2010年12月5日日曜日

若者の『若さ』離れ

半年以上前の話だが、テレビ東京のワールド・ビジネス・サテライトという深夜の経済ニュース番組で、こんな特集をやっていた。

WBS:2010年5月6日 シリーズ『若者の○○離れ』

で、以下が、若者の関心を失った品々としてリストアップされたものだ。





・酒・外食・調味料・お茶・ビール・梅干し・和菓子・魚・かまぼこ・カップ焼きそば・からし・わさび・ガム・日本茶・漬け物・果物・コメ

趣味
・旅行・パチンコ・競馬・CD・映画・ゲーム・カラオケ・腕時計・ブランド・車・煙草・バイク・邦楽・ロック・字幕

スポーツ
・野球・サッカー・ゴルフ・相撲・釣り・山・スキー・スノボ

仕事
・営業・飲み会・慰安旅行・ものづくり・スーツ

情報
・テレビ・新聞・雑誌・活字・ラジオ

生活
・献血・町内会・結婚式・葬式・寄付・近所づきあい・回覧板・商店街・コンビニ・百貨店・床屋・生命保険



非常に“マスコミ的”な切り口だとは思わないだろうか。
つまり、何か標準となるべきラインがあって、それよりも「あなたは」下がっていると指摘するような切り口に思える、ということだ。
この「あなた」は、テーマによって、「日本全体」であったり、何かカテゴライズされた集団であったりする。

日本サッカーから得点力や決定力がなくなった、というのと同じ手法であるように、私には思える。



「若者」が離れたのではなく、ゲームのルール、シチュエーションが変わったのだ。
これからどんな施策を施したとしても、スキー場が賑わったり、楽曲が発売翌日の話題を独占したりすることはない。技術が進んで、製作や設営が効率的になったということは、逆に言えば、消費者にとっても、それらが“特別”ではなくなったということなのだ。

「若者」はいつの時代であっても存在する。
その「若者」の行動が、予測と異なっていたからといって、それをまるで若者側の問題であるかのように報じるのは、事実を歪めているとしか言えない。

チームの得点力がないことを、「得点力不足」だとして嘆くよりも、
それを真正面から見つめ、分析して、
その戦力での最上の効果を得る手段を考える方が、よっぽど面白くて楽しい。

「こうあるべきだ」というのは己に課すべきことであって、
「こうあるべきだ」と他人に求めることではない。

これはサッカーでも同じ。
いくら言っても、できるようにならない奴はならない。
でも、それができるようにならないからと言って、その子にとってのサッカーの楽しさは減じられるものでもない。

マスコミの報じる内容から、何が自分にとって意味があり、何が自分にとって意味のない情報なのか、その辺のことを意識して新聞やテレビを見ることができれば、世の中は楽しくてたまらなくなる。

私はそう確信している。


カン、センゴク、レンホーは、創造を絶するほどのバカに見える。
しかしそのバカさ加減が、実際にどれくらいのものなのか。
学生時代や、社会での経験で出会った人たちと比較して見て欲しい。

どうです?


比較にならないくらいにバカでしょ。

選挙っていうのは、そういう制度なんです。

優秀な人を選ぶ仕組みじゃなくて、自分からは縁遠くて、自分よりもバカだろう、と思える人に一票を投じ、そういう人が当選するのが、選挙という仕組みの本質なのです。

なぜなら、自分の身近で、自分より優秀だと思える人が、過半数を得る状況というのは、論理的にあり得ないからです。

若者が離れていったのなら、その先に餌の付いた釣り針を垂らすべきであって、いなくなった魚に向かって「いなくなるのは間違いだ」となげいてもしかたありません。

私はそう思います。



以上

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