2010年平成22年10月9日(土)
朝日新聞
オピニオンページ「耕論」
テーマ「強制起訴」
民意は検察権力の上に立つ
立花隆(たちばなたかし)
小沢一郎の強制起訴で、日本の司法制度は大きく変わる。
日本では、起訴の権限を検察官が独占していた(起訴独占主義)。
しかも検察官はその権限を恣意的(しいてき)に行使してよかった(起訴便宜主義)。
そこに検察官の絶大な権力の源泉があった。
それがつぶされ、検察の恣意的な検察権行使に市民がノーをいえることになった。
これは、裁判員制度によって裁判に民意が導入されたのと、同じくらい大きな変革だ。
裁判員制度は、英米の陪審員制度を日本風にしたものといってよいが、検察審査会による強制起訴の導入は、アメリカの大陪審制度を取り入れたものといえる。
ある事件を起訴するかどうかは、抽選で選ばれた陪審員たちが犯罪の輪郭を示す証拠を検察官から教示された上で、議論して決める。
要するに、今回の検察審査会と同じだ。
今回の強制起訴に対し、プロの検察官が二度も「起訴せず」と決めたことを、ド素人の集団がひっくり返すのはおかしいという意見がある。
これは前時代的な考え方だ。
いま世界の司法制度は、滔々(とうとう)とより多くの民意を取り入れる方向に向かいつつある。
公訴提起の主人公は誰か、国民主権国家では当然ながら国民だ。
かつて検察官は天皇の直属の官吏(かんり)だった。
天皇の名の下に国家を代表し公訴を独占した。
しかし、国民主権国家では検察官は国民意思の代行者になる。
公訴提起に国民の意思が反映するのは当然だ。
国民主権主義なら起訴の是非も裁判も、検察側と弁護側が陪審員の面前で甲論乙駁(こうろんおつばく)を繰り広げ、陪審員が判定を下す当事者主義こそ本流。
日本もそちらに向かいつつある。
民意が多数で示されれば、そこに神意が宿って公正な裁きとなる。
VOX POPULI VOX DEI(民の声は神の声)が民主主義の基本原則なのだ。
この事件の前半は、捜査現場の検事たちと、検察上層部の検事たちとの間で、小沢起訴をめぐって、激しい論争があった。
「絶対勝てるという120%の証拠が必要」とする検察上層部と、この程度で証拠は十分、あとは法廷で争い裁判所の判断を仰(あお)ぐべきだとする現場の検事たちの主張が正面からぶつかり合った。
最終的に検察上層部の意見が勝ち「不起訴」になった。
今回の検察審査会の議決は、捜査現場の検察官たちの主張とほぼ同じ。
彼らの逆転勝利ともいえる。
検察がなぜこれまで検察審査会の「起訴すべし」の議決を受けて再捜査しても結論を変えなかったのか。
検察には「同一体の原則」があり、一度決定を下すと他の者がそれを変えられないのだ。
再捜査は形式に終始し、形式的結論を出さざるをえなかった。
検察審査会の強制起訴によって事件はようやく原点に戻った。
事件のポイントはただ次の一点にかかわる。
政治資金収支報告書の不実記載は全部小沢の秘書たちが勝手にやったことで、小沢は何も知らなかったのか否かである。
強制起訴の議決がいうように、小沢が何も知らなかったはずがないという証拠と傍証は山のようにある。
これは起訴しないほうがおかしい。
あとは本気でやる気がある弁護士たちが検察官を代行し、補充捜査たっぷりしたうえで裁判にのぞむことだ。
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立ち話、もとい立花氏は闘病中であり、とても強い薬を投与されている中での執筆やもしれぬので、あまり正面切って指摘するのはさすがにははばかられるので、ソフトにソフトに「う~ん、いくら何でもこのあたりは、ちょっとおかしいですよね。もう一度考えてみましょうか? ええ、お身体に差し障りのないときに、はい」という程度に、いくつか論じてみたい。
まず結論のところからいきましょうか。
「証拠と傍証は山のようにある」?? 違いますよね。資料は山のようにあるけど、証拠が見つからなかったんですよね。
似ているけど、大違いですよね。
証拠で大事なことは、量じゃなくて質ですよね。原稿と一緒です。そのへんのこと、まだ、覚えてますよね?
