2010年8月2日月曜日

現実を越えた現実

今日、こんな光景を見かけた。


地域の顧客のみを相手に長年営業している、それほどやり手とも思われない自動車整備工場を思い描いて欲しい。

その隣に戸建て住宅なら2軒くらい建てられるかなというくらいの広さの空き地があって、そこにはもうかれこれ10数年前からそのままになっているようなボロ車が何台も置かれている。車種は、20年以上前のポルシェやジャガー、もっと昔のいすゞベレット、初代カムリ、ブルーバードSSSなどを含んだ、まったく統一性のないチョイス。ほとんどのタイヤからは空気が抜け、足回りやドアのすき間には雑草が入り込み、マフラーにはツタがからまっている。

そんな片隅に、昨日、大型液晶テレビの空箱が捨ててあった。私の記憶では、その箱には「REGZA」と書いてあったように思うのだが定かではない。

その大人一人では抱えきれないくらい大きなダンボール箱には白い張り紙がしてあった。

それには、

『おまえには常識がないのか! こんなとこに捨てるな! さっさと片づけろ!』

こんなようなことが、フェルトペンで殴り書きしてあった。



推測するに、最近誰かが捨てていったのだろう。



そこまではいいとしよう。だが、何かそれでは済まないような違和感を感じないだろうか。

私は感じた。そしてそれが何なのかを考えてみた。

まずゴミとしては、どう考えても自動車の方がダンボール箱よりも大物だろうということだ。
自動車は、鉄とガラスとゴムとプラスチックとビニールと塗料、オイルとガソリンのかたまりだ。対してテレビの包装に使われているのは、紙とビニールとプラスチックくらいではないだろうか。重量だってけたが違う。どう考えても車の方が環境には悪い。圧倒的に悪い。

次に、そこに置かれている時間の違いだ。
テレビの箱は、張り紙の様子からしても、箱の汚れ具合からしても、おそらくはここ数日の間に置かれただろうと想像される。一方で車の方は、どうみてもここ1、2年というスパンではない。10年、あるいは20年近く放置されているのではないかとさえ思えるようなものまである。はたして「捨ててある」のはどちらなのだろうか。

さらに考えさせられたのは、この張り紙はいったい誰に向けて訴えているのだろう、ということだ。
このダンボール箱を捨てていった誰かが、この張り紙を読むことがあるだろうか? そしてもしも読んだとして、このゴミを持って帰るなどということがあるだろうか? ということなのだ。

おそらくその張り紙を貼ったであろう、その自動車整備工場の親父さんは、そうすることが問題の解決につながると思ったはずだ。そこにそういう張り紙を貼れば、そのゴミを捨てていった不届き者が改心するであろう、と。

でも、そんなことがあり得るだろうか?



もしその場所へゴミを捨てられたくないのだとすれば、まずは放置したままになっている自動車を片づけ、草を刈り、その場所が「生きている」ことをアピールすべきだ。こうした「生きている」空間にポイ捨てされることはあまりない。

もしその場所へ、自分以外の人間がゴミを捨てることが嫌なのだとしたら、その土地を壁や塀で囲ってしまうしかない。あるいは24時間、監視するかだ。自分が嫌なことを他人にさせないということにはコストと強制力が必要になる。それを負担しないで、他人を自分の思い通りにすることは誰にも出来ない。



さらに、その張り紙を見せられるまったく関係のない者(例えば私)のことなどまったく考えていないであろうこの張り紙を貼った人間の粗雑さに、私はガッカリさせられてしまったのだと思う。

人間は、他の人間の愚かさを知ると落胆してしまう。逆に、他の人間が偉業を成し遂げたりすると、自分まで元気になってしまったりする。それは無意識のうちに、「人間」という枠の中に自分をカテゴライズしてしまうからだ。これは人間が自己を意識する際に、他との差異を帰属の違いに求めることから生じる極自然な感情だ。

要するに、だ。
私が、レグザの空き箱の張り紙に感じた違和感というのは、それを貼った人の気持ちが理解できてしまう、と私が自分で思い込んでしまったことによる、誰のせいでもない自分の内側の感情でしかない、かもしれないということなのだ。

