2010年5月4日火曜日

ニーチェと少年サッカー

「夢は、全く見ないか、面白い夢を見るか、どちらかだ。サッカーをしている時も同じ。全くサッカーをしていないか、面白くサッカーをしているかだ」

少年サッカーを本当に愛しているのならば、落ちこぼれチームや落ちこぼれ選手に同情してはいけない。
むしろ、もっと落ちこぼれるように、その背中を押してやるべきだ。
その際、「このチームはこれからどうなるのだろう」とか「この選手はサッカーを続けていくのだろうか」などと気にしてはいけない。ただ何も考えず、背中を押してやらなければならない。

少年サッカーは死んだ
誰が殺したのか。それは我々だ。あなた方と私が少年サッカーを殺したのだ。私たちは全員、少年サッカーの殺害者だ。

少年サッカーを埋葬する墓掘り人たちの騒ぎが聞こえてこないか?
少年サッカーの腐る匂いがしてこないか?

少年サッカーは死んだ。少年サッカーは死んだままだ。
私たちが少年サッカーを殺したのだ。

少年サッカーにナイフを突き立てた狂気の人たちは、その日あちこちの大会会場に押し入り、そこで、《レクイエム》を歌った。
外に引きずり出され詰問されると、彼らはいつもこう答えた。
「少年サッカーの大会とはいったい何だろう、─少年サッカーの墓穴、その墓碑でなければ?」


▲ルサンチマン(ressentiment)

欲望のこじき。現実を見ずに、「くれくれくれくれ」
こんな世界は間違ってる。
ぼくにはわかってる。こんな世界はうそっぱちだって。
違う世界になって、なって、なって。

現実の世界、自分の人生に対する不満。
自分を弱者に置き、それを肯定する。
強者は悪い奴らだ←強者に復讐したい。足を引っぱりたい。

チームがどうなろうと我が子を試合に出せ、と要求するバカ保護者の精神。

▲ニヒリズム

この世も、自分が生きている意味も、すべては結局「無(nihil)である」という立場。

「そんなに一生懸命がんばってバカみたい、所詮はサッカーなんて遊びなんだから」とちゃかすバカ大人の精神。

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私が皆さんに一番言いたいことは、サッカーは高貴にプレーするべきであるということです。
それでは、「高貴にプレーする」とはいったいどういうことなのか。

一人ぼっちになって迷路の中を進んでいくこと。
新しい音楽を聞き分けることのできる耳を持つこと。
身の回りだけでなく遠くまで見渡すことのできる眼を持つこと。
そして、これまで隠されてきた本当の問題に対して、すなおな気持ちで向かい合うこと。
そういったことが一番大切だと私は思っています。
このようなすべての力のことを、私は「意志の力」と呼んでいます。皆さんには、この「意志の力」をいつも持っていてほしいのです。そして「意志の力」を持つ自分をうやまい、愛し、誇りに思ってほしい。


「良いサッカー」とは私に言わせれば、権力の感情を、権力への意志を、権力自身を、サッカーにおいて高めるすべてのものです。
それでは「悪いサッカー」とは何かと言いますと、弱さから出てくるすべてのものです
では「サッカーにおける幸福」とは何でしょう。それは、力がみなぎっていくこと、勝ち抜いたということ、頂点をきわめたということ、なのです。
弱い選手やできそこないのチームたちは、落ちぶれていくべきだと私は考えています。こういうことを言うと、皆さんは驚かれるかもしれません。
しかし、本当にサッカーというもの愛するのなら、落ちこぼれたちがダメになっていくのを、むしろ背中から後押しするべきです。サッカーという存在が本当に素晴らしいものになっていくためには、それが必要なのです。それこそが、本当のフットボール愛というものです。それゆえにダメなサッカーに同情することは、非常にいけないことなのです。

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