2011年6月4日土曜日

桶川という市名の由来

鎧甲甲冑(よろいかぶとかっちゅう)






「桶側胴」という表記もあるようですが、どちらにしても「起き川→桶川」説よりは地名の由来と関連があるように、私には思えます。


そもそも現桶川市東部の、旧菖蒲町境界のゴミ焼却場付近が綾瀬川の起点だったから「起き川」と呼ばれたってのは、相当無理があると思いませんか?
元々広大な湿地帯であって、水田耕作地でもあった埼玉県のあたりには中小河川が縦横無尽に流れていました。見沼代用水だってありましたし、沼も池も数え切れないほどありました。なのに、ここだけが「起き川」などと呼ばれたなんてことがあるでしょうか? もしそんなことがあったのなら、なにか他の河川を圧倒するくらいの強烈な理由がないと、そうはならないはずです。地名ってのは、ご近所だけがそう呼んでるだけじゃあ意味がほとんどないからです。自分の家の裏にある池を、その家の住人が『裏池』と呼んでいたからといって、その池の名前が『裏池』とはならないのと同じことです。だって、その池が「裏」にあると思っているのは、その家の住人だけなんですから。
「起き川→桶川」説に説得力が乏しい理由も、この「裏池」の例とよく似ています。中小河川の起点なんていっぱいあったんですもんね。

もう一点おかしいなあと思っていたのは、その位置です。
綾瀬川の流れる位置は、旧中山道桶川宿とかなり離れています。桶川宿のある地域を他の地域と区別するためのシンボルとしては、あまりにも物理的に離れているように、私には思えるのです。まして当時は徒歩メイン。綾瀬川の起点である本来の「桶川」に行きたかった人が、中山道の「桶川宿」に着いたとしても、「本当の桶川」はまだまだ先にあることになります。これで問題なかったのでしょうか?


私は何も、「桶川(側)胴」そのものが「桶川」という地名の由来ではないか、と考えているわけではないんです。
でも、当時(鎌倉時代~戦国時代~江戸時代)の常識として、特に、地名を定めるくらいの地位にあったであろう人たちにとっては、「起き川」という概念よりも「桶川(側)胴」という言葉への親しみの方が強かったであろうことは、かんたんに想像できるよねっていう程度のことは考えています。

「桶川胴」がなぜそう呼ばれるようになったかといいますと、その形状が木桶の側面に似ているからだそうです。
大昔の桶川地域にも、道行く人の目にそういう風に見える何かがあったのではないでしょうか。
綾瀬川が、知らぬ者のない大河川であったとかいうのなら、「綾瀬川の起点」ということにも普遍的なメッセージ性はありますけど、どう考えても綾瀬川はそうじゃないですから、「起き川→桶川」説は“ない”と思います。



「綾瀬川の起点だから起き川で桶川だ!」
って言われても、他の地域に暮らす人にしてみれば「はぁ?」って話ですよね。


「桶の側面に見えるシンボル→桶川」説が正解なのかどうかわかりませんけど、「起き川→桶川」説よりは“あり”だな、と私個人はそう思っています。


【参照】
北本市名由来
あしなが育英会 東日本大震災 津波遺児 単発寄付

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