2010年6月28日月曜日

2002年よりも格段に進歩した日本サッカー文化

岡田最近よく眠れる武史監督選抜チームが2010FIFAワールドカップ南アフリカ大会の一次リーグを2位通過したことで、またお祭り騒ぎになるのかなと思っていたら、ほとんどの日本国民は意外と冷静にこの幸運を楽しんでいるようで感心している。渋谷で騒ぎになっているとかまたマスゴミが煽っているが、沖縄の成人式とは違ってあれは騒ぐ方も「わかって」騒いでいるのだ。

2002年のときは、日本にも優勝できる可能性があると、本気で思っているようなカルト気質の人間も大勢いた。
こうした人は「可能性」という言葉の意味を、「未確定」と混同してしまっているのだ。
「未確定であること」と、「可能性があること」はまったく違う。
例えば、明日の天気は「未確定」であるが、明日東京に雪が1メートル積もる「可能性」はゼロなのだ。
「そんなのわからないじゃないか」という人には、「そうですか。わかりませんか」と悲しい顔で同情してあげればいい。
太郎右衛門橋の下の屋外生活愛好者(通称:ハシラー、ルンぴょん)が「わしの夢はジャイアンツのエースになることじゃ。あきらめなければ夢は叶う。可能性はゼロじゃないんじゃから」と橋の下でナチュラルエコーかかりぎみにひとりごちていたら、橋の上から「そうだね。ゼロじゃないよね」と勇気づけてあげよう。なぜならうかっり彼が真実に気がついて、首つりか身投げでもされたら、そのあと片づけが面倒だからだ。希望があれば人は生きていける。希望とは、鍵を落としたことに気付いていないか、あるいは見当たらない鍵がまだ部屋のどこかにあると思い込んでいる間の、勘違いである。

「確率」の感覚は、人間がもっとも理解しにくい概念のひとつだ。だから宝くじは儲かる商売として成り立つし、ガンの民間特攻役、もとい民間特効薬もとぎれることがない。
ゼロじゃないんだから、もしかしたら──と思うのが人情だというのは確かにそうだ。だが、ゼロというのは果てしなくゼロなのであって、この「果てしなく」というのが本当に果てしなくなのかわからないから、とりあえずゼロじゃないってだけの意味で「未確定」ということにしてある、それが「未確定」と混同されている「可能性」の姿である。

しかしその一方で「可能性」がゼロであるから絶対に起きないのか、というとそういうことでもない。
未来を完全に予測することは絶対にできないので、たとえ現時点での可能性がゼロであっても、実際にその結果がどうなるのかは、その時になってみないと確かなことはわからないものなのだ。そういう意味で、「可能性ゼロ」は「絶対にない」ということとイコールではない。
だがこれは、あくまで「現時点で得られる情報、条件には限界がある」ことに原因があるのであって、「ゼロはゼロじゃない」という意味ではない。人間が全てを知ることはできない、という当たり前の意味を意味しているというだけだ。

だから「日本が優勝できる可能性はゼロではない」というのは確かにそうなのだが、だからといって日本に優勝できる実力があることにはならない。当たり前だが。

下記のデータを見てみるとよくわかる。主な大会のベスト4に残ったチームだ。

高校サッカー選手権
84回 2005年 野洲(滋賀)、鹿児島実(鹿児島)、多々良学園(山口)、遠野(岩手)
85回 2006年 盛岡商(岩手)、作陽(岡山)、八千代(千葉)、神村学園(鹿児島)
86回 2007年 流経大柏(千葉)、藤枝東(静岡)、津工(三重)、高川学園(山口)
87回 2008年 広島皆実(広島)、鹿児島城西(鹿児島)、前橋育英(群馬)、鹿島学園(茨城)
88回 2009年 山梨学院大付(山梨)、青森山田(青森)、矢板中央(栃木)、関大一(大阪)

高校総体
2005年 青森山田、那覇西、鹿島、桐蔭学園
2006年 広島観音、初芝橋本、帝京、真岡
2007年 市立船橋、星稜、神村学園、流経大柏
2008年 市立船橋、流経大柏、大津、佐賀東
2009年 前橋育英、米子北、大津、佐賀東

ワールドカップ
16回 1998年 フランス       フランス、ブラジル、クロアチア、オランダ
17回 2002年 日本 韓国     ブラジル、ドイツ、トルコ、大韓民国
18回 2006年 ドイツ        イタリア、フランス、ドイツ、ポルトガル

オリンピック
2000年 シドニー   カメルーン、スペイン、チリ、アメリカ合衆国
2004年 アテネ    アルゼンチン、パラグアイ、イタリア、イラク
2008年 北京     アルゼンチン、 ナイジェリア、ブラジル、 ベルギー

よくもまあこれだけ脈絡なくばらけるなあというくらいにバラバラだ。
トーナメント形式の大会というのはこれだけ連覇が難しいということの証明でもある。
日本人も、やっとこのことがわかってきたのだ。
浦和レッズがクラブワールドカップで3位になったからといって、実力的に世界の3位ではないことくらい、みんなわかっている。
WBCで優勝したからといって、日本の野球選手たちが世界トップレベルにあるわけじゃないとわかってるのと同じように。
それをわかったうえで、勝ち進んだことを素直に喜ぶことができるようになった。
日本人一般のサッカー文化は、確実に一段ステップアップした。
おそらく前回大会での惨敗が、わたしたちを成長させたのだろう。
もしあれがなかったら、きっと今回も、前回までと同じように、一次リーグ突破は当然のような皮算用をし、日本代表選手を世界的な選手であるかのように持ち上げ、神風が吹けばブラジルにだって勝てるんだ! などと朝から晩までバカ騒ぎし、マラドーナに対しても奇人変人、あるいは珍獣のように扱っていたかもしれない。世界のサッカーファンや関係者が、なぜ彼をいつまでも語り続けるのかがわかるには、ある程度の以上のサッカー文化が必要なのだ。酒を飲めれば最高のワインがわかるわけではないのと同じように。耳があればストラディバリの音色がわかるわけではないのと同じように。

熊谷高校や滑川高校が甲子園で勝ち進んだからと行って、誰も両校のことを高校野球の強豪校だとは思わない。
しかし勝ち進んだことは素直にうれしいし、テレビに釘付けになって応援をしもした。
今回のワールドカップで日本代表に訪れているのはこういうことなんだ、と、日本人はわかっている。
それがすばらしい、と私は思っている。
やはり日本人は、平均的に知的レベルが高いのだ。そう考えないと、こう短期間に国民全体が学習することのできた理由が説明つかない。
Jリーグの観客動員が伸び悩んでいるという話を聞いた。
私にはそれがなぜなのかがわかる。
日本人のサッカー眼が肥えたのだ。サッカーのレベルがわかるようになったのだ。この点では、野球ファンよりもサッカーファンの方が、要求のレベルが高い。サッカーファンは、上を目指しているからだ。上とは、世界、つまりトップヨーロッパと南米2カ国。そこらと、いつかガチンコで勝負する日本サッカーを夢みている。

わたしは夢を見続けている。
その夢はルンぴょんの夢なのではないのかと不安に思いながら。

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