2010年8月9日月曜日

見晴らしの良い場所

現時点で未来が未確定である以上、「正しい判断」というのは、厳密にはあり得ないと私は思っている。
時間が移行し、状況が変化した結果、ある時点で下した判断によって自分が納得する何かを得られた、ということにすぎない。
「正しい判断」→「何かを得られた」
ではなく
「正しい判断」←「何かを得られた」
なのだ。

「あああ~、子供の時にもっと勉強しておけばよかった」
という大人がいるが、その当人には、その当人が経験してきた以外の子供時代はあり得ない。
これは論理的にもそうなのだが、ここでは感覚的に納得できるような説明を試みてみよう。
例えば、そう、中学生の頃の自分を思い返してみて欲しい。
その当時にもっと勉強していたら……、ともし考えるのならば、当時の同級生で最も勉強していた生徒の姿を思い出して、その彼(彼女)と自分を重ね合わせてみて欲しい。あるいは、当時の自分の部屋や、家族の雰囲気を思い返して見て欲しい。さて、当時の自分が当時以上に勉強したなどということがあり得るだろうか。
その最も勉強していた同級生は、その後どんな人生を歩んでいるのだろうか。
それと同じような人生を自分は歩きたいのだろうか?
もし同じような人生を歩いていたとしたら、自分は今、こんなことを考えているだろうか?

つまり、過去の自分がもし違っていたら、現在の自分も違っているということになる。
これはSF小説なんかにでてくる『タイムパラドクス(時間の矛盾)』とは違う。純粋に、「現在は現在にしか存在しない」という、厳密な論理だ。
認識できるのは(ほんのさっきまで)現在(だった過去)の極一部だけであって、未来は想像でしかなく、過去は記憶でしかない、と言い換えても言い。

しかしだからといって、脳みそを多少でも持っている以上、少しでも自分が有利になりたい、効率的に利を得たい、痛い目に遭いたくない、と考えを巡らすのは、空腹の胃が音を鳴らし、蚊に刺されるとかゆくなるのと同じく、生物としての人間の自然な反応だ。
そして脳みそが「考えてしまう」以上、なんらかの判断は下される。
下したくなくても下してしまう。
なぜならそれが脳みそという臓器の働きだから。
だが冒頭の方でも書いたように、正しい判断はあり得ない。が、間違った判断をできるだけ遠ざけることはできる。
そのためには、できりだけ「見はらしの良い場所」へ自分を置くことが重要だ。
見はらしの良い場所へ自分を置くことができれば、自然と周囲を見渡すことが出来る。
周囲を見渡すことが出来れば、何が起きて、何が起きていて、何が起きそうなのか、が見える。
それだけで、下される判断は、自分の能力をはるかにこえた、非常にリスクの低い(優位な)ものとなる。

人間個々の能力差など、ドイツシェパードと日本スピッツの能力差よりも小さい。紀州犬と甲斐犬と四国犬の能力差よりも小さい。まああっても茶トラ猫と三毛猫の能力差くらいのものだろう。
能力差がほとんどないのだから、結果の優劣は状況と偶然に拠るところが大きくなる。
谷底にいるネコよりも、木の上にいるネコの方が、往々にして良い結果を得る場合が多いのもそのせいだ。

人間の場合は、木の上にのぼってもあまり効果は得られないので、物理的な「木の上」ではなく、情報的な意味での「木の上」にあがることを考えた方がいい。
サッカーで優秀な選手が皆ヨーロッパへ行きたがるのは、なにも報酬のことからばかりではなく、こういう意味もあてのことなのだろう。
最先端の場に身を置くだけで、最先端の情報が勝手に耳目に入ってくるのだから、判断もそれなりに下すことが出来るようになる。
とはいっても、ヨーロッパの最後端にいてはだめ。それならJの最先端にいた方がずっといい。
では「最先端」はどこなのか。
実はこれも、時間が移行して初めて「正解」のわかることだから、大いに「パラドクス」を含んでいる概念ではあるのだが。

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