2011年5月6日金曜日

2011 古河武井杯

茨城県古河市の利根川河川敷「リバーフィールド古河」等で開催された、2011古河武井杯を見てきました。
ぜひともこの目で見ておきたい試合があったからです。

第31回記念古河武井杯全国招待親善サッカー大会

期日
2011年 5月3日  5月4日  2日間 雨天決行
会場
リバーフィールド古河レクレーション広場
参加資格
6年生を主体としたチームであること。
・スポーツ障害保険に加入していること。
・保護者の承認済みであること
競技規則
現行の日本サッカー協会競技規則による。

【主な参加チーム】
江南南、大宮アルディージャ、柏レイソル、古河、ファカルティ、バディー、新座片山、ともぞう、横川武蔵野、柏イーグルス、鹿島アントラーズつくば、ばらき、ファナティコス、多摩トレセン、相模原TC、他。



北足立北地区から車で1時間圏内で開催される、関東の有力チームが軒並み参加する大会であることはもちろんのこと、実はもっと大きな楽しみがこの武井杯にはあるんです。

それは! このピッチ状態なのです。↓


このボコボコのピッチが、個々の選手の本当の技術レベルを白日の下にさらしてくれちゃいます。まさにゴルフで言うところの全英オープン!

面白いもので、技術がちゃんとしているチームは、こんな状態のピッチであっても「ちゃんと」サッカーができます。
でも逆は、ちっともサッカーになりません。いつものプレーができません。
そういうチームの子供たちの顔を見ると「これはぼくの実力じゃない。こんなピッチじゃあ、実力を発揮できないだけなんだ。ぼくのせいじゃない。ピッチのせいなんだ」と大きく書かれていて、それがいつものこと過ぎて、若干興ざめ。あっちにもこっちにも、同じ文字を顔に書いた子どもがいるのですから。

しかし「ちゃんと」サッカーをしているチームの子たちの顔に見えるのは「闘志」だけ。
ピッチの状態に対応し、それを乗りこえ、さらに自分たちが有利になるにはどうこれを利用したらいいのか、そういうことしか頭にないような集中した表情をしています。
こういう子供たちを見ると、こっちまで燃え上がってきて、ワクワクしてしまいます。

こんな風に、普段の整ったピッチでは化粧で覆い隠されていて簡単には見えない「素の力」が、如実(にょじつ)な差となって現れるので、この大会は私にとってとても楽しみなものになっているのです。



さて、では私がこの目で見ておきたい試合ですが、それはこれなんです。
       ↓

「え ブロック」「第3試合」
上尾朝日FC × バディーSC

バディーSCとは、言わずと知れた、昨年の日本一チーム。
昨年のこの大会では、埼玉県新人戦優勝のアルディージャが0-3負けをきっしています。内容も、まったくサッカーをさせてもらえないくらいの完敗でした。応援にいらしていたアルディージャのご父兄方が、非常にショックを受けていたのが印象的でした。
対する上尾朝日というチームは、北足立北地区のトップレベルを象徴する「ベンチマーク(水準点)」、と私が勝手に決めているチームです。他のチームの実力には年ごとに波があるのですけど、このチーム(と上尾東)は毎年安定したレベルに仕上げてくる育成力と確証のある長期プランを持っているのだろうなあ、と推察しています。

さて試合の結果は0-5の負けでした。内容も決して「善戦した」とはお世辞にも言えないようなものでした。
しかし、15分ハーフの8人制での0-5は、昨年15分ハーフ11人制で0-3負けしたアルディージャと比べて、相当いい線行っていると私は感じました。

確かにバディーもアルディージャも、昨年のチームとは全然別のチームではあります。今年のアルディージャなんて、間違いなく4~5年生のチームでしょう(新人戦で見た選手がいなかったから。ホント、失礼なチームだな。事情はあるんだろうけど、大会規約はスポーツマンシップを持って尊重して欲しいぞ! なんてね)。
しかしそれでも、上尾朝日の子供たちの心には、闘志の炎がメラメラと燃えたはず。そのエネルギーを保つことができれば、久しぶりの県決勝も夢ではないと私は期待しています。


私が観戦できたのは、残念ながら大会初日だけでした。
大会サイトを見ると、

優勝 : バディーSC
準優勝 : 鹿島アントラーズつくば
第3位 : 江南南SS、 新座片山FC

3位パートに回った上尾朝日は、準決勝でアルディージャを5-1で破って優勝していました



今年の埼玉少年サッカー界にはレジスタというすばらしいチームが存在しています。
もし仮に今年の全日本少年サッカー大会全国大会が開催されれば、ほぼ確実に日本一となる実力を持ったチームでしょう(と私は確信しています。まともに対抗できるのは、関東ではマリノスくらいなのではないでしょうか)。

上尾朝日には打倒レジスタを目指してがんばって欲しいです。
そのためには、走力強化という面からトレーニングアプローチを工夫してみるのも一考だと思うのだがなあ、なんて私は思ったりもするのです。
単純ですけど、絶対的な真理として「疲れてくるとミスをする」のが人間です。
速くて確実な速攻パターンを持っているレジスタ相手に、「疲れた状態でのミス」は命取りになります。
上尾朝日さんの育成方針ではないかもしれませんが、「走力アップ」ということも敵視せず、タブー扱いせず、「根性論だ。古いサッカーだ」と見切らずに、チャレンジしてみて欲しいなあと思ったりなんかしています。

