2011年3月3日木曜日

五霊鬼の祟り

水野 勝成(みずの かつなり)
永禄7年(1564)~慶安4年(1651)
官位(大坂の陣時点) 日向守 (ひゅうがのかみ。自称)

隆慶一郎著『かぶいて候』は、徳川家と縁戚関係にある水野勝成の息子である水野成貞が主人公です。

戦国時代板@wikiというサイトに面白い評価が出ていました。


水野勝成 
統率…関が原、大阪の陣での活躍が評価傾向
武勇…猪武者として武功多数
知略…大阪の陣における計略を評価する向きがある一方、不祥事を繰り返したことから低くて良いという主張も
政治…治世において福山発展の礎を築いたと評価

掲示された数値
統率70 武勇100 知略55 政治75
統率84 武勇89 知略61 政治73
統率78 武勇91 知略25 政治69
統率65 武勇90 知略55 政治70
統率67 武勇97 知略62 政治72


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617 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/10/01(木) 06:02:18 ID:UebbvdWr
水野
70 100 55 75
足A馬Bで戦法多め 城B内A


出世意欲or評価を欲しがってるのに行動がバカって印象
頭は切れそうだが知略は35でも70でも良いような
そんなこともあり、政治も内政能力以外が微妙


信憑性が増した前田慶次 ってとこか
残ってる話を全部信じれば、こんな数値


762 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 22:15:39 ID:yj59sTRA
参考までに俺が革新でつけていた水野の能力値をば披露
統率 84
武勇 89
知略 61
政治 73


足軽B 騎馬A 鉄砲B
うんうん。


777 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 05:00:43 ID:rww467jv
統率と武勇はいいとして、水野の知略はそんなに高くないと思うけどな
実際でも家康が過小評価してたってことは頭悪そうな中二病的な痛い奴だったんだと思う
ただイクサ慣れしてるっつーか、戦闘能力は間違いなく高いだろうから


統率 78
武勇 91
知略 25
政治 69


こんな感じじゃね?


820 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 18:12:24 ID:ecxWlB9B
自分が確認した参謀本部編纂の「大坂役」は、
国会図書館の近代デジタルライブラリー中の、
著作権が切れてる物凄い古いエディションだから、多少差異はあるかもね
247頁といえば、こっちでは木村重成の武者振りについて書かれてる


水野の能力値だけど統率65武勇90知略55政治70
(それぞれ±5で微調整)くらいが妥当だと思うけど、どうよ
武勇と政治が過小なのは同意だけど、統率はこんなもんじゃね


828 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 20:45:52 ID:L6GB+RLb
話題になってた武将で俺が使ってる数値
可児 58 99 20 4
水野 67 97 52 72
森   62 94 16 11
渡辺 52 83 35 19
おまけに
服部 64 81 73 26


806 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 16:24:00 ID:cldSxhx5
水野勝成スレからコピペ
178 名前: 人間七七四年 投稿日: 2007/11/23(金) 20:07:28 ID:lxtXnVSO
◆水野勝成の華麗な戦歴◆ 前半生
掛川対陣。○ 徳川家康VS武田勝頼。徳川家康の麾下、水野忠重の指揮下。武田勝頼戦わずして撤退。勝成、初陣の功名を上げられなかったとして涙を流した。
第二次高天神城の戦い ○ 徳川家康VS岡部元信。織田信長の与力大名。徳川家康への援軍。朝比奈弥六、その外首十五。織田信長から左文字の名刀と感状を貰う
武田征伐 ○ 織田信長VS武田勝頼。織田信忠の麾下。水野忠重の指揮下。
本能寺の変 ? 水野忠重、信長の軍に属し、中国攻めのため宿陣中この変に遭う。忠重には明智に加担していた疑惑がある。
黒駒の戦い 〇 鳥居元忠二千VS北条氏忠一万。鳥居元忠と喧嘩して勝手に先鋒を務め、自ら内藤某を打ち取る。
星崎城の戦い 〇 水野忠重VS岡田善治。水野軍は二手に別れ、一方を指揮。
長久手の戦い 〇 織田信雄、徳川家康VS三好秀次。勝成、三好軍に一番槍。重臣・白井備後(偽物)と一騎打ち。討ち取る。その後、井伊部隊に参加。麾下の杉山孫六は森長可を撃ち殺す。
蟹江城の戦い ○ 織田信雄、徳川家康VS滝川一益、九鬼嘉隆。一益の息子滝川三九郎と一騎打ち。三九郎は逃亡。
桑名の対陣 △ 水野忠重VS羽柴秀吉。この後、勝成、水野家勘定奉行の富永半兵衛を斬って奉公構にされる。
浪人中、京都清水で喧嘩して、刃傷沙汰を起こす。
紀州雑賀攻め ○ 羽柴秀長(筒井定次とも)軍として参加。秀吉から七百石。
四国長宗我部攻め ○ 羽柴秀次軍として参加。秀吉から七百石。
戸次川の戦い × 仙石秀久VS島津家久。帰還の船の中、同僚を斬り殺して出奔。秀吉に刺客を放たれる。虚無僧になって逃亡。
美作流浪。野武士の安東国貞の娘婿になるが、身持ちの悪さを注意され逆切れ、国貞を殺して逃亡。
九州攻め ○ 佐々成政の麾下として参加。
肥後一揆 ○ 佐々から千石。
 隈本城救援軍の先鋒を任される。佐々家で千石。
 救援軍の立花宗茂に合力。十時連貞と合言葉を掛け合い、無事兵糧入れ作戦を成功。
 田中城攻め 一番槍。
 首謀者の隈部親子を討ち取ったという説あり。
志岐・天草一揆 ○ 小西家で千石。
 志岐城攻め 先鋒を任された小西主殿介の補佐。
 天草城攻め 攻撃命令がでてないのに清正と呼応して攻略。自ら敵を殺す。女武者と戦った逸話あり。乱鎮圧後に出奔するわけだが、このとき、行長の本陣に首を投げつけたとか、行長の弟に手傷を負わせたとかの逸話あり。
長岩城攻め ○ 黒田長政VS野中重兼。黒田家で千石。後藤又兵衛と並び評される活躍。黒田家からも出奔。長政から追っ手を駆けられる。
朝鮮出兵 三村親成の麾下。十八石。三村家の姫を妻とする。たぶん、毛利麾下の三村軍として渡海したのでは? ちなみに三村家では茶坊主を殺して出奔するも、すぐに帰参。
再度三村家出奔。上京途中で盗賊退治した逸話あり。


