2011年2月19日土曜日

「どうして私ばかり」スパイラル

「どうして私ばかり」スパイラル


ここのところ、同じような「あああ、こういう人(連中)『どうして私ばっかりスパイラル』に入っちゃってるよ。気づかなきゃ、もう一生抜け出せないんだろうな」という事例に触れることが重なった。
ひとつは、寄せられたこのコメントや試合会場で耳にした情報から推察される、あるサッカーチームの経営者。
ひとつはNHKの「無縁社会キャンペーン」。
ひとつは、ルールを無視したことを注意したら「こっちは仕事なんだよ!」と切れた営業マン。
そして、昨夜(木)9時から放送されていた『ホンマでっかTV』で紹介されていたモンスターペアレンツたち。

ここに登場した人たちは皆、「自分が生きるために必死なのだから、自分のすることは許される」という倫理規範だ。
言いかえれば、「他人のために自分が死んだら元も子もない」という価値観だと言ってもいい。

「まったくその通りじゃないか」と同調する人がいたら、私は、「おいおい、少しは考えてから同調してくれよ」とアドバイスするだろう。
実際には、上で紹介した誰も「生命の危機」には晒(さら)されていないのだ。
ただただ、自分が「しない」ことのための言い訳、自分「だけ」がうまくいかないことの理由付けとして「生きるために必死」という“フレーズ”を拝借(はいしゃく)しているに過ぎない。

自分たちのチームの子供たちがより高いハードルにしようとしたときに、そのチームの“指導者(何を指導してるんだっつうの)”が子供たちの足を引っぱってしまったら、その話は永遠に語り継がれる。

兄弟、親戚、友人、知人、ご近所さんが困っているときに知らぬ存ぜぬを決め込み、自分だけには火の粉が降りかからないようにと身を隠していたくせに、いざ自分が困ったら世の中を「無縁社会」だと嘆(なげ)くのは、滑稽千万(こっけいせんばん)だ。

仕事を理由にルールやモラルをないがしろにした結果は、巡り巡って、いたるところ駐禁、防犯カメラ、ゴミの分別&有料化、渋滞、保険料高騰、そして規制規制規制。こうしたこともろもろが社会の生産性を押し下げて、結局自分の仕事の足かせ要因になる。

そして自分の子供のことしか考えない、あるいは自分のことしか考えない親たち。それは一見、「自分の子供」や「自分のこと」を優先しているようでいて、実際に起きていることは「自分の子供」と「自分」の状況の悪化促進でしかない。自分の成績表について、自分の親が学校に特別あつかいを強要したことを、自分の子供は気づかないとでも思っているのだろうか? また自分のことしか考えていない親の元で育った子供が、将来、問題なくすくすく育つと思っているのだろうか?

同じ『ホンマでっかTV』の中で、人間を含む高等動物の持つ選択認知についても触れられていた。
タカの視力や犬の嗅覚と同じ「選択認知」の能力を、人間も持っている。
タカが動く物体に対する認知能力を持ち、犬が知っている臭いに対する認知能力を持つのと同じように、人間は自分の関心がある情報に対する認知能力を持っている。また『ホンマでっかTV』の話を持ち出して恐縮だが、この番組に出演していた女性の心理学者(おそらく)が、「人は関心のある情報へアンテナを向けるので、自然と関心のある情報ばかりが集まってくる。人間が“オタク”になるのは極自然な傾向である」というような主旨の発言をしていた。

確かに人間の持つこの傾向が“オタク”のような積極的な方向へ進んでいる時は、そう悪くもないが、現実にはそうなることばかりではない。その暗黒面の例が、鬱(うつ)病であり自殺である。

一旦アンテナが、負の方向へ向いてしまうと、負の情報ばかりが集まってくることになる。またそれは同時に、負の方向へ向いているアンテナの感度を強化する(高める)働きも持ってしまう。
これの行き着く先は、何もないのにわざわざ自らマイナス情報を掘り起こしに行って自ら己の立場を悪化させて己を責めるというような「自虐(じぎゃく)行為」のエンディングだ。
こうなってしまうと、自分から火をつけて「火事よ火事よ」と騒ぎ、「私の家だけがなんでこんなに燃えやすいのよ」と嘆(なげ)いているようなもので、もはや周りが「あなたの家はちっとも変じゃないですよ。自分で火をつけるから火事になるんですよ」と指摘しても、何も耳に入らない。いやそれどころか、「私が火をつけた? バカ言わないで。元々燃えていたのを私が早期発見したのよ。私は良いことをしたのよ!」とまさに火に油を注ぐことにもなりかねない。つうか、そうなる。くわばらくわばら。

「どうして私ばっかりスパイラル」に入っている人は、自分の境遇を理由にして自分の行為を正当化しようとすると上で述べた(自分が生きるため、自分の子供のため、自分の仕事のため、etc.)が、それを聞かされた周囲はどう受けとるだろうか?
まあふつうなら、「かわいそうに、それは大変だね。何かできることとがあったら遠慮しないで言って。配慮するから」というような反応をするしかないだろう。
この言葉の意味するところは、ずばり「同情」である。同情とは、「あわれみ」であって、決して「あなたとわたしは同等」との認識ではない。同情している方が「強者」であって、同情されている方が「弱者」であることを、互いに認め合った状況、それが「同情する・している」という状態なのだ(まあ、「実態は」ということであって、これに気づかないままにいる関係も多いが)。

