務命令について、後述のとおりいわゆる厳格な基準によって本件事案の内容に即して具体的に合憲性審査を行うこととなる。
【4】
平成11年8月に公布、施行された国旗及び国歌に関する法律は僅か2条の定義法にすぎないが、この制定に関しては、国論は分かれた。
政府の国会答弁では、繰り返し、国旗の掲揚及び国歌の斉唱に関し義務付けを行うことは考えていないこと、学校行事の式典における不起立不斉唱の自由を否定するものではないこと、国旗及び国歌の指導に係る教員の職務上の責務について変更を加えるものではないこと等が示されており、同法はそのように強制の契機を有しないものとして成立したものといえるであろう。その限りにおいて、同法は、憲法と適合する。
これより先、平成11年3月告示の高等学校学習指導要領は、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。」と規定しているが、この規定を高等学校の教職員に対し起立斉唱行為を職務命令として強制することの根拠とするのは無理であろう。
そもそも、学習指導要領は、教育の機会均等を確保し全国的に一定の水準を維持するという目的のための大綱的基準であり、教師による創造的かつ弾力的な教育や地方ごとの特殊性を反映した個別化の余地が十分にあるものであって(最高裁昭和43年(あ)第1614号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号615頁参照)、学習指導要領のこのような性格にも照らすと、上記根拠 となるものではないことは明白であると思われる。
国旗及び国歌に関する法律施行後、東京都立高等学校において、少なからぬ学校の校長は内心の自由告知(内心の自由を保障し、起立斉唱するかしないかは各教職員の判断に委ねられる旨の告知)を行い、式典は一部の教職員に不起立不斉唱行為があったとしても支障なく進行していた。
こうした事態を、本件通達は一変させた。本件通達が何を企図したものかに関しては記録中の東京都関連の各会議議事録等の証拠によれば歴然としているように思われるが、原判決はこれを認定していない。しかし、原判決認定の事実によっても、都教委は教職員に起立斉唱させるために職務命令についてその出し方を含め細かな指示をしていること、内心の自由を説明しないことを求めていること、形から入り形に心を入れればよい、形式的であっても立てば一歩前進だなどと説明していること、不起立行為を把握するための方法等について入念な指導をしていること、不起立行為等があった場合、速やかに東京都人事部に電話で連絡するとともに事故報告書を提出することを求めていること等の事実が認められるのであり、卒業式等にはそれぞれ職員を派遣し式の状況を監視していることや、その後の戒告処分の状況をみると、本件通達は、式典の円滑な進行を図るという価値中立的な意図で発せられたものではなく、前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を有する教職員を念頭に置き、その歴史観等に対する強い否定的評価を背景に、不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制することにあるとみることができると思われる※i。本件通達は校長に対して発せられたものではあるが、本件各職務命令は本件通達に基づいているのであり、上告人らが、本件各職務命令が上告人らの有する前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念に対し否定的評 価をしているものと受け止めるのは自然なことであると思われる。
本件各職務命令の合憲性の判断に当たっては、本件通達やこれに基づく本件各職務命令をめぐる諸事情を的確に把握することが不可欠であると考えられる。
【5】
本件各職務命令の合憲性の判断に関しては、いわゆる厳格な基準により、本件事案の内容に即して、具体的に、目的・手段・目的と手段との関係をそれぞれ審査することとなる。目的は真にやむを得ない利益であるか、手段は必要最小限度の制限であるか、関係は必要不可欠であるかということをみていくこととなる。結局、具体的目的である「教育上の特に重要な節目となる儀式的行事」における「生徒等への配慮を含め、教育上の行事にふさわしい秩序を確保して式典の円滑な進行を図ること」が真にやむを得ない利益といい得るか、不起立不斉唱行為がその目的にとって実質的害悪を引き起こす蓋然性{がいぜんせい;そうなるだろうなって感じ}が明白で、害悪が極めて重大であるか(式典が妨害され、運営上重大な支障をもたらすか)を検討することになる。その上で、本件各職務命令がそれを避けるために必要不可欠であるか、より制限的でない他の選び得る手段が存在するか(受付を担当させる等、会場の外における役割を与え※j、不起立不斉唱行為を回避させることができないか)を検討することとなろう。
【6】
以上、原判決を破棄し、第1に前記3の真摯性、第2に前記5の本件各職務命令の憲法適合性に関し、改めて検討させるため、本件を原審に差し戻すことを相当とする。』
─意見本文異常、もとい以上─
※a そりゃあまあ確かに、地下鉄改札ロビーで立ちションする家族や国旗を燃やして踏みつける人たちを見たことはありますけど。
※b 誰が忘れがちで、誰に投げかけているの?
※c アバウト過ぎです。
※d 「魂」+「考えたからであると思われる」。ストーカー裁判での「愛があると考えたからであると思われる」みたいでいとをかし(おもむきがある)。
※e 仮にあったとしても「間接に」じゃないですか? だって「直接」っていうのは「直接」でしょ?
※f 中立さのまったくない表現にお里が知れます。
※g じたばたっぷりが全然潔(いさぎよ)くないんですけど。
※h 受容する覚悟なんて微塵(みじん)も感じられないんですけど。
※i 思想や信条といった内面はご自由に。でも公の立場にあるときはふさわしい行動をってことなのでは? 特に、学校という場ですし。
※j そうしたらしたで、また騒ぐくせに。
----------------------------------------------------------------
私の基本的な近代日本史観は、薩長の成功体験から抜け出せないのは「残念なことだなあ」って感じですかね。
間違った選択をすれば悪い結果になって、正しい選択をすれば良い結果になる、みたいな歴史観とはまるっきり逆の考えを持っています。私。
過去と現在と未来は連続していない、と思っているんです。
だからこの争いみたいに「過去が! 過去が! 過去の教訓が!」みたいな論によって今現在に何らかの影響を及ぼそうとする行為には賛同できないんです。それよりも、もっと「今」を良く見ましょうよ、って言いたくなります。
とは言っても、もし今、あらゆる選択で正解をしたからといってじゃあそれが良い未来につながるかっていうと、そういうことでもないんですけどね。
それはそうと、この宮川光治さんっていう最高裁判事のように『ご自分のご意見をしっかり持っていらっしゃって、それを公の判断に臆面もなく反映させる』ことで、国と国民を引っ張り回してくださる菅総理、枝野官房長官、仙谷前官房長官、ってすごくステキだと思います。
今度は自民党との大連立ですか?
きっとご本人たちは、自らを幕末の志士になぞらえたりなさって悦に入っているのでしょう。わかります。
“志士”累々 なんてことになったりして。
2011年5月31日火曜日
バルサ90’s
FCバルセロナのスタイル
1990-91 Athletic Bilbao - FC Barcelona 0-6
【参照】
バルサの弱点はここ
対バルサ戦略~偽ファーガソン編~
バルサをマネる3つのポイント
昔のバルサはこうだった
バルサの育成投資方針
バルサ5-0レアルの動画
昨年度(09-10シーズン)CLでのFCバルセロナ評
2009-2010CL準決勝インテル×バルサ第1戦
イニエスタの作り方
FCバルセロナの哲学
1990-91 Athletic Bilbao - FC Barcelona 0-6
【参照】
バルサの弱点はここ
対バルサ戦略~偽ファーガソン編~
バルサをマネる3つのポイント
昔のバルサはこうだった
バルサの育成投資方針
バルサ5-0レアルの動画
昨年度(09-10シーズン)CLでのFCバルセロナ評
2009-2010CL準決勝インテル×バルサ第1戦
イニエスタの作り方
FCバルセロナの哲学
2011年5月10日火曜日
最新サギ情報 ~ミニスカポリスより~
Yahoo!知恵袋
質問日時: 2011/5/5 16:05:08
解決日時: 2011/5/7 15:07:57
--------------------------
こんなメールが届いたんですが。。。どう対応したらよいのでしょうか
--------------------------
こんなメールが届いたんですが。。。
どう対応したらよいのでしょうか
※このメールに心当たりのない場合や、
ご不明な点がございましたら、
info@bc-style.jpまでご連絡ください。
マジークボーテでございます。
このたびは、住谷杏奈オフィシャル FOOD DREAMを
ご注文いただき誠にありがとうございます。
以下のご注文を承りましたが、
一週間以上ご入金の確認がとれておりません。
誠に遺憾ではございますが、
下記口座に 「損害賠償金」 100,000円を含む
合計金額をご入金いただけますようお願いいたします。
(以下略)
--------------------------
※ 住谷杏奈(旧姓鈴木)というのは、レイザーラモンHG(本名:住谷正樹)と結婚した元ミニスカポリスで、当時股間綱引きという技が得意だったことから「ツナ」というあだ名で呼ばれているらしい。
この手の詐欺は、いつまでもなくならないなあ。
ってことは、いつまでもひっかかるカモがいるってことなんだなあ。
詐欺メニューの定番商品ってとこなんだろうなあ。
質問日時: 2011/5/5 16:05:08
解決日時: 2011/5/7 15:07:57
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こんなメールが届いたんですが。。。どう対応したらよいのでしょうか
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こんなメールが届いたんですが。。。
どう対応したらよいのでしょうか
※このメールに心当たりのない場合や、
ご不明な点がございましたら、
info@bc-style.jpまでご連絡ください。
マジークボーテでございます。
このたびは、住谷杏奈オフィシャル FOOD DREAMを
ご注文いただき誠にありがとうございます。
以下のご注文を承りましたが、
一週間以上ご入金の確認がとれておりません。
誠に遺憾ではございますが、
下記口座に 「損害賠償金」 100,000円を含む
合計金額をご入金いただけますようお願いいたします。
(以下略)
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※ 住谷杏奈(旧姓鈴木)というのは、レイザーラモンHG(本名:住谷正樹)と結婚した元ミニスカポリスで、当時股間綱引きという技が得意だったことから「ツナ」というあだ名で呼ばれているらしい。
この手の詐欺は、いつまでもなくならないなあ。
ってことは、いつまでもひっかかるカモがいるってことなんだなあ。
詐欺メニューの定番商品ってとこなんだろうなあ。
2011年5月4日水曜日
19時より映画『マラドーナ』
BS-TBS
映画
シアターA「マラドーナ」
11/05/04(水)19:00~20:54
神の子と呼ばれた男は、一人の人間だった
Cast
ディエゴ・アルマンド・マラドーナ、エミール・クストリッツァ、マラドーナ・ファミリー、カストロ将軍、エミール・クストリッツァ&ノー・スモーキング・オーケストラ、マヌ・チャオ 他
Staff
2008年 スペイン・仏
監督・脚本:エミール・クストリッツァ
番組内容
アルゼンチン国民の英雄、ナポリの救世主、稀代のエンターテナー、そして薬に溺れた堕ちた偶像・・・。20世紀スポーツ界もっともスキャンダラスなスーパースター。“神の子”ディエゴ・アルマンド・マラドーナ 49歳。名匠エミール・クストリッツァ監督がブエノス・アイレスからナポリ、ベオグラードへと“魂の反逆児”の真実を追った話題のドキュメンタリー作品。
映画
シアターA「マラドーナ」
11/05/04(水)19:00~20:54
神の子と呼ばれた男は、一人の人間だった
Cast
ディエゴ・アルマンド・マラドーナ、エミール・クストリッツァ、マラドーナ・ファミリー、カストロ将軍、エミール・クストリッツァ&ノー・スモーキング・オーケストラ、マヌ・チャオ 他
Staff
2008年 スペイン・仏
監督・脚本:エミール・クストリッツァ
番組内容
アルゼンチン国民の英雄、ナポリの救世主、稀代のエンターテナー、そして薬に溺れた堕ちた偶像・・・。20世紀スポーツ界もっともスキャンダラスなスーパースター。“神の子”ディエゴ・アルマンド・マラドーナ 49歳。名匠エミール・クストリッツァ監督がブエノス・アイレスからナポリ、ベオグラードへと“魂の反逆児”の真実を追った話題のドキュメンタリー作品。
2011年4月24日日曜日
「センス」について
「センス」について
「センス」という言葉はいろいろな場面で使われる。
そして、私たち人間はこの地球上でずいぶんと偉ぶっているが、所詮(しょせん)、「センス」を持ってるかどうかの違いによって、人類と猿人類と類人猿と猿類と枝分かれしているに過ぎない。
というのは私の私論であって、ちゃんとした学説があるわけではない。
しかし、そうトンチンカンな迷説でもないだろうと、私はひとり確信しているのだ。
私は、「センス」のことを、「他人が真似(まね)たくなるような表現を生む能力」だと定義している。
もっとシンプルに言うなら「被模倣力(ひもほうりょく)」。
カッコつけないで言うなら「マネしたくさせる力」。「パクられ力」だ。
ちょっとしたアクセサリーの使い方や、絵画での構図や色遣い、旋律の構成、あるいは衣服のコーディネーション、料理の盛りつけ、宣伝のコピー、数式の組み立て、文書表現、表情や仕草、プレゼンの資料作り、笑わせる話し方、怖がらせる話し方、ゴルフやバッティングのスイングフォーム、各種デザイン、…etc.、巷にあふれる“センス”で溺れそうな今の世の中。
「センス」の問われる場面は、ますます増えることだろう。
「センス」のフォース(『STAR WARS』参照のこと)は一方通行で、逆流は不可。
どんなレベルでも必ずセンスは良い方から悪い方へと流れこむ。
でもって、舌が肥える目が肥える耳が肥える──センスを感じ取るアンテナは、どんどん強化されて性能をアップさせる。
アップしたアンテナの感度性能は、これもまた劣化するってことがない。
(これがやっかいで、生活レベルを落とせない、みたいな悩みにもつながったりする)
この「センス」っていう能力を持ったおかげで、人類は自分たちの文明と文化を発展させることができたのだと、私は確信してると先に述べた。
ただ残念なことに、自分では自分の「センス」がわからない。
これが「センス」のやっかいな点で、常に他者の立ち位置に立たないと、感じ取れないのだ。
まさにアンテナや鏡と同じ。自分の発した情報を受け取るのは周りばかりで、自分はそれを聞くことも見ることもできない(悲しい)。
活躍しているタレントやモデルでファッションセンスが良いとされてる人も、結局のところほとんどは、どこかからパクってきたものを応用してるに過ぎない。
彼ら彼女らは、「いいセンス」を敏感に受け取って再送信してるのであって、その「センスの上流」にいる「センスの源(みなもと)」ではない。
じゃあその「センスの上流」にいる、「いいセンス」を生み出しているホントの「センスの源」的存在となっているのはどういう人たちなのか。実はこれが面白いのだが、そういう「センスの源さん」ご自身のおセンスは、かなり、そうとう、衝撃的に、変だったりする。
元仏クリスチャン・ディオール・チーフファッションデザイナーのジョン・ガリアーノ氏
自分から発せられる「センス」のフォースが強烈すぎて、他からの「センス」を感じ取ることができないんだろうなあ。
「名選手名コーチならず」もこういう理由(わけ)なのだろうと、私は勝手に納得してる。
で、これからがやっと本題。↓
サッカー選手の育成も、まさにこのままの通りなのではないだろうか、と私は思ってるのだ。
「いいセンス」に触れさせれば、子供らは自然と「マネしたい」って思って、自分からがんばる。
間違いなく、強豪とされてるようなチームには、「マネしたくなるようないいセンス」を見せられるコーチや先輩っていう手本があるもんだ。トレーニングメニューとか、そういうことじゃあないよね。
かといって、そのお手本となってるコーチや先輩たちが、その「いいセンス」のオリジナルなのかっていうとそんなことは全然なくって、そいつらもどっかでその元になる「いいセンス」に触れて、それをマネしただけなんだ。で、そいつらにマネされた「いいセンス」の元は、そのまた先の……、って具合に綿々と続いてってる。
