2010年11月27日土曜日

きのうえんえきで

ドラマで心臓外科医が取り上げられるワケ

 それにしても、この10年間のPCIとCABGの技術革新の進歩を振り返ると、私たち心臓外科医達は頭が固く、“この手でなければ命は救えない”なんて思い込みの下、周りの変化から目をそらして自分の指先ばかり見ていたのかもしれません。

 今回の学会では、sutureless valve(縫合せずに容易に装着できる人工弁)も話題になりましたが、それを、一番疑心暗鬼の面持ちで見ていたのは日本の外科医だったように思います。「人工弁置換に糸を使わないなんて!」って。

 でも、消化器外科も呼吸器外科も今では、針と糸なんてほとんど使いません(よね?)。自動吻合器で処理しちゃう。ところが心臓外科は、いまだに冠動脈を縫うには運針がどうのこうのとか、人工弁の糸の結び方はどうのこうのとか、職人的な手技にこだわりがちです。ある意味ちょっと玄人っぽくてカッコ良さげだけど、そうした職人気質が、革新的技術の導入を遅らせてしまったんじゃないかなぁ。

 ただ、だからこそ心臓外科医は、「医龍」だとかドラマの題材になりやすいのかもしれない。「始めます」の一声の後、機械でガチャガチャして「終了!」じゃ、絵にならないからねぇ…。

 いろいろと偉そうなことを言っている僕ですが、3年前に同じジュネーブで開かれたEACTSで「カテーテル人工弁挿入術100例実施」の話が出た時には、「こんなもんが、われわれの弁置換に勝るもんか!」って半分バカにしていました。しかし、その後、これまでに世界中で3万件以上も実施され、今一番ホットな話題になっています。専門よがりの大バカだった自分がとても恥ずかしい…。

 僕らは手技に拘泥しがちだけど、その腕前のほどは、実は威張るほどの“匠の技”でも何でもないのが普通です。手技だけであれば、もしかしたら子供でもできるかもしれない。だから、自分たちがやっていることを「素晴らしい」「難しい」って周りに言い回っている外科医って、かなりアヤシイ。

 それに、外科医に第一に求められているのは、他人に真似のできないような“匠の技”ではないはずです。そんな技は、手術ではなく手品でしょう。手塚治虫は大好きだけど、現実の外科には、ブラックジャックは必要ありません!

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※PCI カテーテルを用いた方法   CABG よそから血管をつなげて心臓への血流を増す方法

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テレビの“ゴッドハンド系”医療番組や名医ランキング本の情報を鵜呑みにしてわざわざ出向いて、人間国宝的大先生の手技で体の中をかき回されたあげく、死んじゃったらもったいない。いや、それよりもむしろ“微妙”な感じで命を取り留めてしまって、そのあとも苦しい治療を続けなきゃならなくなって、その間も合併症(処置後すぐに現れる患者にとって不都合な症状)や後遺症(処置後しばらくして現れる患者にとって不都合な症状)で苦しんで、お金もすごくかかる、なんてことになった方がかえってダメージがでかくて泣くに泣けない。

でもこれは、何も医療に関してだけじゃない。同じようなことは、身のまわりにたくさん転がっている。

大昔、『間違いだらけのクルマ選び』なんていう本に代表される、自動車やバイクの評価情報に、消費者だけじゃなくて、メーカーまでもが振り回された。アホだったなあ。
住みたい街ランキングや、東大合格者数ランキングや、縁起のいい名前ランキングみたいなのまである。

こういうのは全部同じ。

ランキング的な情報ってのは、全部「昨日」までの情報を、恣意的(しいてき その場その場で)なフィルターでこし取ったり、意図的なエフェクト(加工。効果を加えること)をかけたりして作り上げられている。
だから受け手側が本当は知りたい「明日」の情報について、そこには何もない。ゼロだ。

「ずっといい子でした」というのは、とんでもない事件をしでかした少年の親や教師がよくいうセリフだ。
一般にはこれは、子を守るための方便、あるいは本当の姿を知らなかった言い訳、ととらえられているが、ある意味では「ランキング本」と同じ真実を語っているのだとも言える。
つまり、本当に「ずっといい子」だったのかもしれないのだ。ただし、事件を起こす前までの話だが。

昨日までの事を並べ立てて、今日や明日の話をしようとするのを「帰納(きのう)」という。
「昨日までずうっと雨だったから、明日も雨だろう」というのがそれだ。

一方でこういうのもある。
原理原則がこうなっているのだから、明日はこうなるはずだ。
「湿度が高く、西日本では雨が降っているので、関東地方は明日雨だろう」的な話がそれだ。
これを「演繹(えんえき)」という。
※ただし、天気を含め、科学全般は蓄積情報に基づく仮説によって構成されているので、演繹よりは帰納の方が親和性が高い。
演繹の意味を覚えるとき、私は「線路がつながっている(原理)ので、遠い駅にも到着する(結果)」とイメージした。「遠い駅」=「遠駅(えんえき)」というわけだ。

サッカーは、帰納的な分析力と、演繹的な発想力があると、より一層楽しくなるスポーツだ。
コーチが子供たちにアドバイスする際、この「帰納」と「演繹」を意識して、言葉や表現を選んだりすると効果は格段に違ってくる。
何か起きたとき──例えばちょいミスをしたとき──に、前にあった同じような事例をパッと言って、子供の脳に印象づける効果を狙うとか、練習の狙い(ポイント)を、試合でこういう展開になった場合に生きてくる練習なんだ、などと説明してあげると、練習がイメージトレーニングの効果も持ってくる。子供たちの頭の中で、練習中の場面が、試合の場面と重なるからだ。

ここ数年、チームが壁に当たってるような気がしたら、自分が悪い意味で「匠(たくみ)」になってしまっているのではないか、と己を見直してみることをお奨めする。
そして、同じ効果を持つが時間も労力もコストも少なくて済む効率的な「新しい練習方法」がないか、ネットや本や他のチームの情報を探してみよう。
チームの練習をレベルアップするには、同じ時間で得られる効果をどれだけ増やすことができるか、それしかないのだから。


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