2010年5月21日金曜日

十字と礼と少年サッカー

ヨーロッパやアフリカ、南米では、試合前に十字を切ったり、左足からピッチに入ったりする。日本ではピッチの入りと出で、一礼したりする。これはどちらも、両地域の宗教的習慣に根ざした行為である。イスラム圏や仏教、ヒンズー圏などに同等の習慣はない。

十字を切るのと、一礼するのは、似ているようで違う意味を持っている。

十字を切るのは、神からの祝福(幸運)と加護(払邪)を祈っているのに対し、一礼の方は日常との切断を意味している。目上の人に頭を下げるのとはまったく違う。神社で参拝する時の礼の方に近い。ピッチで目上の人に礼じゃあ、まるで審判にごまをすってるみたいだし。


では左足からタッチラインをまたいだり、靴を履いたりするのはどういう意味があるのか。

これは、元々はヨーロッパのふるい迷信に基づいている。左足は(どっちかというと)悪い足で、右足の方は良い足。左手は悪い手で、右手は良い手。だからどこかへ入るときは、何かあっても、つまり予期しない運の悪いことがあってもダメージが少ないように、左足から入り、靴の中に毒虫や毒蛇がいるかもしれないから、靴は左足から履く。

きっとこの風習が出来たときには、戦乱の時代で、落とし穴だったり、靴の中に仕込まれた毒針で命を落としたような事例があったんじゃないかって俺は推測している。当時の文明レベルだと、きき足きき手が残るかどうかは、その後の生活に直結したのだろうから。

話は変わるが、その後、左胸を特別に扱うキリスト教文化の伝播によって、「胸に手をあてて考える」とか「国家斉唱のときは左胸に手を」とか「心臓は左胸にある」なんていうのも一般的な常識となった。
元々東アジアでは、心臓よりも肝(きも)の方が生命と結びついていた。日本で心臓が脚光をあびたのは、キリスト教が入ってきてからのことなのだ。それまで心臓が左胸にあるなんて考えは、これっぽっちもなかった。ふつうに見れば、どうみたって心臓がある位置は、胸の真ん中なんだから。


左胸に心臓があるという『文化』は、聖母子像と関係している。
どこかで目にする機会があったら確認して欲しいのだが、聖母マリアは、御子イエスを、必ず左胸に抱いている。
最も大事な象徴なのだから、胸の中央で抱いた方がおさまりもよさそうなのに、絶対に左側に寄っている。
左胸でイエスを抱くことから、左胸が命の象徴となり、心臓は左胸にあるとなって、心も左胸にあるんだから「胸に手を当ててよく考えてみろ」となったわけだ。


ちなみに十字は「天と地と聖霊と御名によってアーメン」とキリスト教における世界観を表している。
天は神、地はこの世界、聖霊は不思議なこと、御名はイエス・キリスト、アーメンは「信じて全てをおまかせします」という意味の象徴だ。


過度な緊張をしないための対策として、暗示やルーチン化といったものがある。暗示は「手に指で『人』と書いて飲み込む」とかお守りを身につけるというように、責任を自分だけで背負い込まないように自分に思い込ませることで、ルーチン化とはイチローのように事前の準備を固定化してしまって、周囲の状況から自分を切り離すことで、緊張感をコントロールすることを狙っている。

シューズは左足から履き、ピッチへは一礼、タッチラインを越えるのは左足から、そして大地へ触れた指で小さく十字を切る。これで気分はメッシかイニエスタ、になれたら儲けもの。

宗教うんぬんは大人の政治イデオロギーの話なんだから、ギミックとして、子供らにカッコウだけをマネさせてあげるだけでもかなり効果があるものなので、大人は妙な大人の常識で子供を縛らないであげて欲しい。カルト教団の特殊な念仏とかいうのじゃあ困るけど、十字を切るくらいもはや一般の習慣レベルなんだから、そんなに怖がらないでやってみてもいいんじゃないの、なんて思ったりして。

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