2010年5月9日日曜日

「考えろ」は考えない

「自分で考えろ」
こういって子供らにプレーさせようとするコーチがいる。
おそらく、
「考えろ」
と言われれば、自分で考えるようになる、と思ってのことだろう。
だが
「考えろ」
と言われると、実際には考えなくなる。
正確には、決断が遅くなり、その結果としてろくに考えないまま行動に移してしまうことになる。

それを見てコーチは再び「考えろ!」と怒鳴る悪循環に陥るのだ。

こうした過ちはなぜ生じるのか。
それはコーチが「思考の種類」を知らないからである。

人間は情報を「視覚」「聴覚」「体感覚」という3つの感覚から判断している。そして得た情報は、以下の3つの思考パターンによって判断され、処理される。

1 視覚的思考 
画像による思考。あるものを別の何かに置き換えて、という処理が困難。見たままを再現するような写実的絵画を書くとき、頭の中で行われている思考のイメージ。
 
2 音楽・数学型 
パターンによる思考。囲碁・将棋の定石(定跡)やコード進行、和音、調、あるいは数式公式といった「型をふまえての」での情報処理が得意。分かりにくい関係性を一目で理解する。
 
3 言語・論理型 
情報の記憶や外国語の習得や翻訳といった方面に優れる。コミュニケーションに必須。復習、反省、といった過去を顧みる際には必ず使われる。

この3つの思考パターンは、そのときに働く脳の部位も異なれば進化の過程で獲得した経緯も異なるという、それぞれまったく別の能力である。人間はこのまったく異なる能力を巧みに組み合わせて、ひとつの「思考」として使っているのだ。この組み合わせ方は個々人によっていろいろで、それが数学が得意な子とか絵の上手な子とか勉強の得意な子、といったような形であらわれてくる。
つまり、一般的にいう「頭が良い」とは、脳自体の能力差ではなく、個体が獲得した思考パターンの組み合わせ方の違いなのだ。

なんてどうでもいいことは脇へ置いておいて、さて本題。
「要するにサッカーでは1の絵画的思考が大事ってことなんでしょ?」
と思いがちだが、それは誤り。正解は、
2の「音楽・数学型思考」。

密林のジャングルの中で、ルール無用のサバイバル戦なら「思考1:絵画的思考」が重要となるが、定められたルールの中で行われる競技であるサッカーにおいて、それは重要ではない。どうしてかというと、『未知の状況下での判断』が求めれれているわけじゃないから。全てはテーブルの上にある、のであ~る。

思考2の音楽・数学的思考の訓練は、基本技術とパターンの習得につきる。想像力にあふれたどんなに素晴らしいイメージであっても、それを表現できる技術や、効率的に実現するパターンの組み替え技能がないと、それは『お子ちゃまの夢』となんら変わりない。ピアニストや数学者が「ああ、そういうのなら、僕も同じこと思ってた」じゃあだめなのと一緒だ。できなきゃあ話にならない。

したがってサッカーの試合で子供たちに「考えたプレー」をさせたいのなら、練習で「試合に登場するような場面」をできるだけたくさん経験させ、その中で、応用できるその子なりの基本技術とパターンを習得させるのが最も効率的だということになる。
「実際の試合に登場するような」というところがポイントで、キーパー一人相手に、センタリングからシュートなんて練習のことじゃない。実際の試合でそんな状況になったら、センタリングなんてあげないで、そのままシュートなんだから。他のDFはどこに消えた?

テレビで試合を観戦したり、子供たちの試合を撮影した画像を見たりしているとき、そこで起きたことをどんなパターン練習に置き換えることができるか、それを考えながら見て欲しい。
終わってしまった試合や他人の試合を見て「やったー」とか「バカヤロー!」とかやってるのは、スポーツ居酒屋にたむろってるくるくるパーにまかせておいて、少年サッカーにたずさわっている指導者やコーチといった、知的な大人たちは、試合の映像を「練習のための材料」として見て欲しいのだ。

「あれはいいプレーだった」「今のはだめなプレー」
そこからもう一段階、深化して欲しい。
無駄な装飾をそぎ落として、「何が『いい』プレー」だったのか、「何が『だめな』プレー」だったのか、それを決定づけている「要素」をつかみだし、それを再現できる練習メニューを考え、子供たちに技術とパターンを習得させて欲しい。
こうしているだけで、子供たちは無意識のうちに「考えたプレー」をするようになる。
大人たちはただその“ギフトの訪れ”鮭漁でもするように待っていればいいのだ。

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