2011年3月29日火曜日

東大院の人はユニーク

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2011年 平成23年 3月29日 火曜日
朝日新聞 オピニオン面 私の視点

福島原発事故
「信心」捨て自ら考えよう

東京大学大学院生(社会学)
男性 H.K(紙面には本名あり)

「危険ではない、問題はない」と専門家は繰り返す。
しかし、素人目には時々刻々と事態が悪化しているように見える。
何を信じ、どう行動すべきなのか分からない。
福島第一原子力発電所の事故に関する報道を前に、多くの人が困惑している。

私は2006年から福島原発の立地地域で原発と社会の関係について調査を進めてきた。
住民に「近くに原発があって怖くないのか」と問うと、多くの人が「原発事故の確率より、外を歩いていて交通事故にあう確率の方が高いから大丈夫」「東電さんがちゃんとやってくれているから何も問題はない」と答えた。
この地で原発や関連産業で働くのは住民全体の4分の1とも3分の1ともいわれる。
その中で、素人には理解しがたい高度な科学技術の結晶である原発に向けられるまなざしは、「国が、東京電力がやっているのだから信じるしかない」というある種の「信心」だ。
日本全体を、この種の根拠のあいまいな「信心」が覆ってきた。

現代のリスクは「自然のリスク」と「人工のリスク」に分類できる。
自然のリスクとは病気、ケガ、遭難、飢饉(ききん)といった人間が自然に対峙する中に現れるものだ。
人工のリスクは人間が自然のリスクを科学技術を用いてコントロールするうえで生じるリスクだ。
牛海綿状脳症(BSE)や薬害のほか、金融危機も含めてよいだろう。

自然のリスクはある程度の高い確率で発現する。
病気やケガは誰にでもしばしば起こる。
一方、人工のリスクは発現する確率が極めて低い。
専門家集団によって安全確保のためのリスクコントロールが施されているからだ。
発現する確率は、机上の計算では何万分の1、何億分の1になる。

しかし、ここでいう確率は、専門家集団が想定したある状況の中での確率に過ぎない。
ひとたび想定外の出来事が起これば、どう科学技術が暴走するのかは彼らもわからない。
自然のリスクは発現しても個人や部分的な集団を襲うにとどまる。
一方、人工のリスクは高度な科学技術に依存しているため、より広い範囲を長時間、より複雑な形で巻き込む。


原発事故は人工のリスクの最たるものである。
想定外のトラブルがさらに想定外のトラブルを呼び、科学的な説明と対策が後手後手になる。
それは時間の経過とともにますます複雑化し、事態を困難にする。

専門家によって現代社会の高度な科学技術は支えられている。
同時に、専門家は全知全能の神ではない。
私たち素人は専門家の言うことに身を任せて安心しきったり、逆に猜疑心(さいぎしん)の塊になってパニックに陥ったりすべきではない。
あらゆる情報を集め、比べ、選び取り、いま何をすべきか常に考え続ける必要がある。
無根拠な「信心」をいまこそ捨てるときだ。
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14歳が書いたのなら、よく書けてるねと褒めてあげたいです。
17歳が書いたのなら、悪くはないけどもう少し視野を広げたらもっとよくなるよ、とアドバイスしてあげたいです。
20歳が書いたのなら、妙な活動にはまってるんじゃないのかと心配します。
23歳が書いたのなら、ただ、同情します(腹を抱えて笑っているように見えたとしても、それは誤解です)。

同情のついでに私なりの感想を、箇条書きでそえて終わりにします。

・「あらゆる情報を集め、比べ、選び取り、いま何をすべきか常に考え続ける」ことができたら、それはもはや専門家でしょ。
・「リスク」を「自然」と「人工」で分ける発想は、「リスク」のことをわかっていない証とも読み取れますよ。
・太字にした部分については、独りよがりがすぎます。
・「住民」や「日本全体」や「専門家」の切り取り方も狭すぎます。

しかしホント、東大院の社会学系って、ある種独特な方向に突き進んでて面白いですよね。
これからも期待しています。

おわり

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