脱線するけど、マラドーナっていう選手が地域も時代も越えて語られ愛され憧られ続けているのは、彼がサッカーテク&創造性&楽しさにおける「センスの源」だからなんだろうなって思っている。彼ほど「マネされる」選手は、過去にはもちろんいなかったし将来も絶対に現れない(元イタリア代表のゾラなんて、ナポリで一緒になって以降はマラドーナの完コピだったもんね)。
未来のことまでなんでわかるのかっていうと、それは才能や能力の問題じゃなくって、グローバル化とメディア技術の影響っていう要素もあるから。
世界中のサッカー映像がジャブジャブに垂れ流されている現在の情報過多な環境では、「マネしたい」っていう動機を保ち続けられないんだよね。他のことに例えて言えば、「ピンクレディーの振り付け」みたいにみんながマネする存在が、これからの将来に出てくるかどうかみたいな話で、そんなのは出てきようがないじゃん。圧倒的に情報の“貴重さ”、アクセス・チャンス(接触機会)の“稀少さ”が違うんだから。
でももちろんマラドーナの凄さはこれだけじゃあ説明しきれない。だってこれだけが理由なら、同時代に存在した他のスーパースターと同列じゃなきゃおかしいでしょ。でもマラドーナは、同時代の選手と比べてもダントツで、時代を越えた選手と比べてもダントツっていう、奇跡の存在だ。ところでマラドーナって学校へは通ってたんだろうか? 教室に座って教科書を開いている姿が、まったく想像できないキャラクターってだよね、マラドーナって。
サッカーボールに触れてから現役引退までひとつもミスがなかったとか、常にパーフェクトだったとか、全判断全正解だったとか、そんなことはあり得ないけど、たとえ間違いであったとしてもマネてみたくなる、それがマラドーナのサッカーだった。
好き嫌いはあるにせよ、史上最もマネされているフットボールプレーヤーであることは間違いない。
そう考えると、信じられない存在だよなあ、マラドーナって。
もはやひとつの世界観だよ。
さてと、いい加減に本線へ──
ただし──問題はここから先にあるんだ。それも大問題。ちょっとやそっとじゃあどうにもならない、日本人の長所ともガチにバッティングしちゃう根本問題が、ある。
日本でふつう「センスがいい」って言うと、それってイコール「マネするのが巧い」ってことなんだよね。
それは時には「要領がいい」とか「勘がいい」とか「飲み込みが早い」とか「筋がいい」なんて言われて、ものすごく評価される。っつうか、日本の評価軸そのもの。
歴史的には、これは儒教の教えの影響でさ、「『学ぶ』は『真似ぶ』。つまり真似(まね)ることが学ぶことなんだ」っていう文化圏なわけ、日本は。朝鮮半島の上朝鮮や下朝鮮も儒教の影響下にあるから、きっと状況は似ていると思う。よく知らんけど(辛いの苦手だし)。
儒教の本家であった中華共産党共和国では、とっくの昔に儒教なんて廃れてしまったので、「真似るは学ぶ」みたいなのはなくって、「結果のためには手段を選ばず」「勝てば官軍」「賄賂万歳愛国無罪」みたいな弱肉強食(善悪関係なく、弱い物は肉となる)社会になってるんだから、歴史ってのは面白い。
日本サッカーにおける「育成」の現場でも、この日本の特色「マネなまび」が評価軸になってるんだけど、ここに“問題アリ!”と俺は思ってる。
「教えたことをすぐに正確に実行できる選手がいい選手」っていうのはとぉ~ってもわかりやすい。
小4くらいの子が、小6の子と同じプレーをしたら「うまい!」とハンコを押すだけなんだから、評価をする側にとってこんなに簡単なことはない。小4の子が、小6の問題を解いたら「頭いい!」って花まる付ければいいのと同じなんだから。
でもホントに頭がいいかどうかなんて、そんなことじゃあ判断できないってことくらい、頭の悪い俺でもわかる。だって、小4の子は自分の頭を使ってないかもしれないじゃん。塾で教わった通りに解いただけかもしれない。
上手に真似するのを「センスがいい」ってしちゃったら、オリジナルの画家よりも贋作家の方が「センスいい」ってことになっちゃうじゃん(ねぇ~。だよねぇ~)。
でもなあ~、親にとっても「マネなまび」の方がわかりやすいんだよなあ。
塾に行かせたら、小6の問題を解けるようになった。うちの子天才かも!?
サッカースクールに行かせたら、見たことのないようなフェイントができるようになった。あのスクールの育成力はすごいかも!?
他にも、例えばトレセンや地区選抜でチームを組むときだって、小4なのに小6みたいなプレーをする選手を選びたくなるものだし、実際にもそうなってる。評価軸が「マネまなび」なんだから、他の子よりも先の“問題の解き方”まで習っている子の方を高く評価するからね。
実際んとこ、「マネるのが早くてうまい=センスがいい」ってのが日本の常識だつう現実は、この後もずうっと変わんないと俺は思ってるわけ。「最年少」とか「飛び級」とか、そういうフレーズも大好きなまんま。
「何ができるか、何をやったか」よりも「他の人よりも若いときにやった」ことの方にしか関心がない。まあ儒教とか朱子学ってのはそういう価値観だから、その影響下にある文化圏の中の端っこの島国である日本がそうなるのは、極々自然なことなんだけどさ。
マネることを良しとする社会なんだから、日本が均質でデコボコのない社会になるのも当たり前。だから高品質な製品が低い歩留まりで生産できる。
マネることで基礎を身につけたその後に出てくるのが「個性」なんだっていう考えも根強いよね。
でも俺は思うわけ。上手にマネるためには、自分の欠点を補正して、弱点を強化しなきゃなんないことがいっぱい出てくるじゃん。欠点のないのが良いことだ、みたいな。一見それは正しいように思えるけど、違うんじゃねえのかなあって。
長所とか強いところってさあ、よくよく見てみると、欠点とか弱点とかとかっちりがっちり結びついてるんだよね。個人の能力や身体の面で捉えなおすと、同じ特徴の裏表だったりするわけさ。
だからマネるのが上手な子がなぜそうなのかっていうと、実は個性が薄いからとか、我(自分)を消していつも他人の様子を観察してたから、なんだよね社会生物学的に言えばさ。親とか兄弟とかとの関係性がそういう特性を身につけさせた(って言われてる)。
敗戦後の日本がまさにこのまんま。
争いも避けて来れたし、嫌われもしないで、仲間に入ろうと上手にマネをして、見事世界の二番手にまでなった!
でも「マネばっかすんなよ」って怒られて、自分でも「自分らしさ」があるはずだって「自分さがし」の旅に出たら堂々巡りで前へ進めなくなっちまった(失われた10年、20年)。
で、だらだらここまで思いつくまま書いてきてどういう結論にするかっつうと、日本はこれからも「早く上手に真似ること」を高く評価していくとは思うんだけど、「マネること」だけじゃなくて「マネられること」にも目を向けることができる日本になってくんねえかって俺は願ってるんだってことでどう?
そりゃあマネてる方が楽だし、効率は良いし、リスクはないしで良いこと尽(ず)くめってのはわかるよ。マネされる方は、みんなにマネされちゃえば価値はなくなるし、苦労も多いし、効率悪いし、リスクいっぱいだし(変人にカテゴライズされやすいからね)。
でもお受験塾とか秋元康とかエイベックスとか渋谷ビットバレー&ヒルズ合コン起業家的な手法(成功例を分析してパクリまくる手法)ばっかりがはびこっちまうと、ここのとこのテレビ番組みたいにある時期はクイズばっかり、ある時期はひな壇ばっかり、ある時期は刑事物ばっかり、ある時期はコリアンばっかり、みたいなつっまんねえことになちゃうでちょ。
成功例の分析ばっかに頼ってたら、だ~れもその枠からはみ出せなくなる。
日本車や家電の性能やデザインが似たり寄ったりなのも、それがその通りだっつう証(あかし)なんじゃねえのって思うわけ。
少年サッカーのコーチのみなさんには、子供らをよく観察して、もし周りの子に「マネしたい」と思わせる何かを持った子がいたら、その子のことを特別な意識を持って扱ってあげて欲しい。他の子─つまり「マネする側」─と同じに扱ったら、その子の欠点は補強されるかもしれないけど、同時に長所・特徴・個性も間違いなく薄まってしまうから。そっちに欠点があるからこそ、こっちの長所が成立してるってことがほとんどだからねえ。
でもなあ、教育者、指導者、親にとって教え甲斐があるのは「熱心にマネをしようとする子」の方なんだってのは、厳然たる事実なんだよなあ。そういう子は──教えてて手応えがある。成長しているのが手に取るように伝わってくる。──そういう子の方が、かわいいんだよなあ。
反対に「まわりにマネしたくさせる子」の方は、本人の性格しだいではただの扱いにくい子になってしまいがち。
本物の才能があるなんてのは万に1人もいないから、残りは調和を乱す異分子でしかなかったりする。グレられちゃったりすると、チームの雰囲気を壊し、みんなの足を引っぱったりする存在になったりもする。それらを補えるくらいのスケールの才能があればいいんだけど……。
【結論】
ジェフのオーロイには勝てない。
「センス」という言葉はいろいろな場面で使われる。
そして、私たち人間はこの地球上でずいぶんと偉ぶっているが、所詮(しょせん)、「センス」を持ってるかどうかの違いによって、人類と猿人類と類人猿と猿類と枝分かれしているに過ぎない。
というのは私の私論であって、ちゃんとした学説があるわけではない。
しかし、そうトンチンカンな迷説でもないだろうと、私はひとり確信しているのだ。
私は、「センス」のことを、「他人が真似(まね)たくなるような表現を生む能力」だと定義している。
もっとシンプルに言うなら「被模倣力(ひもほうりょく)」。
カッコつけないで言うなら「マネしたくさせる力」。「パクられ力」だ。
ちょっとしたアクセサリーの使い方や、絵画での構図や色遣い、旋律の構成、あるいは衣服のコーディネーション、料理の盛りつけ、宣伝のコピー、数式の組み立て、文書表現、表情や仕草、プレゼンの資料作り、笑わせる話し方、怖がらせる話し方、ゴルフやバッティングのスイングフォーム、各種デザイン、…etc.、巷にあふれる“センス”で溺れそうな今の世の中。
「センス」の問われる場面は、ますます増えることだろう。
「センス」のフォース(『STAR WARS』参照のこと)は一方通行で、逆流は不可。
どんなレベルでも必ずセンスは良い方から悪い方へと流れこむ。
でもって、舌が肥える目が肥える耳が肥える──センスを感じ取るアンテナは、どんどん強化されて性能をアップさせる。
アップしたアンテナの感度性能は、これもまた劣化するってことがない。
(これがやっかいで、生活レベルを落とせない、みたいな悩みにもつながったりする)
この「センス」っていう能力を持ったおかげで、人類は自分たちの文明と文化を発展させることができたのだと、私は確信してると先に述べた。
ただ残念なことに、自分では自分の「センス」がわからない。
これが「センス」のやっかいな点で、常に他者の立ち位置に立たないと、感じ取れないのだ。
まさにアンテナや鏡と同じ。自分の発した情報を受け取るのは周りばかりで、自分はそれを聞くことも見ることもできない(悲しい)。
活躍しているタレントやモデルでファッションセンスが良いとされてる人も、結局のところほとんどは、どこかからパクってきたものを応用してるに過ぎない。
彼ら彼女らは、「いいセンス」を敏感に受け取って再送信してるのであって、その「センスの上流」にいる「センスの源(みなもと)」ではない。
じゃあその「センスの上流」にいる、「いいセンス」を生み出しているホントの「センスの源」的存在となっているのはどういう人たちなのか。実はこれが面白いのだが、そういう「センスの源さん」ご自身のおセンスは、かなり、そうとう、衝撃的に、変だったりする。
元仏クリスチャン・ディオール・チーフファッションデザイナーのジョン・ガリアーノ氏
自分から発せられる「センス」のフォースが強烈すぎて、他からの「センス」を感じ取ることができないんだろうなあ。
「名選手名コーチならず」もこういう理由(わけ)なのだろうと、私は勝手に納得してる。
で、これからがやっと本題。↓
サッカー選手の育成も、まさにこのままの通りなのではないだろうか、と私は思ってるのだ。
「いいセンス」に触れさせれば、子供らは自然と「マネしたい」って思って、自分からがんばる。
間違いなく、強豪とされてるようなチームには、「マネしたくなるようないいセンス」を見せられるコーチや先輩っていう手本があるもんだ。トレーニングメニューとか、そういうことじゃあないよね。
かといって、そのお手本となってるコーチや先輩たちが、その「いいセンス」のオリジナルなのかっていうとそんなことは全然なくって、そいつらもどっかでその元になる「いいセンス」に触れて、それをマネしただけなんだ。で、そいつらにマネされた「いいセンス」の元は、そのまた先の……、って具合に綿々と続いてってる。
脱線するけど、マラドーナっていう選手が地域も時代も越えて語られ愛され憧られ続けているのは、彼がサッカーテク&創造性&楽しさにおける「センスの源」だからなんだろうなって思っている。彼ほど「マネされる」選手は、過去にはもちろんいなかったし将来も絶対に現れない(元イタリア代表のゾラなんて、ナポリで一緒になって以降はマラドーナの完コピだったもんね)。
未来のことまでなんでわかるのかっていうと、それは才能や能力の問題じゃなくって、グローバル化とメディア技術の影響っていう要素もあるから。
世界中のサッカー映像がジャブジャブに垂れ流されている現在の情報過多な環境では、「マネしたい」っていう動機を保ち続けられないんだよね。他のことに例えて言えば、「ピンクレディーの振り付け」みたいにみんながマネする存在が、これからの将来に出てくるかどうかみたいな話で、そんなのは出てきようがないじゃん。圧倒的に情報の“貴重さ”、アクセス・チャンス(接触機会)の“稀少さ”が違うんだから。
でももちろんマラドーナの凄さはこれだけじゃあ説明しきれない。だってこれだけが理由なら、同時代に存在した他のスーパースターと同列じゃなきゃおかしいでしょ。でもマラドーナは、同時代の選手と比べてもダントツで、時代を越えた選手と比べてもダントツっていう、奇跡の存在だ。ところでマラドーナって学校へは通ってたんだろうか? 教室に座って教科書を開いている姿が、まったく想像できないキャラクターってだよね、マラドーナって。
サッカーボールに触れてから現役引退までひとつもミスがなかったとか、常にパーフェクトだったとか、全判断全正解だったとか、そんなことはあり得ないけど、たとえ間違いであったとしてもマネてみたくなる、それがマラドーナのサッカーだった。
好き嫌いはあるにせよ、史上最もマネされているフットボールプレーヤーであることは間違いない。
そう考えると、信じられない存在だよなあ、マラドーナって。
もはやひとつの世界観だよ。
さてと、いい加減に本線へ──
ただし──問題はここから先にあるんだ。それも大問題。ちょっとやそっとじゃあどうにもならない、日本人の長所ともガチにバッティングしちゃう根本問題が、ある。
日本でふつう「センスがいい」って言うと、それってイコール「マネするのが巧い」ってことなんだよね。
それは時には「要領がいい」とか「勘がいい」とか「飲み込みが早い」とか「筋がいい」なんて言われて、ものすごく評価される。っつうか、日本の評価軸そのもの。
歴史的には、これは儒教の教えの影響でさ、「『学ぶ』は『真似ぶ』。つまり真似(まね)ることが学ぶことなんだ」っていう文化圏なわけ、日本は。朝鮮半島の上朝鮮や下朝鮮も儒教の影響下にあるから、きっと状況は似ていると思う。よく知らんけど(辛いの苦手だし)。
儒教の本家であった中華共産党共和国では、とっくの昔に儒教なんて廃れてしまったので、「真似るは学ぶ」みたいなのはなくって、「結果のためには手段を選ばず」「勝てば官軍」「賄賂万歳愛国無罪」みたいな弱肉強食(善悪関係なく、弱い物は肉となる)社会になってるんだから、歴史ってのは面白い。
日本サッカーにおける「育成」の現場でも、この日本の特色「マネなまび」が評価軸になってるんだけど、ここに“問題アリ!”と俺は思ってる。
「教えたことをすぐに正確に実行できる選手がいい選手」っていうのはとぉ~ってもわかりやすい。
小4くらいの子が、小6の子と同じプレーをしたら「うまい!」とハンコを押すだけなんだから、評価をする側にとってこんなに簡単なことはない。小4の子が、小6の問題を解いたら「頭いい!」って花まる付ければいいのと同じなんだから。
でもホントに頭がいいかどうかなんて、そんなことじゃあ判断できないってことくらい、頭の悪い俺でもわかる。だって、小4の子は自分の頭を使ってないかもしれないじゃん。塾で教わった通りに解いただけかもしれない。
上手に真似するのを「センスがいい」ってしちゃったら、オリジナルの画家よりも贋作家の方が「センスいい」ってことになっちゃうじゃん(ねぇ~。だよねぇ~)。
でもなあ~、親にとっても「マネなまび」の方がわかりやすいんだよなあ。
塾に行かせたら、小6の問題を解けるようになった。うちの子天才かも!?
