2010年7月23日金曜日

サッカー戦術用語解説 『コンパクトな中盤』

たまにテレビで音声をオンにしてサッカー中継を見ると、どうにも気になってイライラしてしまうことがいくつかある。そのひとつが、テレビ放送で使用されているサッカー戦術用語のあいまいさだ。
ただ、テレビの音声をいちいち書き起こすのも面倒だし、まあ音声なんか消して見ればいいのだからと思っていたのだが、ちょうどおあつらえのいい加減なコラムがあったので、これを題材に戦術用語について考えてみた。

この文章は、2010FIFAワールドカップ南アフリカ大会でのアルゼンチン代表について書かれたコラムの一部である。
http://number.bunshun.jp/articles/-/40315

「レーブが語るように、アルゼンチンには攻撃を作る選手がメッシしかいなかった。シャビ、シャビ・アロンソ、イニエスタら、複数の選手が中盤で連動しながら崩すスペインとの違いはそこだった。」

「複数の選手が中盤で連動しながら崩す」と紋切り型に書かれているが、「連動」する際に「複数の選手」がかかわるのは当たり前のことで、ましてや「中盤」に「複数の選手」が存在しないチームというのはあり得ない。そもそもちゃんと今大会のスペインの戦いぶりを見ていた人なら、もしケガをしたのがアルゼンチンのベロンではなく、スペインのビリャ(ビジャ)だったら、はたして結果はどうなっていただろうかと思っているはずだ(このコラムの筆者は、ベロンの負傷が必然であったかのような前提に立っている。こういうアホが証券会社の営業にいたりすると『後付け』の言い訳でそうとうイライラさせられる)。要するに今大会のスペイン代表は、中盤でボールはキープするけれど、それを効果的な攻撃につなげられないで苦労していたではないか、攻撃はビリャ(ビジャ)頼みだったじゃないか、ということだ。それなのに「複数の選手が中盤で連動しながら崩すスペイン」とは、いったいどこのスペインなの? と私は問いたい。


「しかし今大会でアルゼンチンが初めて対戦した、個も組織も整った強国ドイツには、近代サッカーの中でキーマンをどう抑えるのかを熟知した選手たちが揃っていた。
 かくしてドイツは中盤をコンパクトに保ち、メッシのためのスペースを消し去り、ボール奪取後には手数をかけずに攻め、そして4度もゴールネットを揺らした。」

「近代サッカーの中でキーマンをどう抑えるのかを熟知した選手たちが揃っていた」? 揃っていた? 誰たちのことを指しているのだろうか? 私には若さにまかせてスタミナとパワーと体格でがむしゃらに(それも後方から)突っかかっていっていただけのように見えたが。もしレフェリーがチャンピオンズリーグレベルの笛を吹いていたら、グループリーグ段階で11人揃わなくなっていたのではないか、というくらいかなりラフなディフェンスだったと私は思う。
「ドイツは中盤をコンパクトに保ち、メッシのためのスペースを消し去り、ボール奪取後には手数をかけずに攻め」
ドイツの中盤は、コンパクトというよりただ引きまくっていただけだったではないか。
本来「コンパクトな中盤」というのは、ディフェンスではなく攻撃に関する用語なのだ。ピッチ全体を考え、前後左右のバランスを取ろうとしてきた従来の中盤のポジション取りに対して、中盤の選手間の距離を縮めることによって局地的に数的優位を生み出すことで、イタリアに代表されるような堅いディフェンスラインを突破しようという考え方に拠(よ)っている。ブラジルの黄金カルテットやプラティニのフランスあたりが始まりだ。
ディフェンスでコンパクトという表現を使う場合は、チーム全体の前後長を指す。これはもはや常識となっている戦術であって、あえて今回のワールドカップで語られるようなものではない。
そもそも「中盤をコンパクトに保ち、メッシのためのスペースを消し去り」とは、いったいどういう状況のことを言っているのか皆目わからない。メッシひとりを中盤の3人なり4人で取り囲んだ、という状況なのだろうか? まるで体育のサッカーみたいな光景が目に浮かぶ。
さらに「ボール奪取後には手数をかけずに攻め」るためには、敵陣に広大なスペースとそこでパスを受ける味方が必要となるわけなのだが、そこへ走り込んでいたドイツ選手は中盤の選手だったように記憶している。ドイツ代表チームには、中盤の選手が何人いるのだろう? メッシのスペースを消し去るコンパクトな中盤と手数をかけずに攻撃する中盤が存在していたのだろうか? それとも筆者と私は、別の競技の大会を見ていたのだろうか? 15人制サッカーとか?


「 かつてマラドーナが謳歌した10番のためのスペースはなくなり、そこはピッチを走り回る運動能力の高いMFで溢れていた。メッシがボールを持てば、屈強なフィジカルを持つ数人のドイツ人がとり囲んだ。
 しっかりと自陣に引いてから手数をかけずにスピードのある攻撃を繰り返す。
 そんな守備戦術が主流となった今大会で、メッシというタレント一人に頼ったアルゼンチンは、マラドーナが現役だった頃の香りを残す、ひと昔前のチームだった。
 決勝に残ったスペインも、オランダも、タレントこそいるが、誰か一人に依存するサッカーではなかった。」

この文章は借りてきた表現を組み直しただけだ。内容も矛盾だらけ。「しっかりと自陣に引く」のか「ピッチを走り回るのか」はっきりして欲しいし、「屈強なフィジカル」の方が重要なのか、「とり囲む」方が重要なのか、そこもはっきりして欲しい。まさかサッカーは「屈強なフィジカル」がないとできない、と言いたいわけじゃないだろう。いや、そう言ってるのかな? (メッシが小柄だということに囚われすぎて、実際にそこで起きていたことが見えていないのは、とても残念なことだと思います。)

決勝のカードを引き合いに出して、まるで「誰か一人に依存するサッカーではなかった」から勝ち進めた、かのように結論づけているが、本当にアルゼンチンはメッシ一人に依存していたのだろうか? という点に、まったく疑問を感じていないこの筆者の素直さには感動すら覚える。そもそも一人に依存するって何だ? それは中心となる選手がいるって意味なのか? 
マラドーナが監督じゃなかったら、メッシ、イグアイン、テベス、ミリート、アグエロ、が同じユニフォームを着ることはなかった。マラドーナはサッカーに「魅力」「魅惑」を取り戻そうとしたのだ。それを単に「一人に依存する、ひと昔前のチーム」と断じられては、マラドーナも立つ瀬がないだろう。

勝てば官軍、負ければ賊軍とはよく言ったものだが、ドイツはセルビアに、スペインはスイスに負けているのだということを忘れないでいただきたい。
勝ったチームが全て正しかったわけでも、負けたチームがすべて間違っていたわけでもない。
勝負は往々にして時の運なのだ。
ドイツ・アルゼンチン戦にしても、開始0分でマスケラーノに後方からラフなアタックを食らわせたクローゼが一発退場、あるいは警告でも受けていたら、試合の展開は違うものになっていたかもしれないのだから。

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