2011年4月24日日曜日

「センス」について

「センス」について


「センス」という言葉はいろいろな場面で使われる。
そして、私たち人間はこの地球上でずいぶんと偉ぶっているが、所詮(しょせん)、「センス」を持ってるかどうかの違いによって、人類と猿人類と類人猿と猿類と枝分かれしているに過ぎない。
というのは私の私論であって、ちゃんとした学説があるわけではない。
しかし、そうトンチンカンな迷説でもないだろうと、私はひとり確信しているのだ。


私は、「センス」のことを、「他人が真似(まね)たくなるような表現を生む能力」だと定義している。
もっとシンプルに言うなら「被模倣力(ひもほうりょく)」。
カッコつけないで言うなら「マネしたくさせる力」。「パクられ力」だ。

ちょっとしたアクセサリーの使い方や、絵画での構図や色遣い、旋律の構成、あるいは衣服のコーディネーション、料理の盛りつけ、宣伝のコピー、数式の組み立て、文書表現、表情や仕草、プレゼンの資料作り、笑わせる話し方、怖がらせる話し方、ゴルフやバッティングのスイングフォーム、各種デザイン、…etc.、巷にあふれる“センス”で溺れそうな今の世の中。
「センス」の問われる場面は、ますます増えることだろう。


「センス」のフォース(『STAR WARS』参照のこと)は一方通行で、逆流は不可。
どんなレベルでも必ずセンスは良い方から悪い方へと流れこむ。
でもって、舌が肥える目が肥える耳が肥える──センスを感じ取るアンテナは、どんどん強化されて性能をアップさせる。
アップしたアンテナの感度性能は、これもまた劣化するってことがない。
(これがやっかいで、生活レベルを落とせない、みたいな悩みにもつながったりする)



この「センス」っていう能力を持ったおかげで、人類は自分たちの文明と文化を発展させることができたのだと、私は確信してると先に述べた。

ただ残念なことに、自分では自分の「センス」がわからない。
これが「センス」のやっかいな点で、常に他者の立ち位置に立たないと、感じ取れないのだ。
まさにアンテナや鏡と同じ。自分の発した情報を受け取るのは周りばかりで、自分はそれを聞くことも見ることもできない(悲しい)。


活躍しているタレントやモデルでファッションセンスが良いとされてる人も、結局のところほとんどは、どこかからパクってきたものを応用してるに過ぎない。
彼ら彼女らは、「いいセンス」を敏感に受け取って再送信してるのであって、その「センスの上流」にいる「センスの源(みなもと)」ではない。


じゃあその「センスの上流」にいる、「いいセンス」を生み出しているホントの「センスの源」的存在となっているのはどういう人たちなのか。実はこれが面白いのだが、そういう「センスの源さん」ご自身のおセンスは、かなり、そうとう、衝撃的に、変だったりする。

元仏クリスチャン・ディオール・チーフファッションデザイナーのジョン・ガリアーノ氏

自分から発せられる「センス」のフォースが強烈すぎて、他からの「センス」を感じ取ることができないんだろうなあ。
「名選手名コーチならず」もこういう理由(わけ)なのだろうと、私は勝手に納得してる。


で、これからがやっと本題。↓

サッカー選手の育成も、まさにこのままの通りなのではないだろうか、と私は思ってるのだ。

「いいセンス」に触れさせれば、子供らは自然と「マネしたい」って思って、自分からがんばる。
間違いなく、強豪とされてるようなチームには、「マネしたくなるようないいセンス」を見せられるコーチや先輩っていう手本があるもんだ。トレーニングメニューとか、そういうことじゃあないよね。
かといって、そのお手本となってるコーチや先輩たちが、その「いいセンス」のオリジナルなのかっていうとそんなことは全然なくって、そいつらもどっかでその元になる「いいセンス」に触れて、それをマネしただけなんだ。で、そいつらにマネされた「いいセンス」の元は、そのまた先の……、って具合に綿々と続いてってる。