サッカースクールに行かせたら、見たことのないようなフェイントができるようになった。あのスクールの育成力はすごいかも!?
他にも、例えばトレセンや地区選抜でチームを組むときだって、小4なのに小6みたいなプレーをする選手を選びたくなるものだし、実際にもそうなってる。評価軸が「マネまなび」なんだから、他の子よりも先の“問題の解き方”まで習っている子の方を高く評価するからね。
実際んとこ、「マネるのが早くてうまい=センスがいい」ってのが日本の常識だつう現実は、この後もずうっと変わんないと俺は思ってるわけ。「最年少」とか「飛び級」とか、そういうフレーズも大好きなまんま。
「何ができるか、何をやったか」よりも「他の人よりも若いときにやった」ことの方にしか関心がない。まあ儒教とか朱子学ってのはそういう価値観だから、その影響下にある文化圏の中の端っこの島国である日本がそうなるのは、極々自然なことなんだけどさ。
マネることを良しとする社会なんだから、日本が均質でデコボコのない社会になるのも当たり前。だから高品質な製品が低い歩留まりで生産できる。
マネることで基礎を身につけたその後に出てくるのが「個性」なんだっていう考えも根強いよね。
でも俺は思うわけ。上手にマネるためには、自分の欠点を補正して、弱点を強化しなきゃなんないことがいっぱい出てくるじゃん。欠点のないのが良いことだ、みたいな。一見それは正しいように思えるけど、違うんじゃねえのかなあって。
長所とか強いところってさあ、よくよく見てみると、欠点とか弱点とかとかっちりがっちり結びついてるんだよね。個人の能力や身体の面で捉えなおすと、同じ特徴の裏表だったりするわけさ。
だからマネるのが上手な子がなぜそうなのかっていうと、実は個性が薄いからとか、我(自分)を消していつも他人の様子を観察してたから、なんだよね社会生物学的に言えばさ。親とか兄弟とかとの関係性がそういう特性を身につけさせた(って言われてる)。
敗戦後の日本がまさにこのまんま。
争いも避けて来れたし、嫌われもしないで、仲間に入ろうと上手にマネをして、見事世界の二番手にまでなった!
でも「マネばっかすんなよ」って怒られて、自分でも「自分らしさ」があるはずだって「自分さがし」の旅に出たら堂々巡りで前へ進めなくなっちまった(失われた10年、20年)。
で、だらだらここまで思いつくまま書いてきてどういう結論にするかっつうと、日本はこれからも「早く上手に真似ること」を高く評価していくとは思うんだけど、「マネること」だけじゃなくて「マネられること」にも目を向けることができる日本になってくんねえかって俺は願ってるんだってことでどう?
そりゃあマネてる方が楽だし、効率は良いし、リスクはないしで良いこと尽(ず)くめってのはわかるよ。マネされる方は、みんなにマネされちゃえば価値はなくなるし、苦労も多いし、効率悪いし、リスクいっぱいだし(変人にカテゴライズされやすいからね)。
でもお受験塾とか秋元康とかエイベックスとか渋谷ビットバレー&ヒルズ合コン起業家的な手法(成功例を分析してパクリまくる手法)ばっかりがはびこっちまうと、ここのとこのテレビ番組みたいにある時期はクイズばっかり、ある時期はひな壇ばっかり、ある時期は刑事物ばっかり、ある時期はコリアンばっかり、みたいなつっまんねえことになちゃうでちょ。
成功例の分析ばっかに頼ってたら、だ~れもその枠からはみ出せなくなる。
日本車や家電の性能やデザインが似たり寄ったりなのも、それがその通りだっつう証(あかし)なんじゃねえのって思うわけ。
少年サッカーのコーチのみなさんには、子供らをよく観察して、もし周りの子に「マネしたい」と思わせる何かを持った子がいたら、その子のことを特別な意識を持って扱ってあげて欲しい。他の子─つまり「マネする側」─と同じに扱ったら、その子の欠点は補強されるかもしれないけど、同時に長所・特徴・個性も間違いなく薄まってしまうから。そっちに欠点があるからこそ、こっちの長所が成立してるってことがほとんどだからねえ。
でもなあ、教育者、指導者、親にとって教え甲斐があるのは「熱心にマネをしようとする子」の方なんだってのは、厳然たる事実なんだよなあ。そういう子は──教えてて手応えがある。成長しているのが手に取るように伝わってくる。──そういう子の方が、かわいいんだよなあ。
反対に「まわりにマネしたくさせる子」の方は、本人の性格しだいではただの扱いにくい子になってしまいがち。
本物の才能があるなんてのは万に1人もいないから、残りは調和を乱す異分子でしかなかったりする。グレられちゃったりすると、チームの雰囲気を壊し、みんなの足を引っぱったりする存在になったりもする。それらを補えるくらいのスケールの才能があればいいんだけど……。
【結論】
ジェフのオーロイには勝てない。
2011年4月22日金曜日
2011年4月14日木曜日
ダーチャを趣味に!
ダーチャとはロシア式の別荘だ。
しかし、私たちが一般的に理解しているそれと、ロシアのそれは大きく異なる。
ほぼすべてといっていいくらいのロシア人家庭が所有する「ダーチャ」は、家から郊外の方に1時間~数時間離れたところにある。本来は各家庭が自給するための国から配給された農地であって、それがまあ社会主義国家の“実態を考えない机上の理想”から外れることなく、自家用車もないのにすごく離れた場所にあったものだから、仕方なく寝泊まりできるくらいの作業小屋をトンテンカントンテンカン自作しているうちに、それが住農一体の郊外別荘文化として定着したものだ。
だからぬるま湯生活に浸りきった私のような日本人の考える“別荘”とは一味も二味もどころが、「お前なあ、なめんなよ。ワケが違うんだよワケが」と鼻先に指を突きつけられるくらいに、コンセプトが違うのだ。
ダーチャの基本は“掘っ立て小屋”だから、電気や水道がない(ある場合もある。けど大抵は、ない)。
電話もない。
建物・施設は自分たちの手作りが常識。
ロシア人はそこで、夏のバカンスを過ごしたりする。
別荘での避暑と聞いて、『軽井沢でのテニス』みたいなイメージはロシア人にはない。
別荘での避暑=『ダーチャで自家農園生活』というのがロシア人なのだ。
※ただし、ウルトラリッチなロシア人(例えばアブラモビッチ氏)は、ダーチャ文化といってもそのスケールが違って、街そのものを造ってしまったりしている。
今回の大震災みたいなときの避難施設機能を考えれば、電気・ガス・水道・電話といったライフラインが途絶えた状態でも生活できる環境を整えておくことの方が、目的にかなっているのだからこれでOKなのだ。
でもって、間違いなくダーチャは楽しい。
きっと、ダーチャを作っていく過程が、ものすごく楽しいはずだ。秘密基地っぽいし。
なので、非常時の避難所にもなるダーチャを趣味にしましょう。
住と食が結びついたペチカのある暮らし
過去に食糧難を幾度も経験したロシアでは、ブレジネフ時代に、国策として自給自足を打ち出した。80年代からは、家庭菜園付きの別荘として、国民の約8割がダーチャを所有している。まあ、場所を選べないから、車のない人には利用しにくいという不備もあるけど、無料で国から貰えるのよ。 (中略)ダーチャが飢えを救ったというのは、実際、その通りだった。本来のダーチャは、国民の大半がタダでもらえる平均600平方メートルほどの畑。普通は、住居から20~30分の距離にあり、週末に通う粗末な小屋があるくらい。
(中略)庭にはリンゴの大木があり、畑には、トマト、キュウリ、ジャガイモ、カボチャ、ニンジン、ハーブなどが育っていた。夏になれば、イチゴ、スイカ、ブルーベリー、ラズベリーもたくさん実をつける。短い夏の間に収穫したものは、酢漬けや塩漬け、ジャム、ジュースに加工したり、冷凍したり、何でも冬まで保存。まめな人なら、現金を出して買うのは、肉や魚、牛乳くらいで済むらしい。
**********************************************************
しかし、私たちが一般的に理解しているそれと、ロシアのそれは大きく異なる。
ほぼすべてといっていいくらいのロシア人家庭が所有する「ダーチャ」は、家から郊外の方に1時間~数時間離れたところにある。本来は各家庭が自給するための国から配給された農地であって、それがまあ社会主義国家の“実態を考えない机上の理想”から外れることなく、自家用車もないのにすごく離れた場所にあったものだから、仕方なく寝泊まりできるくらいの作業小屋をトンテンカントンテンカン自作しているうちに、それが住農一体の郊外別荘文化として定着したものだ。
だからぬるま湯生活に浸りきった私のような日本人の考える“別荘”とは一味も二味もどころが、「お前なあ、なめんなよ。ワケが違うんだよワケが」と鼻先に指を突きつけられるくらいに、コンセプトが違うのだ。
ダーチャの基本は“掘っ立て小屋”だから、電気や水道がない(ある場合もある。けど大抵は、ない)。
電話もない。
建物・施設は自分たちの手作りが常識。
ロシア人はそこで、夏のバカンスを過ごしたりする。
別荘での避暑と聞いて、『軽井沢でのテニス』みたいなイメージはロシア人にはない。
別荘での避暑=『ダーチャで自家農園生活』というのがロシア人なのだ。
※ただし、ウルトラリッチなロシア人(例えばアブラモビッチ氏)は、ダーチャ文化といってもそのスケールが違って、街そのものを造ってしまったりしている。
今回の大震災みたいなときの避難施設機能を考えれば、電気・ガス・水道・電話といったライフラインが途絶えた状態でも生活できる環境を整えておくことの方が、目的にかなっているのだからこれでOKなのだ。
でもって、間違いなくダーチャは楽しい。
きっと、ダーチャを作っていく過程が、ものすごく楽しいはずだ。秘密基地っぽいし。
なので、非常時の避難所にもなるダーチャを趣味にしましょう。
住と食が結びついたペチカのある暮らし
過去に食糧難を幾度も経験したロシアでは、ブレジネフ時代に、国策として自給自足を打ち出した。80年代からは、家庭菜園付きの別荘として、国民の約8割がダーチャを所有している。まあ、場所を選べないから、車のない人には利用しにくいという不備もあるけど、無料で国から貰えるのよ。 (中略)ダーチャが飢えを救ったというのは、実際、その通りだった。本来のダーチャは、国民の大半がタダでもらえる平均600平方メートルほどの畑。普通は、住居から20~30分の距離にあり、週末に通う粗末な小屋があるくらい。
(中略)庭にはリンゴの大木があり、畑には、トマト、キュウリ、ジャガイモ、カボチャ、ニンジン、ハーブなどが育っていた。夏になれば、イチゴ、スイカ、ブルーベリー、ラズベリーもたくさん実をつける。短い夏の間に収穫したものは、酢漬けや塩漬け、ジャム、ジュースに加工したり、冷凍したり、何でも冬まで保存。まめな人なら、現金を出して買うのは、肉や魚、牛乳くらいで済むらしい。
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2011年3月17日木曜日
2011年3月2日水曜日
夢の夢
エドガー・アラン・ポー (ポオ)
Edgar Allan Poe (1809_01_19-1849_10_07 / Boston / United States)
A Dream Within A Dream 1827年
Take this kiss upon the brow!
And, in parting from you now,
Thus much let me avow-
You are not wrong, who deem
That my days have been a dream;
Yet if hope has flown away
In a night, or in a day,
In a vision, or in none,
Is it therefore the less gone?
All that we see or seem
Is but a dream within a dream.
I stand amid the roar
Of a surf-tormented shore,
And I hold within my hand
Grains of the golden sand-
How few! yet how they creep
Through my fingers to the deep,
While I weep- while I weep!
O God! can I not grasp
Them with a tighter clasp?
O God! can I not save
One from the pitiless wave?
Is all that we see or seem
But a dream within a dream?
夢の夢 1827年
その眉にキスさせて。
きみとさよならするんだよね
でもこのことだけ、言わせて欲しいんだ──
全部夢だった……
そうかもしれないね
でも あの楽しかった時間が
ある夜 ある昼
幻やうたかたのように消えてしまったからって
だからって
それが全部夢だったって言える?
