2010年10月13日水曜日

これがサッカーの本質だ!


本田圭祐という選手が、スピード、技術、戦術眼、創造性、意外性、体格、どれをとっても取り立てて秀でたところのない選手である点については、衆目の一致するところだろう。
それは彼自身も自覚しているのだということが、髪型や服装、そしてスパイクのデザインという外見で差別化しようと意識している(あるいは無意識かも知れないが)ところから見てとれる。
中田英寿選手もそうだった。
彼らの魅力、他よりも優れている点は、まさにそこである。
彼らは自分を客観的に捕らえ、分析し、己の価値を最大限に膨らまそうと考えることができる。そのことこそが、彼らの最大の長所なのだ。

実はこれこそがサッカーの本質であろう、と私は確信している。
サッカーとは手の使えないボール競技だ。
ふつうに考えれば、人間にとって手が使えないことは最大の欠点となる。
人類がこの世に誕生したとき、手は使えないが頭の良い人類と、頭は悪いが手の使える人類がいたとすると、前者はとっくのとうに絶滅してしまっているだろう。人類が他の生物と決定的に違う点は、まさに手を使えるということなのだ。手が使えるようになって、そこからの刺激によって脳が発達した。決して脳が発達したから手を使えるようになったのではない。

人類が人類たる最大の特徴である、器用に使える手、これを封じたのがサッカーという競技だ。
いってみれば、競技最大の欠点である。
この「手が使えない」という競技最大の欠点を、最大限有利にしようと工夫すること、これこそがサッカーの本質である。
身長の高い選手をそろえて、制空権を独占しようとしてみたり、他の者よりも足を器用に使えるよう訓練することで、ボールの管理権を有利にしようと考えたり、他にも戦術やポジションといったいろいろな面で工夫し、敵を出す抜こうとしてきたのがサッカーだ。

つまりはこういうことなのだ。
ヘタだといっても、いったい何がヘタなのか。
弱いといっても、どこが弱いのか。
うまいのは、何がうまいのか。
強いのはどこが強いのか。
自分のことも、チームメートのことも、チームのことも、そして敵のことも考え、そして自分が最も有利になるように、自分の価値が最大になるように、工夫し対策を立てるのがサッカーという競技の本質であり魅力だなのだ。

ブラジルのサッカーが最高だって?
ふ~ん、そう思うのならそうなのかもしれない。
しかし日本人のサッカー選手が考えることは、ブラジルサッカーの真似をすることじゃない。
日本人サッカー選手がやるべきなのは、ブラジルに勝つために何をしなきゃならないか、を考えることだ。
身長の高い選手の多いチームと対戦するときに考えるべきなのは、「ボクも大きくなりたいなあ」じゃない。
奴らに、自分たちがデカイことを後悔させるにはどうすればいいか、身長の高いことを不利にするためにはどうすればいいのか、だ。
うまい選手ばかりのチームと対戦するときには、何を考えるべきか。
思い出して見て欲しい。
うまい選手ばかりのチームがワールドカップで優勝したことなんて、一度もないってことを。
うまい選手ばかりのチームというのは、惜しまれつつ敗れ去るもの。それがサッカーの歴史となっている。
では、そうしたチームに勝ったチームは、どうやって勝ったのか。
それを考えるのがサッカーなのだ。

今後、日本人の中からどんなに技術的にうまい選手が誕生したとしても、ラテンアメリカやラテンヨーロッパ、そしてアフリカの『想像を絶するくらいうまい』選手の足元にも及ばない。これは構造上、遺伝上、いかんともしがたい現実なのだ(素の人間は平等じゃないからね)。
だがサッカーという競技が私たちに突きつけているのは、「で、おまえはどうする?」という問いなのだ。決して、「どっちがうまい?」でも「どっちがでかい?」でも「どっちが速い?」でもない。

それで、お前はどうするんだ?
誰かが、とか、みんなが、とか、他の人が、ではない。
自分はどうするのか、これを己に問い、そして正解はわからなくとも「自分の」決断を下し続ける、

それが、

サッカーの本質なのだ。

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