2010年5月6日木曜日

キルケゴールと少年サッカー

セーレン・キルケゴール
200年前の、デンマークの哲学者。


私たちは、一人ひとりが、この一回だけの人生を生きる、歴史上前にも後にも存在しない、この宇宙でひとりだけの、「個人」なのだ。

この世の全ては「信じるか、信じないか」のどちらかしかない。
「ほどほどに信じる」とか「どちらかというと信じる」などはあり得ない。

究極の普遍的な大真理を追い求めるよりも、個人が自分の人生を生きる上での支えとなる、個人それぞれの真理を獲得することの方が、はるかに大切なのだ。

頭がよいつもりでいる人たちは、あらゆる存在の謎を解明している気になっているが、自分の名を忘れ、自分がただの人間にすぎないことを忘れ、その優秀だと思っている頭からひねり出したご立派な理屈に手足がはえたものなどではないことを忘れている。

人はほんの僅かな時間しか存在しない。

真理とは主観的である。

誰かが君のことを好きかどうかは、君にはわからない。君はただそう信じる、あるいはそう望むといったことができるだけなのだ。

もし愛を客観的にとらえられるのなら、信じるとか信じないとかは悩む必要がない。しかし愛は客観的にとらえられない。だからこそ、信じなければならないのだ。

近代の都市社会では、個人は大衆の一人になってしまう。

誰も君の代わりに跳躍してあげるわけにはいかない。君は一人で決断して、一人で跳ばなくてはならないのだ。

君が何を正しいと考え、何を間違っていると考えるかは重要ではない。正しいことや間違ったことに、どうかかわろうと決断するかが大切なのだ。

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なぜ少年サッカーではサッカーをやらないのだろう。
私は不思議でならない。
サッカーとは、ワールドカップで採用されているルールで執り行われるボールゲームだ。

小さくて軽いボールを使い、狭いピッチで、短縮した競技時間で行われるそれは、サッカーに似た別のものである。
三角ベースや軟式テニス、挟み将棋などと同じ類のものだ。
それらだって充分に楽しいし、本気でやれば奥深さもある。
だが明らかに、野球やテニスや将棋とは別物である。
その道を究めても、メジャーリーグにも、ウィンブルドンにも、名人戦にも、通じてはいない。

なぜ子供たちに、大人と同じボールとピッチとルール・競技時間で『サッカー』をやらせないのだろう。
水泳や陸上競技で、「子供用の100メートルは大人の半分にしなければなりません!」なんてことを言ったら、「ああ、この人は可哀想な人なんだな」という微笑みで見つめられ、競技場から連れ出されることになるだろう。

サッカーには、年齢制限も、体重制限も、身長の制限もないはずなのに、なぜ『子供サッカー』などという競技が存在するのか、私にはまったく理解ができない。

サッカー選手はサッカー選手であって、子供も大人もないと思うのだが、少年サッカー界の常識では違うのだろうか。

詳細は知る由もないが、なんでも来年度からの少年サッカーは「8人制」になるらしい。
さすがは大日本民主主義人民共和国サッカー狂界。目のつけどころがちがう。いやきっと、目のつきどころも違うのだろう。頭のななめ上あたりについているに違いない。そうでなければ、こんなにあさっての方角へ向かう未来が見えるわけがない。

これは、大人の中に入っても十分活躍できる才能を持った子供が出現する可能性を、大日本民主主義人民共和国サッカー狂界のお偉方がまったく信じていないことの証しだ。だから彼ら彼女らは、子供たちに“サッカー”をさせようとしないのだ。

もし将棋界で同じ愚行をしていたら、天才羽生は発見されていない。
石川遼はプロツアーにまだ参加できていないかもしれない。

3号球に慣れたと思ったら、今度は4号球に慣れなければならない。
4号球に慣れたと思ったら、今度は5号球に慣れなければならない。

20分ハーフに慣れたら、次は30分ハーフ、40分ハーフ、そしてようやく45分ハーフだ。
45分ハーフで死ぬような体力の子は、サッカーなんかさせないで入院させて治療させなきゃならんのじゃないか?
疲れたら交代させればいいじゃないか。
子供だって、いつも45分でやることに慣れれば、自分でペース配分を考えるようになる。試合の流れを読むようになる。終了間際に3失点するような、無謀な消耗につながるような試合運びはしなくなる。

一日は、大人も子供も24時間。
子供だから12時間になるなんてことを考えるのは、かなり特殊なシナプス連結の障害者なのだろう。いいなあ、車椅子スペースに駐車できて。つうか、歩けるなら歩け。

定期的に、ちゃんとしたサッカーの試合を子供たちに経験させてあげて欲しいと、心から願っている。
大日本民主主義人民共和国サッカー狂界の指導するような公式戦で、それはとうてい望めないだろう。
近所の少年サッカーチームで話し合って、定期戦のような形で十分なので、どうか本物のサッカーを体験させてあげて欲しい。
きっとそこから、子供たちは何かをつかむはずだ。
自分の手で、自分の力で。
彼ら彼女らは、子供たちのうちの一人である前に、過去にも未来にも存在しない、今そこにしか存在しない、この世にたった一人だけのサッカー選手なのだから。

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