2010年11月10日水曜日

劣勢のときこそサッカーは楽しい。

先日の少年団大会県大会@熊谷スポーツ文化公園で、今シーズン私が注目してきたチームが1回戦で敗退した。
そのチーム名を具体的に申し上げることはやめておこう。いつの日か、何かの拍子で、そのチームの関係者が自分たちのチーム名で検索をかけて、このページを目にしてしまうことがあるかもしれないから。
だからここではそのチーム名を、仮にAGミランとしておくことにする。この仮名を選んだことに特別な意図はない。先日未明のUEFAチャンピオンズリーグ特番にそのチームが出て来たからだ。それだけだ。
そして少年団大会@熊谷で、このAGミランから勝利をあげた対戦相手を、便宜上ギャランズ(仮名)とした。

試合の面白さが一段と増したのは、ギャランズが先制した前半10分以降だ。
それまではAGミランの一方的なボール支配率と連続攻撃で、AGミラン応援団は盛り上がっただろうが、さあこれから試合を楽しむぞとワクワクしていた私のようなものにとっては、隣のさつきFC(仮名)対グンゼYG(仮名)の方へ移ろうかなと思わされるような出だしだった(シュート練習を見せられてもつまらないってこと)。

さてさて、ギャランズがAGミランの猛攻をしのいだ後のカウンター一発で先制ました、それからのお話。
AGミラン側は、はっきりわかるくらいに動揺していた。プランが崩れたんだろうね。
はたから見れば、どっちにしろ1点は取らなきゃならないんだから、状況は何にも変わってないと思うのだが、AGミランの方はなぜか、早く追いつかないと負けるぞ空気に包まれて、追い立てられるようにプレスをかけはじめた。
技術的にも実力的にも、AGミランの方がずっと上であることは誰の目にもあきらかなのだから、激しくプレスを受けたギャランズの選手たちは、自分たちのゴール前にほぼ全員が釘付けされるような状態となった。まあ、そうなるのがふつうだろう。
そしてギャランズは、できるだけ遠くへクリアすることと、AGミランの中心選手である7番と16番をがっちりマークすることに集中し始めた(実際のところはそれしかできなくなってしまったというのが事実で、ギャランズベンチからの指示もそれ一辺倒だった)。
ではAGミランの選手たちはそれでどうしたのかというと、なぜか、その密集しているところへパスを通すことだけしか頭になくなってしまったような、まるでこれがそういうゲームか練習であるかのような、そんなプレー選択しかしなくなった。
相手がいないのだから、AGミランは中盤より後ろでは楽にボールを持てる。そこで狙いに狙いをつけて、前方の密集地からの、ガチガチにマークにつかれているエースからのパスを呼ぶ声目がけて、せっかくのマイボールを放り込むのだ。
テレフォンパスどころの話じゃない。レッドカーペットパスかっていうくらいのバレバレ度合いだ。
はたしてAGミランの選手たちは、その狙い通りに、密集した敵に囲まれた味方の利き足ピッタリにボールを落とすことができるほどのコントロールを身につけているのだろうか?
当然、身につけてはいない。
蹴られたボールは、ポーンと飛んでいって、あるいはゴロゴロと転がっていって、相手にカット(プレゼントとも言う)されてしまう。毎回毎回。
ギャランズにしてみれば、攻められ続けているようでいて、モチベーションとしては「守れるぞ」という自信に後押しされるような、気合いのはいる状況だったことだろう。「うおーらっ! 跳ね返せ! 跳ね返せ!」で、相手のエースをがっちり抑えきっている訳だから。このまま耐えれば勝てる、そういう気持ちがどんどん燃え上がってきているのも伝わってきた。

AGミラン側からは、自分たちのプレーをしていればいずれ点は取れるさ、と自分たちを落ち着けようとしているのが伝わってきた。
セットプレーでもいろいろなパターンを持っているようで、コーナーキックなどは毎回違うやり方を見せていた。
でもちょっと待って欲しい。
そして、君たちのそれは、自分たちのことしか考えていない、独りよがりなプレーになってしまっていたのだよ、と気づいて欲しい。
思い返してごらん。
コーナーキックで相手ゴール前に並んだとき、頭ひとつ以上のギャップがあったミスマッチ箇所があったじゃないか。そこを狙ってボールを蹴っていれば、まあ2回に1回は決定的なチャンスになっていただろう、と私は思う。決定的なストロングポイントがある時は、そこを徹底的に突く。これが最もシンプルで最も効率の高い攻撃であるのは、太古の昔からの真理だ。