ぼくたちがいま見たり感じたりしてることだって
夢の夢なんだから
ぼくは
寄せ波がはげしくくだける荒磯のただなかに立ってる
手には黄金の砂粒をいくつか握りしめてる──
ほんのわずかだけど
それらがぼくの指の間からすべり落ちていってしまう
ぼくは泣いているだけ
ああ神さま
ぼくはもっとしっかり手を握りしめることはできないのでしょうか
ああ神さま
ぼくはほんの一粒だけでも
つめたい荒波から守ることはできないのでしょうか
ぼくたちが見たり感じたりしてることはみんな
夢の夢にすぎないのでしょうか。
(ゲゲ愚訳)
Edgar Allan Poe (1809_01_19-1849_10_07 / Boston / United States)
A Dream Within A Dream 1827年
Take this kiss upon the brow!
And, in parting from you now,
Thus much let me avow-
You are not wrong, who deem
That my days have been a dream;
Yet if hope has flown away
In a night, or in a day,
In a vision, or in none,
Is it therefore the less gone?
All that we see or seem
Is but a dream within a dream.
I stand amid the roar
Of a surf-tormented shore,
And I hold within my hand
Grains of the golden sand-
How few! yet how they creep
Through my fingers to the deep,
While I weep- while I weep!
O God! can I not grasp
Them with a tighter clasp?
O God! can I not save
One from the pitiless wave?
Is all that we see or seem
But a dream within a dream?
夢の夢 1827年
その眉にキスさせて。
きみとさよならするんだよね
でもこのことだけ、言わせて欲しいんだ──
全部夢だった……
そうかもしれないね
でも あの楽しかった時間が
ある夜 ある昼
幻やうたかたのように消えてしまったからって
だからって
それが全部夢だったって言える?
ぼくたちがいま見たり感じたりしてることだって
夢の夢なんだから
ぼくは
寄せ波がはげしくくだける荒磯のただなかに立ってる
手には黄金の砂粒をいくつか握りしめてる──
ほんのわずかだけど
それらがぼくの指の間からすべり落ちていってしまう
ぼくは泣いているだけ
ああ神さま
ぼくはもっとしっかり手を握りしめることはできないのでしょうか
ああ神さま
ぼくはほんの一粒だけでも
つめたい荒波から守ることはできないのでしょうか
ぼくたちが見たり感じたりしてることはみんな
夢の夢にすぎないのでしょうか。
(ゲゲ愚訳)
2011年2月19日土曜日
「どうして私ばかり」スパイラル
「どうして私ばかり」スパイラル
ここのところ、同じような「あああ、こういう人(連中)『どうして私ばっかりスパイラル』に入っちゃってるよ。気づかなきゃ、もう一生抜け出せないんだろうな」という事例に触れることが重なった。
ひとつは、寄せられたこのコメントや試合会場で耳にした情報から推察される、あるサッカーチームの経営者。
ひとつはNHKの「無縁社会キャンペーン」。
ひとつは、ルールを無視したことを注意したら「こっちは仕事なんだよ!」と切れた営業マン。
そして、昨夜(木)9時から放送されていた『ホンマでっかTV』で紹介されていたモンスターペアレンツたち。
ここに登場した人たちは皆、「自分が生きるために必死なのだから、自分のすることは許される」という倫理規範だ。
言いかえれば、「他人のために自分が死んだら元も子もない」という価値観だと言ってもいい。
「まったくその通りじゃないか」と同調する人がいたら、私は、「おいおい、少しは考えてから同調してくれよ」とアドバイスするだろう。
実際には、上で紹介した誰も「生命の危機」には晒(さら)されていないのだ。
ただただ、自分が「しない」ことのための言い訳、自分「だけ」がうまくいかないことの理由付けとして「生きるために必死」という“フレーズ”を拝借(はいしゃく)しているに過ぎない。
自分たちのチームの子供たちがより高いハードルにしようとしたときに、そのチームの“指導者(何を指導してるんだっつうの)”が子供たちの足を引っぱってしまったら、その話は永遠に語り継がれる。
兄弟、親戚、友人、知人、ご近所さんが困っているときに知らぬ存ぜぬを決め込み、自分だけには火の粉が降りかからないようにと身を隠していたくせに、いざ自分が困ったら世の中を「無縁社会」だと嘆(なげ)くのは、滑稽千万(こっけいせんばん)だ。
仕事を理由にルールやモラルをないがしろにした結果は、巡り巡って、いたるところ駐禁、防犯カメラ、ゴミの分別&有料化、渋滞、保険料高騰、そして規制規制規制。こうしたこともろもろが社会の生産性を押し下げて、結局自分の仕事の足かせ要因になる。
そして自分の子供のことしか考えない、あるいは自分のことしか考えない親たち。それは一見、「自分の子供」や「自分のこと」を優先しているようでいて、実際に起きていることは「自分の子供」と「自分」の状況の悪化促進でしかない。自分の成績表について、自分の親が学校に特別あつかいを強要したことを、自分の子供は気づかないとでも思っているのだろうか? また自分のことしか考えていない親の元で育った子供が、将来、問題なくすくすく育つと思っているのだろうか?
同じ『ホンマでっかTV』の中で、人間を含む高等動物の持つ選択認知についても触れられていた。
タカの視力や犬の嗅覚と同じ「選択認知」の能力を、人間も持っている。
タカが動く物体に対する認知能力を持ち、犬が知っている臭いに対する認知能力を持つのと同じように、人間は自分の関心がある情報に対する認知能力を持っている。また『ホンマでっかTV』の話を持ち出して恐縮だが、この番組に出演していた女性の心理学者(おそらく)が、「人は関心のある情報へアンテナを向けるので、自然と関心のある情報ばかりが集まってくる。人間が“オタク”になるのは極自然な傾向である」というような主旨の発言をしていた。
確かに人間の持つこの傾向が“オタク”のような積極的な方向へ進んでいる時は、そう悪くもないが、現実にはそうなることばかりではない。その暗黒面の例が、鬱(うつ)病であり自殺である。
一旦アンテナが、負の方向へ向いてしまうと、負の情報ばかりが集まってくることになる。またそれは同時に、負の方向へ向いているアンテナの感度を強化する(高める)働きも持ってしまう。
これの行き着く先は、何もないのにわざわざ自らマイナス情報を掘り起こしに行って自ら己の立場を悪化させて己を責めるというような「自虐(じぎゃく)行為」のエンディングだ。
こうなってしまうと、自分から火をつけて「火事よ火事よ」と騒ぎ、「私の家だけがなんでこんなに燃えやすいのよ」と嘆(なげ)いているようなもので、もはや周りが「あなたの家はちっとも変じゃないですよ。自分で火をつけるから火事になるんですよ」と指摘しても、何も耳に入らない。いやそれどころか、「私が火をつけた? バカ言わないで。元々燃えていたのを私が早期発見したのよ。私は良いことをしたのよ!」とまさに火に油を注ぐことにもなりかねない。つうか、そうなる。くわばらくわばら。
「どうして私ばっかりスパイラル」に入っている人は、自分の境遇を理由にして自分の行為を正当化しようとすると上で述べた(自分が生きるため、自分の子供のため、自分の仕事のため、etc.)が、それを聞かされた周囲はどう受けとるだろうか?
まあふつうなら、「かわいそうに、それは大変だね。何かできることとがあったら遠慮しないで言って。配慮するから」というような反応をするしかないだろう。
この言葉の意味するところは、ずばり「同情」である。同情とは、「あわれみ」であって、決して「あなたとわたしは同等」との認識ではない。同情している方が「強者」であって、同情されている方が「弱者」であることを、互いに認め合った状況、それが「同情する・している」という状態なのだ(まあ、「実態は」ということであって、これに気づかないままにいる関係も多いが)。
同情関係が認識されると、何かにつけて「配慮する」という条件が加わることになる。
この「配慮」というのは、裏を返せば「あてにできない」「まかせられない」ということだ。
「配慮しなければならない人物」に重要な役割、責任を伴(ともな)うような仕事を任せることはできない。万が一途中離脱するようなことになった場合、「私、ちゃんと相談しましたよね」と言われたら、そのお鉢(はち)は「配慮が足りなかった」こちらへ回ってくることになるからだ。
この「配慮」は、「配慮される側」にとっても良くないと私は確信している。
多少の資金援助や、他の同僚・仲間よりも「楽(らく)」はできるかもしれない。しかし、その人物へは決して「リスクはあるけど大きなリターンも期待できる話」や「一時的に負担や責任は重くなるけど、それを成し遂げれば出世につながる仕事」が回ってくることはない。気づいたら自分ばかりが取り残されていた。自分は貧しいままだった。必ずやそういうことになるだろう。そしてまた「自分だけどうして……」「どうして私ばっかり……」というスパイラルの奥底へと落ちていてしまうのだ。
他人の財布が重くなれば嫉妬し、軽くなればよろこぶ人生──おめでとう!
私はこんなに大変なの。
私はこんなにかわいそうなの。
私はこんなに不運なの。
私はこんなにぎりぎりなの(いっぱいいっぱいなの)。
あるいは、
自分の命が一番大事。自分が死んだら元も子もない。
自分の子供が一番大事。自分の子供が一番になれないならぶちこわしてやる。
自分の仕事が一番大事。自分の仕事が最優先であって他のことなんかどうでもいい。
こういう姿勢の人に集まるのは、「重要な仕事、面白い役、リターンの大きな可能性」ではなく、「同情、あわれみ、ほどこし」だ。
なぜならその「どうして私ばっかりスパイラル」に陥っている人が発信しているのは、「自分のこの状況は自分のせいではなく周りのせいなのだ。私の能力に問題があるのではなく、ついていない(不運不幸な)だけなのだ」ということではなく、「私は自分を客観視できず、工夫も努力もする気がない、無能で弱くて無責任な人物なんですよ」というアピールでしかない。
ああ無情。
「私を、あるいは私の子を一番大事にして! して! して!」←こんなことは他人に要求することじゃない。
自分のことならば、他人から尊重されるような自分になるよう工夫すること、これが「自分の成すべき事」だ。
また、自分の子供のことならば、他人から尊重されるような人物になろうと努力できるような人間に育てられるよう工夫すること、これが「親の成すべき事」だ。
サッカークラブの経営者なら、子供たちが自分のクラブを選んでくれるように経営上の工夫をすること、これが「経営者の成すべき事」であって、離れていく顧客に嫌がらせをすることじゃない。その顧客に、離れていったことを後悔させるようなクラブに育てることが本道なのに、それがわからないなら遠からず報いを受けることになる。
自分がいかにかわいそうな存在なのかをアピールすることが正しいかのような風潮は、戦後日本の悪しき文化だと私は確信している。
己を「かわいそう」と喧伝して、何かしらの「ほどこし」を受けようとするのは、乞食(こじき。仏教的な意味の方ではなく、社会風俗としての意味の方)文化であり、家畜同然の思考だ。
足を捻挫していて、ひざを痛めていて、ラフなタイプの2人のDFにぴったりマークされている状況でも、「俺によこせ」とパスを要求するのが真のストライカーだ。
「ぼく、疲れてるからパス出さないで」「きっとぼくにパス出したら、すぐとられちゃうよ」そういう顔をして、パスを拒むような奴には、そういう顔をしていないときでもパスが来なくなる。
つらいときこそ、平気な顔をすべきだし、
不安な状況であるほど、楽観しているような態度をしてみせるべきだ。
殺されそうなとき、「助けてください」と命乞いしたら、そのまま殺される。
獲物は弱ければ弱いほど、弱そうに見えれば弱そうに見えるほど、殺す方にとっては都合が良いのだ。
テレビのインタビューで不安げに「もう百社以上受けましたが全滅です」なんて言うなよ、就活生。
そういう時は、ニヤリとして「もう内定はいくつかもらったんですけど、他にも興味ある企業があるので、これからうかがうところです」と自信たっぷりに答えてみろ。就職活動してる学生みんながそういう態度を見せれば、採用する方だって学生たちを舐めなくなる。
ったく、どこの自然界に、「ここに弱ってる生き物がいますよ」って自分でアピールするアホがいる?
「俺は誰よりも強い。そして今、俺は絶好調だ」と、そうアピールしてこそ道は拓(ひら)けるのだ、と、私は確信している。
自分は自信家なのだと思い込むこと、自分は楽天家だと思い込むこと、実は結構ラッキーじゃんと思い込むこと、これらは全部タダでできるし、すぐにできる。
そして最も大事なことなのだが、
なんだかんだ言ってもこの世はすべてが面白いのだ。
おわり
ここのところ、同じような「あああ、こういう人(連中)『どうして私ばっかりスパイラル』に入っちゃってるよ。気づかなきゃ、もう一生抜け出せないんだろうな」という事例に触れることが重なった。
ひとつは、寄せられたこのコメントや試合会場で耳にした情報から推察される、あるサッカーチームの経営者。
ひとつはNHKの「無縁社会キャンペーン」。
ひとつは、ルールを無視したことを注意したら「こっちは仕事なんだよ!」と切れた営業マン。
そして、昨夜(木)9時から放送されていた『ホンマでっかTV』で紹介されていたモンスターペアレンツたち。
ここに登場した人たちは皆、「自分が生きるために必死なのだから、自分のすることは許される」という倫理規範だ。
言いかえれば、「他人のために自分が死んだら元も子もない」という価値観だと言ってもいい。
「まったくその通りじゃないか」と同調する人がいたら、私は、「おいおい、少しは考えてから同調してくれよ」とアドバイスするだろう。
実際には、上で紹介した誰も「生命の危機」には晒(さら)されていないのだ。
ただただ、自分が「しない」ことのための言い訳、自分「だけ」がうまくいかないことの理由付けとして「生きるために必死」という“フレーズ”を拝借(はいしゃく)しているに過ぎない。
自分たちのチームの子供たちがより高いハードルにしようとしたときに、そのチームの“指導者(何を指導してるんだっつうの)”が子供たちの足を引っぱってしまったら、その話は永遠に語り継がれる。
兄弟、親戚、友人、知人、ご近所さんが困っているときに知らぬ存ぜぬを決め込み、自分だけには火の粉が降りかからないようにと身を隠していたくせに、いざ自分が困ったら世の中を「無縁社会」だと嘆(なげ)くのは、滑稽千万(こっけいせんばん)だ。
仕事を理由にルールやモラルをないがしろにした結果は、巡り巡って、いたるところ駐禁、防犯カメラ、ゴミの分別&有料化、渋滞、保険料高騰、そして規制規制規制。こうしたこともろもろが社会の生産性を押し下げて、結局自分の仕事の足かせ要因になる。
そして自分の子供のことしか考えない、あるいは自分のことしか考えない親たち。それは一見、「自分の子供」や「自分のこと」を優先しているようでいて、実際に起きていることは「自分の子供」と「自分」の状況の悪化促進でしかない。自分の成績表について、自分の親が学校に特別あつかいを強要したことを、自分の子供は気づかないとでも思っているのだろうか? また自分のことしか考えていない親の元で育った子供が、将来、問題なくすくすく育つと思っているのだろうか?
