2010年7月27日火曜日

トレセンは時代遅れ~ピラミッド型選抜のジレンマ~

トレーニングセンター制度(通称:トレセン)ができて、もう何年になるだろう。
大昔(たぶん30年くらい前)、旧浦和市内の中学だけで選抜チームを作ってたまに集まって練習してたのが、いつの間にやら全県に広がって、最近では小学生年代でまでトレセントレセン言うようになっていたことに、私は最近になって気づいた。
元々は、オリンピックへの出場を目指し、ドイツの育成システムと日本バレーボール界のやり方を参考にしながら手探りでトレセン制度は始まったと記憶している。
浦和や静岡なら指導者も競技者もたくさんいるので選抜もそれなりに形となっていたが、東北や中国、四国、九州などでは、トレセン=地元の名門チーム、となってしまっていた地区がほとんどだった。
中央からの指導といっても、目新しい用語と用具で飾り立てた、借りてきた舶来品のような練習メニューを週末にちんたら講習を受けるだけで、まったく意味のないものだった。
各地区のサッカーレベルが向上していったのは、日本のアマチュア指導者の勤勉さ、研究熱心さ、熱意によってであって、トレセン制度の功績はほぼゼロであったと私は断言する。

そもそもトレセン型の育成システムというのは、言い換えれば社会主義的な中央集権のピラミッド型選抜に他ならない。
この方式による選抜は、競技に要求される条件が限定されていて、かつそれが固定化している場合には、非常に有効である。例えば体操や水泳のような競技であるとか、団体競技でもバレーボールのように体格=戦力のようなものでは、選抜する際のフィルターも正確に機能する。
ところがサッカーのような競技となると、これが機能しないどころか逆に多様性を薄める方向への圧力となって働いてしまうのだ。

北足立郡北部地区に関係するトレセンでも、各市トレセン、北足立北部トレセン、県南トレセン、県トレセン、くらいはあるのだろう。仮にそうであってとして、各トレセン前には、自薦他薦によらず何らかの選抜が行われるわけだ。
選抜にたずさわる人間がそれぞれ異なる以上、選抜される回数が増せば増すほど、選抜の結果残される選手たちは同質化してくる。ザルで砂をさらうと、最後には大きさも形も整った小さくてきれいな丸の粒ばかりになるように、異なる基準(各選抜者が持っているサッカー観や経験は異なるから)による選抜を重ねていくと、どんなに対策を施したつもりでいても、結果はどうしてもそうなってしまうのだ。

子供たちや、その親御さんらにしてみれば、わが子がトレセンに選ばれたことは大きな励みとなるであろうことは想像に難くない。トレセン制度があるおかげで、全国大会には進めないようなチームの子であっても、ちゃんとピックアップされる可能性があることも事実だ。

ただ私は、う~んと考えてしまうのだ。
こんなことは第二次性徴期の落ちついた14歳くらいからでいいのではないか、と。
小学生年代のトレセンで、県選抜とか、あるいは関東とか全日本とかの合宿に呼ばれたりしてしまうと、彼の可能性を狭めてしまうことになりやしないか、と私は危惧してしまう。彼自身やまわりが、彼のプレーでの「正解」あるいは「目標」を、そのトレセンに選ばれた「成功体験」の延長線上で見出そうとしてしまいがちになると思うからだ。
これはエリートコースにとてもこだわる日本人に非常に強い傾向で、私はこのことが、他の分野でも第二次性徴期以降の落ちこぼれや引き篭もりを生んでいるとにらんでいる。つまり、自分が進む道をさあ決めようというその時期に、すでに自分が歩いてきた(と思っている)コースにこだわるあまり、そこから外れてしまったと思い込んで、目標を見失ったり、その現実から逃避してしまう子供を、かえって生んでしまっているのではないだろうか。

日本代表のフル代表や各年代別代表の無個性な(髪型は別として)選手たちを見れば明らかなように、日本のトレセン制度は成功していない。
これは日本に個性的なサッカー選手がいないからではなく、選抜の過程で、各選抜担当者の持っている「個性」に対する価値観、評価眼、許容範囲が異なっているからだ。

いずれ各県に複数のJチームがあるような環境が整ったら、トレセン制度は発展的解消となるだろう。
そして各Jの下部チームも、スクール形式などという責任回避&スクール料徴収で少しでもコスト削減方式をやめて、いっさい費用負担のない代わりに、ダメなら即クビという方式に移行していくべきだ。そうじゃないと、いまのままでは、ジュニアからジュニアユース、ジュニアユースからユース、といったステップアップの時に落とされた子や親のショックが大きすぎる。それほどの合理的理由はないのに、まるでサッカー人生が終わったかのようなショックを受ける子が相当数存在する。そしてそのことを各Jの育成スタッフも知っている。でもどうすることもできず、個人的に心の負担として抱えてしまっている人もいる。

トレセンの試合を見ても、大人サッカーのミニチュア版みたいで、まったくワクワクしない。
サッカーの試合としては、ちゃんと形になっているので、それなりに面白いのは認める。でも、「おっ」と身を乗り出さされるようなプレーを目にすることはない。「この年代でああいうプレーができるのはすごいよね」という選手は多い。しかしこれは裏を返せば、大人になれば誰でもやるようなプレーでしかない。テレビには時折、大人のような、あるいは老人のような物言いをする子供が面白おかしく登場するが、それとなんら変わらない。
小学生で150キロの速球を投げる子なら、確かに才能はあるだろう。だが小学生で変化球ばかりを投げる子に、君は才能があるね、と言う野球指導者がいるだろうか。
大人とか子供とか関係なしに、その選手しかできないようなスタイル、プレーを見たいと思って、私はピッチへと足を運んでいる。
いくつものフィルターで濾過された浄水器の水は、常にきれいで口当たりもまろやかだ。それをまずいと言う人はいない。
しかしサッカーという複雑な競技での育成を考えたとき、浄水器で水を濾過するようなトレセン制度の役割は、もうとっくに終わっている、と、私は思うのだがいかがだろうか。

1 件のコメント:

  1. 全くその通りで、日本の将来のサッカーが見えてしまうようで楽しみも期待もできませんね。
    何か光る物、今は未熟で当たり前これからの成長を期待できる少年を選んでいきたいですね。

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