807 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 16:25:17 ID:cldSxhx5
もう一つ


179 名前: 人間七七四年 投稿日: 2007/11/23(金) 20:09:11 ID:lxtXnVSO
◆水野勝成の華麗な戦歴◆ 後半生
関ヶ原の役 家康麾下。三万石。
 岐阜城攻め 勝成も参加していたという説もあるが、なにしていたか不明。2ちゃんねる情報だと、ミミズ食ってみせて諸大名をビビらせていたという。
 曽根城の戦い ○ 水野勝成VS島津義弘。曽根城を襲った島津に、援軍に駆けつけた勝成が鉄砲を撃つ。義弘はすぐに撤退。おそらく両軍とも死傷者なし。
 大垣城の戦い ○ 水野勝成三千余人VS福原長堯六千余人。関ヶ原の本戦が始まるまえに開戦。三の丸を占拠し、二の丸まで攻め込む。本戦から逃亡中の義弘は大垣城に入ろうとしたが、落城と誤認して方向転換。本戦後に内応工作を用いて攻略。
大坂冬の陣
 博労淵砦の戦い 家康から大砲の用意を命じられる。勝成に手柄を独占されると心配した蜂須賀が抜けがけ。
 天満橋の戦い ○ 森忠政VS堀田盛高? 森忠政の軍監として救援に駆けつける。ちなみに前任の城昌茂を勝成は職務怠慢で叱責し改易。自らが後任になった経緯がある。
大坂夏の陣
 大和の戦い ○ 水野勝成VS大野治房 治房軍は、奈良に勝成着陣に風聞に、四里退去。その後、追撃で数人討つ。
 道明寺の戦い ○ 水野勝成VS大野治長。大和口総大将は勝成だが、諸大名、特に伊達政宗はまったくいうことを聞かず、背後から鉄砲まで撃たれた。勝成が自ら槍を持って後藤又兵衛、薄田兼相を討ったという伝説あり。
 天王寺・岡山の合戦 ○ 徳川家康VS豊臣秀頼。真田信繁の寄騎・大谷吉胤を討ち取る。明石全登を撃破。勝成家人の汀三右衛門が全登を打ち取ったという説あり。大坂城桜門に一番旗。
島原の乱 ○ 松平信綱の麾下。十万石。勝成が到着すると総攻撃決定。すぐに攻略される。このときも勝成自ら前線に立って首を取ったという伝説があるらしい。原城一番乗りを争う(戦後、水野と有馬のどちらが一番乗りかで騒動になったが、公式には決まらなかった)。






戦国ちょっといい話・悪い話まとめ : Category [ 水野勝成 ]


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『五霊鬼』

水野勝成といえば後年の名君ぶりと共に、前半生の野放図で無茶無茶な生き様も有名である。
勝成自信はその生涯に後悔はなかったようではあるが、それでも気にかかることがあった。
それは彼が殺した人々についてである。