同じ『ホンマでっかTV』の中で、人間を含む高等動物の持つ選択認知についても触れられていた。
タカの視力や犬の嗅覚と同じ「選択認知」の能力を、人間も持っている。
タカが動く物体に対する認知能力を持ち、犬が知っている臭いに対する認知能力を持つのと同じように、人間は自分の関心がある情報に対する認知能力を持っている。また『ホンマでっかTV』の話を持ち出して恐縮だが、この番組に出演していた女性の心理学者(おそらく)が、「人は関心のある情報へアンテナを向けるので、自然と関心のある情報ばかりが集まってくる。人間が“オタク”になるのは極自然な傾向である」というような主旨の発言をしていた。
確かに人間の持つこの傾向が“オタク”のような積極的な方向へ進んでいる時は、そう悪くもないが、現実にはそうなることばかりではない。その暗黒面の例が、鬱(うつ)病であり自殺である。
一旦アンテナが、負の方向へ向いてしまうと、負の情報ばかりが集まってくることになる。またそれは同時に、負の方向へ向いているアンテナの感度を強化する(高める)働きも持ってしまう。
これの行き着く先は、何もないのにわざわざ自らマイナス情報を掘り起こしに行って自ら己の立場を悪化させて己を責めるというような「自虐(じぎゃく)行為」のエンディングだ。
こうなってしまうと、自分から火をつけて「火事よ火事よ」と騒ぎ、「私の家だけがなんでこんなに燃えやすいのよ」と嘆(なげ)いているようなもので、もはや周りが「あなたの家はちっとも変じゃないですよ。自分で火をつけるから火事になるんですよ」と指摘しても、何も耳に入らない。いやそれどころか、「私が火をつけた? バカ言わないで。元々燃えていたのを私が早期発見したのよ。私は良いことをしたのよ!」とまさに火に油を注ぐことにもなりかねない。つうか、そうなる。くわばらくわばら。
「どうして私ばっかりスパイラル」に入っている人は、自分の境遇を理由にして自分の行為を正当化しようとすると上で述べた(自分が生きるため、自分の子供のため、自分の仕事のため、etc.)が、それを聞かされた周囲はどう受けとるだろうか?
まあふつうなら、「かわいそうに、それは大変だね。何かできることとがあったら遠慮しないで言って。配慮するから」というような反応をするしかないだろう。
この言葉の意味するところは、ずばり「同情」である。同情とは、「あわれみ」であって、決して「あなたとわたしは同等」との認識ではない。同情している方が「強者」であって、同情されている方が「弱者」であることを、互いに認め合った状況、それが「同情する・している」という状態なのだ(まあ、「実態は」ということであって、これに気づかないままにいる関係も多いが)。
同情関係が認識されると、何かにつけて「配慮する」という条件が加わることになる。
この「配慮」というのは、裏を返せば「あてにできない」「まかせられない」ということだ。
「配慮しなければならない人物」に重要な役割、責任を伴(ともな)うような仕事を任せることはできない。万が一途中離脱するようなことになった場合、「私、ちゃんと相談しましたよね」と言われたら、そのお鉢(はち)は「配慮が足りなかった」こちらへ回ってくることになるからだ。
この「配慮」は、「配慮される側」にとっても良くないと私は確信している。
多少の資金援助や、他の同僚・仲間よりも「楽(らく)」はできるかもしれない。しかし、その人物へは決して「リスクはあるけど大きなリターンも期待できる話」や「一時的に負担や責任は重くなるけど、それを成し遂げれば出世につながる仕事」が回ってくることはない。気づいたら自分ばかりが取り残されていた。自分は貧しいままだった。必ずやそういうことになるだろう。そしてまた「自分だけどうして……」「どうして私ばっかり……」というスパイラルの奥底へと落ちていてしまうのだ。
他人の財布が重くなれば嫉妬し、軽くなればよろこぶ人生──おめでとう!
私はこんなに大変なの。
私はこんなにかわいそうなの。
私はこんなに不運なの。
私はこんなにぎりぎりなの(いっぱいいっぱいなの)。
あるいは、
自分の命が一番大事。自分が死んだら元も子もない。
自分の子供が一番大事。自分の子供が一番になれないならぶちこわしてやる。
自分の仕事が一番大事。自分の仕事が最優先であって他のことなんかどうでもいい。
こういう姿勢の人に集まるのは、「重要な仕事、面白い役、リターンの大きな可能性」ではなく、「同情、あわれみ、ほどこし」だ。
なぜならその「どうして私ばっかりスパイラル」に陥っている人が発信しているのは、「自分のこの状況は自分のせいではなく周りのせいなのだ。私の能力に問題があるのではなく、ついていない(不運不幸な)だけなのだ」ということではなく、「私は自分を客観視できず、工夫も努力もする気がない、無能で弱くて無責任な人物なんですよ」というアピールでしかない。
ああ無情。
「私を、あるいは私の子を一番大事にして! して! して!」←こんなことは他人に要求することじゃない。
自分のことならば、他人から尊重されるような自分になるよう工夫すること、これが「自分の成すべき事」だ。
また、自分の子供のことならば、他人から尊重されるような人物になろうと努力できるような人間に育てられるよう工夫すること、これが「親の成すべき事」だ。
サッカークラブの経営者なら、子供たちが自分のクラブを選んでくれるように経営上の工夫をすること、これが「経営者の成すべき事」であって、離れていく顧客に嫌がらせをすることじゃない。その顧客に、離れていったことを後悔させるようなクラブに育てることが本道なのに、それがわからないなら遠からず報いを受けることになる。
自分がいかにかわいそうな存在なのかをアピールすることが正しいかのような風潮は、戦後日本の悪しき文化だと私は確信している。
己を「かわいそう」と喧伝して、何かしらの「ほどこし」を受けようとするのは、乞食(こじき。仏教的な意味の方ではなく、社会風俗としての意味の方)文化であり、家畜同然の思考だ。
足を捻挫していて、ひざを痛めていて、ラフなタイプの2人のDFにぴったりマークされている状況でも、「俺によこせ」とパスを要求するのが真のストライカーだ。
「ぼく、疲れてるからパス出さないで」「きっとぼくにパス出したら、すぐとられちゃうよ」そういう顔をして、パスを拒むような奴には、そういう顔をしていないときでもパスが来なくなる。
つらいときこそ、平気な顔をすべきだし、
不安な状況であるほど、楽観しているような態度をしてみせるべきだ。
殺されそうなとき、「助けてください」と命乞いしたら、そのまま殺される。
獲物は弱ければ弱いほど、弱そうに見えれば弱そうに見えるほど、殺す方にとっては都合が良いのだ。
テレビのインタビューで不安げに「もう百社以上受けましたが全滅です」なんて言うなよ、就活生。
そういう時は、ニヤリとして「もう内定はいくつかもらったんですけど、他にも興味ある企業があるので、これからうかがうところです」と自信たっぷりに答えてみろ。就職活動してる学生みんながそういう態度を見せれば、採用する方だって学生たちを舐めなくなる。
ったく、どこの自然界に、「ここに弱ってる生き物がいますよ」って自分でアピールするアホがいる?
「俺は誰よりも強い。そして今、俺は絶好調だ」と、そうアピールしてこそ道は拓(ひら)けるのだ、と、私は確信している。
自分は自信家なのだと思い込むこと、自分は楽天家だと思い込むこと、実は結構ラッキーじゃんと思い込むこと、これらは全部タダでできるし、すぐにできる。
そして最も大事なことなのだが、
なんだかんだ言ってもこの世はすべてが面白いのだ。
おわり
2011年2月16日水曜日
経(米悪い)読(トヨタ悪い)朝(日本悪い)
2月11日の社説に見る各社の姿勢
【結論】
日経→アメリカ政府反省せよ
読売→トヨタ反省せよ
朝日→日本企業全体反省せよ
****************日本経済新聞社説********************
米の公平さ疑うトヨタ騒動
2011/2/11
「トヨタ車」で不具合が指摘されていた電子制御システムの問題を巡り、米運輸省が「欠陥はなかった」とする最終報告を発表した。トヨタ自動車の主張が認められた。
調査には米航空宇宙局(NASA)も加わった。専門家の調査で安全性が確認されたのは歓迎すべきだ。だが大規模リコール(回収・無償修理)が起きた1年前の騒ぎは何だったのか。理解に苦しむ点もある。
争点はトヨタ車で多発した「予期せぬ加速」の原因だった。トヨタは当初、「フロアマットに純正品を使わなかったのが原因」とし、リコールに消極的だった。それが米国民の不信を買い、結局は800万台近い車をリコールした。
関連する費用は2011年3月期決算まで2年続けて4000億円近くに達するが、初動での至らなさを考えれば仕方がなかった。あまりにも急激に生産や販売のグローバル化が進み、動きが鈍くなっていた。
しかしリコール問題の焦点が電子制御の安全性に移ってからは、米国政府の対応に問題があった。昨年2月、米テレビ局が電子回路の一部を傷つけてショートさせるとエンジンが加速する様子を実演し、放送した。それをきっかけに、今度は電子制御装置が急加速の原因ではないかと公聴会などで疑われだした。
結局は、映像に編集上の問題があったことが判明したが、米運輸省のラフード長官は当初から「トヨタ車には乗らない方がいい」と踏み込んで発言した。長官は8日の記者会見で「当時は電子制御に問題がないと言っても議会が納得しなかった」と弁明し、発言を撤回している。
米政府は原因の調査を尽くした。だが急加速の原因がはっきりしない段階から、監督する官庁のトップが企業名を挙げて「乗るな」というのは、公平でなかった。軽はずみな発言で「トヨタたたき」を必要以上にあおり、トヨタの米国での新車販売にも影響を与えた。
ゼネラル・モーターズ(GM)の再建や中間選挙などを控え、政治的には難しい時期だった。とはいえ企業は本来、公平・公正な条件下で競い合うべきであり、その土俵を整える役目を担う米政府に行き過ぎがあったのは納得できない。
************************************
*****************読売新聞社説*******************
トヨタ安全認定 国際企業に残された重い教訓
2月11日付・読売社説
全米に吹き荒れた「トヨタたたき」は、おおむね収束に向かうだろう。だが、傷付いたブランドイメージの回復は道半ばである。
トヨタ車が運転中に急加速するとされた問題で、米運輸省が最終報告を発表した。原因として疑われた電子制御システムに「シロ判定」を下した。「欠陥はない」とするトヨタの主張が全面的に認められたといえる。
しかし、問題の発生当時、米当局への報告が遅れるなど、トヨタの動きは鈍く、安全性に敏感な米国の消費者の反応を見誤った。
企業にとって、自社製品の品質管理は最優先課題である。対応を誤れば、長年かけて築き上げてきた信用も一瞬で崩れ去る。トヨタは、こうした点を今後の経営の糧としなければならない。
トヨタ車に対する苦情が米国内で相次いだのは、2009年ごろだ。自ら調査した結果、トヨタはアクセルペダルなどの不具合を認め、800万台のリコール(回収・無償修理)に追い込まれた。
焦点となっていた電子制御システムは、米国で販売されているすべてのトヨタ車に使われている。欠陥が認定されれば、米国での生産や販売への打撃は計り知れないものとなったに違いない。
米当局が安全性にお墨付きを与え、疑念がさらに広がる事態を避けられたことは、トヨタにとっては朗報である。
一方で、トヨタ車の保有者が「リコールで車の価値が下がった」として損害賠償を求める集団訴訟は各地で続いている。最終報告はトヨタに有利に働こうが、訴訟の行方は予断を許さない。
米国での業績不振も続いている。昨年の米新車市場は主要各社が揃(そろ)って前年比プラスを確保する中で、トヨタだけが販売台数を減らした。消費者の不信感が払拭されていないということだろう。
米国の議会や政府、メディアは一時、激しいトヨタ批判を展開した。急先鋒(せんぽう)となったのは、米自動車大手の拠点を選挙区に抱える議員たちだ。10年の中間選挙を控え、トヨタ追及を政治的に利用しようとする狙いは明らかだった。
最終報告を受け、米紙は「ヒステリーを起こした米議会は責められるべきだ」と批判した。こうした議員らには、大いに反省してもらう必要がある。
ただ、グローバル企業にとって、文化の違いなどから国内では想定しがたいリスクがつきものである。それを再認識することが、トヨタ問題の教訓となろう。
************************************
*******************朝日新聞社説*****************
「トヨタ安全」―リコール騒動の重い教訓 喜ばしい結果だ、というだけではすまない。関係者はもちろん、多くの人々が共有すべき教訓がある。
2011-02-11
トヨタ自動車の屋台骨を揺るがし、1年前には豊田章男社長が議会公聴会に呼び出される事態に至った米国での製品トラブル。その中で最後まで調査が続いていた電子制御システムに絡む急加速の疑いについて、米運輸省が「シロ」の判定を下した。
システム解析で欠陥は見つからなかった。多くの急発進は、運転席のフロアシートがアクセルペダルに引っかかるという別のトラブルか、運転手のミスによるものだという。
アクセルペダルはリコール(回収・無償修理)ずみなので、巨額の民事訴訟などは残るが、一連のトラブルはひとまずケリがついた格好だ。
品質の良さで米自動車大手ゼネラル・モーターズ(GM)を抜き世界のトップに立った矢先のトヨタは、ブランドイメージに深手を負った。米当局が電子制御にお墨付きを与えたことが失地回復への追い風にはなろう。
しかし、米当局の対応は振幅が大きかった。今後の安全行政にとって生かすべき点は少なくない。
例えば、疑惑報道で持ちきりだった昨年2月、米議会でラフッド運輸長官が「私の忠告はトヨタ車の運転をやめて販売店に持っていくことだ」と述べ、運転できないほど危険な欠陥なのか、との不安を広げた。
後に訂正したものの、この発言はトヨタの信用を失墜させる破壊力も大きかった。今回の「シロ」発表で長官は手のひらを返したように「私の娘もトヨタ車を買った」と語り、修復に配慮する姿勢を示した。
このような大きなブレは、米当局の姿勢に疑問を抱かせる。当時はGM再建に米国民が期待を寄せているさなかで、中間選挙を控えた時期でもあった。米メディアを中心とした過熱報道もあり、安全性をめぐる冷静な議論が見失われがちだった。
電子制御という新しいシステムの安全をいかに迅速に確認するか、という課題も浮き彫りになった。
トヨタにとっての教訓も重い。トラブルが発生すれば情報の洪水が世界を駆けめぐる。対応が鈍かった根本原因は、日本の本社に権限が集中しすぎていたことにあった。反省を踏まえ、安全対応への判断などについて海外拠点の発言権を大幅に拡大した。
世界のトップに立つと、批判の矢面にさらされやすい。トヨタでもなお「グローバル経営」というには課題が多いということだろう。
多くの企業が新興国を含む世界市場へ改めて打って出ようとしているいま、トヨタが直面した問題は、脱皮しようとする日本の企業すべてが我が事として考えるべき教訓に満ちている。
************************************
情報というソフトそのものを売って商売にしている新聞社こそ、真っ先にグローバル化できそうなのに、なぜやらないのか。
社員の中に、英字新聞・サイトを読める程度の語学力もないような記者なんて、まさか、いないよねえ。
御社様方の生産する新聞文と一緒で、構成や登場する単語や文章表現は数パターンしかない(時々の固有名詞が異なるだけ)んだから簡単でしょ。
ね。
【結論】
日経→アメリカ政府反省せよ
読売→トヨタ反省せよ
朝日→日本企業全体反省せよ