ブラジルもドイツもオランダもイングランドも、基本は走力です。
スペインやアルゼンチンも、パスをつなぐために走り続けています。
小学生年代で走力のことを考えるのは尚早(しょうそう)、という考えも正しいとは思います。
でもその一方で、勝つために何が必要なのか、を子供たちと共有してそれを乗りこえようと努力することを経験することも、将来を見すえた育成の面から必要なことではないかなあ、とも思うのです。少なくとも、「悪い」ことではないと私は確信してます。

まったく疲れていない元気いっぱいの時に、華麗な“またぎワザ”や“引きワザ”ができるのは「楽しい個人技」です。
でも棒になった足で泥臭くボールキープできることもサッカーでは大切な技術なのです。いわばこれは『強い個人技』です。
これからの日本サッカーで要求されるのは、もはや「楽しい個人技」の段階を終え、むしろ「強い個人技」であるような気がします。少年サッカーの一部指導者層は、すでにそのステージへと踏み込んで行っているように、私には感じられます。
そんなことを、今回の古河武井杯を見ていて感じました。



それと、話は大きく変わって──

共感の得られない意見かもしれませんが、私はやっぱり新座片山というチームは“いいチーム”だと思ってしまうのです。
この日も、子供たちの人格や、はては親のことにまで触れるような「激しいコーチング」がなされていました。
ハーフタイムや試合後には、すでに絶滅したと思われていた「ゲンコ」もくれていました。
ゴツンッという音が、離れていても耳に届くくらいの「本物のゲンコ」です。
どちらについても、時代遅れだとか、軍事教練的だとか、虐待だとか、子どもの人権問題だとか、そういう批判があることでしょう。
私も一般的にはそちらの側に立つ考えを持っています。
ですが、こと新座片山というチームについてだけは答えを異にするのです。

このチームのスタッフと子供たちと親御さんたち、そしてOBや後援者たちとの間には、そんなことで誤解や問題など生じない「信頼関係」が築かれているに違いない、と、私は想像しています。

ぶっちゃけて言えば、今どきの日本で「厳しい叱責」や「ゲンコ」を用いることは、とてもリスクの高い「危ない指導」です。一歩間違えれば(あるいはクレーマー脳を持った大人や活動家が絡んできたら)、裁判沙汰にさえなる可能性が相当程度あるくらいの危険度です。そしてまず、その裁判では勝てません。

しかしサッカーを含むスポーツ指導の面に限って言えば、こういう「子供たちへの厳しい指導・要求」は、グローバルスタンダードに則った、非常にポピュラーなものだと私は理解しています。
キリスト教文化圏(北・中・南米、ヨーロッパ、中・南アフリカ)では、「しつけによって子どもは人間になる」という考え方が支配的です。
「大人になる」ではない点に注目です。
言いかえれば、「教育を受けていない人間は動物と同じである」という世界観です。
人権という考えを生んだ「人は神の前にみな平等である」というキリスト教の理念の前提には、「教育を受けた」という文言が常識として省略されているのだということを知る必要があります。だから大航海時代に、奴隷だとか植民地だとか、そういう行為が何の疑念もなく平然と遂行されたわけです。

話を本筋へ戻せば、キリスト教圏では「痛みを伴う体罰」は学校でも家庭でも、極ふつうに用いられています。人格や出自、親の身分、血統、あるいは宗教や外見なんかもガンガン攻めてきます。停学退学なんかも当たり前。教育・しつけのグローバルスタンダードはこんなにも厳しいというのが現実なのです。

良い悪いは別の問題として、新座片山の厳しい要求とそれに応えようとする緊張感、ピンと張り詰めた余裕のない空気感は、キリスト教圏のトップレベルスポーツ指導の雰囲気によく似ていると私は思うのです。

褒めて、おだてて、冗談言って、笑顔で、──と、そういう関係性を築く方が、大人は楽です。
厳しく、厳しく、厳しく、時には親のことまで非難して、──そういうのは、どんな大人にだってストレスです。
片山のコーチたちも、布団の中で「あの言い方はきつすぎなかっただろうか」と思い返しながら、ゲンコした自分のこぶしの痛みを感じているはずです。表向きは、酔っ払って寝て、すぐに全部忘れてしまったような顔を見せていても、本人は周囲が思っている以上に細かいところまで覚えているものなのです。殴った方は痛みを忘れるというのはウソで、相手のことを大事に思えば思うほど、言ったことやぶったことはずっと記憶に刻み込まれます。

新座片山のコーチたちは、それを十分にわかっていて、そしてそれでもゲンコを使う。
子供たちから絶対に逃げ出さない、という責任感、信念、そして覚悟がなければ、そんなことはできない、と私は思っています。

それらを持ち合わせない大人が、形だけ新座片山のマネをするのには大反対です。
ですけど、新座片山がやっていることを、ただ周りから見ただけで全面否定するのは、とても表面的で思いやりのない浅はかな判断だと思います。

すべて私の勝手な思い込みで、まったくの誤解なのかもしれませんが、それでもやっぱり、私は新座片山というチームのファンなのです。

シュガー・レイ・レナードに対するマーベラス・マービン・ハグラー、それが私にとっての新座片山というチームなのです。


【参照】
8人制戦術考
あしなが育英会 東日本大震災 津波遺児 単発寄付

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