2010年11月2日火曜日

熊がかわいそう! っていうのはバ~カ。

がかわいそう! っていうのはバ~カ。

今ぐらいの時期になると、夕方のニュース風ワイドショーで「熊がいる土地に人間が入っていったら熊が出た」「野生生物殺戮(さつりく)プロ集団の猟友会が総出で母子熊を皆殺しにした」といった調子のおどろおどろしい特集が報じられるのが、毎年の恒例行事と化しています。
リスクとコストを考えれば、出て来た熊は殺すのが経済的には正解です。

熊には人権などない以上、更正させることよりも、殺してしまう方が社会のためである。
殺戮(さつりく)処分せずに、万が一被害が出た場合の責任の所在と賠償は誰が負担するのだ。
よそに出る熊はかわいそうだが、うちに出る熊は殺して当然だ。
なぜなら危険にさらされるのは、私の命であり、私の土地なのだから。
「そうだそうだ、その通りだ」

でも人権を認めていない国や地域は、現在でも地球上にたくさんあるし、歴史的に見れば、現在人権を認めている
国や地域においてだって、人権など存在しなかった時代の方が長い、これも現実なんです。

これからするのは、「リスクがあるなら排除すればいいっていう考え方にはぞっとする」って話です。だから功利主義的な考え方の人が理解するのは難しいかもしれません。

戦争の口実に、生命や財産の保護が使われるのは常套(じょうとう)手段です。
大義名分として「生命のためだから」「生命は何よりも尊重されるべき」というのはとても強力です。

ただここには大きなまやかしがあることを、殺す側よりも殺される側になる可能性が高いであろう、非軍人や非警官、非武装国国民、そして大衆側にいると思われる一般人は、常に注意深く考えておく必要があります。
そのまやかしとは、その「生命」が「何の生命」なのか、ということです。

【おまえはおれを殺しちゃだめ】
数年前に「どうして人を殺してはいけないのですか?」という問いかけが社会的にクローズアップされたことがありました。
実はこの問いにも、まやかしがあるのです。この問いへの答えに窮してしまったような人はみな、このまやかしの罠にはまってしまったのです。
そのまやかしも、先に書いたものと一緒。
この問いは、「何の生命」あるいは「誰の生命」についてのものなのかを明確にしていない、これがまやかしです。

例えはこうした問いなら、答えは簡単に導き出せるでしょう。

問)私があなたを殺害すると、なぜ日本国から罰せられるのでしょう。

答)日本国の法律で、そう定められているからです。ただし例外規定(正当防衛、死刑、堕胎など)もあります。

問)他人を殺してはいけないのだと言われました。この「いけない」とはどういう意味ですか?

答)辞書を引くと「よくない。まずい」と出ています。その通りの意味です。

問)人以外なら殺してもいいのでしょうか?

答)仏教では殺生(生きているものを殺すこと)を厳しく禁じています。それ以外の宗教でも、「殺すこと」は様々な形で戒められています。
その真反対の立場に、宗教は認めないという考えから生命を特別視しないというものがあります。人であろうと動物であろうと、何であろうと、役に立つ立たない(適材適所)で判断するという原則に立脚しているので、生命を奪うこと自体も特別なものとは考えずに、経済効率性にのっとった処理として判断します(例:堕胎、家畜の殺処分、脳死基準の変更、動物実験、ほか)。一概にどちらが正しいとか間違っているとかと言うことはできません。人権という考えかた自体がキリスト教的だといって、まったく認めない大国も存在しますから。


【とはいってもクマはクマ】
話の通じなそうな感じとか、こっちに向かってきそうな感じとか、いかにも噛みついてきそうな感じとか、走っても逃げられなそうな感じとか、生き物の本能が伝えてくる“痛そう”な感じとか、そのあたりの迫力は前足がネコ爪になったどでかい黒ジャーマン・シェパードが空腹の野良犬状態で突然目の前に現れたようなものなので、冷静に対処するとかは無理。偶然たまたまどうしたわけだか、向こうから去ってくれない限り、どうやったら助かるのかわからない。こっちが先に気づいて、まだ距離があるとかなら(川の向こう側の斜面の上の方だとか)心の準備ができるけど、ヤブ漕ぎ(こぎ)しててガサっとなった時にはもう向こうが立ち上がろうとしてた(四つん這いの時のクマの高さはヤブより低い)なんてなるともう、頭はまっ白。声も出ない。