といって勘違いしてはならない。彼は数えきれないほどの人間を戦場、およびそれ以外で
殺してきたが、その殆どについて気になどかけていない。ただ、そのうちの5人だけどうにも
忘れられないのだ。何故か

「いやあ、その五人を殺したのは、今考えても理不尽だったw」

殺した人間自身が、しかも勝成のような人間が理不尽というのだから、おそらくは想像を絶する
理不尽さで殺しちゃったのであろう。その為勝成は

「まあ、あれだけ理不尽に殺しちゃったんだから、あの5人はウチに祟っても仕方ないよねw」

などと言っていたらしい。

その後いつしか、水野家中では勝成が理不尽に殺した5人のことを、誰ともなしに
”五霊鬼”と呼ぶようになり、何か不吉なことが起こるたびに”五霊鬼の祟りだ”と囁かれたそうである。
のちに福山藩水野家が5代目で断絶した時も、”五霊鬼の祟り”と取りざたされたという。


水野家の五霊鬼、と言うお話

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水野勝成
92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/07(月) 12:10:56 ID:GmVVdQlA
たまたま手を付けちゃった女が妊娠して、仕方なしに結婚。
いわゆる「出来ちゃった婚」だが、戦国時代にもそんな男がいた。
その名は水野勝成。
彼は気に食わない家臣を叩き切って、父親に勘当され追放。
以後は槍一本で戦国の世を渡り歩くが、行く先々でトラブルを起こし、段々仕官先が無くなってきた。
毛利家の臣、三村親成に仕官した時は、それでも別格の厚遇を受け、主家の姫(お柵)と結婚。
にも関わらずその侍女(お登久)に手を出し、しかも男子出産。
やがて豊臣秀吉の死後、徳川家康の取り成しで勘当が解かれると、
生まれたばかりの子を見捨てて実家へ帰る。
その後、父が暗殺されて家督継承したり、関ヶ原に参加したりと色々あって、
大名として地盤を固めた。
そんな所へ「江戸に誰か人質下さい」と幕府から通達。
「そういや、なんかガキがいたっけ・・・」
勝成、ようやく子供を引き取りに行かせ、そのまま人質に送った。後の福山藩二代目「勝俊」である。
この時「勝俊の実母である」という理由で、自動的にお登久が正室とされてしまったのである・・・
ある意味勝成らしいとも言えるが、大名としてはかっこ悪い正室の話。


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93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/07(月) 12:16:03 ID:gZtiRh86
ひでえな
お柵はどうなったんだ?

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/07(月) 12:16:13 ID:vsLy8lvR
前田慶次は、実態がよくわからない割りにマンガや小説の中ではモテまくりだが、
水野勝成はリアルに行く先々でモテまくったらしいね。

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/07(月) 12:46:03 ID:GmVVdQlA
>>93
お柵も水野家に引き取られ、一応正室扱いされてる。
三村家も後に福山藩家老として迎えられた。
だけど実家の七光りも無く、子も出来ないんじゃ、やっぱり正室はきついよな。
ただ、勝俊は二人の母を同列に遇している。


96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/07(月) 13:15:26 ID:SEelcqZk
>>94
こんなにだらしなくてもモテんのかwww
まぁ、今とは恋愛観というか理想的な男性も違うんだろうなぁ。

しかし、この時代の姫さんの名前って、ちょっと不思議というか
意味がわかりづらいの多いね。このお柵とか。

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/07(月) 13:30:55 ID:3iHjDhMy
ウィキペに載ってるかと思って水野勝成の項見たら案の定だが主君が転々としすぎてて笑った。
お柵の方については殆ど書かれてなかったけど、勝成のおかんって本願寺光佐の妹なのね。
やたらとモテるのは蓮如の血かもしれん。


98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/07(月) 13:36:06 ID:g3IF0tSu
>>92
そういやこの前クレしんの戦国大合戦見たんだけど、主君の娘を嫁取りするって
どれくらいのハードルの高さ?

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/07(月) 13:38:18 ID:mf3s2UlG
こいつが主人公のエロ小説が全4巻で存在する。


100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/07(月) 15:14:44 ID:1t2c/xdg
>>98
ほとんど無理。
なにせ、基本戦国時代の主君の娘というのは他国に政略として送られる可能性のほうが
高いからな。

信長みたいに自分の超お気に入り側近とか、
蒲生氏郷みたいに超有能で微イケメン(ただし戦国時代の美意識的なものに限る)とか、
(※但し信長の場合は結構な娘持ちなのでそういうことができたのだが)

wikipedia見た限りでは主家の残された一人娘、ということなので、
『雷神』道雪に見込まれた高橋紹運の息子である立花宗茂みたいな感じ?
(ちょっと違うか)

つまり、「主君が『こいつになら娘やってもいい』位の気概があるほどの働きがなければ奇
跡でもなければ無理」
ということになるか。

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/07(月) 16:05:27 ID:i1z4NChW
勝成の三男も蜂須賀だか山内だかの姫様オトして
生まれた子が水野十郎左衛門じゃなかったっけ?

