2010年8月12日木曜日

お盆特集 幽霊は存在する

物理学というのはどういう学問なのかを簡単にいうと、「この世に存在するものは質量を持つ」ということを証明しよとしている学問だと言える。
陽子(ようし)だとか中性子だとか電子だとか、量子だとか、ニュートリノだとか、反物質だとか、重力だとか引力だとか磁力だとかいうあたりの話しも、要はその質量のことをいろいろ考えているのだ。引力が質量とどう関係するのかわからないという人は、ピンっと張った布の上に鉄の玉を置いた様子をイメージして欲しい。そうすると鉄の玉を置いたところが下に下がる姿が想像できるだろう。これはつまり、他よりも重い(質量がある)ものが存在すると、その周辺は影響を受けるという原理を表している。これは「布」という2次元での姿だが、これを3次元だとか4次元だとかに普遍化することができる、という前提に立って物事を明らかにしようというのが、要するに物理学なのだ。

幽霊は存在しない、とされる論拠もここにある。

幽霊には質量がない=幽霊は存在しない

しかし質量がないことが即、存在しないことになるのだとしたら、この世の多くのことが存在しないことにもなる。
まず色や音の違いだ。
色や音は、その波長の違いによって、青だったり赤だったり、またドだったりソだったりする。
光や音は存在するが、青や赤、あるいはドやソは存在しないのだ、と言えるだろうか?

こうなってくると、物理学の範疇を越えた話になってくる。

では幽霊も、色や音の違いと同じように、物理学から離れた世界での話として、「存在する」でいいのではないか、となるだろうか。

俺としては、そういう話でごまかされはしないんだよ、と言いたい。

「枯れ尾花」のように、それぞれの心の中に「幽霊」は存在するのだ、じゃあ納得しない。ってか、絶対にそういう話じゃあない世界の話だと思ってる。
わかったような顔をした脳タリンが、「それぞれの記憶の中では故人は生きていて、あるきっかけでその記憶が現実の中に混ざり込む。それが幽霊の正体なのさ」なんてことをいうと、俺は「ってことは、お前はそういう幽霊を見たことがあるんだよな?」と聞く。そうするとそういうことを言う奴は例外なく、「俺は見たことはないんだけどね」なんて言ってへらへらする。それを見て俺は「アホか」って思うんだ。
雪の結晶を見たことのない奴が、「雪は空気中の水分がチリやホコリを核に結晶化したものだよ」なんて言ってて「じゃあお前はあの雪の結晶の美しさはどう思うんだよ」と聞いたら「いや、実は僕はまだ、雪を見たことがないんだ」なんて言われたときよりもしらける。

俺は田舎のばあさんの葬式へ向かう途中、近くの道端でよろよろ倒れそうにしてる喪服のおばあさんを見かけて話しかけたら、俺のばあさんの葬式へ行くのだとわかって車に乗せて連れて行ったことがある。
たくさんの弔問のあった葬式が終わって、「今日、こういうことがあったんだけどあのばあちゃんはちゃんと帰れたのかなあ」なんてふと話し出したら、そのばあさんは葬式当日の朝に倒れて、そのまま死んでたってことがわかった。つまり、俺が車に乗せた時には、そのばあさんは死んでた(か、あるいはほぼ死んでた)状態にあったわけだ。
人まちがいもなにも、そんなよたよたしたばあさんは葬式に来てなかったし、俺の記憶にそのばあさんのデータがあったってこともない。忘れた記憶の中なかにあった可能性もないことはないが、それでも喪服姿のヨタヨタばあさんを車に乗せたことを忘れるってことは、いくらなんでもないだろう。
俺がそのばあさんに声をかけ、手助けして、車に乗せて、車の中で会話して、車から降ろしたときは、確かにそのばあさんには感触も体温もあった。

俺はそれ以来、あのばあさんは幽霊だったと確信している。

要するに、だ。
生命ある物が全て幽霊になるわけじゃあないってことなんだよ。
木が切り倒されても、そのまま土に還って存在を消す木もあれば、建材や工芸品となって存在し続ける木もあるように、命にも、死ねば消えてしまう命と、何かしらの姿になって存在する命もある。
脳がなくなる以上、幽霊には記憶も思考もない。
あるのは「命」そのものだけだ。
生きている俺たち自身にも、記憶や思考は意識できても「命」は意識できない。

質量がないから、あるいは意識できないから、
あるいはまた、
じゃあ、口蹄疫で埋却処分された牛はどうなんだ、鯨はどうなんだ、蚊取り線香で死ぬ虫はどうなんだ、
な、だから「命」なんてのも存在しないし、「幽霊」なんてのも存在しないんだよ、
という論に私は組みしない。

質量の問題でもなく、記憶の問題でもない、もっと単純に、時間のズレや次元・空間のズレ、というギャップに幽霊は存在しているのだ、と俺は理解している。
地球の寿命があとどれくらいあるのかは知らないが、まあ少なくともあと10億年くらいは持つだろう。となると俺たちはまだまだすんげえ長い歴史のほんの一瞬に顔を出しただけの、ちっぽけな存在でしかない。
それはまるで、質量が計測できないほどおぼろげな存在、つまり「幽霊」みたいな存在であるかのようだ。

数万年後の誰かは、今の俺たちのことを「存在した」と認識してくれるだろうか。
証拠がないから、あるいは質量を計測できないから、「存在していない」と断じられてしまうようなことにならないだろうか。

化石が残っている恐竜は存在したことになっている。
はたして、現在の俺たちの証となる化石は、いつまで残っていてくれるだろう。
コンクリートは砂に戻ってしまう。
鉄は酸化してしまう。
デジタルデータは、30年と経たずにきれいさっぱり消去されてしまう。

実は俺たちはすでに幽霊なのかもしれないなあ、なんてことを考えるのもたまには面白い。
で、俺たちは存在しているんだから、やっぱ幽霊は存在してるよなあ、というのが俺の結論なのだ。

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