2010年9月30日木曜日

毎日あめ玉をもらえれば楽しいか?

グアムで大人気だというある自動車教習所の校長先生によるお話。
当然内容は、自動車運転の教習・指導についてですが、これをサッカーに置き換えても十分通用する話だと思いました。

限られた自分の人生のうちの、膨大な時間と労力を費やすわけですから、その目的・意義は

赤の他人の子供のサッカー技術が向上し、また他人の子供たち(つまり自分以外の人間)で構成したチームが勝利すること。

よりも、

その子の人生が、自分とサッカーに関わったことで少しでも豊かなものとなること。

である方が、自分の人生にとっても楽しいように思います。

(そんな私の考えに、ちょっと通じる面のある実例かなと思ったので、ここにメモする)



小河二郎氏とは
自動車教習所受難の時代に驚異の集客力を見せる自動車学校、“益田ドライビングスクール”通称Mランドの創業者。

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キツい、辛いと思うことが本当は楽しいんです


小河二郎氏:
それはウチが楽しいからでしょう。
世の中はなんでも楽しくなきゃいけないんですよ。
だから教習所も楽しくなきゃいかんと。

ここで“楽しい”とはどういうことかを真剣に考えなければいけない。

毎日あめ玉をもらえれば楽しいかって、2日や3日は楽しいかもしらんが、長く続けばもう欲しくない。

突き詰めていきますと、通常世の中で言っているラクで楽しいことは楽しくなんかないんです。 

トイレ掃除をするとか、親孝行をするとか、

普通の人のしない、普通の人がキツい、辛いと思うことが、実際は楽しいんです。

以前は、ウチの従業員は毎年のように富士登山をやっていたんです。仕事が終わってから夜行バスと夜汽車を乗りついで富士山に向かうんです。タイトなスケジュールでものすごくキツい。でも退職する者に「一番楽しいことは何だった?」と聞くと、みんな富士登山と言うんです。一番キツくて辛かった筈なのに、やって良かったとみんながみんなそう言うの。東南アジアへ行ってたくさん酒を飲んだとか、そんなことは誰も言わない。

インタビュアーF氏:
う~ん、キツイこと、辛いことが実は楽しいこと……。

小:
息子が便所掃除して、その感想を親に手紙で送って来て……たとえその場限り、1回こっきりのことでも親は喜びますよ。

親が喜べば、家に帰った時に子供だって悪い気分はしない。

それには不良も優等生も関係ない。ここにいる時だけでも、できる限りそういう経験をさせて上げたい。そう思っています。

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人は人のために生きている訳であって、自分のためじゃありません。



小:
ところで、交通事故で亡くなる人がどれくらいいるかご存知ですか?

F:
え~と。たしか年間5000人くらい……。

小:
5000人を切りました。ピーク時は2万人もいたのがそこまで減ったのです。ところが自殺する人は年に3万3000人もおる。世の中には予備軍というものが控えているから、それが実数の10倍と仮定すると、事故予備軍が5万人なら自殺予備軍は33万人。

F:
うわぁ、中堅の市の人口に匹敵しますね。

小:
しかも交通事故死は“したい”人がする訳じゃないでしょう。自殺の方はしたい人がする。この日本には33万人にも死にたい人がおる、ということなのですよ。これは交通事故どころの騒ぎじゃない。こちらを先に何とかしなくちゃいけない。自分としては逃げかも知らんけど、こっちの方が先だ、と。

F:
なるほど。

小:
それで教官には卒業の時に握手せいと、こう言っているわけです。
授業も握手して始まって、ヨシ頑張れ、と。一生懸命教えていれば、教習生は必ず言うことを聞く。

最後の卒業する時に心は通うはずですから。

その教習生に対して、お前な、死ぬんじゃないよと、心を込めて。交通事故で死ぬなよと言葉では言うんですけれども、本当は自殺者になるような一番バカらしい、そんなことをするんじゃないよ、と心を込めて握手で伝えているんです。

F:
そうだったんですか。……あの握手にはそんな意味が……。交通事故ももちろん不幸ですが、自殺はもしかしたらもっと不幸かもしれません。周りの人すべてを不幸のどん底に突き落としてしまう。

小:
そう思いますね。

F:
身内から自殺する人が出たら、もう仕事などできなくなる。

小:
いや本当に、こんなあほらしいことはないんですよ。交通事故の場合は、偶然というか、残念だとは思うけれど。

F:
恨む相手がいる場合はまだマシかも知れません。例えば自分の子供が自殺したら、まずは自分を呪うでしょうからね。なぜ徴候に気づかなかった、救えなかったのか、と。

小:
そうなんです。だから自殺者だけは絶対に出してはいけない。

F:
一方で“自殺の権利”主張する人もいます。自分の命は自分のものなのだから、人間には自分の命を自ら絶つ権利がある、と。

小:
それはいけませんね。そんな理屈は成り立ちません。

人は人のために生きている訳であって、自分のためじゃありません。それははっきりしなければいかんね。人は人のために生きているんです。

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「人は人のために生きている」とは、決して「自分は他人の犠牲となるために生きている」という意味ではない。
ここで語られている「人は人のために生きている」とは、おそらく、生物学的に表現すれば「人間は群の中で生きる生物である」という意味に近いものだろう。
その群れも、単に「集団」ということではなく、必然的かつ効率的な役割分担を、命じられるのではなく自ずから見出してそれを担うことで形成され維持されている「意図を持った集団」である。
サル山のサルにしても、ボスザルの命令に皆が従っているわけではなく、ボスザルはボスザルの役割を担(にな)っているに過ぎない。
サッカーのチームも同じことだ。関係する人間それぞれがそれぞれの役割を見出して自ら担えるチームは強い。そしてそういうチームは、何よりも楽しい。
この世のことは何事も、楽しいことが一番大事。

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