またシュート体勢に入ったときに余裕があるあまり、グラウンダーのシュートでコースを狙いすぎたのも、相手の守備を盛り上げる要因となってしまった。
あのかたい芝質だと、転がしたボールのスピードは、芝の抵抗で急速に減じていく。
いつもなら間に合わないシュートであっても、最後まであきらめないで足を出せば(GKなら手)、ゴールラインギリギリでクリアできるのだ。そのギリギリのクリアが何本か連続すると、そりゃあディフェンス陣は盛り上がる。今日の俺たちには「キテいる」と、アドレナリンがガンガン出ていたことだろう。
あのような状況で攻撃するときは、ドリブルとショートパスとダイレクトでかき回しながら行きつ戻りつゆっくりじっくりと、というのがセオリーだ。相手が多くてスペースのない場所へロングボールを放り込むなんてのは愚の骨頂。ピタリと止めなきゃならない味方は、どこでもいいから蹴り返せばOKの相手に対して圧倒的に不利な上に、数でも負けているのだから、パスなんて通るわけがない。
密集しているときのシュートは、相手に当たってイレギュラーする率が高いんだから思いっきり強く。また、コースを狙おうとしても密集していてすぐつめられるんだから、タイミング重視で強引に打つ。これが鉄則。
そして芝がかたいんだから、転がさずに浮かせる。芝がかたいということは、ボールが地面から浮いているってことだから、浮き球はいつもより蹴りやすいはずだ。
引き籠もってガチガチに守ってる相手にはあえてプレッシャーをかけないで、ボールを持たせて、攻め上がらせて、最終ラインを前に引き出す。そしてセンターサークルあたりでのパスミスを狙って、パスカットできたらそこからはいつもの自分たちのサッカーを展開。今度はスペースがあるんだから、前よりもずっとやりやすい状況でプレーができる。
──と、他にももっといろいろあるのだが、そういうことを書きたかった訳ではなくて、なぜ負けているときの方が面白いのか、楽しいのか、ということを書きたいので、そちらへと話を戻す。

上に書いたようなことは、試合中にベンチから指示されるようなことではない。
こういう類(たぐい)のことは、試合中に、選手個人個人が自分で状況を分析して、判断するレベルの、極々基本的なことだということを、まず言いたい。
なぜならこれに似たようなことを、子供たちは遊びの中ではいつもやっているからだ。
雨上がりのぬかるんだ場所で鬼ごっこをしたら、ちゃんとぬかるみで自分は有利、鬼は不利になるような逃げ方をする。
ドッチボールで誰を狙うか、どこを狙うか、どういう順番でボールを回すか、風向きは、クセは、そういったことをちゃんと計算する。
ポートボール(リングの代わりを人間がやる、バスケットボールに似た競技)のゴールマンの身長が高いときは、ギリギリ手が届くくらいの高さに投げるし、ジャンプボールではフェイントをかけたりする。
ビデオゲームで遊ぶときだって、攻略本や前にやったときの記憶や友だちから聞いた情報など元に、戦略を研究する。
お小遣いをもらいたいときは、ちょうだいちょうだいとねだる前に、自分からお手伝いや宿題をやっていい子アピールしておく。

それと同じことを、サッカーでもやってくれってことが言いたいのだ。
そしてそれが見えたとき、私は「面白い」「楽しい」と感じる。
「お、あのガキ(あるいはガキども)、やるな」なんて思わせて欲しいのだ。
僕達はコーチに命じられるまま、このプレーを訓練してきました、なんていうプレーは、「お見事」とは思うけど俺には面白くない。俺がわざわざピッチまで足を運ぶのは、あるいは人生の無駄な時間をサッカーに費やすのは、台本通りの演技を見るためじゃない。そんなもん、俺は見たくない。