脱線するけど、マラドーナっていう選手が地域も時代も越えて語られ愛され憧られ続けているのは、彼がサッカーテク&創造性&楽しさにおける「センスの源」だからなんだろうなって思っている。彼ほど「マネされる」選手は、過去にはもちろんいなかったし将来も絶対に現れない(元イタリア代表のゾラなんて、ナポリで一緒になって以降はマラドーナの完コピだったもんね)。
未来のことまでなんでわかるのかっていうと、それは才能や能力の問題じゃなくって、グローバル化とメディア技術の影響っていう要素もあるから。
世界中のサッカー映像がジャブジャブに垂れ流されている現在の情報過多な環境では、「マネしたい」っていう動機を保ち続けられないんだよね。他のことに例えて言えば、「ピンクレディーの振り付け」みたいにみんながマネする存在が、これからの将来に出てくるかどうかみたいな話で、そんなのは出てきようがないじゃん。圧倒的に情報の“貴重さ”、アクセス・チャンス(接触機会)の“稀少さ”が違うんだから。

でももちろんマラドーナの凄さはこれだけじゃあ説明しきれない。だってこれだけが理由なら、同時代に存在した他のスーパースターと同列じゃなきゃおかしいでしょ。でもマラドーナは、同時代の選手と比べてもダントツで、時代を越えた選手と比べてもダントツっていう、奇跡の存在だ。ところでマラドーナって学校へは通ってたんだろうか? 教室に座って教科書を開いている姿が、まったく想像できないキャラクターってだよね、マラドーナって。

サッカーボールに触れてから現役引退までひとつもミスがなかったとか、常にパーフェクトだったとか、全判断全正解だったとか、そんなことはあり得ないけど、たとえ間違いであったとしてもマネてみたくなる、それがマラドーナのサッカーだった。
好き嫌いはあるにせよ、史上最もマネされているフットボールプレーヤーであることは間違いない。
そう考えると、信じられない存在だよなあ、マラドーナって。
もはやひとつの世界観だよ。


さてと、いい加減に本線へ──

ただし──問題はここから先にあるんだ。それも大問題。ちょっとやそっとじゃあどうにもならない、日本人の長所ともガチにバッティングしちゃう根本問題が、ある。

日本でふつう「センスがいい」って言うと、それってイコール「マネするのが巧い」ってことなんだよね。
それは時には「要領がいい」とか「勘がいい」とか「飲み込みが早い」とか「筋がいい」なんて言われて、ものすごく評価される。っつうか、日本の評価軸そのもの。
歴史的には、これは儒教の教えの影響でさ、「『学ぶ』は『真似ぶ』。つまり真似(まね)ることが学ぶことなんだ」っていう文化圏なわけ、日本は。朝鮮半島の上朝鮮や下朝鮮も儒教の影響下にあるから、きっと状況は似ていると思う。よく知らんけど(辛いの苦手だし)。
儒教の本家であった中華共産党共和国では、とっくの昔に儒教なんて廃れてしまったので、「真似るは学ぶ」みたいなのはなくって、「結果のためには手段を選ばず」「勝てば官軍」「賄賂万歳愛国無罪」みたいな弱肉強食(善悪関係なく、弱い物は肉となる)社会になってるんだから、歴史ってのは面白い。


日本サッカーにおける「育成」の現場でも、この日本の特色「マネなまび」が評価軸になってるんだけど、ここに“問題アリ!”と俺は思ってる。
「教えたことをすぐに正確に実行できる選手がいい選手」っていうのはとぉ~ってもわかりやすい。
小4くらいの子が、小6の子と同じプレーをしたら「うまい!」とハンコを押すだけなんだから、評価をする側にとってこんなに簡単なことはない。小4の子が、小6の問題を解いたら「頭いい!」って花まる付ければいいのと同じなんだから。
でもホントに頭がいいかどうかなんて、そんなことじゃあ判断できないってことくらい、頭の悪い俺でもわかる。だって、小4の子は自分の頭を使ってないかもしれないじゃん。塾で教わった通りに解いただけかもしれない。

上手に真似するのを「センスがいい」ってしちゃったら、オリジナルの画家よりも贋作家の方が「センスいい」ってことになっちゃうじゃん(ねぇ~。だよねぇ~)。

でもなあ~、親にとっても「マネなまび」の方がわかりやすいんだよなあ。
塾に行かせたら、小6の問題を解けるようになった。うちの子天才かも!?
サッカースクールに行かせたら、見たことのないようなフェイントができるようになった。あのスクールの育成力はすごいかも!?
他にも、例えばトレセンや地区選抜でチームを組むときだって、小4なのに小6みたいなプレーをする選手を選びたくなるものだし、実際にもそうなってる。評価軸が「マネまなび」なんだから、他の子よりも先の“問題の解き方”まで習っている子の方を高く評価するからね。


