2010年5月20日木曜日

将棋名人戦と少年サッカー

昨夜、第68期名人戦七番勝負の第4局が終わった。

羽生善治名人(39)が挑戦者の三浦弘行八段(36)を降し、4連勝で名人位を防衛した。

9時間あった残り時間は、羽生3分、三浦1分になっていた。


羽生名人は2003年から、三浦挑戦者に対しては10連勝している。これで連勝は14に伸びたことになる。

実力が拮抗しているトップ棋士において、対戦成績がこれほど一方的な組み合わせは他にはない。

第1~3局はいずれも横歩取りという戦法だった。

これは三浦挑戦者の得意戦法なのだが、羽生名人はこれを避けなかった。というよりも、相手の得意戦法の土俵に乗ることが、羽生名人の、ある意味での得意戦略であるように思える。

当然相手の得意な形で戦うことはリスクがともなう。その一方で、得意な形になった相手は“奇襲・奇策”といった変化系を出しにくくもなる。麻婆豆腐が得意な中華の料理人には、麻婆豆腐を頼んで置けば安心して待っていられるが、寿司やケーキを頼んだらどんなものが出てくるかわかったもんじゃない。後々棋譜が残り、百年後二百年後の棋士たちに研究されるうる先達のひとりとして、麻婆味のケーキのレシピに名を残したくないと羽生名人が考えているとしても、何の不思議もない。
ひとつの勝負、ひとつのタイトルよりも、最高の麻婆豆腐が誕生する可能性と、その場に自分もかかわれる可能性の方がはるかに大切だと考えているに違いない。

羽生名人の三連勝で迎えた第4局は、これまで3局続いた横歩取りではなく、三浦挑戦者側から相居飛車という戦形に持っていった。自分の得意を捨て、新たな戦型に活路を見いだそうとしたのだ。だが結果は、一勝も出来ないまま4連敗の敗退となった。

三浦八段は、事前研究の周到さで定評のある棋士だ。
対戦相手の戦術を研究し尽くし、相手の良さを出させないことで、現在の地位まで登り詰めてきた。ヒディンクとかモウリーニョみたいなタイプだ。

少年サッカーでも、こういうタイプの監督はたくさんいる。もちろんレベルは比ぶべくもないものだが、それでも対症療法的であるという面では、同じ世界からサッカーを見ている。

仮に、ドリブル大好きなサッカーチームがあったとしよう。
このチームはとにかくドリブルドリブルでボールを運ぼうとする。自陣ゴール前からでも。大昔の読売クラブみたいに。ジョージや戸塚がバリバリだった頃みたいに(たぶん)。

この手のやり方は、「個人技を育てる」と言われていた。大昔は。
だがその後の読売クラブの選手たちを見るまでもなく、それが通用するのは、学校の体育にサッカー部員が混じるような状況でだけなのだ。相手が下手っぴな場合でだけ、ドリブルドリブルで育った選手たちは、自分の技術(らしき習慣)を発揮することができる。例えば大昔の低迷期の日本リーグ2部でとか、Jリーグ初期の浦和レッズが相手とか。

当然、相手のレベルがあがると何もできなくなる。

その理由は、ドリブルという戦術を選択するための経験が圧倒的に不足してしまっているからに他ならない。
いつでも、どんなときでも、常にドリブルをさせるということは、裏を返せば、子供たちから状況を判断する機会を奪っていることにもなる。
常に状況を無意識下で把握し、分析し、判断し、一瞬の隙をのがさないで体がドリブルに反応する、こういう訓練をしなければならない時期に、ただ何でもドリブルドリブルしてればOKというのは、厳しい言い方をするなら『子供が持っているかも知れない未知の可能性を、錆びた枠形にはめ込む行為』のひとつなのだ。

天才少年や天才テクニシャンが、年齢を重ねる内に「『自分らしさ』がなくなってしまった」というような悩みを持つのは、彼本人の責任ではなく、子供の頃に妙な枠、サッカーを知らない大人が勝手に作り上げた『高い技術』という誤った概念、イメージを押しつけられたせいなのだ。

将棋の世界では、指導者が子供たちにひとつの戦法しか教えないなどということは絶対にない。
大事なのは定跡ではなく、その先にあるものだと知っているからだ。
定跡を詰め込んで地元で天才少年と騒がれても、そこから先につながる『何か』を持っていない子は、いずれ消えていくと将棋界はとうの昔に学んでいるのだ。

周到な準備研究が取り沙汰される三浦八段だが、三浦八段のそれは、定跡や一般的な研究をはるかに超えたその先に存在している。そして彼は子供の頃から、そういう風に将棋を見ようとする『何か』を持っていた。ヒディンクやモウリーニョもそうだ。

だが少年サッカーの監督に、その『何か』はあるのだろうか?
子供たちのためにある大会や試合で、その『何か』を育てるような『何か』を持って、監督は研究し、戦術を指示しているのだろうか。子供たちから、その時、その緊張感でしか得られない『何か』を奪っている可能性はないだろうか。そしてそのことに大人が気付いていないかもしれない危険について、少しは考える知性を有しているだろうか。

サッカー界でも歴史を重ねた国々の大人たちは、そのことを学んでいる。

だが残念ながら、日本の少年サッカー界はまだそこまで学んでいないように、私には思えてならないのだ。

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