2011年4月14日木曜日

普代村は想定内 ~視点を変えれば見えてくる~

どこにあった記事なのかわからなくなってしまったが、この村に関する記事は、まあどこも似たり寄ったりな内容なので問題はないだろう。
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岩手県普代村は浸水被害ゼロ、水門が効果を発揮

東日本大震災 防潮堤 高潮対策事業 普代村 岩手県 津波 防潮水門 浸水被害  岩手県普代村に設けた防潮水門などが東日本大震災で効果を発揮。同村の中心部や集落を大津波から守った。3月30日時点で行方不明者は1人出ているものの、死亡者はゼロ。住宅への浸水被害も出ていない。
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これをそのまま受け取ってしまうと、巨大な水門や防潮堤・防波堤を築いてあったら今回の津波被災は防ぐことができた、かのように誤った理解をしてしまう危険がある。

これが津波後の普代村の写真だが、

見て分かる通り、写真左側の津波に襲われた家屋の屋根は無傷である。壁面の破壊状況や、道路脇の構造物の様子から推察して、津波は道路面のやや上あたりまで来ただろうことがわかる。
要するに、設計上の想定以下であれば、当然その堤防なり水門は、それなりの機能を果たす、それだけのことだ。
さらに言えば、もしこの道路壁や堤防がなかったならば、確かに津波は人家の奥にまで到達しただろうが、その水位ははるかに低かったであろう。もしかすると、今回破壊されてしまったこの青い屋根の構造物も、これほどの被害を受けずに済んだかも知れない。

つまりはこういうことだ。
今回の津波では、たまたまこの地域はこれで済んだ、そういうことなのだ。決して大型の堤防や水門があったがために被害が少なかったのではない。ここを誤解すると、今回学ぶべき防災哲学を学びそこなってしまう。

「想定」に完璧はない。
なぜなら想定とは「予知予言」ではなく、設計の前提となる「とりあえずの合理的な基準」に過ぎないからだ。
この「合理的」であるかどうかというところがポイントで、その立証方法には帰納法と演繹法がある(ちなみに「予知予言」は「そんな気がする」「神からそう告げられた」で終わり)。

「今回は想定を超えたから被害が大きかったのであって、今回のデータをふまえた“新しい想定”に基づいた堤防を築けば今回のようなことはなくなる」これと同じことを、昔、三陸沿岸の防潮堤を設計した人も言っていたのだろう。

The滑稽(こっけい)。

それって、最新の防火対策を施した家は火事にならない、といっているのと同じことじゃないですか?
最新の衝撃対策を施した自動車の乗員はどんな事故でも死なないとでも?
リスクヘッジ(想定に基づく管理)に完璧はないということは、LTCM(ロングタームキャピタルマネジメント)が身をもって教えてくれたのに。



これからまた、もっと巨大で長い防潮堤を築く……、完成する前にまた津波が来たときは? 今度はなんて言い訳するんですかね? 「想定の範囲内だったが、堤防がまだ未完成だったので──」とでも言うのだろうか?






巨大堤防を作るお金で、病院と一体になった高層の老人ホーム兼共同住宅を造った方が、暮らす人々はるかに幸せになれると私は思うのです。そして海に近い平地には、これまで通り職場と若者向けの住居のある生活圏を再建する。
地震や津波への備えとしては、いかにすばやく避難できるかと、いかにすばやく再建できるかを第一に考えて対策を練る。自然と真っ向から闘ってねじ伏せようなんてことをしても、結局は人間の独り相撲に終わると言うことがわかったのですから。

これまでは「防潮堤・防波堤」という「お守り」で、津波被災のリスクを糊塗(こと)して、あたかもそれがなくなったかのような、あるいは対処できるかのような「ふり」をして、それ以上考えないようにしてきただけだったのです。

冒頭で紹介した普代村の例でも明らかなように、防波堤や防潮堤は、ヘルメットであり防弾チョッキのようなものでしかありません。
訓練を積んだプロがリスクを覚悟の上で、ヘルメットや防弾チョッキを身につけて、しなければならないことをするために、行かなければならない場所へ向かうこともあるでしょう。しかし一般人は、ヘルメットや防弾チョッキを身につけることよりも(たとえそれがどれほど高性能であったとしても)、いかに早く危険から離れるか、それを考えるべきです。
どんなに高性能なヘルメットや防弾チョッキであっても、想定を超えた衝撃の前には無力なのですから(想定の範囲内であっても、骨折や脳震盪を起こす可能性だって、決して小さくはありません)。

最後にもう一度繰り返します。
(大事なことですから)

普代村に代表される大型の防潮堤・防波堤があれば被害は少なかったはずだ、ではないのです。
被害が少なかったその理由はただひとつ、そこはたまたま「想定の範囲内だった」というだけのことなのです。

