2010年10月2日土曜日

ジュニアユース・セレクションにおける選考基準と合格の秘訣

ジュニアユース・セレクションにおける選考基準


実際には年度ごとの各チームの方針や各担当者のサッカー観などによって異なるので一概には言えないが、一般論としてはこういう傾向にあるということをかいつまんでお話しする。

まず第一に理解すべきなのは、ジュニア段階でのセレクションとは決定的に違うと言う点。同じ「セレクション」と呼ばれてはいても、その意味合いはまったくの別物であると言ってよい。

ジュニアのセレクションでは、組織体としてのJチーム内におけるジュニアチームの存在自体の意義が、日本ではまだ非常にあいまいであることがそのまま反映されてしまう(そしてそれは、これからもそのままだろう)。強豪古豪と言われるJ下部のジュニアチームに春生まれの選手が多く、早生まれの選手が皆無であることを見ても、ジュニアチームの選抜理由が、その選手個々の“可能性”“素質”ではないことは明らかだ。勝利を目的としたジュニアチームを、Jリーグチームが保有する意義とはいったい何であろうか? 私には思いつかない。もし日本にも「小学生選手を“売り買いする”市場」が成立すれば、また違ったものになるだろうが、現状では、J下部のジュニアチームは『強い小学生チーム』でしかないのが実態だ。そしてそれは『早熟な小学生のチーム』になりやすい。トップチームを担う選手の育成を考えたとき、そんなチームに意義はあるだろうか?

ところがこれがジュニアユースとなると、事情ががらりと変わってくる。今述べた通り、トップへ至るユースというように段階を逆算して考えるとよくわかるのだが、ジュニアユースに『うまい“小学生”はいらない』のだ。

ユースは、準トップという位置づけであって、決して日本社会一般における“高校生”ではない。企業でいうと、すでに社員としての試用期間(お試し期間)に入っているのがユース。彼らはもう学生じゃない。その前段階であるジュニアユースは、言ってみれば就職活動期間だ。そこでは、自分の能力や長所を確立し、アピールできるかどうかが求められる。コーチ・スタッフと選手の関係も、教師と生徒や、大人と子供、ではなく、買い手と売り手(自分という商品の)、大人と大人、としての関係になる。

教えてもらうのはジュニアまで、ジュニアユースからはむしろコーチの意見に対して、ちゃんと自分の意見を述べられるような選手がのぞまれる。さらにサッカープレーヤーとしても、まだまだジュニアユース年代で伸びしろがありそうな、そしてその結果、『優れた“大人の(つまりトップチームの)”選手』になってくれそうな可能性のある『素材』が欲しい。どんなにすごい選手であっても、小学生のままでは、どう伸びてもトップチームでは使えないのだから。
コーチの意図さえも、親の気持ちさえも、推量できる頭脳を持った、「人間として」賢い、頭の良い人材が理想だ。それはサポーターとのコミュニケーションや、外国人選手や外国人コーチ、外国のチームの中へ入ったときに自分の力を発揮できる能力と同じだからだ。相手に誤解させないように自分をアピールする能力とも同じだ。自分をわかってもらい、好きになってもらう(少なくとも嫌われない、軽蔑されない、低く見られないようにする)アピールができないと、家族や幼なじみ以外とはチームを組めないことになってしまう。そんな選手は使えない。練習場のマラドーナはいらないのだ。

またチームにトラブルを招くような人物も困る。新聞に載るような、あるいはネットで騒がれるような事件を起こされたらチームの存続問題、スタッフの責任問題になるし、また有望な選手をいじめて退団させようなどという半島国マインドの持ち主に、裏で幅をきかせられてもチームは崩壊してしまう。そういう半島系種族は見つからないように、ばれないように、裏で悪さをするのが天才的にうまい。しかし同じ立場にある集団の中では、徒党を組んでグループ・子分を作って、従わない者や少数派を虐げて追放しようとする。チームスポーツにとって、いや“個”を尊重しながら協調しあって上を目指そうという集団にとっては最悪の人種たちだ。優等生であれとか、真面目であれとかいうのではない。生活の中でもリスクを感じ取って、上手に対処できるようなセンスが欲しい。悪い例で言うなら、他の奴は捕まっても自分はお咎(とが)めなしにできるような「ずる賢さ」が欲しい。他の仲間が10時間必要とするところを、3時間だけですませてしまう(もちろん結果は同程度じゃないと意味ない)ような、「要領の良さ」が欲しい。要するに、お子ちゃまはいらないのだ。

