2011年3月5日土曜日

泉福寺からの絶景富士

先ほど泉福寺へ行ったら、周りを囲んでいたイチョウの大木の枝がすっかり落とされて、丸裸になっていた。

まるで山火事があったかのような図

枯れ枝が落ちて事故にでもなったら大変だから、そのための予防伐採なのだろう。
確かどこかに、それを注意する立て札が設置されていたようにも思うし。

安全のためとはいえ、風情がなくなったことが、私は残念だった。
うっそうとした木陰の中にあるのが泉福寺のイメージだったからだ。

ところがところが、だ。

荒川側の視界をさえぎっていたものがなくなったことで、私にとって長年の謎だったことが、ひとつ解決したのだ。



それは「泉福寺はなぜここに建立されたのだろう?」という謎だった。





あの場所は、なんの変哲もない、ただの荒川端だ。


と思っていた。

だがそれは大きな間違いだった。

うっそうとした木立によって隠されていたその答えを、私は今日、発見したのだ。




それは「富士山」だ。





泉福寺山門から荒川方向を望むと、それはそれは見事な富士山の絶景が見えるのだ。

秩父連山は右の方へ外れていて、そこからは富士山の山すそまでのほぼ全体が一望できた。

あいにくの春霞(はるがすみ)で写真だとその姿をとらえきれなかったが、肉眼では富士の空気がそのまま届くかのような澄んだ美姿が、そこにあった。

泉福寺を開山した円仁は、阿弥陀堂と山門と富士を一直線に結ぶことができるので、この場所を選んだのだとしか考えられない。







あと数週間もすれば新緑も芽吹いてくるだろう。

そうなると、この絶景は再び木立の中に隠れてしまうに違いない。

わたしはそれをとても残念に思う。

この光景は、観光資産にはもちろんなると思うし、それ以上に歴史的価値の高いものだと確信するからだ。

北足立郡北部地区の方々には、雲のない晴れた日にはどうにか時間を作っていただき、木々が芽吹く前にこの絶景を見に泉福寺まで足を運んで欲しい。絶対に損はさせない。約束する。




ウィキペディア「泉福寺」

泉福寺(せんぷくじ)は、埼玉県桶川市にある天台宗の寺院。山号は東叡山。院号は勅願院。房号は円頓房。本尊は阿弥陀如来及び地蔵菩薩。

歴史
829年(天長6年)円仁を開山として創建されたと伝えられる。古くから天台宗の中心的な寺院のひとつであった。1560年(永禄3年)兵火により焼失し、1647年(正保4年)に復興された。江戸時代には幕府から朱印状が与えられていた。

文化財
重要文化財(国指定)
木造阿弥陀如来坐像 - 鎌倉時代、1262年の造像。元は阿弥陀堂に安置されていたが、現在は文化財保護の観点から耐火収蔵庫内に保管されている。





そこに城があるから

泉福寺に注目したのは、中田正光著「埼玉の古城址」において「永禄3年(1560年)、越後の長尾景虎は、小田原北条によって追い出された関東管領上杉氏を擁護し、大軍をもって武蔵に侵入した。このとき川越城はすでに北条氏の手中にあった。景虎は岩槻城太田氏との連合により川越城を包囲したのである。景虎は川田谷の泉福寺に陣取ったが・・・」
と三ツ木城の解説において、長尾景虎(後の上杉謙信)の陣地であることを記しています。「日本外史」から引用しているそうです。
原本は越後が後越、川田谷が三田谷ですが、誤植なので訂正しました。

県道川越栗橋線(12号線)に「川田谷」交差点を南下、650mで寺の入り口に到着します。ちょっと不気味な入口ですが、この入口の左に土塁らしき遺構、空堀らしき遺構があります。城郭遺構か寺院遺構か不明ですが。
入口を通過すると視界は急に開け、荒川とホンダエアポートが見えます。


寺のある場所は荒川左岸の河岸段丘上に存在し、堤防がありません!それほど要害の地なのです。荒川に面した南西を中心に高台となっています。
確かに川越城が見えたことでしょう。景虎はポールポジションをキープしたのでしょうが、これでは三ツ木城の立場が(苦笑)

案内板もありましたが、長尾景虎については書かれていません。
「泉福寺
所在地 桶川市大字川田谷
この寺は、東叡山勅願院円頓房泉福寺と号し、比叡山延暦寺を総本山とする天台宗の別格寺院である。東叡山とは関東の比叡山という意味で、天皇の勅願所であると共に、学僧の養成道場としての学山である。
その開祖は遠く、平安時代にさかのぼり、天長6年(829年)、淳名天皇の勅願によって、慈覚大師円仁が開山したものである。大師は自らの手で薬師如来、地蔵菩薩、阿弥陀如来の三体の仏像を刻まれ、本尊として祀り、疫病除災等の祈願をされたと伝えられている。草創当時は広大な境内に堂塔伽藍が立ち並び、多くの塔頭を擁し、盛況の中にあったが、源平の乱に於いて戦火を被り、全てを焼失したと言う。
その後、鎌倉時代の文暦元年(1234)比叡山より信尊上人が来院され、河田谷殿の庇護のもと四人の弟子と共に復興に努力され、中興を成しとげた。
その弟子の一人尊海は、川越の喜多院、中院等を次々と復興すると共に、法脈からは多くの英才が輩出し、ここに関東談林が開花し、関東天台の台頭へと発展する。
このことにより当山が関東天台の祖山といわれるものである。
しかし、戦国時代の争乱の中で度重なる火難を受け、堂塔伽藍を焼失した。
江戸時代に至り、勅願寺の故を以って幕府の庇護を辞退する中にも、その由緒により、御朱印地五十石の内の五石と、不入地四万坪のみを拝領するところとなり、堂塔も次第に整備され、宝暦2年(1752)には、山門、鐘楼を除き殆ど完成されるに至った。現在の建物は大体この時代のものである。
なお、当山には、国指定重要文化財の阿弥陀如来坐像(弘長2年・1262・銘)を始めとし、石の仁王像、雨乞いの龍など貴重な文化財が伝えられている。
昭和61年3月
埼玉県
桶川市」
と記されています。

源平時代の争乱、戦国時代の争乱で焼失!
だから石の仁王像だったりして。
ところで河田谷殿って誰?足立氏一族のことのような・・・また調べ直さないと・・・
付近には庚申塔、馬頭観音が残り、古くから栄えていた集落を実感することができます。
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おわり

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