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/07(月) 16:20:46 ID:vsLy8lvR
そんな水野勝俊さん、父の後を継いでからは

幕府から松山城の在番を命ぜられたとき、藩士がみな木綿の服を着ていて、その質実さに
松山の町民がみな感心した。

不作が続いたとき、農民に大規模な資金供与や年貢の減免を行い、その没落を防いだ。

その居城、福山城が消失したとき
「町民達に迷惑がかからないよう、再建は急がないように。」

飢饉が起こったとき
「もし藩の鷹師が領民の畑を荒らすことがあったら、父勝成の領地であってもかまわないので
百姓総出でそのものを処罰してかまわない。」

と、質素倹約に努め領民の事を心から気遣う、絵に描いたような名君であったそうです。


104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/07(月) 16:45:54 ID:nyNv8WeH
幼い頃、苦労したんだろうな・・・

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/07(月) 17:24:14 ID:/GTS2M8B
>>96
ほんの数十年前の西部グループの創業者もえげつないぜ
時代関係ないんじゃない

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446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/10(日) 01:52:15 ID:nSOWF9t9
水野勝成は年をとってもよく鷹狩をした。年齢が年齢なので、
布団をしいた駕籠に乗って移動した。この事について勝成は
「お前達はおかしな事をしていると思っているかもしれんが、
わしにはちゃんとした考えがある」と語った。考えとは下情を
知る事だった。

勝成がいつものように鷹狩をしていると、昔勝成に仕えていた
男に会った。勝成は「お前は昔三百石で仕えていたな。越前で
召し抱えられて千石と聞いたが、何かあったのか?」と尋ねた。

男は「確かに越前で加増していただきましたが、かつて上様に
お仕えしていた頃、上様は下の者でも、お優しくしてくださいました。
また、懇ろにお話をしていただいたことも思いますと、七百石など
取るに足りないと感じ、こうして戻って来た次第です」と言った。
こうして勝成はその日の内に男をかつてよりも高禄で召し抱えた。

勝成は隠居しても鷹狩に行った。ある日、先述の男の家に行くと
門が閉ざされていた。不思議に思って理由を聞いたところ、勝成の
息子勝俊の勘気に触れて去って行った
という。

いきさつを知った勝成は「惜しい男を失った。わしの倅は下の者の
気持ちがわからないとみえる。立派な人物なら、主君や上司の
言う事だろうと無理な事を簡単に承服したりはしない。部下に
多少の咎めがあっても、二、三度は気付かぬふりをするべきだ。
例えどうしようもない場合でも、まずは相手の友人に諌めさせる
ようにするものなのに」と言って残念がったという。


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447 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/05/10(日) 02:28:31 ID:nf3mLhLz
>>446
この逸話って最近紹介されていても、大概が勝成の下に帰って来て
めでたしめでたしで終わるんだよな

でもここではちゃんと勝俊のオチまで書いてくれて、単なる
勝成を称賛するだけの逸話に終わらなくって良かった。

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/10(日) 12:39:26 ID:Um/cWBf4
>>446
儂も昔はヤンチャしたもんだぜ。だがな……
という、DQNから転じた名君だな。

頭ごなしに咎めたり、失敗を責めればにんげんだもの、意固地になって余計反抗したりする。
身に覚えがあるだけに聡い殿様になったんだなぁー

***************************************

水野勝成から学びたいこと、それは──
『反省はこのくらいで十分』
ということです。

時間は遡(さかのぼ)らないし、人間の記憶は曖昧(あいまい)だし、客観は主観の公約数に過ぎない以上、過去を振り返ることにさほどの価値はないと私は思っています。だって、過去をいくら振り返っても、それは「過去」はむろんのこと「未来」にさえなんの影響も及ぼさないのですから。

なぜなら存在しているのは「今」というこの瞬間だけで、「過去」も「未来」も、すべては「今」の「自分」が認識している「過去」と「未来」でしかあり得ないからです。

簡単に言うと、
忘れちゃえば無かったのと一緒
考えなければ無いのと一緒
ってことです。

あ、言っておきますけど、これってのはあくまでも私はそう思ってるってことですのであしからず。
子供の頃の強烈な体験の記憶が、実はまるっきり違っていたらしいことが後日判明したという経験以来、私はそう思っているのです。



人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)
inscrutable are the ways of heaven

or
fortune is unpredictable and changeable


Joy and sorrow are today and tomorrow.(楽しみと悲しみは今日と明日。)





過ぎたことは忘れ、先のことは考えない。ただ、今を生きる。
私の哲学です。


 
まぁ、いっか



END

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