人里に現れたクマは一時保護してから山に帰せと、言うのは簡単だけど、保護するのも危険だし、山へ運んでいくのも大変なんです。だって、車で簡単に運んでいけるようなところに置いてくるわけにもいなかいでしょ。他の車や人だって通るところだし、クマだったまた降りてくるのも簡単だし。だから二度と人里に来られないくらいの山奥に放すのが理想なんだけど、そこまでどうやってクマを運ぶのってことになってくるわけ。

【解決策】
クマ鈴だとか番犬で、クマの方に警戒させる以外に、(人を守りつつ)クマを守る方法はない。今のところは。
もっと過疎化が進んで、昔みたいに人里と山の間に明確な緩衝地帯ができてくれば、野生生物がいきなり人間の生活圏に迷い込むような“事故”も減少するとは思うが。
ここ最近の現状は、激安宅地の開発や林道の整備で、以前なら入っていけなかったような場所に、以前なら入っていけなかったような人が、安易に入っていってしまう。
山菜採りにしたって、直売所で商売になるから大量に採ろうとして、奥へ奥へと行ってしまう。
「金」にならないで、自分が食べる分だけなら、家の裏でちょこっとですんでいたのに、「金」になるとなると、「欲」と「競争」が絡んできて、どうしてもエスカレートしてしまう、それが人間の性ってもの。
民家の近くまでクマが降りてくるのにしても、おそらくクマは、山へ入り込んだ人間の残した「臭いの道」を辿って降りてきてるに違いない。
この先に何があるのかわからない状態でクマは足を進めてるのではなくて、おいしそうな臭い、おそらくは入山した人が持っていたお弁当だとか、お菓子だとか、ジュースだとか、そういうものの臭いに誘われて足を進めているのだ。

動物園や研究所に閉じこもっていて、数年に一度くらいしか日本の山に入らない、「自分がバカだと気づいていないバカな動物専門家」は、山に食べ物がなく、仕方なくクマは人里に降りてきているかのような分析まがいの「とんちんかんな想像」を訳知り顔で語って悦(えつ)に浸(ひた)っている。
もしも本当にそうであるなら(山に食べ物がないとしたら)、クマ以外の、もっと数が多い小型・中型の動物たちも、人里へ降りて来なければ理屈にあわないってことがわからないのだ。かわいそうに。でもバカだから仕方がない。わかったらバカでなくなってしまうから。

人間が山へ入らなくなれば、クマも人里にやってこなくなる。
「それは無理。どうしても山に入りたい」ってことなら、食べ物やお菓子、ジュースの類(たぐい)は持ち込まないようにする。これだけでかなり、クマが「臭いの道」に興味関心を持つ可能性は低くなる。

それも無理だっていうなら、ジェノサイドしかない。
クマを皆殺しにして絶滅させ、イノシシを皆殺しにして絶滅させれば、問題は完全に解決する。
いや、もう一つ解決方法があった。
それは、人間は街に暮らし、動物は自然に暮らすという、もともとの形を取り戻すことだ。
池があったら溺れてしまう危険があるので、池の水をすべて抜いてしまえ、という思考から日本人はもうそろそろ卒業していいんじゃないだろうか。
刃物が危ないからと刃物を持たせない。ファールボールが危ないからと高いフェンスを設ける。防虫剤殺虫剤でいっぱいの部屋で有機野菜のサラダを食べる。こういうのはあまりにも幼い。

人の命は特別だという価値観は、100%完全にキリスト教に基づいている。
日本はキリスト教文化圏ではないのだから、「人命」についての考え方も、日本本来のものはどうであったのかについて、もう少し語られるべきだろう。もう戦後日本人は、それくらい成熟してきているのだから。






【クマが人を襲っている画像】




















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