****************日本経済新聞社説********************
米の公平さ疑うトヨタ騒動
2011/2/11
「トヨタ車」で不具合が指摘されていた電子制御システムの問題を巡り、米運輸省が「欠陥はなかった」とする最終報告を発表した。トヨタ自動車の主張が認められた。
調査には米航空宇宙局(NASA)も加わった。専門家の調査で安全性が確認されたのは歓迎すべきだ。だが大規模リコール(回収・無償修理)が起きた1年前の騒ぎは何だったのか。理解に苦しむ点もある。
争点はトヨタ車で多発した「予期せぬ加速」の原因だった。トヨタは当初、「フロアマットに純正品を使わなかったのが原因」とし、リコールに消極的だった。それが米国民の不信を買い、結局は800万台近い車をリコールした。
関連する費用は2011年3月期決算まで2年続けて4000億円近くに達するが、初動での至らなさを考えれば仕方がなかった。あまりにも急激に生産や販売のグローバル化が進み、動きが鈍くなっていた。
しかしリコール問題の焦点が電子制御の安全性に移ってからは、米国政府の対応に問題があった。昨年2月、米テレビ局が電子回路の一部を傷つけてショートさせるとエンジンが加速する様子を実演し、放送した。それをきっかけに、今度は電子制御装置が急加速の原因ではないかと公聴会などで疑われだした。
結局は、映像に編集上の問題があったことが判明したが、米運輸省のラフード長官は当初から「トヨタ車には乗らない方がいい」と踏み込んで発言した。長官は8日の記者会見で「当時は電子制御に問題がないと言っても議会が納得しなかった」と弁明し、発言を撤回している。
米政府は原因の調査を尽くした。だが急加速の原因がはっきりしない段階から、監督する官庁のトップが企業名を挙げて「乗るな」というのは、公平でなかった。軽はずみな発言で「トヨタたたき」を必要以上にあおり、トヨタの米国での新車販売にも影響を与えた。
ゼネラル・モーターズ(GM)の再建や中間選挙などを控え、政治的には難しい時期だった。とはいえ企業は本来、公平・公正な条件下で競い合うべきであり、その土俵を整える役目を担う米政府に行き過ぎがあったのは納得できない。
************************************
*****************読売新聞社説*******************
トヨタ安全認定 国際企業に残された重い教訓
2月11日付・読売社説
全米に吹き荒れた「トヨタたたき」は、おおむね収束に向かうだろう。だが、傷付いたブランドイメージの回復は道半ばである。
トヨタ車が運転中に急加速するとされた問題で、米運輸省が最終報告を発表した。原因として疑われた電子制御システムに「シロ判定」を下した。「欠陥はない」とするトヨタの主張が全面的に認められたといえる。
しかし、問題の発生当時、米当局への報告が遅れるなど、トヨタの動きは鈍く、安全性に敏感な米国の消費者の反応を見誤った。
企業にとって、自社製品の品質管理は最優先課題である。対応を誤れば、長年かけて築き上げてきた信用も一瞬で崩れ去る。トヨタは、こうした点を今後の経営の糧としなければならない。
トヨタ車に対する苦情が米国内で相次いだのは、2009年ごろだ。自ら調査した結果、トヨタはアクセルペダルなどの不具合を認め、800万台のリコール(回収・無償修理)に追い込まれた。
焦点となっていた電子制御システムは、米国で販売されているすべてのトヨタ車に使われている。欠陥が認定されれば、米国での生産や販売への打撃は計り知れないものとなったに違いない。
米当局が安全性にお墨付きを与え、疑念がさらに広がる事態を避けられたことは、トヨタにとっては朗報である。
一方で、トヨタ車の保有者が「リコールで車の価値が下がった」として損害賠償を求める集団訴訟は各地で続いている。最終報告はトヨタに有利に働こうが、訴訟の行方は予断を許さない。
米国での業績不振も続いている。昨年の米新車市場は主要各社が揃(そろ)って前年比プラスを確保する中で、トヨタだけが販売台数を減らした。消費者の不信感が払拭されていないということだろう。
米国の議会や政府、メディアは一時、激しいトヨタ批判を展開した。急先鋒(せんぽう)となったのは、米自動車大手の拠点を選挙区に抱える議員たちだ。10年の中間選挙を控え、トヨタ追及を政治的に利用しようとする狙いは明らかだった。
最終報告を受け、米紙は「ヒステリーを起こした米議会は責められるべきだ」と批判した。こうした議員らには、大いに反省してもらう必要がある。
ただ、グローバル企業にとって、文化の違いなどから国内では想定しがたいリスクがつきものである。それを再認識することが、トヨタ問題の教訓となろう。
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*******************朝日新聞社説*****************
「トヨタ安全」―リコール騒動の重い教訓 喜ばしい結果だ、というだけではすまない。関係者はもちろん、多くの人々が共有すべき教訓がある。
2011-02-11
トヨタ自動車の屋台骨を揺るがし、1年前には豊田章男社長が議会公聴会に呼び出される事態に至った米国での製品トラブル。その中で最後まで調査が続いていた電子制御システムに絡む急加速の疑いについて、米運輸省が「シロ」の判定を下した。
システム解析で欠陥は見つからなかった。多くの急発進は、運転席のフロアシートがアクセルペダルに引っかかるという別のトラブルか、運転手のミスによるものだという。
アクセルペダルはリコール(回収・無償修理)ずみなので、巨額の民事訴訟などは残るが、一連のトラブルはひとまずケリがついた格好だ。
品質の良さで米自動車大手ゼネラル・モーターズ(GM)を抜き世界のトップに立った矢先のトヨタは、ブランドイメージに深手を負った。米当局が電子制御にお墨付きを与えたことが失地回復への追い風にはなろう。
しかし、米当局の対応は振幅が大きかった。今後の安全行政にとって生かすべき点は少なくない。
例えば、疑惑報道で持ちきりだった昨年2月、米議会でラフッド運輸長官が「私の忠告はトヨタ車の運転をやめて販売店に持っていくことだ」と述べ、運転できないほど危険な欠陥なのか、との不安を広げた。
後に訂正したものの、この発言はトヨタの信用を失墜させる破壊力も大きかった。今回の「シロ」発表で長官は手のひらを返したように「私の娘もトヨタ車を買った」と語り、修復に配慮する姿勢を示した。
このような大きなブレは、米当局の姿勢に疑問を抱かせる。当時はGM再建に米国民が期待を寄せているさなかで、中間選挙を控えた時期でもあった。米メディアを中心とした過熱報道もあり、安全性をめぐる冷静な議論が見失われがちだった。
電子制御という新しいシステムの安全をいかに迅速に確認するか、という課題も浮き彫りになった。
トヨタにとっての教訓も重い。トラブルが発生すれば情報の洪水が世界を駆けめぐる。対応が鈍かった根本原因は、日本の本社に権限が集中しすぎていたことにあった。反省を踏まえ、安全対応への判断などについて海外拠点の発言権を大幅に拡大した。
世界のトップに立つと、批判の矢面にさらされやすい。トヨタでもなお「グローバル経営」というには課題が多いということだろう。
多くの企業が新興国を含む世界市場へ改めて打って出ようとしているいま、トヨタが直面した問題は、脱皮しようとする日本の企業すべてが我が事として考えるべき教訓に満ちている。
************************************
情報というソフトそのものを売って商売にしている新聞社こそ、真っ先にグローバル化できそうなのに、なぜやらないのか。
社員の中に、英字新聞・サイトを読める程度の語学力もないような記者なんて、まさか、いないよねえ。
御社様方の生産する新聞文と一緒で、構成や登場する単語や文章表現は数パターンしかない(時々の固有名詞が異なるだけ)んだから簡単でしょ。
ね。
2011年2月11日金曜日
平成23年2月8日(火)─読売新聞社説─
読売新聞社説
2011年 平成23年 2月8日(火)
陸山会事件 裁判で「小沢氏資金」の解明を(2月8日付・読売社説)
冒頭から全面対決の様相となった。
民主党の小沢一郎元代表の資金管理団体「陸山会」の土地取引を巡る事件で、政治資金規正法違反に問われた石川知裕衆院議員ら元秘書3人の公判が始まった。
小沢氏から借り入れた土地購入原資の4億円が出所を明らかにできない金だったため、政治資金収支報告書に記載しなかった――というのが、検察側の主張だ。
これに対し、石川議員らは「虚偽の記載をした認識はない」などと否定し、無罪を訴えた。
この事件では、小沢氏自身も検察審査会の議決に基づき、共犯として強制起訴されたばかりだ。証拠や争点の多くが重なる元秘書3人の裁判は、夏以降に始まると見られる小沢氏の裁判の行方を占う前哨戦の意味合いもあろう。
焦点となっている土地購入原資の4億円について、小沢氏は説明を二転三転させてきた。裁判では4億円の出所や趣旨を徹底的に明らかにしてもらいたい。
検察側は冒頭陳述で、「小沢氏からの借り入れと同時期に、小沢事務所は建設業者からダム工事の受注に絡んで裏献金を受領していた」とも言及した。虚偽記載という行為の悪質性を強調する狙いがあるのだろう。
石川議員らは受領自体を否定している。「金を届けた」とする業者側の供述の信用性を検察がどこまで立証できるかが鍵を握る。
公共工事の業者選定への影響力を背景に、小沢事務所が建設業者から資金提供を受ける構図は、2年前に摘発された西松建設の違法献金事件の裁判でも浮上した。
小沢氏はこれまで検察や検察審査会への批判を繰り返す一方で、詳細な説明を避けている。国会招致も実現していない。被告人の立場になったとはいえ、政治家として国会で説明する必要がある。
一方、数々の政界事件を手がけてきた東京地検特捜部の捜査手法に、今、かつてない厳しい目が注がれているのも事実である。
石川議員らは「強引な取り調べで供述を誘導された」として、捜査段階で容疑を認めた供述調書の任意性や信用性を争っている。
この裁判で、事件の根幹にかかわる供述調書の信用性などが否定されれば、小沢氏の裁判の方向性を決めかねないばかりか、関係者の供述を積み重ねて真相解明を試みてきた特捜部の捜査の在り方も問われることになる。
検察には、供述調書の任意性や信用性を一つひとつ丁寧に立証していくことが求められよう。
*************ここまで****************
▲焦点となっている土地購入原資の4億円について、小沢氏は説明を二転三転させてきた。裁判では4億円の出所や趣旨を徹底的に明らかにしてもらいたい。
裁判で焦点になってるのは、意図的に虚偽の記載をしたか、だったように理解していたのですが、変更されたのでしょうか?
▲虚偽記載という行為の悪質性を強調する狙いがあるのだろう。
立件した検察であるなら、「強調」するんじゃんくて「立証」しないといけないのでは。
それに反権力であるはずのジャーナリズムの精神からすれば、「強調」などという非論理的な手段に頼る検察の手法は、印象操作であるとして批判の対象とするべきなのでは。
▲「金を届けた」とする業者側の供述の信用性を検察がどこまで立証できるかが鍵を握る。
いや、それってこの裁判のメインテーマじゃないし──。
といいますか、そもそも、そんなに重要な供述なら、物証もそろえて「強固な立証」をしないと意味ないです。ましてや「どこまで立証できるかが鍵を握る」なんていうレベルでしかないなら、裁判に証拠提出したら、むしろ逆効果だと思いますよ。
▲公共工事の業者選定への影響力を背景に、小沢事務所が建設業者から資金提供を受ける構図は、2年前に摘発された西松建設の違法献金事件の裁判でも浮上した。
浮上して、どうなったのでしょう? 沈んでしまったのでは?
一流紙が社説で持ち出すなら、浮上してどうなったかという結論の方を重視すべきでしょう。これではこっちの方が「印象操作」じゃないですか。それに、その手の影響力が問題になるのは、与党政治家や政府幹部という「実権限」を持っている人の場合ですよね。
▲被告人の立場になったとはいえ、政治家として国会で説明する必要がある。
マジっすか?
「被告人の立場になったとはいえ」って、司法をずいぶん軽く見てないっすか?
仮に国会の証人喚問で「オッケー、おたくは潔白」という結論が出たとして、でも裁判では「判決。お前まっ黒」となった場合、国会での説明に何か意味ありますかね? その逆の場合なんて『ザ・人民裁判』。法治国家の看板を捨てますか?
三権分立を守るには、司法の問題に立法府や行政府が口を出すのは厳に慎むべきだと、私は思います。
▲東京地検特捜部の捜査手法に、今、かつてない厳しい目が注がれているのも事実である。
いやいやいや、厳しい目を、あなたたち報道機関が向けないとダメでしょ。
何、他人事みたいかたっちゃってるんすか。頼みますよホント。
▲検察には、供述調書の任意性や信用性を一つひとつ丁寧に立証していくことが求められよう。
当たり前のことで締められても……。
【結論】
「あいつをやっつけて欲しいのは山々だけど、やばくなっても俺は関係ないから」ってとこっすかね。
2011年 平成23年 2月8日(火)
陸山会事件 裁判で「小沢氏資金」の解明を(2月8日付・読売社説)
冒頭から全面対決の様相となった。
民主党の小沢一郎元代表の資金管理団体「陸山会」の土地取引を巡る事件で、政治資金規正法違反に問われた石川知裕衆院議員ら元秘書3人の公判が始まった。
小沢氏から借り入れた土地購入原資の4億円が出所を明らかにできない金だったため、政治資金収支報告書に記載しなかった――というのが、検察側の主張だ。
これに対し、石川議員らは「虚偽の記載をした認識はない」などと否定し、無罪を訴えた。
この事件では、小沢氏自身も検察審査会の議決に基づき、共犯として強制起訴されたばかりだ。証拠や争点の多くが重なる元秘書3人の裁判は、夏以降に始まると見られる小沢氏の裁判の行方を占う前哨戦の意味合いもあろう。
焦点となっている土地購入原資の4億円について、小沢氏は説明を二転三転させてきた。裁判では4億円の出所や趣旨を徹底的に明らかにしてもらいたい。
検察側は冒頭陳述で、「小沢氏からの借り入れと同時期に、小沢事務所は建設業者からダム工事の受注に絡んで裏献金を受領していた」とも言及した。虚偽記載という行為の悪質性を強調する狙いがあるのだろう。
石川議員らは受領自体を否定している。「金を届けた」とする業者側の供述の信用性を検察がどこまで立証できるかが鍵を握る。
公共工事の業者選定への影響力を背景に、小沢事務所が建設業者から資金提供を受ける構図は、2年前に摘発された西松建設の違法献金事件の裁判でも浮上した。
小沢氏はこれまで検察や検察審査会への批判を繰り返す一方で、詳細な説明を避けている。国会招致も実現していない。被告人の立場になったとはいえ、政治家として国会で説明する必要がある。
一方、数々の政界事件を手がけてきた東京地検特捜部の捜査手法に、今、かつてない厳しい目が注がれているのも事実である。
石川議員らは「強引な取り調べで供述を誘導された」として、捜査段階で容疑を認めた供述調書の任意性や信用性を争っている。
この裁判で、事件の根幹にかかわる供述調書の信用性などが否定されれば、小沢氏の裁判の方向性を決めかねないばかりか、関係者の供述を積み重ねて真相解明を試みてきた特捜部の捜査の在り方も問われることになる。
検察には、供述調書の任意性や信用性を一つひとつ丁寧に立証していくことが求められよう。
*************ここまで****************
▲焦点となっている土地購入原資の4億円について、小沢氏は説明を二転三転させてきた。裁判では4億円の出所や趣旨を徹底的に明らかにしてもらいたい。
裁判で焦点になってるのは、意図的に虚偽の記載をしたか、だったように理解していたのですが、変更されたのでしょうか?