◆すでに功成り名を遂げた大物スタッフが影響力を及ぼしているJユースチームの下のジュニアユース

かなり無責任に「世界」を目標に掲げる傾向にある。また有形無形の“コネ”の影響がなきにしもあらず。世界の真似をすれば同じようになれるという、強い信念を抱いている人間も多い。チャレンジに対する評価が高く、積極的なミスには寛大。サッカー解説者の風間的な評価軸を持っていると理解すればいい。そして何より、スタッフたちのプライドが高い。自分の話を聞かれないと、途端に不機嫌になる。サッカーに年齢の上下関係はないといいながら、自分に敬意を払われないと途端に不機嫌になる。いつまでも根に持つ。でも約束は忘れる。

◆ギリギリで明日をも知れぬスタッフが運営するJユースチームの下のジュニアユース

メジャータイトルを取りたいということが頭から離れない。ミスに厳しい。過程よりも結果にこだわる。問題がありそうな子であっても、辞められると困るから、能力が高そうだと甘い。よそのチームへの引き抜きにもビクビクしてる(なんてね。これはかなりオーバーだけど、でもまったくないわけでもない)。

§とにかく、戦えるメンバーをそろえる§

ストライカータイプばかりで枠を埋めるわけにもいかない。GKは絶対に必要だし、背のたかいセンターバックも必要だ。チームをまとめるキャプテンタイプも必要だし、つらい練習でみんなを引っぱるがんばり屋タイプも、チームを作るためには必要だ。練習のバリエーションのためにもサウスポーは絶対に置いておきたいし、負けないためには敵チームのエースに仕事をさせない「つぶし屋」も育てたい。

はやくトップに上がりやすいのは、フォワードとサイドの選手だ。理由その1は、それら以外のポジションは、チームの主軸(ベテラン)で固定化されてる場合が多いこと。その2は、そのポジションは故障や、好不調の波が大きいポジションであること。その3は、選手の移籍機会が多いこと。特に外国人選手などはシーズン途中でいなくなる場合も。

その一方で、フォワードとサイド以外のポジションで試合機会を得た選手は、チームを代表する選手になりうるキップを手にできるという面がある。ゴールキーパーは無論のこと、センターバックや中盤で、若くしてポジションをつかんだ選手は日本代表にまで登り詰めている選手も少なくない。

何を言いたかったのかといえば、どこのポジションだから有利だ不利だということはないのだということを言いたかったのだ。

§一流の選択眼なんてものは存在しない§

実際には存在しているのかもしれないが、それを証明することはできない。良い例が、歴代のブラジル代表監督だ。あれだけの選手の中から、あれだけの経験を積んだ監督が選考したチームが、あの『勝利至上主義に基づいて、スピードとパワーのカウンターサッカーに専念したくせにいつも通りの成績に終わった』ブラジル代表チームだ。あるいは日本中の選手たちから好きな選手だけを好きなように集めることのできる絶大な権力を与えられながら、自分がどんなサッカーをするチームを作りたいのかわからない知障(「ちしょう」を変換したらこうなった)大監督様もいらしゃった。つまり、選手の力を見極めることは難しいってことなのだ。

§在庫状況やライバル店の品揃えによって仕入れ品目は変わる§

市場にある最高のサンマをすべて独占して仕入れて、店先にサンマばかりを並べたら、いくらそれらがおししいサンマであっても店が立ちゆかなくなるように、いい選手が大勢いるからといって、同じタイプの選手をすべて抱え込むことはできない。