実際んとこ、「マネるのが早くてうまい=センスがいい」ってのが日本の常識だつう現実は、この後もずうっと変わんないと俺は思ってるわけ。「最年少」とか「飛び級」とか、そういうフレーズも大好きなまんま。
「何ができるか、何をやったか」よりも「他の人よりも若いときにやった」ことの方にしか関心がない。まあ儒教とか朱子学ってのはそういう価値観だから、その影響下にある文化圏の中の端っこの島国である日本がそうなるのは、極々自然なことなんだけどさ。

マネることを良しとする社会なんだから、日本が均質でデコボコのない社会になるのも当たり前。だから高品質な製品が低い歩留まりで生産できる。

マネることで基礎を身につけたその後に出てくるのが「個性」なんだっていう考えも根強いよね。
でも俺は思うわけ。上手にマネるためには、自分の欠点を補正して、弱点を強化しなきゃなんないことがいっぱい出てくるじゃん。欠点のないのが良いことだ、みたいな。一見それは正しいように思えるけど、違うんじゃねえのかなあって。
長所とか強いところってさあ、よくよく見てみると、欠点とか弱点とかとかっちりがっちり結びついてるんだよね。個人の能力や身体の面で捉えなおすと、同じ特徴の裏表だったりするわけさ。
だからマネるのが上手な子がなぜそうなのかっていうと、実は個性が薄いからとか、我(自分)を消していつも他人の様子を観察してたから、なんだよね社会生物学的に言えばさ。親とか兄弟とかとの関係性がそういう特性を身につけさせた(って言われてる)。

敗戦後の日本がまさにこのまんま。
争いも避けて来れたし、嫌われもしないで、仲間に入ろうと上手にマネをして、見事世界の二番手にまでなった!
でも「マネばっかすんなよ」って怒られて、自分でも「自分らしさ」があるはずだって「自分さがし」の旅に出たら堂々巡りで前へ進めなくなっちまった(失われた10年、20年)。



で、だらだらここまで思いつくまま書いてきてどういう結論にするかっつうと、日本はこれからも「早く上手に真似ること」を高く評価していくとは思うんだけど、「マネること」だけじゃなくて「マネられること」にも目を向けることができる日本になってくんねえかって俺は願ってるんだってことでどう?

そりゃあマネてる方が楽だし、効率は良いし、リスクはないしで良いこと尽(ず)くめってのはわかるよ。マネされる方は、みんなにマネされちゃえば価値はなくなるし、苦労も多いし、効率悪いし、リスクいっぱいだし(変人にカテゴライズされやすいからね)。
でもお受験塾とか秋元康とかエイベックスとか渋谷ビットバレー&ヒルズ合コン起業家的な手法(成功例を分析してパクリまくる手法)ばっかりがはびこっちまうと、ここのとこのテレビ番組みたいにある時期はクイズばっかり、ある時期はひな壇ばっかり、ある時期は刑事物ばっかり、ある時期はコリアンばっかり、みたいなつっまんねえことになちゃうでちょ。

成功例の分析ばっかに頼ってたら、だ~れもその枠からはみ出せなくなる。
日本車や家電の性能やデザインが似たり寄ったりなのも、それがその通りだっつう証(あかし)なんじゃねえのって思うわけ。

少年サッカーのコーチのみなさんには、子供らをよく観察して、もし周りの子に「マネしたい」と思わせる何かを持った子がいたら、その子のことを特別な意識を持って扱ってあげて欲しい。他の子─つまり「マネする側」─と同じに扱ったら、その子の欠点は補強されるかもしれないけど、同時に長所・特徴・個性も間違いなく薄まってしまうから。そっちに欠点があるからこそ、こっちの長所が成立してるってことがほとんどだからねえ。

でもなあ、教育者、指導者、親にとって教え甲斐があるのは「熱心にマネをしようとする子」の方なんだってのは、厳然たる事実なんだよなあ。そういう子は──教えてて手応えがある。成長しているのが手に取るように伝わってくる。──そういう子の方が、かわいいんだよなあ。
反対に「まわりにマネしたくさせる子」の方は、本人の性格しだいではただの扱いにくい子になってしまいがち。
本物の才能があるなんてのは万に1人もいないから、残りは調和を乱す異分子でしかなかったりする。グレられちゃったりすると、チームの雰囲気を壊し、みんなの足を引っぱったりする存在になったりもする。それらを補えるくらいのスケールの才能があればいいんだけど……。


【結論】
ジェフのオーロイには勝てない。





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