「補充捜査たっぷりしたうえで」って言いますけど、さらに何を捜査するんです?
関係者はみんな公判中ですよね。また家宅捜査でもするんですか? でも前回の家宅捜査で押収した資料は、まだ検察にあるんですよ。
現場検察官の逆転勝利だって言ってますけど、組織捜査ってものをどうご理解されてるのでしょう?
そんな内部抗争の結果で、起訴されたりされなかっりしたんじゃあ、将来無実の罪で疑いをかけられるかもしれない一般人はたまりませんよ。それは検察内部の問題であって、そんなことを審査会に持ち込まないで欲しいなあ。
つうか、そもそも、部下が汗かいて上司が決済するのは当たり前ではないですか? 雑誌を作るときも、ボツとかを決めるのは編集長じゃないんですかね? 違いますか?
検察内部で、証拠判断をめぐる激しい論争があったって書いてますけど、それってふつーのことです。
裁判では、検察の証明が正しいかどうか、が問われるのであって、被告自身が問われるんじゃないんです。だから検察は起訴するにあったって、完全に証明できるという確信がない限り、誰かを起訴なんかしちゃだめなんです。
裁判官や裁判員に向かって「ボクたち検察は、この人が犯人だろうなって80%くらいの自信があるんで起訴しました。あとは裁判所にお任せします」なんて言うのがいいんですか? あなたのいうところの「国民主権」ってこういうことってことになりますよ?
そもそもなんで国民主権が、「民の声は神の声」になってしまうのか、ま~ったく理解できません。飛躍し過ぎです。これも強い薬の影響なのでしょう。ぶっ飛んでますから。
陪審制というのは、司法制度の整っていなかった開拓時代に定着した、それこそおっしゃるところの『前時代的』な、暫定的便宜的な制度です。
また聖書で、イエス・キリストが処刑されたのも、(ユダヤの)民の声によってでしたよね。確か、ローマから派遣されていた法律の知識のある責任者は、イエス・キリストには何の罪も見いだせなかったんだけど、民の声に従って処刑することにしたんですよね。これって、おっしゃるところの「前時代的」だとは思いませんか?
とにかく私は、あやしい奴だからといって、確たる証拠もないのに起訴して裁判しちまえばいいんだっていう考えには、声を大にして「王様の耳はロバの耳!」じゃくて「それは絶対に間違ってます。ものすごく危険な思想ですよ」っていいます。
魔女だという証拠がないのに、魔女っぽいから、そういう噂があるから、ってことだけで魔女だとして処刑しちゃあまずいっしょ。
それくらいは、強い薬を投与されていても理解できるのではないかと期待します。
小沢一郎が悪い奴だとしても、悪いことをしたという確実な証拠がない限り、起訴しちゃだめなんです。
いいですか、この事件のポイントはただ次の一点なんです。
問題とされている不動産の取得について、小沢一郎氏が「こうこうこういう具合に不実記載しろ」と指示したのかどうかの一点です。
不動産取引や、支払資金の融通について、いくら指示があっても、それは犯罪にはなりません。もちろん政治家が不動産を購入してはいけないという法律があれば違いますが、そうじゃないですから。
私が報道で知った範囲の中から推察しますと、もし小沢氏が不実記載を指示したのだとするなら、他の記載についても指示をしているはずだと考えられ、その痕跡や証拠が、それこそ山のように残っているはずです。この取引の、この記載にだけ、小沢氏が指示をしたとは、通常は考えにくいです。だって、報道によると、小沢事務所は他にもたくさん不動産を持っていたそうじゃないですか。そっちの記載の方についての報道がなされていないことから想像すると、他には問題はないんですよね。だとすると、この記載だけ他と違うことになるから、検察はなぜそうなのかを証明しなきゃ、証明に説得力がなくなります。
で、それができそうもないので、起訴できなかった、それだけの話のような気がしますが、いかがでしょうか。
まあ、私などが到底思いもつかない『闇の勢力』の力で、起訴を握りつぶされたのかもしれないですけど。
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