2011年2月1日火曜日

混乱する工作活動の例

主要3紙共同サイト『あらたにす』より


朝日新聞社説 
2011年2月1日(火)付

小沢氏起訴―市民の判断に意義がある 民主党の小沢一郎元代表が、政治資金規正法違反の罪で起訴された。検察審査会の2度の議決を受けたもので、ふつうの市民が政界の実力者を刑事被告人の座に据えたと言っていい。

 いったん検察が起訴を見送った事件だ。裁判の行方は予断を許さない。

 起訴の権限は検察が長く独占してきた。足利事件のような大きな過ちもあるものの、有罪が確実に見込まれるものだけを起訴する運用により、有罪率99%という刑事司法を作りあげた。

 それは一定の評価を得る一方で、裁判の形骸化をもたらした。検察が強大な権限をにぎることになり、独善的な体質を生む素地ともなった。

 検察審による強制起訴はこれに風穴を開けた。検察がとってきた起訴と不起訴とを分ける基準や個々のケースへの対応は、一般の感覚と正義感に沿うものか。問い直す機会を市民が初めて得たと言っていいだろう。

 今回問題になったのは政治資金規正法の解釈・運用だ。これまで検察は、収支報告書に実態と異なる記載があっても、ヤミ献金など重大悪質なものでなければ摘発対象とせず、また、実務担当者を超えて政治家本人の責任まで問うには、よほど確かな証拠が必要だという方針で臨んできた。

 これに対し検察審は、規正法が目的に掲げる「国民の不断の監視と批判」を言葉だけのものにしてしまう、ずさんな記載のありように、より厳しい目を向けた。政治資金の流れの透明性を重視する姿勢は、検察が「小沢氏自身の関与を裏づけるとまではいえない」と判断した秘書らの供述を、積極的にとらえ直すことにもつながった。

 裁判でこうした点がどう評価されるか、軽々に予測できない。検察審を引きついだ指定弁護士の言い分が否定される可能性はあるし、訴追される側の負担にも配慮が必要だろう。

 だが、国民が抱いた疑問をうやむやにせず、法廷という公の場で議論し、裁判所の判断を求める。その意義は、日本の政治や司法制度を考えるうえで決して小さくない。起訴イコール有罪といった決めつけはせずに、冷静に公判の行方を見守りたい。

 政治の側が早急に取り組むべき課題もある。今の収支報告制度は、秘書任せ・他人任せを容認する内容になっている。報告書に政治家本人の署名を義務づけるなど、自覚を促し、責任を明確にする仕組みに改めるべきだ。

 小沢氏は、検察による起訴と強制起訴との違いを強調して離党などを否定した。その時どきで都合のいい理屈を持ち出し、国民に正面から向き合おうとしない姿勢には失望を禁じ得ない。

 法廷で争うことと、政治家として責任を果たすことは別問題である。国会での説明すらできないのなら、自らしかるべく身を処すのが筋ではないか。






天声人語
2011年2月1日(火)付

 ジョークの宝庫といえば結婚である。哲人ソクラテス曰(いわ)く。「まず結婚せよ。良妻を得れば幸せに、悪妻なら君は哲学者になるだろう」。青木雨彦さんの『洒落(しゃれ)た関係』から男のざれ言を続ける

▼夫の証言。「新婚の妻は食べてしまいたいほどかわいかった。あの時食べときゃよかった」。もう一つ。「金曜に結婚すると不幸が起きるというのは本当ですか」。「もちろん」と劇作家のバーナード・ショー。「金曜だけが例外でいられるはずがない」

▼最後のは、必然を言いたい時に応用が利く。以前なら「月曜に起訴されると有罪になるというのは……」と、問いを換えることもできた。検察の信頼が揺らいだ今は「いや、月曜には例外もある」と答えざるをえない

▼その検察が諦めた小沢一郎氏の「疑惑」を、検察審査会が法廷へと押し出した。強制起訴された氏は検察嫌いの上、素人の検審が新聞やテレビに流されたと思っているのだろう。無罪を前提に辞職も離党もしない意向という

▼民主党の幸不幸は、思えば小沢自由党との「結婚」に始まる。今や別居寸前だが、菅首相が「あの時…」と悔やんでも遅い。たくさん生まれたチルドレンは多くが小沢氏につき、家を出るならそっちと言わんばかりだ

▼被告席から政治闘争を構える「党内党」を背負い、ねじれ国会の針山を登る首相。今さら哲学者にもなれない。ソクラテスは「天下を動かすには、まず自ら動け」と諭したが、動きようがない。次々と降りかかる難題を前に結束すべき時に、ああ犬も食わない権力劇である。



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社説では、「訴追される側の負担にも配慮が必要」「起訴イコール有罪といった決めつけはせずに、冷静に」とアリバイ作りをしつつ、天声人語では「無罪を前提に辞職も離党もしない意向という」と非難・攻撃している。

さらに「強制起訴された氏は検察嫌いの上、素人の検審が新聞やテレビに流されたと思っているのだろう。」に至っては、冷静・客観を装おうとしていてもどうしても隠し覆いきれない記者氏の私的感情が出てしまっている。
「強制起訴された氏は」って──幼いよね。まるでいじめられたガリ勉が、怪文書に書く表現みたい。
「検察嫌い」──自分が疑われて、でも好き好きなんてのは、頭おかしいでしょ。駐車違反の時は警察嫌いにならない?
「素人の検審」──素人なのは事実でしょ。専門家だとでも思ってるの?
「新聞やテレビに流された」──部数とか視聴率をあれだけ気にしておいて、流されたも何もないでしょ。おたくら、俺ら一般ピーポーを「流したい」んでしょ。おたくらの思う通りに。
「思っているのだろう」って──一面に載せる看板コラムで「思い込み・想像」かよ。これがありで記事が書けるなら、もはやなんでもありだな。


しっかし、こういう状態の朝日新聞編集部内の心理状態を想像すると、けっこう笑える。

もし俺が新聞を作れるのなら、このタイミングで報じるべきと判断するのは、原点に回帰して、何が犯罪だと問われているのか、そしてどういう捜査が行われたのか、を事実のみに基づいて再検証するね。

起訴する側さえ「白黒は裁判で」と言っている状況で起訴される人に対して、即、仕事も地位も捨てるべしと求めるのは、どう考えても間違っていると私は思うわけです。

法治国家の本来あるべき姿としては、裁判で有罪が確定し、それが職務遂行に影響を及ぼす場合に限り、職を辞する選択を自ら下す、というものだろうと私は確信している。

まして政治家なら、選挙という審判があるのだから尚更(なおさら)。

リストラや、ライバル蹴落としに、やらせの痴漢や不倫・セクハラのうわさを使うのは、大銀行では昔からあった手法だけど、これも疑われただけで有罪同等っていう日本の悪しき風土があったればこその裏技で、そういう、いやらしい内輪文化、島国倫理、村社会規範、はなくしていくべきだろうと私は確信している(差別も生むし、こういうのはさっさとなくそうぜ)。
今回の小沢氏の件が、そうした方向へ日本社会が梶を切るきっかけになって欲しいと、私は切に願っている。


以上で~す。

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