2010年5月14日金曜日

パースペクティブ(遠近法)と少年サッカー

私たちは、目の前の世界をありのままに見ているわけではない。
反射した光を眼球で受け、それを電気信号に変換して、神経の束と通じて脳まで運び、そこで脳のやり方で再構成して、記憶情報と比べながら解釈して、「見た」と認識している。
かなり強引ではあるが、これを直感的に理解できるような例え話にすると、

ものすごく磨かれた透明なガラスを通して、その向こうにある景色を見ている

ようなものだと言える。
景色そのものを見ている気になているが、実際に見ているのは、真っ平らなガラスの側面なのだ。景色はそこに映りこんでいるだけ。厳密に測定すれば、その映りこんだ光は屈折して通過しているかもしれない。つまり、景色をそのまま見ていない可能性もかなり高い。しかしそれでも私たちは、そこに映りこんだ景色と、そのガラスの向こうにある実際の景色とを同一視することに、疑問を持つことはない。

ガラスが汚れていたら?
ガラスの向こうにあるのは巨大スクリーンで、景色はそのスクリーンに投影されたものだったとしたら?




子供たちを指導する立場にある大人が、「才能」という言葉を安易に使ってしまうのはとても愚かなことだ。
私たちは、偏見、あるいは思い込み、といった「透明なガラス」を通してしか物事を見ることができないからだ。
少年サッカーにおいても、それはまったく同じである。

メキシコオリンピックや東京オリンピックの頃(釜本選手とか杉山選手の頃)ならば、「才能」とは足が速いことであったり、強いシュートがけれることであった。
周りが見えるとか、トラップが柔らかいとか、スルーパスがどうだとか、フリーキックがどうだとか、そんなことはまったく判断の材料にはならなかった。

西ドイツワールドカップからアルゼンチンワールドカップの頃(クライフやケンペスの頃)ならば、「才能」とは巧みなドリブルシュートができることを指していた。その名残は、練習メニューでしょっちゅう登場するいわゆる『シュート練習』に見て取れる。単独でドリブルしていってシュート、とか、ドリブルしてから一回壁パスしてシュート、とかのあれだ。

東京ワールドユースからアメリカワールドカップの頃までは、「才能」とは足下技術とフリーキックのことを指していた。ドリブルで評価されたのは、縦に早い杉山タイプではなく、特徴的なフェイントを取り混ぜた『かわすドリブル』の方だし、フリーキックでも、実際にゴールするかどうかよりも、ボールをどれほど変化させられるかの方に重きをおかれた。

そして現在、「才能」とは「結果を出せること」となっている、かのように私には思える。
どんな形であってもいい、最終的に(監督自身のチームの)勝利という結果に貢献できるような選手が、才能のある選手だ、と。
だから、指示に従い、献身的で、走りつづけられ、体が大きく、得点も取れる、そういう選手が求められる。

だけど今、少年サッカーで懸命にやっている子供たちが青年になったとき、そして大人になったとき、その「才能」の物差しは、今と同じでいてくれるのだろうか。
「自分はそんな偏った物差しで、子供たちをはかったりしていない」という人もいるかもしれない。
だが日本の教育現場を見れば明らかなように、あの国費で専門家として育成された教員たちであってさえも、子供たちを歪めてしまっている現状があるのだ。子供たちを、その子の才能や可能性を歪めないで見ることは、専門家である教員たちにもできていない。むしろおおくの教育現場では、子供たちを歪め、型にはめようと(その型に『自由・のびのび』と書いてあったとしても)日々教育が行われている。

せめて世界に直結している、そして世界そのものであるサッカーにおいてだけは、「才能」などという透明なガラスで子供たちに妙なパースをつけないで、見てあげて欲しいと願うのです。

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