▲虚偽記載という行為の悪質性を強調する狙いがあるのだろう。
立件した検察であるなら、「強調」するんじゃんくて「立証」しないといけないのでは。
それに反権力であるはずのジャーナリズムの精神からすれば、「強調」などという非論理的な手段に頼る検察の手法は、印象操作であるとして批判の対象とするべきなのでは。
▲「金を届けた」とする業者側の供述の信用性を検察がどこまで立証できるかが鍵を握る。
いや、それってこの裁判のメインテーマじゃないし──。
といいますか、そもそも、そんなに重要な供述なら、物証もそろえて「強固な立証」をしないと意味ないです。ましてや「どこまで立証できるかが鍵を握る」なんていうレベルでしかないなら、裁判に証拠提出したら、むしろ逆効果だと思いますよ。
▲公共工事の業者選定への影響力を背景に、小沢事務所が建設業者から資金提供を受ける構図は、2年前に摘発された西松建設の違法献金事件の裁判でも浮上した。
浮上して、どうなったのでしょう? 沈んでしまったのでは?
一流紙が社説で持ち出すなら、浮上してどうなったかという結論の方を重視すべきでしょう。これではこっちの方が「印象操作」じゃないですか。それに、その手の影響力が問題になるのは、与党政治家や政府幹部という「実権限」を持っている人の場合ですよね。
▲被告人の立場になったとはいえ、政治家として国会で説明する必要がある。
マジっすか?
「被告人の立場になったとはいえ」って、司法をずいぶん軽く見てないっすか?
仮に国会の証人喚問で「オッケー、おたくは潔白」という結論が出たとして、でも裁判では「判決。お前まっ黒」となった場合、国会での説明に何か意味ありますかね? その逆の場合なんて『ザ・人民裁判』。法治国家の看板を捨てますか?
三権分立を守るには、司法の問題に立法府や行政府が口を出すのは厳に慎むべきだと、私は思います。
▲東京地検特捜部の捜査手法に、今、かつてない厳しい目が注がれているのも事実である。
いやいやいや、厳しい目を、あなたたち報道機関が向けないとダメでしょ。
何、他人事みたいかたっちゃってるんすか。頼みますよホント。
▲検察には、供述調書の任意性や信用性を一つひとつ丁寧に立証していくことが求められよう。
当たり前のことで締められても……。
【結論】
「あいつをやっつけて欲しいのは山々だけど、やばくなっても俺は関係ないから」ってとこっすかね。
平成23年2月8日(火)─朝日新聞社説─
朝日新聞社説
2011年 平成23年 2月8日(火)
陸山会事件―国民感覚との大きな遊離 民主党の小沢一郎元代表の元秘書3人に対する裁判が始まった。いずれも氏の資金管理団体「陸山会」の土地取引に絡み、政治資金収支報告書にうそを記載した罪に問われている。
3人はそろって無罪を主張した。秋にも予想される判決は、別途、検察審査会の議決を受けて強制起訴された小沢氏の裁判にも影響を及ぼす。大きな意味をもつ法廷である。
報告書に事実と違う記載があれば直ちに虚偽記載罪が成立するわけではない。ちょっとしたミスまで追及していてはきりがないし、捜査当局の裁量で特定の政治家を訴追したり見逃したりすることにもなりかねない。このため検察は、悪質重大と判断したものに絞って摘発する姿勢をとってきた。
今回、検察側は事件の背景に中堅ゼネコンからの裏金の授受があったと主張し、公判で立証するという。その成否や3人の有罪無罪を軽々しく予想することはできない。これからの審理を注意深く見守りたい。
そのうえで、元秘書側の反論を聞いて改めて思うのは、政治資金や収支報告書の扱いに関する国民の感覚・期待とのあまりに大きな隔たりである。
例えば、現職の衆院議員である石川知裕被告側の言い分はこうだ。
▽土地購入に際し、本来ならば陸山会名義で4億円の銀行融資を受けるべきだった。だが銀行が難色を示すのではないかと配慮し、社会的信用がある小沢氏の名義を借りたに過ぎない。
▽関連して、小沢氏の別の政治団体から総額1億4500万円を陸山会に移したが、左のポケットから右のポケットに移し替えた程度の意識だったので、報告書に記載しなかった。
▽このカネは元の団体に戻すつもりだったが、仕事で忙しく、ついつい実行しないまま放置しただけだ。
▽報告書が公表されるころに党代表選が予想された。高額の土地取得が明らかになると騒がれるので、登記も報告書への記載も先延ばしにした――。
この説明通りだったら、あるいは虚偽記載罪に問われないかもしれない。だが、政治活動を「国民の不断の監視と批判の下」に置くことによって民主政治の健全な発達をめざすという、政治資金規正法の目的は、小沢氏周辺でどう認識されていたのだろう。
当時は一連の政治改革から10年余。政治資金の透明化と適正化は引き続き社会の要請だった。それなのに秘書の「配慮」や「ついつい」、そして党内抗争への思惑で、政界の実力者を取り巻くカネや資産の流れは国民の目から遠ざけられ続けたことになる。
これが常々、「オープン、明朗」と胸を張ってきた人物の足元なのか。政治に携わる者の「責務の重要性」と、それを支える国民との適切な関係を唱える規正法の条文が、空しく響く。
************ここまで*****************
▲捜査当局の裁量で特定の政治家を訴追したり見逃したりすることにもなりかねない。このため検察は、悪質重大と判断したものに絞って摘発する姿勢をとってきた。
「捜査当局の裁量」と「悪質重大と判断したものに絞って」の違いがわからないんですけど。
▲(公判での立証の)その成否や3人の有罪無罪を軽々しく予想することはできない。これからの審理を注意深く見守りたい。
もう2年近く、特集を組んで特別体制で報道してきた「疑わしき小沢一郎は有罪」キャンペーンの御旗はどこへ?
「軽々しく」とか「注意深く見守りたい」とか、思いっきり逃げてますね。アサヒカコワルイ。
▲「そのうえで──」ですか……。やっぱり正直がいいですね。で、それでそれで?
▲国民の感覚・期待とのあまりに大きな隔たりである。
「国民」? まあ確かに、この社説を書かれた朝日記者さんも、国民のひとりではあるんでしょうけど(違ったりして)。
勝手に代表されても、同様に国民の一人であるわたしととしては戸惑うばかりです。
▲政治活動を「国民の不断の監視と批判の下」に置くことによって民主政治の健全な発達をめざすという、政治資金規正法の目的は、小沢氏周辺でどう認識されていたのだろう。
ああ、ちょっとわかった気がします。
朝日新聞のこの記者さんは、根本的なところでこの一件を間違えて理解しています。
土地取引も、お金の動きも、違法じゃなかったんです。まずこれが基本その1です(ガサも入りましたよね)。
でもって、このうちのお金の流れの中で、政治資金団体に関係すると判断した部分を報告書へ記載する際、意図を持って不当に記載したのだ、というのが検察の主張です。これが基本その2。
「水谷建設からの裏金うんぬん」については、別の関連裁判で「神の声」が根も葉もないものとされた時点で、司法上は実質終わった話になっています。基本その3。
▲秘書の「配慮」や「ついつい」、そして党内抗争への思惑で、政界の実力者を取り巻くカネや資産の流れは国民の目から遠ざけられ続けたことになる。
いや……ですから……、記載されてて、公表もされてましたよね。だからこれだけの騒ぎになったんでしょ。
本当に悪い連中は、きっちり隠して、しっかり「国民の目から遠ざけ」ることに成功している連中のことなのではないでしょうか。
ジャーナリストだという気概がまだ少しでも残っているのなら、そっちの、本当に隠している連中の悪事の方を暴いてくださいよ、と私はお願いしたい。
もしかしたら、本当に悪いことが報じられていないために、「国民」がそのことにまったく気づいていない、ということもないとは言えませんよね。まさに今!
【結論】
これが常々、「オープン、明朗」と胸を張ってきた大新聞社の足元なのか。報道に携わる者の「責務の重要性」と、それを支える国民との適切な関係を唱える日本新聞協会の倫理綱領が、空しく響く。
新聞倫理綱領
正確と公正
記者個人の立場や信条に左右されてはならない。論評は世におもねらず、所信を貫くべきである。
人権の尊重
個人の名誉を重んじプライバシーに配慮する。報道を誤ったときはすみやかに訂正し、正当な理由もなく相手の名誉を傷つけたと判断したときは、反論の機会を提供するなど、適切な措置を講じる。
ちっこいちっこい訂正記事や、起訴即有罪認定のような姿勢は、いかがなものなのでしょうか。
2011年 平成23年 2月8日(火)
陸山会事件―国民感覚との大きな遊離 民主党の小沢一郎元代表の元秘書3人に対する裁判が始まった。いずれも氏の資金管理団体「陸山会」の土地取引に絡み、政治資金収支報告書にうそを記載した罪に問われている。
3人はそろって無罪を主張した。秋にも予想される判決は、別途、検察審査会の議決を受けて強制起訴された小沢氏の裁判にも影響を及ぼす。大きな意味をもつ法廷である。
報告書に事実と違う記載があれば直ちに虚偽記載罪が成立するわけではない。ちょっとしたミスまで追及していてはきりがないし、捜査当局の裁量で特定の政治家を訴追したり見逃したりすることにもなりかねない。このため検察は、悪質重大と判断したものに絞って摘発する姿勢をとってきた。
今回、検察側は事件の背景に中堅ゼネコンからの裏金の授受があったと主張し、公判で立証するという。その成否や3人の有罪無罪を軽々しく予想することはできない。これからの審理を注意深く見守りたい。
そのうえで、元秘書側の反論を聞いて改めて思うのは、政治資金や収支報告書の扱いに関する国民の感覚・期待とのあまりに大きな隔たりである。
例えば、現職の衆院議員である石川知裕被告側の言い分はこうだ。
▽土地購入に際し、本来ならば陸山会名義で4億円の銀行融資を受けるべきだった。だが銀行が難色を示すのではないかと配慮し、社会的信用がある小沢氏の名義を借りたに過ぎない。
▽関連して、小沢氏の別の政治団体から総額1億4500万円を陸山会に移したが、左のポケットから右のポケットに移し替えた程度の意識だったので、報告書に記載しなかった。
▽このカネは元の団体に戻すつもりだったが、仕事で忙しく、ついつい実行しないまま放置しただけだ。
▽報告書が公表されるころに党代表選が予想された。高額の土地取得が明らかになると騒がれるので、登記も報告書への記載も先延ばしにした――。
この説明通りだったら、あるいは虚偽記載罪に問われないかもしれない。だが、政治活動を「国民の不断の監視と批判の下」に置くことによって民主政治の健全な発達をめざすという、政治資金規正法の目的は、小沢氏周辺でどう認識されていたのだろう。
当時は一連の政治改革から10年余。政治資金の透明化と適正化は引き続き社会の要請だった。それなのに秘書の「配慮」や「ついつい」、そして党内抗争への思惑で、政界の実力者を取り巻くカネや資産の流れは国民の目から遠ざけられ続けたことになる。
これが常々、「オープン、明朗」と胸を張ってきた人物の足元なのか。政治に携わる者の「責務の重要性」と、それを支える国民との適切な関係を唱える規正法の条文が、空しく響く。
************ここまで*****************
▲捜査当局の裁量で特定の政治家を訴追したり見逃したりすることにもなりかねない。このため検察は、悪質重大と判断したものに絞って摘発する姿勢をとってきた。
「捜査当局の裁量」と「悪質重大と判断したものに絞って」の違いがわからないんですけど。
▲(公判での立証の)その成否や3人の有罪無罪を軽々しく予想することはできない。これからの審理を注意深く見守りたい。
もう2年近く、特集を組んで特別体制で報道してきた「疑わしき小沢一郎は有罪」キャンペーンの御旗はどこへ?
「軽々しく」とか「注意深く見守りたい」とか、思いっきり逃げてますね。アサヒカコワルイ。
▲「そのうえで──」ですか……。やっぱり正直がいいですね。で、それでそれで?
▲国民の感覚・期待とのあまりに大きな隔たりである。
「国民」? まあ確かに、この社説を書かれた朝日記者さんも、国民のひとりではあるんでしょうけど(違ったりして)。
勝手に代表されても、同様に国民の一人であるわたしととしては戸惑うばかりです。
▲政治活動を「国民の不断の監視と批判の下」に置くことによって民主政治の健全な発達をめざすという、政治資金規正法の目的は、小沢氏周辺でどう認識されていたのだろう。
ああ、ちょっとわかった気がします。
朝日新聞のこの記者さんは、根本的なところでこの一件を間違えて理解しています。
土地取引も、お金の動きも、違法じゃなかったんです。まずこれが基本その1です(ガサも入りましたよね)。
でもって、このうちのお金の流れの中で、政治資金団体に関係すると判断した部分を報告書へ記載する際、意図を持って不当に記載したのだ、というのが検察の主張です。これが基本その2。
「水谷建設からの裏金うんぬん」については、別の関連裁判で「神の声」が根も葉もないものとされた時点で、司法上は実質終わった話になっています。基本その3。
▲秘書の「配慮」や「ついつい」、そして党内抗争への思惑で、政界の実力者を取り巻くカネや資産の流れは国民の目から遠ざけられ続けたことになる。
いや……ですから……、記載されてて、公表もされてましたよね。だからこれだけの騒ぎになったんでしょ。
本当に悪い連中は、きっちり隠して、しっかり「国民の目から遠ざけ」ることに成功している連中のことなのではないでしょうか。
ジャーナリストだという気概がまだ少しでも残っているのなら、そっちの、本当に隠している連中の悪事の方を暴いてくださいよ、と私はお願いしたい。
もしかしたら、本当に悪いことが報じられていないために、「国民」がそのことにまったく気づいていない、ということもないとは言えませんよね。まさに今!