今、将棋の竜王戦(りゅうおうせん)というのをやっている。
今日、その第3局が始まった。
将棋というゲームにプロが存在していられるのは、そこに勝敗以上の付加価値があるからだ。
そしてその付加価値とは、「心」にあると私は確信している。
「心」とは「心理状態の揺らぎ」そのものである。「心」は決して「考え」や「信念」ではない。その「考え」や「信念」がどう揺らぐかが「心」なのだ。
今期竜王戦は、ここまで羽生(はぶ)名人の2連敗で来ている。
そして面白いのは、渡辺明(わたなべあきら)若き永世竜王のジンクスだ。これがいかにもアヤシイ。
局面が苦しくなるとトイレに立ち、しばらくして戻ってくると、自信満々に会心の一手を指すのだ。これについてはもうずっと、トイレに籠もってパソコンをいじってるんだ、とか、携帯でアドバイスを受けているんだ、とか言われて来た。だがこれも結局のとこ、そのパソコンソフトなり、アドバイザーなりが、羽生名人よりも強くないと意味がないじゃないかということで、噂は噂のままになっている。でもしかし、この、苦しくなると席を立ち、戻ってきたら逆転の一手、というパターンはそのまま今日まで続いている。おそらく渡辺竜王は、こうした噂までをも、心理戦の武器として利用しているのだと私は理解している。そして対局相手もそれをわかっている。わかってはいるのだけれど、考えるな考えるな、盤面に集中しろ、とすればするほど、集中が乱されてしまっているのが考慮時間からもなんとなく読み取れる(特に昨年(2009)の22期森内戦はわかりやすかった)。将棋の超一流クラスであってもそうなのだ。だから将棋は、プロが成立している。いくら強くても、コンピュータソフト同士の対決では、プロ制度は維持できない。しかし、プロ対コンピュータなら、興行は成立するのだ。そこに「心」が介在するからだ。

私は同じことをサッカーにも求めている。
それは少年サッカーであっても同じことだ。

あらゆるサッカーのトレーニングは、この「心」に経験を積ませる、引き出しを増やす、ひらめくノウハウを身につけさせる、ために成されるものだと確信している。
どんなにいい、効果的だとされている練習プログラムであっても、それをやる選手の心が閉じてしまっていてはまったく意味がない。ロボットのように凍りついてしまっていては、ただバーベルを上げ下げしているのと何も変わらない。

シュート練習でも、ミニゲームでも、練習試合でも、それらはすべて「心」を楽しくするためにやっているのだ。
極論すれば、サッカーにおける目標は、FIFAワールドカップの準決勝・決勝とUEFAチャンピオンズリーグの決勝戦のみだとも言える(もちろんここで言っているのは、選手としてピッチに立つとかそういう狭いことではない)。これら以外のすべては、この目標へ至るための準備なのだ、とそうとらえると毎日の練習や、埼玉県内での公式戦への向き合い方も変わってくるのではないだろうか。
今年の全日本少年サッカー大会で優勝したバディーSCにしても、まさかこれで「サッカー人生はいゴールです」とは考えていないはずだ。

神様のいたずらで、ある日ふと目覚めたら、10番背負ってワールドカップの決勝戦のピッチに立っていた、としよう。
そのときに、パニクって、泣き出して、逃げ出してしまうか、理由はわからなくてもその状況にいるのだからそこで自分にできる最善を尽くそう、この状況を最大限に楽しもう、と即集中するかは、すべて「心」が決定する。

自分の心は、自分の中にしかない。
洗脳やマインドコントロールという技術にしても、それらは心を直接コントロールすることはできない。
心は自分の外へ出て行くことはできないし、自分の外から誰も触れることはできない。
いや、自分でさえ、自分の心に触れることはできない。
心とは、自分の中にいる、もうひとりの自分なのだ。
(精神分裂病とか統合失調症とか多重人格とか、そういうことじゃなくて、哲学的な意味で。わかりやすい例をあげれば、自分の心を認識しようとしたとき、その認識しようとしている自分は心を認識できるのか、また逆に自分の心は、心を認識しようとしている自分を認識できるのかってこと)

22人(+ベンチやレフェリー、そしてサポーター)の心が、ひとつのボールをめぐって揺れ動く。
それがサッカーの持つ魅力であり、楽しさだろうと私は確信している。

だからこそ、サッカーは負けている時の方が面白いし楽しいのだ、と私は断言できるのだ。






おわり

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