同情関係が認識されると、何かにつけて「配慮する」という条件が加わることになる。

この「配慮」というのは、裏を返せば「あてにできない」「まかせられない」ということだ。

「配慮しなければならない人物」に重要な役割、責任を伴(ともな)うような仕事を任せることはできない。万が一途中離脱するようなことになった場合、「私、ちゃんと相談しましたよね」と言われたら、そのお鉢(はち)は「配慮が足りなかった」こちらへ回ってくることになるからだ。

この「配慮」は、「配慮される側」にとっても良くないと私は確信している。

多少の資金援助や、他の同僚・仲間よりも「楽(らく)」はできるかもしれない。しかし、その人物へは決して「リスクはあるけど大きなリターンも期待できる話」や「一時的に負担や責任は重くなるけど、それを成し遂げれば出世につながる仕事」が回ってくることはない。気づいたら自分ばかりが取り残されていた。自分は貧しいままだった。必ずやそういうことになるだろう。そしてまた「自分だけどうして……」「どうして私ばっかり……」というスパイラルの奥底へと落ちていてしまうのだ。

他人の財布が重くなれば嫉妬し、軽くなればよろこぶ人生──おめでとう!


私はこんなに大変なの。
私はこんなにかわいそうなの。
私はこんなに不運なの。
私はこんなにぎりぎりなの(いっぱいいっぱいなの)。
あるいは、
自分の命が一番大事。自分が死んだら元も子もない。
自分の子供が一番大事。自分の子供が一番になれないならぶちこわしてやる。
自分の仕事が一番大事。自分の仕事が最優先であって他のことなんかどうでもいい。

こういう姿勢の人に集まるのは、「重要な仕事、面白い役、リターンの大きな可能性」ではなく、「同情、あわれみ、ほどこし」だ。
なぜならその「どうして私ばっかりスパイラル」に陥っている人が発信しているのは、「自分のこの状況は自分のせいではなく周りのせいなのだ。私の能力に問題があるのではなく、ついていない(不運不幸な)だけなのだ」ということではなく、「私は自分を客観視できず、工夫も努力もする気がない、無能で弱くて無責任な人物なんですよ」というアピールでしかない。

ああ無情。

「私を、あるいは私の子を一番大事にして! して! して!」←こんなことは他人に要求することじゃない。
自分のことならば、他人から尊重されるような自分になるよう工夫すること、これが「自分の成すべき事」だ。
また、自分の子供のことならば、他人から尊重されるような人物になろうと努力できるような人間に育てられるよう工夫すること、これが「親の成すべき事」だ。
サッカークラブの経営者なら、子供たちが自分のクラブを選んでくれるように経営上の工夫をすること、これが「経営者の成すべき事」であって、離れていく顧客に嫌がらせをすることじゃない。その顧客に、離れていったことを後悔させるようなクラブに育てることが本道なのに、それがわからないなら遠からず報いを受けることになる。

自分がいかにかわいそうな存在なのかをアピールすることが正しいかのような風潮は、戦後日本の悪しき文化だと私は確信している。
己を「かわいそう」と喧伝して、何かしらの「ほどこし」を受けようとするのは、乞食(こじき。仏教的な意味の方ではなく、社会風俗としての意味の方)文化であり、家畜同然の思考だ。

足を捻挫していて、ひざを痛めていて、ラフなタイプの2人のDFにぴったりマークされている状況でも、「俺によこせ」とパスを要求するのが真のストライカーだ。
「ぼく、疲れてるからパス出さないで」「きっとぼくにパス出したら、すぐとられちゃうよ」そういう顔をして、パスを拒むような奴には、そういう顔をしていないときでもパスが来なくなる。

つらいときこそ、平気な顔をすべきだし、
不安な状況であるほど、楽観しているような態度をしてみせるべきだ。

殺されそうなとき、「助けてください」と命乞いしたら、そのまま殺される。
獲物は弱ければ弱いほど、弱そうに見えれば弱そうに見えるほど、殺す方にとっては都合が良いのだ。

テレビのインタビューで不安げに「もう百社以上受けましたが全滅です」なんて言うなよ、就活生。
そういう時は、ニヤリとして「もう内定はいくつかもらったんですけど、他にも興味ある企業があるので、これからうかがうところです」と自信たっぷりに答えてみろ。就職活動してる学生みんながそういう態度を見せれば、採用する方だって学生たちを舐めなくなる。

ったく、どこの自然界に、「ここに弱ってる生き物がいますよ」って自分でアピールするアホがいる?
「俺は誰よりも強い。そして今、俺は絶好調だ」と、そうアピールしてこそ道は拓(ひら)けるのだ、と、私は確信している。

自分は自信家なのだと思い込むこと、自分は楽天家だと思い込むこと、実は結構ラッキーじゃんと思い込むこと、これらは全部タダでできるし、すぐにできる。

そして最も大事なことなのだが、
なんだかんだ言ってもこの世はすべてが面白いのだ。



おわり

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