【結論】
これが常々、「オープン、明朗」と胸を張ってきた大新聞社の足元なのか。報道に携わる者の「責務の重要性」と、それを支える国民との適切な関係を唱える日本新聞協会の倫理綱領が、空しく響く。
新聞倫理綱領
正確と公正
記者個人の立場や信条に左右されてはならない。論評は世におもねらず、所信を貫くべきである。
人権の尊重
個人の名誉を重んじプライバシーに配慮する。報道を誤ったときはすみやかに訂正し、正当な理由もなく相手の名誉を傷つけたと判断したときは、反論の機会を提供するなど、適切な措置を講じる。
ちっこいちっこい訂正記事や、起訴即有罪認定のような姿勢は、いかがなものなのでしょうか。
2011年2月4日金曜日
ためしてガッテンに疑問符
NHK ためしてガッテン 2011年2月2日放送
『がん発見!最先端SP』
番組をご覧にならなかった方へその内容を説明すると、要するに、これまで見つからなかったような極小のがんも見つけることができますよ。さらにがんになるならないも遺伝診断でわかりますよ。というものだった。
私は変に長生きして、それこそガンやボケで苦しむよりは、心筋梗塞でぱったり逝こうと決めているので、最新のがん診断なんてのは正直どうでもいい情報なのだが、ちょっと論理的にそれはどうなのよ、と思わない点がなきにしもあらずだったので、ちょっとそれを考えてみたい。
まず、遺伝診断とかいうがん予測方法について。
これは、遺伝的に癌にならないタイプの人は、どうやっても癌にはならないということなのだろうか?
もしそうなら、それならそれで話はわかりやすい。
これまでいろいろ言われてきた、タバコだの酒だの焦げた肉だの放射線だのってのとは関係なく、遺伝のレベルで既に癌になるならないは決まっているのだってことになるんで、これはこれで非常にすっきりする。
でも司会者や解説ゲストの話ぶりだと、そういうことでもないみたいなように感じられた。
「癌になるタイプの人は、専門の医師に相談してください」みたいなことを言っていた。
ってことは、癌になるタイプの人も、癌になることを防げるというのだろうか? そんな方法あるのか? そんなのがあるなら、それこそ大ニュースだと思うのだが。
また逆に、癌にならないタイプの人にとって発ガン物質ってのはどういう位置づけになるのだろう?
そもそも遺伝で決まるなら、発ガン物質も何も関係ないと思うのだが……遺伝ってのはそういうものだし。
遺伝的に癌になるタイプであっても、また癌にならないタイプであっても、実際に癌になるかならないかは、その時になってみないとわかりません程度の結果しか得られないのなら、こういう「遺伝診断」は無用な不安と差別(結婚、就職、保険など)を生むだけだと思うので、私は(研究目的以外では)大反対であります。
またもう一つのテーマだった、極小の癌も見つけられる新技術って方も、クエスチョンマークがいくつもつく内容だった。
これはつまり、今現在行われているがん検診ってのは、実は効果がないんだよってことを言いたかったのだろうか?
番組では1ミリサイズでも発見できるって胸を張ってたけど、この方向の技術開発が進んでいけば、いずれは0・5ミリサイズとか、それ以下のサイズも発見できるってことになる。じゃあそうなったとき、今回の1ミリサイズでも発見可能な検査って、いったい何だったのってことになるじゃんか。
「わーそんなに小さな(1ミリとか、痰(たん)に混じっている剥離細胞レベルとか)がんも見つけられるんですか!」って歓声を上げたことの裏返しは、その最新技術よりは大きなサイズ──5ミリなのか1センチなのか2センチなのか知らないけど──までの癌しか発見できない今現在のがん検診には意味がないってことになるのに、それでいいのかNHK。漁網の目が粗いとか、空港で検査官がゲート三つおきにしか立っていないとか、つまりそういうことだよね、NHKさん。
っつうか、そもそも本当にそんなに極小サイズのポッチン(ポリープ、できもの)が、生命にかかわるような癌に成長するのかよって思うのだがどうなのだろう?
癌が、小さければ小さいほど治療できるとかっていう性質を持っている病気だっていうのなら、まあ可能な限り小さいサイズの癌を発見できるような技術を開発する理由もわかるけど、癌ってそういうものじゃないんじゃないの? 遺伝子レベルでの変異によって癌が生じるって理解してたけど、違うのか? 遺伝子レベルでの変異なんて、それこそ絶え間なくしょっちゅう起きているんだから、24時間毎日この遺伝診断をしてないと、結局いつか「発見漏れ」が出てくるよ。それともそういう問題じゃないのかなあ。
決定的な治療法がないのに、早期発見の方ばかりが進んでしまうと、それは結局、予備軍ばかり生産することになる。
極小サイズも発見できるってことは、素人ながら想像するにおそらく、発生した時点からの経過時間も短いということになるのではないだろうか。これは言いかえれば、例えばこれまでのがん検診が1年1回だとしたら、それでは間隔が開きすぎるということになる。いや、むしろもしこれまで通りの1年1回でいいのなら、この極小サイズ検診は必要ないことにもなりかねない。
今回の番組で紹介されていたような方向性の「健康観」というのは、どうも世の中を不健康にするように思えて仕方がない。
検診をする医療関係者以外は、誰も幸せにならないと私は確信……まではいかないけど、そんな気がするのだ。
遺伝レベルで、それこそ癌みたいに生死にかかわる病を判定するほど、遺伝子研究は進んでいない。
また、細胞分裂の異常なんてのは日常茶飯に生じているのに、それを、生活に何の不都合も生じていない段階で、自ら積極的に、また貴重な時間と資金を費やして、発見するための検診を受けることのどこらあたりに意味があるのだろう。
何もなくても、それは単に、その時受けた、その検査で、その瞬間だけは、それらしきものは発見できませんでしたよっていうだけの話でしかないのではないだろうか。だって、検査が終わったその直後には、また新しく細胞は分裂してるんだから。
「延々流れる荒川の水の太郎右衛門橋真下の部分を、ある一瞬だけ透視撮影して、それを詳細に分析できる技術を開発しました。2月4日の午後11時には、1ミリサイズのゴミも発見できませんでした。ですから荒川にゴミは一つもありません!」
そう言われて、
「ああよかった。これで荒川はもうゴミで汚れることはないわね」
とかって安心できますかってーの、とかって俺は思ってしまう。
でもきっと、俺は根本的なところで癌への認識を誤っているのだろうと思う。
そうじゃないと、NHKの『ためしてガッテン』が、あんなに大々的に紹介することを理解できないから。
にしてもやっぱり、癌が遺伝子レベルでの疾患だとしたら、1センチであっても1ミリであってもそれ以下であったとしても、大差ないと思うのだが、違うのかなあ。
それに、遺伝子の変異で発生する疾病なのに、遺伝子診断ができるってのもよくわからん。
「あなたは癌にならないタイプだったんですけど、突然変異でガンができてしまったんですね。こういうこともあるんです。可能性はゼロではないので」とかってのがアリだったりしたら、ホント、まったく意味ないじゃん。
まだ癌じゃない人に「あなたは将来癌になりますよ」とか「実はあなたはもう癌なんですよ」とか通知する方向じゃなくて、今現在既に癌となってしまった人を治療する方向とか、不安を軽減する方向の方の技術革新が進んで欲しいなあ、と私は思うんだけど、世の中の大勢が要求しているのは、やはり「発見」の方の進歩なのだろうなあ。
でもどうしても、「それ違うんじゃね?」っていう疑念がどうしても消えないんだよなあ。
そんなに早く発見したいのかなあ、みんな。
あるいは死因を癌以外にしたいとか……。
俺にはまったくそんな願望ないんだけど。
そのうち一億総癌患者&予備軍っていう時代も、もう少しだな。
そうなる前に、俺はさっさと人生を“あがる”ことに決めてるんで、どーでもいいけど。
END
追伸
今も発展し、これからも発展を続けるであろう、インド、中国、ブラジルはむろんのこと、世界中のほとんどの国や地域では、癌検診なんてやってないんじゃないかね。ヨーロッパでも、フランス人やスペイン人が、癌検診の列に並んでいる姿を想像できないのだが、実際どうなんだろ。
なのにもし死因に占める癌の割合が、世界で日本が一番高かったりしたら、それこそかなりのブラックジョークだよね。で、癌の次が自殺だったりしたら、さすがにもう笑えない──。
『がん発見!最先端SP』
番組をご覧にならなかった方へその内容を説明すると、要するに、これまで見つからなかったような極小のがんも見つけることができますよ。さらにがんになるならないも遺伝診断でわかりますよ。というものだった。
私は変に長生きして、それこそガンやボケで苦しむよりは、心筋梗塞でぱったり逝こうと決めているので、最新のがん診断なんてのは正直どうでもいい情報なのだが、ちょっと論理的にそれはどうなのよ、と思わない点がなきにしもあらずだったので、ちょっとそれを考えてみたい。
まず、遺伝診断とかいうがん予測方法について。
これは、遺伝的に癌にならないタイプの人は、どうやっても癌にはならないということなのだろうか?
もしそうなら、それならそれで話はわかりやすい。
これまでいろいろ言われてきた、タバコだの酒だの焦げた肉だの放射線だのってのとは関係なく、遺伝のレベルで既に癌になるならないは決まっているのだってことになるんで、これはこれで非常にすっきりする。
でも司会者や解説ゲストの話ぶりだと、そういうことでもないみたいなように感じられた。
「癌になるタイプの人は、専門の医師に相談してください」みたいなことを言っていた。
ってことは、癌になるタイプの人も、癌になることを防げるというのだろうか? そんな方法あるのか? そんなのがあるなら、それこそ大ニュースだと思うのだが。
また逆に、癌にならないタイプの人にとって発ガン物質ってのはどういう位置づけになるのだろう?
そもそも遺伝で決まるなら、発ガン物質も何も関係ないと思うのだが……遺伝ってのはそういうものだし。
遺伝的に癌になるタイプであっても、また癌にならないタイプであっても、実際に癌になるかならないかは、その時になってみないとわかりません程度の結果しか得られないのなら、こういう「遺伝診断」は無用な不安と差別(結婚、就職、保険など)を生むだけだと思うので、私は(研究目的以外では)大反対であります。
またもう一つのテーマだった、極小の癌も見つけられる新技術って方も、クエスチョンマークがいくつもつく内容だった。
これはつまり、今現在行われているがん検診ってのは、実は効果がないんだよってことを言いたかったのだろうか?
番組では1ミリサイズでも発見できるって胸を張ってたけど、この方向の技術開発が進んでいけば、いずれは0・5ミリサイズとか、それ以下のサイズも発見できるってことになる。じゃあそうなったとき、今回の1ミリサイズでも発見可能な検査って、いったい何だったのってことになるじゃんか。
「わーそんなに小さな(1ミリとか、痰(たん)に混じっている剥離細胞レベルとか)がんも見つけられるんですか!」って歓声を上げたことの裏返しは、その最新技術よりは大きなサイズ──5ミリなのか1センチなのか2センチなのか知らないけど──までの癌しか発見できない今現在のがん検診には意味がないってことになるのに、それでいいのかNHK。漁網の目が粗いとか、空港で検査官がゲート三つおきにしか立っていないとか、つまりそういうことだよね、NHKさん。
っつうか、そもそも本当にそんなに極小サイズのポッチン(ポリープ、できもの)が、生命にかかわるような癌に成長するのかよって思うのだがどうなのだろう?
癌が、小さければ小さいほど治療できるとかっていう性質を持っている病気だっていうのなら、まあ可能な限り小さいサイズの癌を発見できるような技術を開発する理由もわかるけど、癌ってそういうものじゃないんじゃないの? 遺伝子レベルでの変異によって癌が生じるって理解してたけど、違うのか? 遺伝子レベルでの変異なんて、それこそ絶え間なくしょっちゅう起きているんだから、24時間毎日この遺伝診断をしてないと、結局いつか「発見漏れ」が出てくるよ。それともそういう問題じゃないのかなあ。
決定的な治療法がないのに、早期発見の方ばかりが進んでしまうと、それは結局、予備軍ばかり生産することになる。
極小サイズも発見できるってことは、素人ながら想像するにおそらく、発生した時点からの経過時間も短いということになるのではないだろうか。これは言いかえれば、例えばこれまでのがん検診が1年1回だとしたら、それでは間隔が開きすぎるということになる。いや、むしろもしこれまで通りの1年1回でいいのなら、この極小サイズ検診は必要ないことにもなりかねない。
今回の番組で紹介されていたような方向性の「健康観」というのは、どうも世の中を不健康にするように思えて仕方がない。
検診をする医療関係者以外は、誰も幸せにならないと私は確信……まではいかないけど、そんな気がするのだ。
遺伝レベルで、それこそ癌みたいに生死にかかわる病を判定するほど、遺伝子研究は進んでいない。
また、細胞分裂の異常なんてのは日常茶飯に生じているのに、それを、生活に何の不都合も生じていない段階で、自ら積極的に、また貴重な時間と資金を費やして、発見するための検診を受けることのどこらあたりに意味があるのだろう。
何もなくても、それは単に、その時受けた、その検査で、その瞬間だけは、それらしきものは発見できませんでしたよっていうだけの話でしかないのではないだろうか。だって、検査が終わったその直後には、また新しく細胞は分裂してるんだから。
「延々流れる荒川の水の太郎右衛門橋真下の部分を、ある一瞬だけ透視撮影して、それを詳細に分析できる技術を開発しました。2月4日の午後11時には、1ミリサイズのゴミも発見できませんでした。ですから荒川にゴミは一つもありません!」
そう言われて、
「ああよかった。これで荒川はもうゴミで汚れることはないわね」
とかって安心できますかってーの、とかって俺は思ってしまう。
でもきっと、俺は根本的なところで癌への認識を誤っているのだろうと思う。
そうじゃないと、NHKの『ためしてガッテン』が、あんなに大々的に紹介することを理解できないから。
にしてもやっぱり、癌が遺伝子レベルでの疾患だとしたら、1センチであっても1ミリであってもそれ以下であったとしても、大差ないと思うのだが、違うのかなあ。
それに、遺伝子の変異で発生する疾病なのに、遺伝子診断ができるってのもよくわからん。
「あなたは癌にならないタイプだったんですけど、突然変異でガンができてしまったんですね。こういうこともあるんです。可能性はゼロではないので」とかってのがアリだったりしたら、ホント、まったく意味ないじゃん。
まだ癌じゃない人に「あなたは将来癌になりますよ」とか「実はあなたはもう癌なんですよ」とか通知する方向じゃなくて、今現在既に癌となってしまった人を治療する方向とか、不安を軽減する方向の方の技術革新が進んで欲しいなあ、と私は思うんだけど、世の中の大勢が要求しているのは、やはり「発見」の方の進歩なのだろうなあ。
でもどうしても、「それ違うんじゃね?」っていう疑念がどうしても消えないんだよなあ。
そんなに早く発見したいのかなあ、みんな。
あるいは死因を癌以外にしたいとか……。
俺にはまったくそんな願望ないんだけど。
そのうち一億総癌患者&予備軍っていう時代も、もう少しだな。
そうなる前に、俺はさっさと人生を“あがる”ことに決めてるんで、どーでもいいけど。
END
追伸
今も発展し、これからも発展を続けるであろう、インド、中国、ブラジルはむろんのこと、世界中のほとんどの国や地域では、癌検診なんてやってないんじゃないかね。ヨーロッパでも、フランス人やスペイン人が、癌検診の列に並んでいる姿を想像できないのだが、実際どうなんだろ。
なのにもし死因に占める癌の割合が、世界で日本が一番高かったりしたら、それこそかなりのブラックジョークだよね。で、癌の次が自殺だったりしたら、さすがにもう笑えない──。
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