2010年12月2日木曜日

市川海老蔵氏を応援するこれだけの理由

市川海老蔵を応援するこれだけの理由

ここ数日ようやく気温が下がり、いよいよ本格的な冬がはじまったようだ。
だがちょっと記憶をたどれば、ほんの数週間前までは全国で「熊が出たから射殺しました」という事例が報じられていた。
射殺(殺処分)の理由は、「人間に危害を加えるおそれがある」か「農作物への損害が生じるおそれがある」だった。

思考実験してをしてみよう。
千葉県市川市に、野生のパンダが一群だけ生息していたとする。
国は、そのパンダの群を保護しようと、さまざまな施策をするだろう。
他の種と混じったりしては意味がなくなる。
パンダとツキノワグマの交配種(生物学的には交配できないのだろうが、ここでその問題は考えない)では、保護する意味がなくなるのだ。
言ってみればこれが「人間国宝」の意味だ。
江戸時代から「そのまま」であること、それが保護保存することの唯一の目的なのだ。

さてそのパンダの中に生まれたただ一系統となった純血のつがいに、ようやくオスが生まれた。
飼育員は、そのオスを大切に大切に育てた。
そのオスはすくすくと成長し、立派な大人となった。
ただし、性格は粗暴。
暴れるし、逃げ出すし、で扱いに気を遣わねばならないし、手がかかるし、コストもかかる。
もしこれがふつうのクマなら、即殺処分となるところなのだが、天然記念物のパンダ、それも唯一の直系子だとなればそうもいかない。
施設から逃げ出して、外で人を傷つけたりした「大事件」でも、飼育員や館長はクビになるだけで、そのパンダは、今まで以上に大切に扱われることになるだろう。もう逃げ出さないようさらに快適な環境とするために、施設やシステムを作り替える可能性だって大いにある。
それが、市川のパンダの置かれている状況だ。

海老蔵氏が、もし私の想像通りの人物だとしたら、こうするだろう。
退院したら、迷惑をかけた店に謝りに行く。
もし可能なら、迷惑をかけた人にも謝りに行く。
噂で出ている全裸土下座写真なんか、どうでもいいことだと気にもとめない。
それを見てどう思うかは、それを見た人の問題であって、撮られた当人が気にすることじゃない。
酔っている人間を複数で襲うような連中相手に、無様も何もない。
その写真は、写真を撮った人間の卑劣さの証明でしかないからだ。
そしてまた、堂々と六本木へ飲みに行く。
間違っても、飲み処を変えたり、取り巻きを引き連れたりしてはダメだ。
今度のことで何が知れ渡ったかと言えば、海老蔵氏とトラブると偉いことなる(いろいろと面倒な事態に巻き込まれるという意)ってことが、はっきりしたってこと。
トラブった当人だけじゃなく、家族や関係者や過去までが、記事になり、また全国に放送されてしまう。
そこそこすねに傷がある人物の場合には、関係各所にガサ入れする口実を、警察に与えることにもなる(オヤジやアニキは怒るぞ~)。
今回の件でだって、あの会員制バーの顧客リストは、「目撃情報を得る」という口実で「任意提出」させられているはずだ(指紋採取や周辺の防犯ビデオ映像分析までされている可能性も否定できない)。もしかすると「血痕を探す」という理由で、床のカーペットまで丹念に調べられているかもしれない。もし、いけない薬物の反応でも出てしまったら、まさに泣きっ面に蜂だ。

したがって、これからますます海老蔵氏に手出しできなくなる。
そしてますます孤立して行くことになる。
そのことの方が、海老蔵氏にとってははるかに危険なことだと、私は危惧している(まったく関係のない人ではあるが、正直けっこう心配)。


私の目には、彼の姿が、哀れに見えて仕方がない。
よくやっていると感心することはあっても、「もっとちゃんとしろ」などとは口が裂けても言えない。



歌舞伎が特別でいられるのは、「変わらずに続いている」からに他ならない。
もしも「変わって」しまったら、もはやそれは、他の伝統芸能となんら変わりない「ソフト」だけの文化だとなってしまう。
ハード・ソフト両面で、変わらずに残っている、とされているから「国宝」なのだ。