ボランチばかり20人そろえたり、ストライカーばかり20人そろえたチームを作ることは、まずない。
すでに内定している選手のリストを補完できるような選手をさがすのが、公募セレクションの第一の目的だ。もちろん第二の目的は、未発見のダイヤの原石を見出すことだが、当然、毎年毎年都合良くダイヤの原石が出現することなどはあり得ない。
しかし仮にもJリーグチームの看板を掲げて、トップチームと同じデザインのユニフォームをまとっている限り、最低でもホームタウンではカテゴリー最強の存在でなければならない(と自分たちで勝手に思い込んでいる。'74年のオランダみたいに、GK以外は全員FWっていう方針で育成するような器のでかさをもったJ下部は現れないものだろうか?)。
ということは、だ。現時点での完成度が高い選手にどうしても食指が動いてしまう傾向があることも否めないのは否定できない。こうした矛盾を抱えていることが、日本のオリンピック世代以下のユース、ジュニアユース世代での中途半端な世代代表チームしか組めないような選手層を積み上げることになってしまった原因だろうと私は思う。



§選考する側は命がけの真剣勝負§


セレクションを受ける選手やそのコーチ、保護者よりも、はるかに選考する側の大人たちの方が真剣である。極論を言えば、彼らには生活がかかっている。「ぼくの夢」とか「子供の夢」とかいうレベルじゃない。来年の仕事、明日の家族の食い扶持(ぶち)がかかっているのだ。

上でも書いたように、本当のところでは、選考する側にも選手個々の能力を見極める能力なんかはない。しかし彼らは、自分にはその能力があると確信している。いや、自分にはその能力があるのだということを疑ってしまったら仕事にならないのだ。これがJ選手育成にたずさわるスタッフ・コーチの最も厳しいハードルかもしれない。これに比べたら、与えられた選手たちでチームを組んで勝利を目指すことなど、条件と目標が他力によって設定されているので開き直ることができる分、楽なのだ。

しかしセレクションには、自分、選手、そしてその周囲の人間の人生が関係してくる。そのことをわかっているコーチは、本気の本気でセレクションにのぞんでくる。笑顔などまったく見せない人もいる。トレセンの選考などとはまるで違い、そこはプロの真剣勝負の場なのだ。



§策なんかいらない。ありのままの自分のサッカーを楽しめばいい§




セレクションを受ける側は、傾向と対策なんか、考える必要はない。

ありのままの自分のサッカーができるように考えること、工夫をすること、シミュレーションをすること、みたいなことはやるべきだ。でも、セレクションで選ばれるように「飾ること」は、まったく必要がないどころか、むしろするべきではない。教科書通りの優等生的なエリートタイプの選手はすでに内定しているわけだから、セレクションにのぞむ子供たちが「過去問」を参考にした「噂」に基づいた「さも合格しそうな選手のふり」をすることは逆効果になる。

サッカーは受験じゃない。サッカーに正解はない。突き詰めれば、結果オーライな世界であって、そこでは間違いであってもゴールしてしまえば勝ちなのだ。


『人間万事塞翁が馬』


いまうまくいかなくても、実はそれが将来のために必要な一手なのかもしれない。

誰にもわかりはしない将来を自分で勝手に予想して、苦心して、悩んで、今を歪めるよりも、『今を生きる』ことの方が価値が高いと、私は思う。
過去と今、今と未来、そして過去と未来は、冷徹に断絶している。それをつなげているのは、自分自身の中にある「自分勝手な記憶」だけなのだ。その勝手な記憶の集大成が「歴史」と呼ばれるものである。今際の際に自分の歴史を振り返ったとき、人はきっと『楽しかった自分の歴史』を思い出すのではないだろうか。その歴史の1ページに、もしかしたら今度のセレクションの一場面がなるかもしれない。それはきっと、自分らしさの出せたサッカーができたことの記憶だろうと思う。間違っても、合格対策のために自分を歪めたサッカーの記憶じゃない。


サッカーのプロたちに自分らしいプレーを見てもらうためベストを尽くす。これがジュニアユースセレクションで合格するための唯一の秘訣だと、私は確信している。

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