もし復興の過程で、今度はもっと巨大な防潮堤・防波堤を築こうという話になれば、またいつか同じ悲劇が繰り返されます。
そんな“無駄な”ことをするくらいなら、それを個々人、家庭が自分の力で再び立ち上がるための援助金としてお渡ししましょうよ。
20万人とも言われる被災者に1人1,000万円(計2兆円)、全壊流出家屋を仮に5万戸として、そこへ3,000万円(計1兆5千億円)、半壊も同数として1,000万円(計5千億円)、これだけ配っても総計で4兆円です。20兆~60兆円ともいわれる復興にかかる国家支出(最終的にはこの倍はいくだろうという試算もあります)の10分の一です。
家屋を流された親子4人家族なら、3,000+1,000×4=7,000万円。
蓄えも仕事も何もかも突然失った育ち盛りのいる家族であっても、これだけあればどうにか再スタートできるのではないでしょうか。
また、一人暮らしで介護の必要なお年寄りであっても、3,000+1,000=4,000万円あれば、老人ホームへの入居と利用費をまかなえるだろうと思います。
当面はこの資金を直接渡して、「それぞれ個々に今後を乗り切ってください」とすることで、特に残された時間のないご高齢の被災者などが、人生を終えるまでの数年間を避難所で過ごすような事態は避けることができます。また、新天地での生活を選択する人も出るでしょうし、商売や家を建て直すベースにも使える額です。

長期間かかるであろうインフラ再建は、通常の予算手当に極端な財政負担とならないよう傾斜を考慮したプラスアルファを加算して、長い目で徐々に整備していく。いきなり全部は無理です。

原発のことでも、いったん避難させてしまった以上、もう元には戻せません。
広島や長崎が、今もなお、主要都市として存在しているのは、人が住み続けたからです。
福島沿岸はそうじゃありません。
逆説的ですけど、今後は原発を造るくらいしかできないのではないでしょうか。もちろんこれが、科学的にそうだということではなく、それこそ人間の心理面からそうなるしかない、ということです。いくら政府が「もう大丈夫」と言ったところで、精密な放射線測定検査機器がいくらでもある現在、好き好んで子どもを連れて福島で暮らす人も、好き好んで福島産の農産物水産物を食べる人も、絶対にいません。ましてや日本人は、予測不安(将来の不確定な不安を予測して不安になる心理)傾向が強いのですから。

「人権無視!」との批判を恐れつつ私見を述べるとすれば、「FUKUSHIMA」を復活させるのは、福島県民にしかできないと思います。政府をあてにしていても、責任逃れをするばかりでちっとも前には進みません。なぜなら、左派系の人たちにとっては、「いわゆる“放射能”」の危険性をアピールすることが正義だからです。表には出していませんが、間違いなく左派系の人たちの心の奥底には、自らの政治目的実現のために「FUKUSHIMA」を利用したいという思いが隠れているはずです。こういう連中が、福島の早期復興を是が非でも実現しようとするかというと、私には否定的な結論しか導き出せません。

津波で壊滅した街であっても、放射性物質の飛散で汚染された地域であっても、事実だけを見れば結論は既に出ています。
早期に復興できるのなら、とっとと戻って生活をはじめても問題はないはずですし、もしもう復興できないのならば、その場所を離れるしか道はありません。その中間はないわけです。政府が、街を見事に再建してから、あるいは地域全体をきれいに除染し終わってから「さあみなさん、お戻りになってください」なんて言う日は永遠に訪れないと私は確信しています。そんなのは、共産主義社会主義の計画経済や5カ年計画並みの幻想です。

福島が安全だということを東電や菅枝野「俺のせいじゃない」政権に証明してもらうなんて、論理的にも矛盾しています。二枚舌三枚舌+自己弁護ボーダー(境界例)による証明なんて誰が信用します?

「さあもう東北は大丈夫です。これからまた元気いっぱいがんばりますから、みなさん仕事をどんどん回してください。観光にもガンガン来てください」
そんなことをお上に言われたって、はいそうですかとはならないでしょ。やっぱり被災当事者である地元の人が言ってこそ、当事者ではない者も気をつかわずに、ずけすけとシビアな仕事を持ちかける気にもなるし、へらへら遊びにも行けるんです。
(そのためにも巨大堤防なんて絶対にダメ。そんなのが目に入ったら、日本中だけじゃなくて世界中の人が津波のことを思い出すから。三陸の海産物や海水浴場の“深刻な”イメージを払拭(ふっしょく)するためにも、津波を思い起こさせるようなモニュメント的な建造物は造るべきじゃあないと、私は思います)

進行する地球温暖化で海洋の環境もどうなるかわからない中での漁業、毎年のように冷害で苦しめられる農業、これらに偏った地域経済から脱却するチャンスにすることを考えましょうよ。そのためのインフラを整備しましょうよ。

「元には戻せない」
これを良い意味にとらえましょうよ。


さあ、これからです!

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