そのハードの面を「継続」する責任を、たったひとりの男に背負わせている。
嫌ならやめればいい、と軽々しく言う人間は、彼の負っている責任の重さがわかっていない。
彼は歌舞伎を愛しているのだろうし、団十郎となる自分の運命にも納得しているはずだ。
その一方で、何もかもすべてが嫌になる自分も、彼の中には間違いなく存在しているはずだ。
ものごころ付いたときには、みんなに顔ばれしていたスーパーマンのような状況を想像してみて欲しい。
いつもやさしくあれ、謙虚であれ、紳士的であれ、というのは余りにも酷ではないか。

人が、他人のプライベートについて最も関心を抱く内容は、自分自身が最もコンプレックスを抱いている事に関する分野なのだという。
海老蔵氏は、とにかく他人が得ている「お金」について並々ならぬ関心があったらしい。
ということは、彼自身が、自分の得ている「お金」についてコンプレックスを抱いていたということになる。
足の長いモデル体型の女性に惹かれるのだとしたら、その裏側にあるのは、自分が短足であることへのコンプレックスかもしれない。

彼は現代の恐竜なのだ。
現代の恐竜は、それように整えられた施設の中でしか生きられない。
現在の自然環境では、今日のエサを取ることもできないからだ。
恐竜が生き続けるには、『恐竜』でい続けるしかないのだ。
そしてその『恐竜』とは、図鑑に出ているままの『恐竜』のことなのだ。
それは決して、恐竜そのものじゃない。

エサを与えられ、つがいを与えられ、休みなく展示から展示へと引き回される。
その恐竜が施設から逃亡し、野犬の群とケンカし、ケガをした。

そして施設に連れ戻された恐竜は、包帯を巻かれ、またガラスの向こうで観察されている。

だからこそ、私は、海老蔵氏を応援したいと思うのだ。
(でも、歌舞伎そのものに魅力はまったく感じないし、芸術としての価値も見いだせない。特にその表現性については、大きな疑問符を抱いている。もちろん日本の文化としての価値があることは認めるけどね)


あ、そうそう。
2011年1月3日からの「初春花形歌舞伎」には、包帯巻いてでも出た方がいい。
盛り上がりは、史上最高になるだろうし、そこで観劇した後援者は最高の感動を受けるだろうから。
そしてそれは、海老蔵氏の演劇者としての伝説の1ページとなる。




追伸
当代一、かどうかは知らないが、とにかく有名タレントであることは間違いない、クソ生意気な野郎が独りで飲み歩いて、暴走族(サクセスアウトロー? ギャング?)とケンカして、複数相手に一人で立ちまわりして(ボコられてとも言う。武勇伝♪武勇伝♪)、生きて家まで帰ってこれるなんて、世界中で日本だけだと思うぞ。銃が蔓延してる国ならあっさり射殺されてるし、そうじゃない国でもナイフで刺されてる。いいか、相手も素手でやってくれたってことに、マスコミのアホどもはもっと敬意を払うべきだ。酔っ払って絡んできたクソむかつく奴相手に、素手でケンカしてくれたんだぞ。もしかしたら、ポケットには折りたたみナイフが入っていたかもしれないのに。
私はこの相手の男の方が、ずっと“侍(サムライ)”だと思う。
この男(たち)のことを、まるで生まれついての犯罪者みたいに報じるマスコミ人は、盛り場でいざ本当にトラブったときのことを知らないんだろうと想像する。
飲んでてトラブって知らない奴に刺されて死んじゃいました。
そういうのがごまんといる。
殴られて、気を失って、嘔吐物がつまって死んじゃいました。誰に殴られたのかはわかりません。
そんなのもごまんといる。
酒の上のトラブルってのは、それくらいリスキーなんだ。
まして六本木。

私はこの事件報道を通じて、いくら治安が悪くなったとは言っても日本はまだまだ世界一安全な国なんだなあ、と確信したのであった。


ホントの了

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