いま、子供と考えるべき事
それは、もし自分があの時あの場所にいたらどうすべきだったのか、だ。
もし自分があの時あの場所にいたらどうすべきだったのか
命の大切さだとか、親子の愛だとか、助け合いの精神だとか、地震の怖さだとか、津波の仕組みだとか、菅枝野無能政府のことだとか、自衛隊や警察や消防のこととか、とにかくそういうことじゃあない。
そんなことは、“今”、じゃなくてもいいのだ。
自分たちは日常の生活に戻って来ていて、心も頭もいつもの心と頭になってきたけど、体験感覚や記憶はまだ生々しいという、今のこのタイミングで、どうか「もし自分があの時あの場所にいたらどうすべきだったのか」を、子供たちに問いかけて欲しい。
あの時あの場所では──
まわりに大人のいない状況にあった子供の中には、地震のあと、自宅へ戻った子が絶対にいたはずだ。
あるいは、自分がここにいることは親も知っているはずなので、親が迎えに来るまでその場でじっとしていようと判断した子も、絶対にいたはずだ。
あるいは、自分は避難しようかと思ったのに、一緒にいた友だちから「怖いから、わたしの家まで一緒に行って」と頼まれて、一緒に行ってしまった子もいただろう。
そんなとき、ではどうするべきなのか?
また、逃げている途中で、体の不自由な人から「背負っていってくれないか」「助けてください」と懇願(こんがん)されたら、どうするだろう?
また、親、あるいは弟や妹が、がれきに挟まってしまった場合、どうするのか?
もっともっといろいろな場合が考えられるだろう。
そしてそれは、ほんの1週間前に、実際に起こったシチュエーションなのだ。
これらのことを、今の、まさに“リアル”な感覚がまだ残っているこの時期に考えることは、間違いなく子供の思考、精神、魂を成長させる。
もし自分があの時あの場所にいたらどうすべきだったのか
この問いへの答えに絶対の正解はない。
しかし、考えることで、テレビが報じる「死者○千人、行方不明者○万人」という数字の背後にある、現実に起こったことへ想像を広げることができるはずだ。
死者の一人一人に、家族や友人や親戚がいて、楽しい思い出もいっぱいあったはずだ。
そして生き残った人たちも、それぞれ失ったものを抱えてながら、避難所の冷たくて固い床で“今”を耐えている。
この問いを考えた子供たちの中に気づく子がいるはずだ、かならず。
あそこにいたのは、あるいはあそこにいるのは、もしかしたらぼくだったのかもしれない、と。
このことに気づくことは、ただテレビを見て、大人から「かわいそうねえ。ねえ?」と押しつけられるように思考の選択肢を限定されるよりもはるかに多くのことを子供たちに教えてくれる。
気づいた子は、一歩目を踏み出すことができるだろう。
そうした一歩一歩を重ねること、それを文学は「成長」と呼んできた。
決して体格や年齢のことではない。
大人は、テレビにかじりついて「大変だねえ」とそわそわしているだけではだめだ。
それでは隣にいる子供たちを成長させる大きな機会を失ってしまう。
どんなにつらくくるしいことであっても、すべては乗りこえることができる。
神は乗りこえられる試練しか与えないのだから。
終わりは始まり
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