そもそも、そのダンボール箱がゴミであるのかは断じられない。そこに誰が置いたのかもわからない。

【あり得るストーリー例その1】
その土地の持ち主である家族の誰かが薄型テレビを買った。だがそのことに、家族の誰かが不満を抱いた。あるいは、そのテレビとは関係のない理由で発生したケンカの八つ当たり先として、そのダンボール箱が選ばれた。そして上記の張り紙がなされた。それを見た家族の誰かが、嫌味を込めて、家族の誰もが目にするであろう場所に、そのダンボールを移動した。張り紙を貼ったまま。
【あり得るストーリー例その2】
深夜、家電のゴミをのせたトラックの荷台から、このダンボールが落ちた。運転手はそれに気づかずに行ってしまった。早朝、散歩をしていた誰かが、道路の真ん中に落ちているこの大きな箱を目にし、危険だと思って道のわきに避けた。次に通りかかった誰かが、そのままでは風に飛ばされて危ないと、歩道の方へ寄せた。次に通りかかった誰かが、そのままでは通行の邪魔になると、歩道から空き地の方へ寄せた。その土地の持ち主がふと見ると、自分の土地にダンボール箱が捨ててある。「くそーっ、どこのどいつが投棄しやがったんだ!」と、頭に来て張り紙を貼る。
【あり得るストーリー例その3】
自分が買ったテレビのゴミを、そこに捨てた。あるいは、ゴミ処理を請け負った業者が、そこへ捨てた。そして土地の持ち主が腹を立て、張り紙を貼った。

私は、自分で勝手に解釈して、【あり得るストーリー例その3】を採用し、自分で勝手に「違和感」を抱いていた。
事実・現実がどうであるか、とは関係なく、私が解釈した「私の中の事実・現実」によって、自分の感情を揺り動かし、ストレスに近い負担さえ自分で自分に背負わせてしまっていた。

自分自身のことを思うとき、ときに私が抱く感情(怒り、不満、感動、不遇、幸運、などなど)の多くは、こうした「実際の現実とは異なるかもしれない、私の中の現実」によって生じさせてしまっているのではないだろうか、という不安を抱いてしまう。
つまり、だ。
「実際の現実とは異なるかもしれない、私の中の現実」
つまり、
「現実を越えた現実」
によって自分は感情を揺り動かし、考え、判断し、行動しているのだとしたら、それは夢遊病によって街を徘徊しているのと大差ないのではないだろうか、という不安だ。

私たちは、目や耳といった感覚器官と神経を通じて得た情報を脳がどう解釈するかによってしか外界を知ることはできない。自然科学や原子物理、天文、考古、といった分野に限らず、空き地に置かれたダンボール箱のような日常のことですら、私たちは「真の現実」を知ることはできない。私たちが手に出来るのは「私にとっての現実」だけなのだ。

考えてみると、なかなかに怖い世界だなあって思う。
みんながみんな、それぞれの「私にとっての現実」によって感情を動かし、判断し、行動しているのだから。

みんなが自動車を「私にとってのルール」で運転したとしたら、あちこちで事故が起こって交通は機能しなくなるだろう。
しかし私たちの社会は、機能不全に陥ることなく、どうにか日々回っている。
これは奇跡に近い。
もしこの奇跡に少しでも狂いが生じると、東アフリカのソマリアのように、社会は機能しなくなる。
それくらい私たちが生きている社会というのは脆(もろ)いものなのかも知れない。

サッカーという競技についても同じだ。
同じ空間の中で22人がプレーし、それを3人の審判がさばいている。周囲には他のチームメイトがいたり、コーチや監督がいたり、サポーターがいたり、観客がいたりする。テレビカメラを通じて、切り取られた画面に見入っている視聴者もいるかもしれない。
同じ試合を見たとしても、間違いなく、これらの人々が見ているサッカーはそれぞれ違ったものであるはずだ。
であるにもかかわらず、私たちはサッカーに夢中になっている。サッカーが面白いから。楽しいから。

同様に、いまの社会についても、面白いと捉(とら)えることが出来れば、楽しいと感じることが出来れば、私たちはこの社会で生きることに夢中になれるのではないだろうか。そうなれば、きっと悲しい事件はなくなっていくような気がする。

社会について、それを面白い、楽しい、と感じるカギは、結局のところ自分の中にある。
私たちが、構造上、真の現実を捉えることが出来ない以上、私たちを苦しめている(かもしれない)現実は、全て自分の中にしか存在していないのだから。

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